9月 011997
 

カントは超越論的哲学の開祖である。『純粋理性批判』で提示された超越論的哲学とは何か。『実践理性批判』や『判断力批判』は超越論的哲学ではありえないのか。本書のカントに対するスタンスを明らかにする。

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たんに感性的所与を記述しただけの「今、私には、…のように見える(聞こえる、感じる…)」という命題は、絶対に間違うことはない。私の認識は幻想かもしれないが、幻想であっても、その幻想を生じさせるところの感性的所与を感覚している事実だけは否定しようがない真理である。また、「S が P かつ P でないということはない」という矛盾律も絶対的に正しい。なぜならば、それは誤謬を誤謬と判断する基準そのものであるからだ。しかし、こうした真理は、真理の名に値しない最も貧しい真理である。真理の名に値する真理を獲得するには、確実だが、狭い真理の領域から《超越》しなければならない。そのような超越が可能かどうかを論じる哲学が、超越論的哲学である。

もちろん、超越すればするほど、誤謬のリスクも大きくなる。私たちは、神ではないのだから、完全な超越は不可能だが、全く超越できないわけではないというのがカントの立場である。私は、カントとは違って、アプリオリな総合命題などありえないと思っているが、この中間性のテーゼには賛成である。

《超越論的 transzendental》は《超越的 transzendent》から区別される。ドイツ語の接尾辞-alには、「…に関する」という意味があり(英語でも同じこと)、したがって、超越論的認識とは超越に関する認識ということになる。全知全能の存在者が限界を持たず、したがって限界を認識することもないので、端的に超越的であるのに対して、有限な存在者は自己の限界を意識せざるをえず、その認識の様態は超越論的になる。

[永井俊哉:超越論的認識とは何か

カントの主著は、批判(Kritik)の書なのだが、クリティークは、「分離する」を意味する、ギリシャ語のクリネインに由来している。つまり、カントは、「批判」によって、ここまでなら超越できるが、ここから先は超越できないという限界線を引き、認識可能な現象界と認識不可能な物自体を「分離」した。カントの『純粋理性批判』の「超越論的論理学」は、「超越論的分析論」と「超越論的弁証論」の二つの「部門 Abteilung」に「分け abteilen」られているが、これは、「批判」という言葉の本来の意味での分離なのである。

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食卓でのカントと友人たち。Emil Dörstling:Kant und seine Tischgenossen. 1892-3年の絵画。カントは、難解な文章で悪名高いが、社交の場では、機知に富んだ会話で周囲を感心させたと伝えられている。

「超越論的」という言葉は、『実践理性批判』には、ほとんど出てこない。このことは、カントは、純粋理論理性の時とは違って、純粋実践理性に対しては、オプティミスティックであったことを意味している。だが、純粋理論理性と純粋実践理性というもうひとつのクリティークに対しては疑問を持たざるをえない。もしも、カントの定言命法が、矛盾律に過ぎないのなら、それは、理論理性においてと同様に、無制約的な妥当性を持つことができる。しかし、アプリオリな分析性でもアポステリオリな総合性でもない、アプリオリな総合性にまで超越することは、理論理性においてと同様に、できないと私は思う。だから、私は、カントの主張に反して、本書では、理論理性と実践理性をパラレルに扱った。

そもそも、理論的認識といえども、自己自身の存在へとオートポイエーティックに関連付けられた実践的行為であり、実践的認識と切り離せるものではない。理論理性においても、実践理性においても、理性的認識の妥当性は、理性のオートポイエーシスによって基礎付けられなければならない。本書は、したがって、理論理性・実践理性における「超越する」という行為の目的を問いつつ、『判断力批判』の目的論に、二つの分断された理性を止揚する役割を持たせる。私の解釈は、ドイツ観念論的であるが、その結論は、現代科学の仮説の一つ、人間原理に近いものになっている。

宇宙に人間が現れたのは、奇蹟的な偶然である。この偶然を説明するために科学者が持ち出した仮説が、人間の存在から宇宙を説明する人間原理である。ビッグバンから人間の存在を導こうとすると、奇蹟のオンパレードになってしまうが、人間の存在から宇宙の現状を導こうとすると説明に必然性が出てくる。

[永井俊哉:人間原理

カントの哲学は、ほこりをかぶった骨董品ではない。物自体の認識不可能性を量子力学的に解釈し、理性の自己実現を目指す歴史哲学を人間原理として解釈するならば、現代でも通用する科学哲学の古典として読み直すことができる。

この本で、私は、カント哲学の再構成を通じて自分が目指す哲学を語ろうとしたのであって、カントの哲学を忠実に解釈しようとしたわけではない。物自体的な“カント自体 Kant an sich”を認識することがカントを理解することであるという考えは、カント的ではない。カント自身、哲学そのものではなく、「哲学することのみが学びうる」[Kant: Kritik der reinen Vernunft, A.837=B.865]と言っている。ただ、カントを忠実に理解し、その思想をものにしても、それはたんにカントのコピーが一つ増えるだけのことで、コピーには何の価値もない。重要なことは、古典と格闘しながら、自分独自の理論を鍛え上げていくことである。

本書は、1990年に東京大学に提出した同名の修士論文に、大幅な加筆修正を加えて、1997年にネット上で公表した電子書籍である。今回、Movable Type で再パブリシィングするにあたって、いくつか変更を加えたが、変更は最小限にとどめた。現在では支持できない主張もあるが、訂正することなく、私の思索のアルバムとして、私のサイトに残しておきたい。

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