9月 011997
 

自然科学者は、自然法則を探求するが、なぜ自然に法則があるのかまでは探求しない。人間が発見した法則にはどれだけの妥当性があるのか。これは科学ではなくて、哲学の問いである。カントが『純粋理性批判』で提示した批判哲学を検討しながら、超越論的哲学とは何かを考えてみよう。

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カントの説明によると、「超越論的という言葉は、私の場合には、決して物に対する我々の認識の関係を意味するのではなくて[これには経験的という言葉が使われるのであって]、たんに認識能力に対する我々の認識の関係を意味するに過ぎない」[Kant: Prolegomena zur einer jeden künftigen Metaphysik, S.294] 。したがって、超越論的認識とは、「対象にではなく、むしろそれがアプリオリに可能であるかぎりでの対象についての我々の認識様式一般に携わる認識」[Kant: Kritik der reinen Vernunft, B.25] である[k]。

[k]以下、本書では、『純粋理性批判』からの引用は、慣例に従って第一版をA、第二版をBとして頁数を記す。また引用文中の[ ]は訳者による補足であり、強調もことわりがないかぎり引用者のものとする。

カントによれば、哲学とは「全ての哲学的認識のシステム」[Kant: Kritik der reinen Vernunft, A.836=B.866] であり、超越論的哲学とは「純粋理性の全ての原理のシステム」[Kant: Kritik der reinen Vernunft, B.27] である。しかし引用した「超越論的」の定義から明らかなように、この「原理のシステム」をノエシス(認識作用・認識行為)から区別されたノエマ(認識内容)のシステムと考えてはならない。カントにおいては、「原理」は認識行為を統制する機能を持っているので、むしろ《ノエシスの規範のシステム》とでも言い換えられるべきであって、この点、超越論的哲学は超越論的統覚(これは das Transzendieren という認識行為の機能のことなのだが)の哲学なのである。

カントは「超越論的 transzendental」という形容詞を使っても、「超越する transzendieren」という動詞は一度も使っていないが、前者は(歴史的にではないにしても原理的には)後者から派生してきたものと見なされる。かつて transzendental に、「アプリオリ」の訳語と区別のつきにくい「先験的」なる訳語があてられたが、それが不当である所以も、このカント哲学の行為論的性格にある。

このような《行為論的=統覚中心的》なカント理解は、なにゆえにそもそもカントの哲学が哲学史上画期的意義を持つのかを考え直すなら、正当化されるであろう。しばしば、カントは大陸における悟性重視の合理論的独断論と英国における感性重視の経験論的懐疑論を総合したと言われる[r]が、ミスリーディングな言い方である。

[r]この「教科書的な」カントの哲学史上の位置付けは、カール・レオンハルト・ラインホルト[Reinhold: Beyträge zur Leichtern übersicht des Zustandes der Philosophie beym Anfange des 19. Jahrhunderts]以来普及し、今日に至っている通念である。

ライプニッツにおいても「永遠の真理」とは別に「事実の真理」が認められていた [Leibniz: Discours de métaphysique, §.13; Leibniz: Monadologie, §.33] し、ヒュームにおいても観念と印象が区別され、観念の関係の学に確実性が認められていた [Hume: A Treatise of Human Nature,p.70] のであるから、いわゆる感性/悟性の二元論はカント哲学の本質的特徴ではない。カントの功績は、表1の三段論法によって示された《大前提=対立地平》そのものを克服した点にあるのであって、小前提を足して二で割った点にあるのではない。

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表1 前カント哲学の地平

独断論は、物自体の認識の実在を認める点で超越論的(正確にはむしろ超越的)実在論であり、懐疑論は、経験的認識を本来の認識と認めない点で経験的観念論なのだが、同一地平に基づくがゆえに「この超越論的実在論者は、もともと後に経験的観念論者の役割を演じることになる」[Kant: Kritik der reinen Vernunft, A.369] のである。

これに対してカントは、まず物自体を我々の認識の対象としない超越論的観念論の立場を採り、したがって経験的認識に学的認識としての地位を認める経験的実在論の立場に立つ。「それゆえ超越論的観念論者は経験的実在論者であって、現象としての物質に、推論されるのではなくて、直接知覚される現実性を認める」[Kant: Kritik der reinen Vernunft, A.371] 。

もちろん、たんなる意識内在主義であるために行為論的である必要はない。にもかかわらずノエマにではなく、(これと不可分の関係にあるのだが)ノエシスに認識の制約を求める所に模写説的真理観との決別を見ることができる。カントは、いたるところで「物と知性との一致 adaequatio rei et intellectus」という伝統的真理観に引きずられているとはいえ、これが真理の定義としてはともかく、真理の基準として役に立たないことを十分弁えていたのである。

ところで transzendieren とは、何がどこから超越することなのであろうか。まず「超越的 transzendent」について考えてみよう。スコラ哲学においては、アリストテレスの範疇の下に包摂されない概念を transcendentia と呼んでいたが、カントの謂う「超越的概念 transzendente Begriffe」もその語義を継承している。なぜなら超越的概念とは「すべての経験の限界を越え出る」[Kant: Kritik der reinen Vernunft, A.327=B.384] 概念なのだが、その「経験の可能性のアプリオリな制約」[Kant: Kritik der reinen Vernunft, A.94=B.126] がカテゴリーだからである。「内在的意識(カントが謂う所のカテゴリーによって制約された経験)を越え出ている」という「超越的」の定義は、新カント学派やフッサールにおいても継承されているが、ここでは《transzendieren》は《主観からの客観の超越》である。主観は、いわば客観によって超越されているのであって、主観自体は超越せず、したがってこのままでは不可知論である。

カントにおいては、しかし「超越論的と超越的は同じでない」[Kant: Kritik der reinen Vernunft, A.296=B.352] 。超越論的哲学は客観が超越的であることを可能ならしめるわけではないので、「超越的」と「超越論的」は、ハイデガーの謂う「存在的 ontisch」と「存在論的 ontologisch」と同じ関係にあるわけでなく、 この点「経験的」と「超越論的」が「経験的」と「経験論的」の関係にある[h]。

[h]「超越論的」が「経験論的」だというのは奇異に聞こえるかもしれない。だが経験、とりわけ「可能的経験」ないし「経験一般」と言われる時の経験は、アポステリオリな感覚とは違って、アプリオリに総合された《自然》を意味する。「それゆえ、経験の可能性一般は同時に自然の普遍的法則である」 [Kant: Prolegomena zur einer jeden künftigen Metaphysik,S.319] 。

超越論的客観を構成する[k]つまり認識する超越論的統覚(超越論的主観)は、主観から超越する客観をおのれのうちへと取り入れるというあり方において客観から超越する、つまり「今私にはかくかくに思われる」という時間内的臆断的有限性から超越する。この意味において、超越論的認識とは《超越することを超越すること》なのである。超越論的超越としての超越が、カント(但しフィヒテに近付けて解釈されたカント)が謂う所の自由である。

[k]ここでは、「構成する konstruieren」をカントの語法に忠実に使ってはいない。カントによれば、「哲学的認識とは概念からの理性的認識であり、数学的認識とは概念の構成からの理性的認識である。ところで概念を構成するとは、それに対応する直観をアプリオリに提示することである」 [Kant: Kritik der reinen Vernunft, A.713=B.741] 。「運動の概念を構成するとは … その運動をアプリオリに直観のうちに提示することである」 [Kant: Metaphysische Anfangsgründe der Naturwissenschaft,S.486] 。しかしこの意味でならたんに「提示する darstellen」と言えばよいのであって、今後、模写説と整合説/対応と構成の対立を意識して能動的認識を語るときに「構成」という用語を用いることにする。

だがはたして超越者は、超越論的認識によって内在化されうるのだろうか、とひとは訝しく思うかもしれない。確かに、カントにおける超越的概念は形而上学的な物自体であって、フッサールなどが云う経験的な超越者とは異なる。しかしもしひとが「物自体」で以って人間の認識の進歩とは無関係に現象界の背後に超越している神秘的な別世界を考えているならば、それはカントに対する誤解である。彼自身ある遺稿で述べているように、「物自体(ens per se)は、現象と別の客観ではなく、同じ客観への表象の異なった関係(respectus)である」[Kant: Opus postumum,S.26] 。この異なった表象の関係とは、構成的原理ではなく統制的原理としての認識への係りということを意味している [Kant: Opus postumum,S.43] 。

物自体を意識から端的に超越させることができないことに関しては、ヘーゲルの周知の論法 [Hegel: Phänomenologie des Geistes,S.125f] が有効である。物自体は無限で絶対的な理念なのであるが、もしそれが私の意識を超越し、私の意識の外にあるならば、言い換えれば、もし物自体がそれから区別された存在者と相対しているなら、それはもはや絶対者ではなくなってしまう。したがって物自体と超越論的統覚は、外部と内部の関係ではなく、全体と部分の関係にある。つまり物自体の理念は認識行為の統制的原理として意識内在的であるのであり、物自体は、超越論的統覚が自己を究極的に実現することによって自己を実現する性質の理念なのである。

だがそのようなことは、少なくとも『純粋理性批判』では不可能であり、だからこそ物自体は永遠の統制的原理でありうる。そこで厳密に言えば、物自体は究極的全体性の地平(限界)である。しかしこの点は後の超越論的弁証論で触れることにして、ここではとりあえず形而上学的超越は経験的超越の極限値であって、前者は後者と量的に連続しており、けっして質的に違うものでないことを断っておく。

超越的超越とそれの超越としての超越論的超越という超越概念の二義性は、《Subjekt》概念の二義性に対応している。前者においては「主語」としての Subjekt が、後者では「主観」としての Subjekt が超越する。主語といっても、例えば判断「この花は赤い」における名辞「この花」のような文法的な主語ではない。この判断は「このxは花でありかつ赤い」というようにパラフレーズされるが、その概念「赤い花」に対応する個物xとしてのメタ文法的な主語が属する実体のことである。実体(Substanz)とは、「持続性の感性的規定を消去するならば、(他の何物の述語とならずに)主語 Subjekt として考えられうるある物以外の何をも意味しない」 [Kant: Kritik der reinen Vernunft, A.147=B.186] 。《Subjekt》は、カントにおいては、たいがい「主観」の意味で使われるのだが、ここの引用から明らかなように、現象の「基体 Substrat」[s]という意味でも使われる。

[s]Substrat あるいはラテン語風に Substratum。「全ての実在的な物、即ち事物の現実存在に属する物の基体実体である[…]したがって持続的なものは … 現象における実体、即ち全ての変易の基体として常に同一であり続けるものの実在的なものである」 [Kant: Kritik der reinen Vernunft, B.225] 。要するに基体とは実体であり、実体とは基体のことなのである。

周知のように Subjekt は、ちょうど Substrat が sub-sternere(下に-広げる)の完了分詞 substratum に、Substanz が sub-stare (下に-立つ)の名詞 substantia に由来するように、sub-icere(下に-投げる)の完了分詞 subjectum から来ている。これに対して、Objektは ob-icere(前に-投げる)の 完了分詞 objectum から派生していて、objectum は「前に投げられたもの」として subjectum よりも、近代的な意味での“主観”に近いところにある[d]。その心的な性格を考慮して、objectum を「客観」と訳さずに、「客象」と訳すことにしたい。 「下に投げられた基体・実体」としての主語 Subjekt が、デカルトからカントにかけての近代以降、「主観」の意味に転倒するわけなのだが、この語誌的哲学史的経緯は同時に超越論的哲学の論述の過程でもある。

[d]従って例えば、デカルトの『省察』 [Descartes: Meditationes de prima philosophia,p.32] における réalité objektive は、所謂客観的実在性ではなくて、意識内容(ノエマ)としての《概念的客観性=客象的実在性》である。

我々は先にカントが模写説的真理観を斥けた旨を記したが、「所与の感性的な現象界は信用できないのであって、その背後に横たわる本体界と判断が一致していることが真理なのである」という模写説は次の二つの難点を持っている。

  1. 判断と本体界が一致しているという認識自体が判断なので、無限後退に陥る。このアポリアを解消するためには、判断の真偽は、判断と本体界との関係ではなく、むしろ判断と判断の関係で決まるという整合説を採らなければならない。
  2. 我々は感覚的認識よりも科学的認識の方が本体界に近いと考えるが、科学的認識は本体界から現出した感覚を材料に構成されたものであるから、むしろ感覚よりも本体界から遠いないし間接的であるということになる。だから感覚の背後にある本体界と考えていたものは、実は意識それ自体であるということに意識は気が付く。

こうして意識は対象の認識から意識自身の自己認識へと認識の課題を変えていく。これが本体界としての基体・実体 Subjekt が主観 Subjekt へと転倒した[s]経緯であり、また超越的超越が超越論的超越によって超越される経緯でもあるわけである。

[s]もとよりカントにおいては人間悟性/理性は有限であるから、少なくとも『純粋理性批判』においては「主体は実体なり」というヘーゲル的なテーゼ [Hegel: Phänomenologie des Geistes,S.24] は唱えられない。カントは「誤謬推論」を批判するある個所 [Kant: Kritik der reinen Vernunft, A.350] で《思惟の持続的な論理的主語 das beständige logische Subjekt des Denkens》と《偶有属性を担う実在的な主体 das reale Subjekt der Inhärenz》との混同を戒めているが、それは実体を「実体現象 substantia phaenomenon」 [Kant: Kritik der reinen Vernunft, A.277=B.333]の意味に解する限りであって、実体を物自体的基体と理解するなら、それは理論的主観にとって自己同一されえないにしても自己同一の目標には成りうるのである。『実践理性批判』においては、カントは「自由の主体としての自己をヌーメノン[物自体]に」して、「理論的認識においては否定され、実践的認識においては主張されるヌーメノンに適用されたカテゴリーの客観的実在性」 [Kant: Kritik der praktischen Vernunft,S.6] を説くに至るのだから、本文の叙述にあるように、カントの超越論的哲学を《主体=実体》のテーゼに引き付けて説明することも許されるであろう。

認識作用が《Transzendieren》なる超越論的行為であるとしても、それは行為として直接知覚されず、認識内容における超越を通して反照的に規定されるので、超越論的哲学の論述は判断の分析から始めなければならない。「超越論的主要問題」 [Kant: Prolegomena zur einer jeden künftigen Metaphysik,S.280] が差し当って「いかにしてアプリオリな総合的判断は可能であるのか」 [Kant: Prolegomena zur einer jeden künftigen Metaphysik,S.276] という判断の問題として提出されるのはこのためである。

ペイトンなども「超越論的」を「アプリオリ」から定義している。

すべての超越論的認識は常に純粋であるが、純粋な認識がすべて超越論的であるというわけではない。超越論的認識は批判的ないし反省的ないし哲学的認識である。すなわち認識が純粋あるいはアプリオリであるという認識である。かくして超越論的感性論が超越論的であるのは、超越論的感性論が我々の時間空間の直観が純粋であることを示すからであり、超越論的論理学が超越論的であるのは、超越論的論理学が、人間の意識はある純粋な概念またはカテゴリーを所有することを示すからである。これに対して数学的認識は、純粋あるいはアプリオリであるが、超越論的ではない。数学がアプリオリな学問であるという認識のみが超越論的と呼ばれうる。

[Paton, Kant’s Metaphysic of Experience, Vol.1, p.227]

明解な定義だが、ペイトンのこの定義では、「なぜカントは、このような認識を記述するのに“超越論的”という言葉を使ったのかという疑問が当然わいてくる。この疑問に対する答えは、何であれ憶測の域を出ないであろう」[Paton, Kant’s Metaphysic of Experience, Vol.1, p.230] 。そして小著は、敢えて「憶測」で超越論的哲学を《超越》概念から定義しようとするわけである。

ペイトンの定義によれば、超越論的認識とは、認識がアプリオリであるという(二階の)認識であった。だが厳密に言えば、一階の認識はアプリオリであるだけではなく、総合的でもなければならない。その可能性が「超越論的主要問題」である、アプリオリな総合的判断は、アプリオリ・アポステリオリと分析的・総合的という二つの区別の区別によって構成されているので、まずこの両二項性の検討から始めなければならない[d]。

[d]カントの哲学はしばしば二元論と評される。彼自身「すべての概念によるアプリオリな区分は二分法でなければならない」[Kant: Kritik der reinen Vernunft, B.110] と述べている。しかしカントにおいては、アプリオリ/アポステリオリ、分析的/総合的、概念/直観、主観/客観などの区別はすべて同じではなく、相互に交叉し合うことによって複雑な構造を成している。カントを読解する上で重要なのは、区別と非区別の区別ではなく区別と区別の区別である。したがって我々はこれら複数の二項性を同一視した上で「いかにして近代哲学における主観-客観図式は克服されるか?」などという陳腐な問いを立てない。主客分裂の危機は癒着にあるのであって、我々はこの問題を「解決」するのではなく、概念の分析整理を通して問題そのものを「解消」する。

アプリオリな認識とは「すべての経験からまったく独立に起きる認識」[Kant: Kritik der reinen Vernunft, B.3] であり、それには「アポステリオリに、つまり経験によってのみ可能となる認識が対置される」[ibid] 。この定義で「独立に unabhängig」が「分離されて abgetrennt」でないことに注意されたい。アプリオリな認識は経験についての認識なのであるが、ただその認識は経験に左右されない、つまり経験的内容を変項として取りながら、それ自体は不変の関数関係なのである。「アプリオリな認識のうちで経験的なものが全く混入されていない認識を純粋な認識という」[ibid] 。ここからして、純粋な認識(経験から分離された認識)がアプリオリな分析的判断であり、それ以外のアプリオリな認識がアプリオリな総合的判断であることが予想される。

しかし一体《純粋な認識=分析的判断》といったものがあるのだろうか。カントが分析的判断の例として挙げる「すべての物体は延長している」 [Kant: Kritik der reinen Vernunft, B.11] という判断は、「物体」という観念を知っている人にとっては分析的であろうが、そうでない人にとっては総合的ではないのかと反論したくなる人がいるであろう。ところがカントは、それどころか『プロレゴーメナ』では、さらに「金は黄色い金属である」という判断[l]まで分析的判断にしてしまっているが[Kant: Prolegomena zur einer jeden künftigen Metaphysik,S.267] 、原子番号47の金属が黄色であるかどうかは見てみなければ分からないのであって、それゆえこれは総合的判断ではないのか。

[l]この例はロックから借りてきたものだが、ロックが主張するように、金が黄色であることは分析的でないどころかアプリオリですらない [Locke: An Essay concerning Human Understanding,p.644] 。

このような疑問は、判断そのものが分析的と総合的とに分類されうるという誤解から生じる。「金は黄色い金属である」は、それが金の性質についての判断である以上総合的であるが、

  1. 「もし金が黄色い金属であるとするならば、金は黄色い金属である」
  2. 「もしすべての金が黄色い金属であるとするならば、どの金も黄色い金属である」

という判断は、同一律が恒真的である以上、金の性質と無関係に恒真的である。「それゆえ(肯定の)分析的判断とは、そこにおいては主語と述語の結合が同一性によって考えられるような判断である」 [Kant: Kritik der reinen Vernunft, A.7=B.10] 。

問題は同一性と分析的判断の関係である。1は「金が黄色であること」を名辞化すればたんなる同語反復であることが判明する。この点2は全称判断という全体を分析して特称判断という部分を析出して いる点で“分析的”判断の名に値するように見える。しかし「すべてのSがPであるならば、どのSもPである」は、集合に関するアプリオリな総合的判断であって、分析的判断とは言えない。してみると、すべての判断は総合的なのであって、ただ同一律に従った判断の導出の妥当性/ 判断システムの持つ整合性が分析性なのである。換言すれば、分析性は「判断 das Urteil=das Geurteilte」の性質ではなく、「判断すること das Urteilen」の性質(ないし形式)だと言える。

同一律《A=A》は、要するに《Ich denke A und Ich denke A》であって、《Ich bin Ich》の能力に基づく[i]。この「すべての可能的表象における自己自身の全般的同一性」 [Kant: Kritik der reinen Vernunft, A.116] が純粋統覚である。「ところで一つの主観における多様の統一性(Einheit 単一性)は総合的である。それゆえ純粋統覚は、全ての可能的直観における多様の総合的統一の原理を与える」[ibid] 。これは第一版における説明である。第二版では、しかしながら逆に「分析的な統覚の統一性は、総合的統一性の前提のもとでのみ可能である」[Kant: Kritik der reinen Vernunft, B.133,Vgl. B.134]とされるが、これは統覚の自己同一性はアプリオリな総合の整合性から反照的に規定されるという意味であって[h]、第一版と矛盾するわけではない。

[i]「同一性は … 対象の本質徴標ではなく、任意のどの対象それ事態にも観取されるわけではないのであって(それが“A=A”という同一性命題の直観的基礎なのだが)、「対象」という言葉の意味は自我による何かの同一化可能性に一致しているはずである」[Scheler: Der Formalismus in der Ethik und die materiale Wertethik, S.374] 。

[h][中島義道, カントの時間構成の理論, 13頁以下] 参照。矛盾律の能力としての自己同一的な純粋統覚は、客観へと《超越》しつつ、現象を《無矛盾的=整合的》に総合し、必然的な超越論的対象を構成することによって、その相関項としてのおのれを超越論的統覚として充実する。ハイデガーが註釈したように、超越論的超越は「 … へと越えて hinüber zu …」であると同時に、「 … を越えて überweg」である[Heidegger: Kant und das Problem der Metaphysik,S.179] 。すなわち現象へと超越する(感性的対象について判断をする)ことが同時に現象を超越する(感性的有限性を脱する)ことでもある。

超越論的哲学を、三つの超越(超越的超越と二つの超越論的超越)から包括的に定式化すると次のようになる。

【超越論的哲学の定式1】Die Transzendental-Philosophie ist das wissenschaftliche Selbstbewußtsein vom transzendentalen Transzendieren des transzendenten Transzendierens, durch das das Subjekt hinüber zum das Subjekt transzendierenden Objekt dasselbe Objekt überweg transzendiert.

ドイツ語によるこの定式では表現されていない Subjekt/Objekt 概念の、「基体/客象」と「主観/客観」の二つのレヴェルを区別して式述すれば、

【超越論的哲学の定式2】超越論的哲学とは、主観から超越する客観へと主観が超越すること、すなわち、判断において主語(基体)から超越する述語(客象=現象)へと基体が超越する(主語と述語が結ばれる)こと、および、主観が客観の超越的超越を超越しつつ客観を超越論的に超越することの学的自己意識である。

となる。

定式1も定式2も晦渋であるから、その意味するところをもう少し噛み砕いて説明しよう。超越論的哲学の理論的枠組は、意識/対象と経験的/超越論的という二つの区別の交差によって得られる(但しカントの表現では、“意識”は“統覚”である)。図解すると、図1のようになる。

図1 カントの超越論的哲学の四角形
カントは「経験的対象」という言葉は使っていないが、「経験的認識の対象 Gegenstände empirischer Erkenntnis」という言葉を「現象 Erscheinungen」の意味で使っている [Kant: Kritik der reinen Vernunft, B.666] ので、それに相当すると考えてほしい。

TG・EG・TB・EBの四つの頂点によって形成されるこの超越論的哲学の四角形は、前カント哲学(具体的には、デカルト哲学)の3項図式である図2とカントによって転回された3項図式である図3における二つの三角形 O-M-S の総合として理解される。

図2 前カント哲学の三項図式
図3 カントによって転回された三項図式

中世的な遺産に多くを負っている前カント哲学においては、図2のように、コギトは、基体から現象する客象(objectum)を通して基体を認識する。中世神学においては、究極的な《基体=実体》である神が、人間の認識という有限性を媒介に自己を顕現する。図2の三角形の中央にある点線を軸に左右を逆転すると、図3のようになる。コペルニクス的転回を経たこの新たな布置関係では、人間の主観が客観を媒介にして自分自身を認識する。

だがカントは、図2の三項図式を完全には払拭しておらず、『純粋理性批判』の中でも「超越論的客観は現象の原因である」[Kant: Kritik der reinen Vernunft, A.288= B.345] だとか、「外的諸現象の根底に横たわるあるもの[subjectum]、我々の感官を触発して感官に空間・物質・形態などの表象[objectum]を与えるこのあるものは、ヌーメノン(あるいはより適切に言えば、超越論的対象)として考えられようが、だがまた同時に、諸思考の主語 [Subjekt]でもありうる」[Kant: Kritik der reinen Vernunft, A.358] などといった言い回しを繰り返している。それゆえ定式2でもその両方を盛り込んだ。「判断において主語(基体)から超越する述語(客象=現象)へと基体が超越する(主語と述語が結ばれる)こと」は図2に相当し、「主観から超越する客観へと主観が超越すること」は図3に相当する。そのどちらも「超越的超越の超越論的超越」であるが、後者は前者の反照として可能となる。

ところでカントは、しばしば超越論的客観あるいは超越論的対象がまるで物自体であるかのように語る。しかし超越論的客観/対象とは、本来「ただ統覚の統一の相関項として感性的直観における多様の統一に役立つだけ」[Kant: Kritik der reinen Vernunft, A.250] であり、「感性的所与からはまったく切り離されない」[ibid] のだから、物自体のような統覚の限界を越えた絶対的な超越性は持たない。

超越論的客観/対象とは区別された物自体を図1に書き込むと、図4のようになる。

図4 超越論的自己意識の歴史

この図の TG・EG・EB0 を三つの頂点とする三角形の内部にある四角形 TG・EG・EB・TB の縦の長さを超越の度合いの変数としてみよう。超越=0のとき、超越論的/経験的の区別はなく、四角形 TG・EG・EB・TB は直線 EO・EB となってしまう。これは自己意識以前の動物的状態である。EG→TG1→TG2 へと、つまり EB0→ TB1→TB2 へと上昇するにつれて、意識は物自体(TG)へと接近する。人間の意識と物自体との間には無限の隔たりがあるのだが、ヘーゲルの哲学においてそうであるように、意識が絶対知の高みにまで超越したとしてみよう。その時四角形 TG・EG・EB・TB は直線 EG・TG となってしまい、統覚/対象の区別は消滅し、意識は世界をことごとく内に包摂する絶対者になって、《主体=実体》となる。だがカントにおいてはそれが不可能であり、物自体への無限な接近が統制的原理として人間に課せられるのみである。

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  2 コメント

  1. 図4の下三行目「四角形 TO・EO・EA・TA は直線 EO・EA となってしまう」の「A」は、「B」だと思うのですが(こちらの勘違いでしたらすみません)。

  2. 修正いたしました。御指摘ありがとうございます。

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