カントの超越論的哲学(01)超越論的哲学とは何か

1997年9月1日

カントは超越論的哲学の開祖である。『純粋理性批判』で提示された超越論的哲学とは何か。『実践理性批判』や『判断力批判』は超越論的哲学ではありえないのか。この導入節では、本書のカントに対するスタンスを明らかにする。

『カントの超越論的哲学』の画像

私たちは、日々個人的に経験を重ね、様々な発見をしているが、そうした発見は、そのままでは科学的な発見とは言えない。「今、ここで、私には、こうなった」といった一回限りの個人的な経験の事実を集めたところで、科学的な知にはならない。科学では、「いつでも、どこでも、誰にとっても、必ずこうなる」といった普遍的に妥当する命題を定立しなければならないからだ。では、そうした命題が普遍的に妥当することをどうやって証明すればよいのだろうか。

ここでは、獲得形質の遺伝という遺伝の法則を例にして考えよう。獲得形質の遺伝といえば、ラマルクの説が有名であるが、ダーウィニズムがラマルキズムに代わって抬頭するよりも前に、カントは獲得形質の遺伝、さらには種の進化を否定する考えを示していた[1]。経験的可変性を否定するアプリオリストにふさわしい考えだが、「獲得形質は遺伝しない」は経験科学の命題だから、その普遍妥当性をアプリオリに証明することはできない。

獲得形質が遺伝しないことを実証しようとした科学者としては、ヴァイスマンが有名である。1887年以降、ヴァイスマンは、人為的に短くしたしっぽが子孫に遺伝するかどうかを実験で確かめようとした。人工的にしっぽを切除したマウスの親から生まれた5世代901匹の子どもたちのしっぽを調べたところ、すべて正常で、短くなることもなければ、それ以外の異常すら発生しなかった[2]。5世代901匹も調べたのだから、これで十分かと言えば、そうではない。実際、ヴァイスマンも、世代数をもっと増やさないといけないと言っている[3]

では、実験を続けて世代数を増やせば、それで十分かといえば、そうではない。「獲得形質は遺伝しない」という普遍命題を証明しようとするなら、マウスのしっぽ切り以外の様々な獲得形質に関しても遺伝するかどうかを調べなければならない。そもそも、ラマルクの用不用説で想定されていた獲得形質は、しっぽの切断といった事故で生じた偶発的形質ではなくて、環境に適応するために獲得された有用な形質であって、そうした形質に関しても調べなければ、ラマルキズムが間違いであることを示せない。今日、エピジェネティクスの分野で獲得形質が遺伝することがあることがわかって、ラマルキズムは部分的に正しいという結論になっている。

「獲得形質は遺伝しない」という普遍妥当的な命題を否定するには、一つの反証事例があればよい。しかし、その肯定を証明しようとすると、無限の数の証拠が必要になる。だが、そうした完璧な実証は不可能だ。人間は、有限な寿命において有限の体験しかできない。しかも、体験を理解する能力も完全ではなく、普遍妥当的な命題を完全に証明する能力などない。

それならば、「今、ここで、私はかくかくの体験をした」という普遍性のない単称命題に甘んじてはどうだろうか。その場合でも、幻覚や勘違いなどによって間違う可能性が残存するとはいえ、普遍性のある全称命題よりも間違うリスクは格段に小さくなる。その代わりに、その命題の市場価値は下がる。「いつでも、どこでも、誰にとっても、必ずこうなる」という普遍妥当的な命題なら、その適用範囲の広さゆえに、すべての人が将来の行動を決める上で利用することができる。その市場価値の高さゆえに、私たちは、敢えて間違うリスクを冒してでも、有限な立場から「飛躍」して、普遍妥当的な命題を定立しようとする。その「飛躍」を、超越論的哲学における「超越」であるとみなしてよい。

超越論的哲学の源泉となったカントの哲学では《超越論的 transzendental》は《超越的 transzendent》から区別される。両者は、英語で言えば、"transcendent" と “transcendental" に相当する。ドイツ語や英語の接尾辞“-al”には、「…に関する」という意味があり、したがって、超越論的認識とは超越に関する認識ということになる。全知全能の存在者が限界を持たず、したがって限界を認識することもないので、端的に超越的であるのに対して、有限な存在者は自己の限界を意識せざるをえず、その認識の様態は超越論的になる。「今、ここで、私はかくかくの体験をした」という慎重な判断からどれだけ普遍的な認識へと人は超越することができるのか、自らの認識能力を反省することで、できることとできないことを確定しようというのが超越論的哲学の課題である。

カントの主著『純粋理性批判』は、批判(Kritik)の書である。クリティークは、「分離する」を意味するギリシャ語のクリネインに由来している。つまり、カントは、「批判」によって、ここまでなら超越できるが、ここから先は超越できないという限界線を引き、認識可能な現象界と認識不可能な物自体を「分離」した。カントの『純粋理性批判』の「超越論的論理学」は、「超越論的分析論」と「超越論的弁証論」の二つの「部門 Abteilung」に「分け abteilen」られているのも、「批判」という言葉の本来の意味での分離なのである。

認識能力の限界を探ろうとするカントの批判の姿勢は、ソクラテスの「無知の知」を連想させる。ソクラテスは、アポロンの託宣で最も知恵のある者とされた。ソクラテスはこれを、自分だけが「自分は何も知らない」ということを知っており、その「無知の知」ゆえに、すべてを知っていると僭称する他の無知な人々に比べて優れていると考えた。「生兵法は大怪我の基」という諺にある通り、自分の能力の限界を知らない人ほど、大失敗をするものだ。自分の無知を心得ている人は、無理をしないし、その限りでは利口なのである。この意味で、自分の認識に限界があると認識できる人は、実は自分の認識の限界を超越している。限界の内部にいる人には、限界が見えない。限界を超越して初めて、限界を認識することができる。カントもまた、「無知の知」ゆえに、たんなる無知以上の智者だったのだ。

カントが、なぜこのような「無知の知」という問題意識を持つようになったのか、その時代背景を解説しよう。カントが生まれた時代のヨーロッパは啓蒙時代の最盛期を迎えており、カントがその生涯を送ることになるプロイセン王国のケーニヒスベルクでも、ニュートンの力学やライプニッツの哲学など、合理主義的な学問が教えられていた。若い頃のカントは、後に彼が独断論的合理論と批判することになる思想の影響下で、自然科学的な研究を行い、1755年には『天界の一般的自然史と理論』を出版し、太陽系が星雲から生成されたとする仮説を、ニュートン力学を援用することで提示した。この仮説は、今日「カント=ラプラスの星雲説」と呼ばれ、定性的には正しいことがわかっているが、当時としては大胆な(それこそ超越的な)仮説で、長い間哲学者の夢想と思われていた(カントは、この本の中で他の惑星の居住者に関する考察まで行っているから、夢想と言われても仕方がないだろう)。

image
食卓でのカントと友人たち[4]。カントは、難解な文章で悪名高いが、社交の場では、機知に富んだ会話で周囲を感心させたと伝えられている。

カントは、これ以外にもさまざまな自然科学的な考察を行っていて、その中には、すでに述べた獲得形質の遺伝(さらには種の進化)の否定など、今日から見て間違っているものもある。その意味では、カントは、彼の時代的制約を超える存在ではなかった。しかし、カントの学問が、時代を超えてその意義が普遍的に認められるようになったのは、超越の不可能性と可能性についての自己批判のゆえであった。

カントは、ヒュームの懐疑主義から強い衝撃を受け、「独断論のまどろみ」から目覚め、経験的な有限性からいかにして超越できるのかを模索するようになった。他方で、ルソーの影響を受けたカントの道徳哲学は独断論的だった。実際、「超越論的」という言葉は、『実践理性批判』には、ほとんど出てこない。『実践理性批判』における批判は、理性による批判であって、理性に対する批判ではない。このことは、カントは、純粋理論理性の時とは違って、純粋実践理性に対しては、オプティミスティックであったことを意味している。

だが、純粋理論理性と純粋実践理性との間にあるこうした非対称性に対しては疑問を持たざるをえない。もしも、カントの定言命法が、矛盾律に過ぎないのなら、それは、理論理性においてと同様に、無制約的な妥当性を持つことができる。しかし、アプリオリな分析性でもアポステリオリな総合性でもない、アプリオリな総合性にまで超越することは、理論理性においてと同様に、できないと私は思う。だから、私は、カントの主張に反して、本書では、理論理性と実践理性をパラレルに扱った。

そもそも、理論的認識といえども、自己自身の存在へとオートポイエーティックに関連付けられた実践的行為であり、実践的認識と切り離せるものではない。理論理性においても、実践理性においても、理性的認識の妥当性は、理性のオートポイエーシスによって基礎付けられなければならない。本書は、したがって、理論理性と実践理性における「超越する」という行為の目的を問いつつ、『判断力批判』の目的論に、二つの分断された理性を止揚する役割を持たせる。

参照情報

  1. Johannes Brock. “Einige ältere Autoren über die Vererbung erworbener Eigenschaften.” Biologisches Zentralblatt 8 (1888– 1889): 491–499. p. 499.
  2. Weismann, August. On the Supposed Transmission of Mutilations. 1888. p. 432.
  3. “What do these experiments prove? Do they disprove once for all the opinion that mutilations cannot be transmitted? Certainly not, when taken alone. If this conclusion were drawn from these experiments alone and without considering other facts, it might be rightly objected that the number of generations had been far too small. It might be urged that it was probable that the hereditary effects of mutilation would only appear after a greater number of generations had elapsed. They might not appear by the fifth generation, but perhaps by the sixth, tenth, twentieth, or hundredth generation." Weismann, August. On the Supposed Transmission of Mutilations. 1888. p. 433.
  4. Emil Dörstling. “Kant und seine Tischgenossen“. 1892-3年の絵画。