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サールの言語行為論

1997年9月3日

サールは、米国生まれの哲学者だが、オックスフォード大学で博士号を取得したこともあり、オックスフォード大学の日常言語学派の一人と目されている。同じオックスフォード大学のヘアーとは異なり、事実と価値の二元論を否定し、言語行為論を通じて倫理学を自然化した。だが、その試みは正当化されるのだろうか。哲学的に考えてみたい。[1]

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1. 言語行為論的倫理学

ヘアーの普遍的指令主義以後、ないしはそれと並行して、新自然主義と呼ばれるメタ倫理学上の一派(あるいはメタ倫理学の克服?)が現れた[2]。フット、ギーチ、ウォーノックなどが新自然主義の論者として挙げられようが、ここではそのなかでも特に重要である(と思われる)サールの言語行為論を取り挙げることにしたい。サールの研究は多岐に及ぶが、初期のサールは、オースティンの言語行為論の継承者として知られており、ここではそれを主として扱うことにしよう。

サールはメタ倫理学的な事実と価値の峻別を「自然主義的誤謬の誤謬[3]」として斥け、

  1. ジョーンズは「私はこれによって君スミスに5ドルを支払うことを約束する」と発話した。
  2. ジョーンズはスミスに5ドルを支払うことを約束した。
  3. ジョーンズはスミスに5ドルを支払う義務を引き受けた。
  4. ジョーンズはスミスに5ドルを支払うことを余儀なくされている。
  5. ジョーンズはスミスに5ドルを支払うべきである。

というように、1の《Is》から5の《Ought》が導出することができると考えた。ただしサールは、この自然主義的誤謬の解釈がムーアに不当であることを註で断っていて、いわば世間で流布している括弧付きの「自然主義的誤謬」ということである。それはともかくとして、ヘアーなどからすれば、サールは典型的な「記述主義者」であるに違いない。しかしそれにしてもサールのこの「自然主義的誤謬」批判は、彼の言語行為論とどう関係するのであろうか。

サールによれば「言語を話すということは、規則に支配された振舞の形式に従事すること[4]」であり、かかる形式は「ただの事実 brute facts」から区別された「制度的事実 institutional facts」である。「これらの[言語行為の]制度は、構成的規則の体系である。全ての制度的事実は《Xは、文脈CにおいてYとして妥当する》なる形式の規則の体系によって下図を描かれている[5]」。

サールはカント式に統制的規則と構成的規則を区別する。「統制的規則は、それに先だって、またはそれから独立に現存する振舞の形式を統制すると言ってもよいであろう。例えば多くの礼儀作法の規則は、その規則から独立に現存する間人格的な関係を統制する。しかし構成的規則は、振舞の新しい形式をたんに統制するだけでなく、創造/定義する[6]」。

もしジョーンズがスミスに約束の5ドルを支払う意志が初めからなく、かつスミスがこれに抗議しないなら、ジョーンズは約束を破ったのではなくて、そもそも約束をしなかったのである。というのも、約束を守ることを意志することは、約束という言語行為にとって構成的だからである。

それゆえ「私はこれによって君に5ドルを支払うことを約束する」と発話しておきながら、なぜこのような発話の《Is》から「私は約束を守るべきである」という《Ought》が出て来るのかと問うことはできない。ジョーンズがスミスから5ドルを付けにしたという文脈Cにおいては、「私はこれによって君スミスに5ドルを支払うことを約束する」と発話することは約束として妥当するのである。

サールのこの言語行為論が、ヘアーの指令主義と同様に、ヴィトゲンシュタインの“意味=使用=規則に従うこと=社会制度”なる言語ゲーム論を背景にしていることは明らかに見える。ちょうどチェスゲームの駒の意味はチェスゲームをするという規則に従った行為において意味を持つように、約束・忠告・祈願などといった言語行為は、制度における規則、厳密に言えば、制度としての規則に従った発話行為として意味を持つのであって、発話の言明の指示対象が当の発話の意味ではない。

コミュニケーションの制度的理論とでもいうべきオースティンや私やそして、私が思うところ、ヴィトゲンシュタインの理論は、例えば刺激-反応の意味の説明に依拠するような意味での自然主義的理論とでもいうべきものから袂を分かつ。[7]

サールを新自然主義者と呼ぶとき、このような行動主義的な意味での自然主義者ではなかったことはいうまでもない。

2. 言語理解における志向性

1969年に『言語行為論』を出版した当時のサールは、ヴィトゲンシュタインに自分の哲学的基礎を見出そうとするのだが、実は中期ヴィトゲンシュタインの志向性についての議論の中に、既に発話内的行為と発話媒介的行為の区別に相当する主張が成されていた。

ヴィトゲンシュタインは、次のように言う。

“砂糖をもってこい”や“牛乳をもってこい”という命令は意味を持つが、“砂糖を、私に、牛乳”という組み合わせは意味を持たないと私が言う場合、それは、後者の語の羅列を口に出しても何も[発話媒介的な]結果が生じないということではない。そして聞いた相手が口をぽかんと開けて私を見つめるという結果が生ずるとしても、だからといって私は、その語の羅列を、口を開けて私を見つめろという[発話内的]命令だとは言わない。たとえ私がまさしくこの結果を生ぜしめようと思っていたのだとしてもである。[8]

ヴィトゲンシュタインは「言語と行為との間の因果性は外的な関係であり、他方私たちが必要としているのは内的関係である[9]」というが、この内的な関係、《内的に広がること in-tendere》が、言語表現の志向性(intentionality)で あり、それは因果的あるいは外的な延長性(extensionality)、《外的に広がること ex-tendere》から区別される。

志向性と延長性の区別に基づいて、ヴィトゲンシュタインは、次のようなラッセル批判をしている。ラッセルによれば、誰かが私の命令を遂行するとは、その人がその後で私を喜ばせるということであるが、そうすると「私がリンゴを食べたいと思っていて、そして人が私の胃に一撃を与えたので私の食欲が消え失せたとすれば、この一撃こそがもともと私が望んでいた当のものである[10]」ということになってしまう。しかし願望文「リンゴが食べたい」は、実際に食欲が満たされるか否かとは独立に、未来に向けた志向性を現在において含んでいる。

オースティンは、彼の言語行為論の主著『言葉による行為の仕方』の主要関心事は「本質的に、第二の発語内的行為に焦点を絞り、これを他の二つ[発語行為と発語媒介的行為]と比較することである[11]」であると言っているが、物理的発語行為とその因果的帰結である発語媒介的行為に内在しつつそれを超越する志向性である発語内的行為の認識こそ言語行為論の本意なのである。

志向性は狭義の行為だけでなく、認識行為の根幹をも成すモメントである。

[私が私の腕を上げる時、そこから私の腕が上がるという事実を差し引くならば、何が残存するか]というヴィトゲンシュタインの問いを考察することによって、行為と知覚の平行性をさらに精査することができる。この問いは、私がテーブルを見ているとき、もしそこからテーブルを差し引くならば何が残存するか、という問いと精確に類似しているように私には思われる。どちらの場合でも、答えはある形態の現表象的志向性[presentational Intentionality]が残存するとなる。[12]

サールは、1980年の論文「心、脳、プログラム」でも、理解における志向性の重要性を説いている[13]。この論文では、後世「中国語の部屋」と呼ばれるようになった思考実験が、チューリング・テストの不完全性を示すために行われている。チューリング・テストとは、判定者が機械と通常の言語で会話を行い、会話の相手が人間か機械か判別がつかない場合、その機械には人間と同様に知性があると判定するテストのことである。この論文で、部屋の中にいる中国語を全く理解しない人が、部屋の外部から象形文字の羅列のように与えられる中国語の質問に対して、マニュアルに書いてある通りの回答を選んで部屋の外に返すことで、部屋の外部にいる人間に中国語を理解しているとだますことができるではないかとサールは異論を唱えたのだ。要するに、チューリング・テストのような外部からの観察では、理解に不可欠な志向性があるのかどうか確認できないから、人工知能の判定には不十分だというのである。

このようにサールは志向性を重視しており、1983年の『志向性』では、「志向性を言語によって説明するからといって、志向性は本質的必然的に言語的であるというわけではない[14]」として、彼の出発点であったはずの言語哲学から逸脱して心の哲学へと向かうのであるが、中期ヴィトゲンシュタインにとっては、志向性は言語の問題であり、言語の問題は志向性の問題であった。「言語から志向性という要素が取り除かれるならば、そのことによって言語の全機能が崩壊するであろう[15]」。

もっとも、志向性概念はあまりに現象学的・意識哲学的であり、ヴィトゲンシュタインは最終的にこの概念を放棄し、そこからいわゆる後期ヴィトゲンシュタイン哲学が始まる。《意識から言語へ》とか《鏡のような主観から行為する主体へ》が何か哲学史上における画期的な20世紀的パラダイム転回でもあるかのように考える人は、ここに志向性概念に固執するフッサール現象学に対する分析哲学の優位を見て取るかもしれない。だが、このパラダイム転換はすでにカントによって準備されたものであった。現象学が、カント/新カント学派的立場を克服する努力の上に築かれたものであることを忘れてはなるまい。

認識は言語行為であるとともに受動的体験でもある。言語行為を通して、ある世界が開示される。私たちはある世界を《見る》。ハイデガーが「人間は、おそらくすでに今まで数世紀にわたって、行為はあまりにも多く成してきたが、思惟することはあまりにも僅かであった[16]」というときの「思惟」は、決して規則にしたがった認識行為ではない。認識は行為であるとともに体験でもあり、現象学のように後者を重視し過ぎると、ある種のイデオロギーとなるが、前者の側面だけを強調しても、人間の認識の理解として不十分である。

だから、サールが志向作用と志向内容の間で揺れたとしても、そのことは同情に値する。いずれにせよ、ひとはここでサールをヴィトゲンシュタイン-オースティンの言語行為論の延長線上に位置付け、次のように考えて彼の《べし》から《である》の導出/推論を理解しようとすることはできない。すなわち約束において発話された言明の意味は発話行為であり、したがってその意味は実践的関心によって規定され、あらかじめ価値を含んでおり、かくして約束をしたという事実からそれを守るべしという当為が導出されうるのだ、と。

サールの議論はこう単純ではない。彼は恩師オースティンの「知っている」という語は「保証する」という行為のために使われるという行為論的な定義、一般に言って「語Wは言語行為Aを遂行するために使われる」という形式の定義を「言語行為の誤謬」と名付けて批判し[17]、この誤謬の根を“意味=使用” というヴィトゲンシュタインのテーゼに求めている[18]。サールは「語“よい”は勧めるために使われる」というヘアーの定義をも言語行為の誤謬の内に数えている[19]ので、これを手掛りに考えて見よう。

あるものの記述的意味X,Y,Zを基準=理由としてそのものに「よい」を適用するとき、その判断「X,Y,Zはよい」が妥当であるならば、事実から価値が導けることになる。「一般にもしも“WはAを遂行するために使われる”がWの分析の一部であるとされるなら、私たちはX,Y,ZのどれもがAを遂行するためには使われないと考えるので、WをX,Y,Zのどの語によっても定義することが不可能であるように思われるであろう[20]」。

以前の例を使って、Wに「よいイチゴ」、Aに「私はこのイチゴを勧める」、X,Y,Zに「甘くて・果汁が多く・身が引きしまっていて」を代入してみよう。言うまでもなくWはX,Y,Zによって“定義”されえない。なぜならば、記述的属性「甘くて・果汁が多く・身が引きしまっていて」はいかなる意味でも「勧める」という行為ではないのだから。サールは「あるものをよいと呼ぶこと」が「勧める commend こと」であることを認めつつも、「よい」を「勧める」で分析することはできないと言う[21]

6年後の論文でサールが次のように言うときも、おそらくヘアーを念頭においていると推測される。

倫理学において、“良い”“正しい”“べし”などはなんとなく命令的ないし“行為誘導的な”意味を持っていると一般に考えられてきた。この見解は、“あなたはそれをすべきである”というような文は、しばしば聞き手にあることを命じるべく発話されるという事実に依拠している。しかしそのような文が命令として発話されうるという事実から“べし ought”が命令的意味を持っていることが帰結するわけでないのは、“Can you reach the salt?”が塩を取ってもらうことの要望として発話されうるという事実から“can”が命令的意味をもっていることが帰結するわけではないのと同様である。最近の道徳哲学における多くの混乱は、そのような間接的言語行為の本性を誤解することから生じる。[22]

晩餐会という発話状況で“Can you reach the salt?”と聞かれて塩を取ってやったところ、「私はあなたの手に塩まで届く能力があるかどうかを尋ねただけであって、塩を取ってくれとは頼んでいない」などと言われれば、私は面喰らうであろう。サールは、この点において、オースティンの言語行為論には何かが欠けていると考えた。

そこで、サールがオースティンの

1.発語行為(locutionary acts)

例)私は彼に「アイ・プロミス・トゥ・カム」と発話した。

I said to him,“I promise to come.”

3.発語内的行為(illocutionary acts)

例)私は彼に来る約束をした。

I promised him to come.

4.発語媒介的行為(perlocutionary acts)

例)私は彼を安心させた。

I set him at ease.

の区別に対して[23]、1と3の間に、指示行為と述定行為を含む

2.命題的行為(propositional acts)

例)私は私自身を指示しつつ私が未来において来ることを述定した。

I referred to myself and predicated future coming of it.

を導入した[24]。“Can you reach the salt?”に関して言えば、この発語行為が、聞き手に塩を取ってもらうことを要望するという発語内的行為となるためには、話者が自分自身を指示しつつ自分が未来において塩を受け取ることを述定する命題的行為がなければならない。これは、平たく言うなら、話者が、相手に塩を取ってもらうつもりでないなら、“Can you reach the salt?”と発話しても、相手に依頼したことにはならないということなのだ。

英語の志向性(intentionality)は英語の“intend”に由来し、英語の“intend to”は「…するつもりである」を意味する。サールが命題的行為の挿入を強調したのは、彼が志向性を重視しているからである。「命題的行為」というように日本語で訳すとよくわからなくなるのだが、“pro-positional acts”は語源的には「前へと身を置く」行為であり、動詞の“propose”は、「提案する」「たくらむ」という意味があり、「命題的行為」は「志向的行為」と言い換えてもよいぐらいである。

サールは命題的行為を、発語行為に内包させるべく、発語行為を F(RP)と表記する。F(illocutionary Force 発語媒介的力)と RP(Referring expression and/or Predicating expression 指示かつ/または述定表現)が異なることは、

(1) F¬(RP): I promised not to come.

(私は来ないことを約束した)

(2) ¬F(RP): I did not promise to come.

(私は来ると約束したわけではなかった)

という二種類の否定から明らかである。(2)は(1)とは異なって、何も約束しなかった可能性を含意している。すなわち(1)が《否定の志向性》であるのに対して、(2)は《志向性の否定》である。

3. 述定の自己同一性

命題的行為は志向性の述定である。だが、命題的行為における述定は、特定の発語内的行為を常に同一化するだろうか。サールは、諸言語は規約的であるとして、クワイン流の意味の分析性に対する懐疑にコミットしていない[25]。但し、指示・述定の不確定性の問題をクワインと同様にプラグマティックに扱っている。「もしも述語がある客観について真ならば、その述語は、どのような表現がその客観を指示するために使われるかに係わりなく、その客観と同一であるもののどれについても真である[26]」という《同一性 identity の公理》を唱えはするが、しかし彼はカルナップのように、同一の客観を指示するがゆえに異なった表現も置換可能であるとは考えない。

サールは《同一化 identification の公理》として次のように主張する。

表現の発話において確定的指示を首尾良く遂行するための必要条件は次の二つのうちどちらかである。その表現の発話が、一つの唯一の客観について真である記述ないしは事実を聴者にコミュニケイトしなければならないか、あるいはもし発話がそのような事実をコミュニケイトしないなら、話者は、その発話がコミュニケイトする表現を代用することができなければならない。[27]

クワインも言うように、表現には「コミュニケーションに必要な固定性[28]」があればそれでよいのである。

指示表現の典型的な場合である固有名詞についても同じくクワイン的に問題が処理される。

私は“アリストテレス”の使い方を、それはスタゲイラ生まれのギリシャの哲学者の名前であると聞いて覚えるかもしれないが、しかしもし学者が後に、アリストテレスはスタゲイラ生まれでは全然なくてテバイの生まれであることを私に納得させたとしても、私は彼等が自己矛盾に陥っているとは非難しないであろう。[29]

しかるにラッセルの記述理論によれば、固有名詞「アリストテレス」は 「スタゲイラ生まれかつアレクサンドロス大王の教師かつ『ニコマコス倫理学』の著者かつ … 」という確定記述によって置換可能であるから、「アリストテレスはスタゲイラ生まれではない」という命題は自己矛盾であるということになってしまう。「アリストテレス」は、その指示対象の「一意性 uniqueness」にもかかわらず多基準語であるから、部分的に特定の基準を失っても、なお自己同一性を保持しうる。

しかし誰もがこれまでにアリストテレスについて真であると信じてきたすべてのことが、実際には本当のアリストテレスについては真ではなかったなどという想定は意味を成すであろうか。あきらかにナンセンスである。[30]

固有名詞は普通名詞と同様に、まったく記述と結び付かないことはできないが、特定の記述と結び付かなければならないという必然性はない。

固有名詞は記述としてではなく、そこへと記述を掛けるべきかなめとして機能する。このように固有名詞への基準の結び付きのゆるさは、言語の指示機能を言語の記述機能から分離するための必要条件なのである。[31]

このような記述的基準からの固有名詞の分離は、ムーアによる記述的意味からの価値の分離を連想させる。そこで自然主義的誤謬を誤謬とするサールに対しては、記述的意味「私は … を約束する」も当為「私はその約束を守るべきである」と必ずしも必然的な結び付きを持たないのではないのか、という疑問を持つことができるであろう。だがこれはもはや指示の問題ではなく述定の問題である。

言語行為論的相対化は指示だけでなく述定についてもあてはまる。主語は個体を指示し、述語はそれに普遍的属性を帰属させるというのが伝統的哲学の構図であるが、サールに言わせれば、「バラは赤い。The rose is red.」という主語-述語形式を持つ文は、

(1) The thing which is a rose is red.

(バラであるものは赤い)

と書き替えることができるが、順序を逆にして、

(2) The thing which is red is a rose.

(その赤いものはバラである)

と書き替えることもできるから、主語-述語の区別は相対的である。

サールは、主語は「特殊な項 particular term」を同定し、述語は「普遍的な項 universal term」を同定するというストローソンの理論を批判して次のように言う。「もしもこの理論が主張するように述語表現が普遍を同一化するのなら、この理論が見落としていることだが、主語表現も普遍を同一化する[32]」。

ストローソンはさらに、述語によって同一化される普遍的項が「非言語的項 non-linguistic items」であると主張する。しかしながら「普遍は[言語外の]世界の中にあるのではない[33]」。「古めかしいジャーゴンで言うならば、普遍にとって本質と存在は一体である[34]」のだから、普遍の存在は言語の中での存在で十分であり、《意味の第三領域》など想定する必要はない。「普遍は世界を記述する私たちの一様式 our mode of describing the world の部分であって、世界の部分ではない[35]」のである。普遍は「記述する」という私たちの言語行為の形式なのである。

このように指示/述定を「総体的な発語内的行為からの切片[36]」と見なすことによって、意味の同一性だけでなく、論理の分析性も言語行為論と相関化されるようになる。

同語反復は真理条件ではない。なぜならば、同語反復は無条件に真であるから[…](例えば、私は雨が降っているかいないかのどちらかであることを知っていると言う時、私は天気について何も知っていないことになる)。[37]

こういう『論理哲学論考』でのヴィトゲンシュタインの主張によれば、ある政治家を指示して「彼はファシストであるかないかのどちらかである」と述定する時も「彼は共産主義者であるかないかのどちらかである」と述定する時も、同じく何も語っていないことになるが、その政治家への疑念的認識という点では、疑いが発生する《地平》という点では違いがある[38]。「何事も真理とは無関係ではありえない Nothing could be further from the truth」という格言通り、「戦争は戦争だ」、「規則は規則なんだ」、これらはある発話状況においては同語反復以上のことを語る。

このように発話内容と発話行為/行為の規則のシステムとを相関させることで、「私は何をすべきか」という倫理学の問題が解決されうるであろうか。答えは否である。ちょうど普遍にとっては本質と存在は一体であり、即自的には無制約的に存立しうるにしても、指示表現との結び付き方によっては妥当性を失いうるように、「私は…を約束する」は即自的には「私はその約束を守るべきである」と一体になってはいるが、状況次第ではその約束を守らなくてもよい/守るべきでない場合も生じることであろう。

サールもこの点はよく心得ており、「ある義務が他の義務によって無効になるかもしれないという事実、ある義務が免除されたり大目に見られたりするかもしれないという事実は、その義務の存在を否定しないことはもちろんのこと、義務を制限さえしないということを強調することは多分重要である。無効になったり大目にみられたりするためにはまず義務がなければならない[39]」と断っている。

しかし倫理学にとって重要なのは、二つの競合する義務のうち、どちらをどのような基準で無効にするのか、である。サールはこの問題に取り組もうとしない。曰く「ついでに言えば、約束を守るという義務はおそらく道徳性とは何ら必然的な関係を持たない、と私は思う[40]」。

してみるとサール謂う所の《Is》からの《ought》の導出とやらは、約束はその遵守の当為性を意味の構成的規則としているという極めてトリヴィアルな意味分析に過ぎないことになる。もちろん言語行為論の論者が道徳の問題をも論じなければならないという必然性はない。だがもしもサールの言語行為論の射程が、「可能的原則 prima facie principle」の確認以上のものでないとするならば、彼は価値不可知論という点で、ヘアーからあまり遠くないところにいることがわかるであろう。

《Is》から《ought》を導出するためには、行為の目的を問わなければならない。その意味で、サールの『志向性』は注目に値する著作である。“Intentionality”とは、“ … するつもり intend”から作られた抽象名詞であり、行為の目的志向性を意味するからである。人工知能がいかに外見上人間の知性とそっくりに振る舞おうと、それが人間の知性と異なるのは、自己保存という究極目的を志向していない、つまり選択に際して迷うことが全くないからである。

だが、そのような関心からこの本を読むと、大いに失望する結果となる。そこでは志向性が因果性によって説明され、心の問題が大脳生理学の問題となる。サール曰く「私の説明では、心の状態は他の生物学的現象と同じぐらいリアルであり、だから、乳汁分泌や光合成や細胞核の有糸分裂や消化と同じぐらいリアルである[41]」。これでは「思想の脳髄に対する関係は、胆汁の肝臓に対する関係や尿の腎臓に対する関係とほとんど同じである」と唱えたフォークトのあの悪名高い俗流唯物論と変わるところがない。

行動主義とは一線を画し、《裸の事実 brute facts》から《制度的事実 institutional facts》を区別することがサールの新自然主義の出発点であったはずなのだが、彼が行き着いたところは、ただの自然主義であった。もちろん、大脳生理学的なアプローチに学問的意義がないとは言わないが、それは冒頭で述べたような意味でのアルケーを探求する哲学としての第一哲学ではない。第一哲学と第二哲学である大脳生理学は区別されるべきだ。一般に英米の哲学者は年をとるにしたがって若い頃の鋭さを失って常識的になると言われているが、サールもその例に漏れないというのが私の感想である。

4. 参照情報

関連著作
注釈一覧
  1. このページは電子書籍『言語行為と規範倫理学』の第三章第一節をブログ記事用に編集したものです。
  2. ヘアーはしばしば日常言語学派であると言われるが、彼は記述主義を批判しながら、「言語による理解には、たんに定義一致のみならず(奇妙に聞こえるかもしれないが)判断の一致もが属している」(Philosophische Untersuchungen,242)というヴィトゲンシュタインの命題を道徳哲学に持ち込むことが「危険」であると言っている(Moral Thinking,p.70)。つまり彼は「分析性のドグマ」に固執しているのであって、この点むしろ彼は批判的合理主義の潮流に属するのではないかと思われる。科学哲学におけるポッパーとクーンの対立が倫理学におけるヘアーとロールズの対立に対応すると言ってもよいであろう。我々は本章で、サールとロールズをクワイン以降のポスト分析哲学の系列に位置付ける。
  3. Searle, John. Speech Acts: An Essay in the Philosophy of Language. 1969. Cambridge University Press. p. 132.
  4. Searle, John. Speech Acts: An Essay in the Philosophy of Language. 1969. Cambridge University Press. p. 22.
  5. Searle, John. Speech Acts: An Essay in the Philosophy of Language. 1969. Cambridge University Press. p. 51f.
  6. Searle, John. Speech Acts: An Essay in the Philosophy of Language. 1969. Cambridge University Press. p. 33.
  7. Searle, John. Speech Acts: An Essay in the Philosophy of Language. 1969. Cambridge University Press. p. 71.
  8. Wittgenstein, Ludwig. Philosophische Grammatik. 1969. Ludwig Wittgenstein Schriften. Bd.4. Suhrkamp. ed. Rush Rhees, TeilⅠ,136.
  9. Wittgenstein, Ludwig. Philosophische Bemerkungen. 1964. Ludwig Wittgenstein Schriften. Bd. 2. Suhrkamp ed. Rush Rhees, 21.
  10. Wittgenstein, Ludwig. Philosophische Bemerkungen. 1964. Ludwig Wittgenstein Schriften. Bd. 2. Suhrkamp ed. Rush Rhees, 23.
  11. Austin, J. L. How to Do Things With Words. 1976. Oxford University Press. ed. J.O. Urmson and Marina Sbisa. p. 103.
  12. Searle, John. Intentionality: An Essay in the Philosophy of Mind. 1983. Cambridge University Press. p. 87.
  13. Searle, John R. “Minds, Brains, and Programs.” Behavioral and Brain Sciences 3, no. 03 (1980): 417–24. doi:10.1017/S0140525X00005756.
  14. Searle, John. Intentionality: An Essay in the Philosophy of Mind. 1983. Cambridge University Press. p. 5.
  15. Wittgenstein, Ludwig. Philosophische Bemerkungen. 1964. Ludwig Wittgenstein Schriften. Bd. 2. Suhrkamp ed. Rush Rhees, 20.
  16. Heidegger:Was heißt Denken?. p. 2.
  17. Searle, John. Speech Acts: An Essay in the Philosophy of Language. 1969. Cambridge University Press. p. 137.
  18. Searle, John. Speech Acts: An Essay in the Philosophy of Language. 1969. Cambridge University Press. p. 146.
  19. Searle, John. Speech Acts: An Essay in the Philosophy of Language. 1969. Cambridge University Press. p. 137.
  20. Searle, John. Speech Acts: An Essay in the Philosophy of Language. 1969. Cambridge University Press. p. 140.
  21. Searle, John. Speech Acts: An Essay in the Philosophy of Language. 1969. Cambridge University Press. p. 139.
  22. Searle, John. Expression and Meaning: Studies in the Theory of Speech Acts. 1979. Cambridge University Press. p. 32.
  23. Austin, J. L. How to Do Things With Words. 1976. Oxford University Press. ed. J.O. Urmson and Marina Sbisa. p. 94-108.
  24. Searle, John. Speech Acts: An Essay in the Philosophy of Language. 1969. Cambridge University Press. p. 24.
  25. Searle, John. Speech Acts: An Essay in the Philosophy of Language. 1969. Cambridge University Press. p. 38-40; p. 4-15.
  26. Searle, John. Speech Acts: An Essay in the Philosophy of Language. 1969. Cambridge University Press. p. 77.
  27. Searle, John. Speech Acts: An Essay in the Philosophy of Language. 1969. Cambridge University Press. p. 80.
  28. Quine, Williard V. Word and Object. 1960. M.I.T. Press. p. 56.
  29. Searle, John. Speech Acts: An Essay in the Philosophy of Language. 1969. Cambridge University Press. p. 169.
  30. Searle, John. Speech Acts: An Essay in the Philosophy of Language. 1969. Cambridge University Press. p. 169.
  31. Searle, John. Speech Acts: An Essay in the Philosophy of Language. 1969. Cambridge University Press. p. 172.
  32. Searle, John. Speech Acts: An Essay in the Philosophy of Language. 1969. Cambridge University Press. p. 118.
  33. Searle, John. Speech Acts: An Essay in the Philosophy of Language. 1969. Cambridge University Press. p. 115.
  34. Searle, John. Speech Acts: An Essay in the Philosophy of Language. 1969. Cambridge University Press. p. 115.
  35. Searle, John. Speech Acts: An Essay in the Philosophy of Language. 1969. Cambridge University Press. p. 117.
  36. Searle, John. Speech Acts: An Essay in the Philosophy of Language. 1969. Cambridge University Press. p. 123.
  37. Wittgenstein, Ludwig. Tractatus Logico-Philosophicus. 1921. Ludwig Wittgenstein Schriften. Bd. 1. Suhrkamp. 4.461.
  38. Searle, John. Speech Acts: An Essay in the Philosophy of Language. 1969. Cambridge University Press. p. 124.
  39. Searle, John. Speech Acts: An Essay in the Philosophy of Language. 1969. Cambridge University Press. p. 180.
  40. Searle, John. Speech Acts: An Essay in the Philosophy of Language. 1969. Cambridge University Press. p. 188.
  41. Searle, John. Intentionality: An Essay in the Philosophy of Mind. 1983. Cambridge University Press. p. 264.