9月 011997
 

カントにとって超越論的主要問題とはアプリオリな総合的判断の基礎付けである。総合的判断において、感性と悟性が総合されるわけだが、その総合は、いかなる超越によって可能なのだろうか。

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まず「総合的判断」について考えよう。この言葉は聊か剰語的である。というのもカントにおいては、総合とは「様々な表象を相互に結合し、その多様性を一つの認識において概念的に把握する行為」 [Kant: Kritik der reinen Vernunft, A.77=B.103] であり、判断とは「我々の諸表象における統一性の機能」 [Kant: Kritik der reinen Vernunft, A.69=B.94] である、つまり判断とはすべて総合であるからである。ただハイデガーに言わせれば、主語と述語の総合としての判断は最も派生的な総合であって [Heidegger: Kant und das Problem der Metaphysik,S.34]、その前に、

1.多様な直観の総合(黄色い金の知覚)

2.直観と概念の総合、「コレハ金ダ」「コレハ黄色ダ」

が先行しており(1と2は同じこと)、しかる後に、

3.「コノ金ハ黄色イ金属デアル」

という判断が成立する。このアポステリオリな総合的判断では、属性「金」と「黄色」は、対応する直観において偶然に結合している。が、この判断はアプリオリな総合的判断「スベテノ金ハ黄色イ金属デアル」と個体の記述「コレハ金ダ」から導出されることによって、その結合は必然的になる。カントがその可能性を問うている総合的判断は、もちろんそのようなアプリオリな判断である。

ではアプリオリな総合的判断において、主語と述語を必然的に総合するのは何か。

もし所与の概念[主語]を他の概念[述語]と総合的に比較するためには、それ[主語]を越え出て行かなければならないことを認めるならば、そこにおいて(worin)のみ二つの概念が総合されうる第三項が必要である。ところでしかしこの全ての総合的判断の媒介としての第三項とは何であろうか。それは …内部感覚であり、それのアプリオリな形式、時間である。

[Kant: Kritik der reinen Vernunft, A.155=B.194]

判断内部における主語と述語の総合(概念と概念の総合)としての Transzendieren は時間である。もちろん感性的な時間的多様がそのまま超越論的意識であるわけではない。後述のシステム論で改めて取り上げるが、厳密に言えば、Transzendieren は時間の流れそのものではなくて、時間の流れを可能ならしめている時間性(Zeitlichkeit)である。

この時間性の概念に定位して超越論的哲学の定式2を書き換えると、次のようになる。

【超越論的哲学の定式3】 超越論的反省のもとで、

  1. 時間性としての超越が
  2. 時間性からの超越を
  3. 時間的多様において超越しつつ、
  4. 時間的多様性から超越する。

図4を用いて この定式3の四つの超越を説明すると、次の図のようになる。

図5 定式3における四つの超越

(1)は超越論的超越であり、有限であるがゆえに、物自体は時間性から超越的に超越している。時間性はそれ自体では無媒介で空虚な純粋統覚であり、また(2)の超越的超越は主体にとっては疎遠な超越であるから、超越的超越を超越論的に超越するべく、(3)が必要となる。(3)は、subjectum を物自体から超越論的客体の水準へ引き降ろし、このXへと感性的多様を結合する。その際、何と何を結合するのか、あるいは同じことだが、何から何へと超越するのか、その組み合わせとして、まずは先ほどのハイデガーの1~3の段階付けに対応して、

1{直観,直観},

2{直観(主語),概念(述語)},

3{概念(主語),概念(述語)},

さらに、

4{判断(根拠),判断(帰結)},

5{主観,客観}

が考えられる。感性的多様を総合して一定の形象へもたらすことは、それを概念的に把握することであるから、1と2は同じ超越の行為である。だがある概念を正しく適用するためにはその概念の《適用基準=定義》を知らなければならないし、その定義が妥当であるためには、それが知のシステムにおいて整合的に位置付けられていなければならないという意味において2は3を、3は4を前提する。そして(3)1から4までの超越(時間的多様における超越)の過程が、(4)同時に5の超越(時間的多様=感性的有限性からの超越)である。

もちろん超越的超越は完全には超越されえないから、図5の(2)の矢印は相変わらず残る。以前、図2で、S→O→M→Sの三角形は、図1の超越論的対象→経験的意識→超越論的意識→超越論的対象に相当すると説明した。図5では、TG→EB→TB→TG に相当する。確かにそう解釈してかまわないであろう。しかし図5では、前カント哲学にはなかった物自体と現象の区別が導入されたのであるから別の解釈が妥当性を持つはずである。つまり前カント哲学の三項図式は、むしろこの図の上部の三角形、∞→TG→TB→∞としてカントの批判哲学に残存している。

超越論的超越のプロセスと構造は、所謂《三段の総合》に即して詳説しなければならないのだが、感性論が主題である本節では、その前に超越の「媒介」たる時間についてもう少し論じなければならない。なぜ空間ではなくて時間が超越の媒介になるのだろうか。カントは次のように説明する。

全ての外的直観の純粋形式としての空間は、アプリオリな制約としてたんに外的現象に制限される。これに対して全ての表象は、外的事物を対象として持っていようといまいと、心の規定性としてそれ自体において内的状態に属しているのだが、この内的状態は内的直観の形式的制約、つまり時間に属するので、時間は全ての現象一般のアプリオリな制約である

[Kant: Kritik der reinen Vernunft, A.34=B.50]

カントは「超越論的感性論」を空間→時間 の順序で論じているが、デカルト以来の観念論の伝統に立って内的意識を外的知識よりも確実と見なす。因みにこの内的と外的というのは空間的な意味でのそれではない。空間が空間的な意味で外的であるというのは明らかにナンセンスなのであって(なぜならばその場合、内的なものもまた空間的であるから)、むしろ意識に対する与えられ方が「間接的」[Kant: Kritik der reinen Vernunft, A.34=B.50] 、二次的であるという意味である。

カントは内的時間意識の流れから出発する。しかし本当に時間は空間よりも根源的なのであろうか。我々は普通「時間の流れ」を川の流れのような空間的アナロゴンから理解しているという意味で、空間のほうが時間よりも我々にとっては根源的・直接的・一次的であり、時間は空間的変化の矛盾を回避するために捻出された派生的な形式であるという考えだってありうる。

カントは、一方で「変化の概念、およびそれと(場所の変化としての)運動の概念は、時間を通して、時間においてのみ可能である」 [Kant: Kritik der reinen Vernunft, B.48] と言いながらも、「すべての時間規定は、(例えば地球上の諸対象から見た太陽運動などの)空間における持続的なものとの関係における外的関係の転変(運動)を通してのみ可能である」 [Kant: Kritik der reinen Vernunft, B.277f] ことを認めている。もちろん内的時間意識には「喜び」「痛み」「不安」のようなそれ自体は空間的でない感覚もあろうが、しかしそのような非空間的感情も、それの原因となっている空間的規定 (私の現存在と環境との関係)なしにはありえないであろう。してみると時間は空間を前提していることにならないだろうか。

こう問う人は空間の概念を広く取り過ぎている。時間の前提となる空間はすでに時間的認識によって媒介された空間なのだ。そのような空間は三次元的であるが [Kant: Kritik der reinen Vernunft, B.154] 、時間の流れに与えられている空間は、ちょうど映画のスクリーンの画像は三次元的に見えるが実は二次元的であるように、二次元的であるのかもしれない。そこで内的時間意識の確実性から出発する超越論的哲学は、二次元平面から三次元空間へと超越しなければならない[f]。

[f]これはフッサールに引き寄せた問題の立て方でなのだが、外界の実在性とその三次元性を等置してよいかどうか。例えば平面的ではなく立体的なケンタウロスを表象したからといって、それが実在しているとは言えまい。もっとも、たんに立体的に空想されたケンタウロスは、所詮は二次元的だと考えられなくもないのだが。この種の議論を避けるためには、可能的/現実的の区別を持ち出すべきであろう。カントは、ある概念が可能的であるために、たんに矛盾律に反していないだけでなく、経験の形式的制約と合致していることまでを要請している [Kant: Kritik der reinen Vernunft, A.218=B.265] が、にもかかわらず可能性が現実性と異なるのは、形式的直観(これは直観形式から区別される)が経験的直観から区別されうるからである。

数学的に言えば、0次元の点の変動軌跡が線で、一次元の線の変動軌跡が面で、二次元の面の変動軌跡が立体で、三次元の立体の変動軌跡が四次元時空体、すなわち歴史的現実である。このように空間は、時間変数を積分することによって構成されるのであるから、時間のほうが空間の基礎であると言える。カントの「観念論論駁」は、実は二次元平面から三次元空間への超越を通して、空間の基体が、時間性としての超越論的統覚であることを示そうとする試みなのである。

私は自分の現存在を時間において規定されたものとして意識する。全ての時間規定は知覚における何らかの持続的なものを前提する。しかしこの持続的なものは私の内部における何かではありえない。なぜなら時間における私の現存在はこの持続的なものによって初めて規定されうるからである。それゆえ、この持続的なものの知覚は、ただ私の外部の事物によってのみ可能なのであって、私の外部の事物のたんなる表象によって可能なのではない。

[Kant: Kritik der reinen Vernunft, B.275]

ゆえに外界は存在するというわけである。

確かに、例えば《氷-水-水蒸気》といった変化が、「転変 Wechsel」でなくて「変化 Veränderung」であるためには、そこに水分子という持続的なものがなければならない [Kant: Kritik der reinen Vernunft, A.187=B.231] 。水分子はさらに水素と酸素に分解されうるが、分子は原子に、さらに素粒子、クォーク、ストリングというように、より持続的な実体/基体に還元されるであろう[s]。かくして我々は、より基本的普遍的な実体・基体を求めることによって世界の総体概念[g]、さらにその相関者としての超越論的統覚に辿り着くのであるが、この《実体=主観》の転倒は、既に述べた通りである。

[s]カントは『自然科学の形而上学的原理』(1786年)の中で実体とは物質だと言っている [Kant: Metaphysische Anfangsgründe der Naturwissenschaft, S.503] が、そうすると「実体の持続性の原則」 [Kant: Kritik der reinen Vernunft, A.182=B.224] は、『純粋理性批判』第一版出版の7年前にラボアジェによって唱えられた質量一定の法則だということになる。因みに、その後原子核反応において質量がエネルギーに転化して減量することが知られて以来、不変量の実体はエネルギーとされているが、いずれにせよ『純粋理性批判』における「実体」は、『自然科学の形而上学的原理』の実体とは異なり、アプリオリなカテゴリーであって、経験科学の知識によって同定できない。私が持ち出した例もたんに理解の便宜上のものである。

[g]もしも世界がある単純な元素(Element)から成り立つなら、このように超ミクロが同時に超マクロとなる。現にヘーゲルにおいては、エレメントはガイストとしての遍在的なエーテルである [Hegel: Phänomenologie des Geistes,S.353] 。

してみると、カントが謂う所の「私の外部の事物 ein Ding außer mir」とは、実体/基体としての超越論的統覚だということになる。経験的統覚の外部は存在するが、その外部をも含む超越論的統覚の外部は存在しない(ただ物自体という超越不可能な限界として与えられるだけである)。我々はもはや「経験的統覚の内部から外部へ」などというミスリーディングな表現は慎むべきである。《内部から外部への超越》という体裁をとる外界の存在証明は、実は《部分的契機から全体性への超越》なのである。「世界を“物自体”と理解するならば、世界“自体”と我々に対して現われるような世界、即ち世界の諸現象との違いは、全体と部分との違い以上のものではないことがたやすく分かる」[Dietzgen, Das Wesen der Menschlichen Kopfarbeit,S.151] 。

ここで我々は超越論的哲学とシステム論の最初の接点を見いだす。もちろん、要素/システムの関係を部分/全体の関係と捉える有機体論的システム論は、河本英夫の言葉を借りて言えば [河本英夫,オートポイエーシス, 1-3] 、第一世代システムであり、初歩的な段階に留まっている。本書の全体を通してより洗練されたシステム論を展開していかなければならないのだが、まずは常識的なところから出発するのが説明の方法というものである。

そもそも定義は規約的で、正しかったり間違ったりする性質のものではない。「システムの定義は、Sではなくてσなのだ」と主張したところで、システムをSで定義している人にとって何の説得力もない。むしろまずSという定義を認めた上で、その定義が、それの内的必然性からσとなることを示さなければならない。

さてシステムとは、常識的には“まとまり”であるが、それはたんなる集合であってはならない。全体の部分となることによってその存在が可能となるような諸要素のまとまりでなければならない。だからシステムとは部分の総計である外延的全体ではなく、部分を部分たらしめている規定性である。そして規定性とは他ではないことという否定性であり、選択性である。そこでシステムとは要素を選択する機能であるということになる。例えば主観とは主語に対する述語を選択する情報システムである。これが「より洗練された」システムの定義で、詳しくは後の著作で改めて説明するが、とりあえず本書での全体部分関係論は、システム論の導入的理論と考えていただきたい。

再びカントに戻ろう。カントは『純粋理性批判』第二版の序言で、「我々の外なる事物の現存在をたんに信念に基づいて想定しなければならないことは、常に哲学と普遍的人間理性のスキャンダル」[S.39] であったとして、自らの超越論的観念論が外界の存在を証明しえたことを誇示している。ハイデガーはこれに対して次のように言う。

《哲学のスキャンダル》は、この証明がこれまでにまだなされていない点にあるのではなく、そのような証明が絶えず期待され、試みられてきたという点にある。そのような期待・意図・要求は、それとは独立に、それの《外部で》《世界》が、事物的(vorhanden)なものとして証明されるはずの当のもの[世界内存在]を存在論的に不十分に評価するところから生じるのである。

[Heidegger: Sein und Zeit,S.205]

このハイデガーの批判に対して、我々は ある程度カントを弁明することができる[h]。カントの超越論的哲学においては、世界から切り離された宙に浮いたフォアハンデンな主観が、現存在の「気遣い Sorge」から切り離された「延長したもの res extensa」としてのフォアハンデンな客観へと《飛び移る》というような構図には必ずしもなってない。主観は《いつも・既に》世界のもとに住んでいる。内部が外部を認識するのではなくて、部分的契機が全体性を理解するのである。

[h]もちろんあくまでも「ある程度」であって、カントとハイデガーは問題関心が根本的に異なるので、完全な和解は不可能である。ハイデガーは、自然科学の基礎付けという当時の新カント派流の『純粋理性批判』の読み方を否定して、その根本的な動機は形而上学の基礎付けであったとして、カントを自分に引き付けている [Heidegger: Kant und das Problem der Metaphysik,S.15f] が、カントは余りにも自然科学に範を仰ぎ過ぎているのであって、『存在と時間』ではカントは専ら批判の対象になっている。

とはいえ、このことは、時間が部分的契機で空間が全体性であるということではない。意識作用が時間的であるなら意識内容も時間的なのであるが、意識内容の《外部》であるはずの意識対象が、実は感性的・時間的な作用、つまり《経験的統覚=内部感覚》[a]と内容である知覚の流れを部分的契機として包括する《全体性》としての超越論的統覚と超越論的客観[n]なのである。

[a]両者が同じであることは「内部感覚または経験的統覚 der innere Sinn oder die empirische Apperzeption 」 [Kant: Kritik der reinen Vernunft, A.107] という表現から明らかである。ところで《内部感覚》は、感覚である以上、「思惟の自発性の能力」 [Kant: Kritik der reinen Vernunft, A.68=B.93] に基づく概念とは違って「印象の受容性の能力」 [Kant: Kritik der reinen Vernunft, A.68=B.93]に基づくのだから、「外界」の存在証明のような高級な認識において部分(内部感覚)が全体(超越論的統覚)を認識するというのはおかしいのではないかと疑問を持つ向きもあろうが、次のように考えてもらうことにしよう。私は世界の存在を疑わないが、その学的根拠を問うや否や、私はその確信が「主観的妥当性しか持たない」 [Kant: Kritik der reinen Vernunft, B.140] 経験的統覚(部分)に収縮するが、学的証明を行うことによって超越論的位相へと上昇し、全体性を回復する。

[n]カントはノエシスとノエマを区別しない傾向にあるのでイコールでつなげ、以下の行文では超越論的統覚で代表させておく。超越論的客観または超越論的対象とは「統覚の統一性の相関項」 [Kant: Kritik der reinen Vernunft, A.250] のことであるが、他方「それについて何も知らず、また一般に(我々の悟性の今の装置からして)知ることのできないX」 [Kant: Kritik der reinen Vernunft, A.250] だとか「現象の原因であり(したがってそれ自体現象でない)」 [Kant: Kritik der reinen Vernunft, A.228=B.344] などという叙述が散見され、さながら物自体のことであるかのようであるが、そもそも現象と物自体を連続的に捉える以上は、超越論的客観を両者の中間に置いても許されると思う。

ハイデガーは次のように言う。

現存在は、その存在においてそのつど既に、後からやってくる証明が現存在のために前もって論証してやることが必要だと思っているまさにそれ[世界内存在]なのだ。

[Heidegger: Sein und Zeit,S.205]

《超越問題》は、どのようにして主観というものが客観というものへと踏み出すかという問題に変えることはできないのであって、そう変えてしまう場合には、客観の全体性は[フォアハンデンな]世界の理念と同一視されているのだ。… 《主観》が、その存在が時間性に根付いている実存する現存在として存在論的に理解されるなら、世界は《主観的》だと言われなければならない。この《主観的》な世界は、しかしながらその時には、時間的-超越的な世界としてどの可能的《客観》よりも《客観的》である[t]。

[Heidegger: Sein und Zeit,S.366]

[t]ハイデガーがここで言う「超越的な transzendent」は、拙著の用語では「超越する transzendierend」に相当する。なお引用文のすぐ後で述べることなのだが、途中省略した箇所でハイデガーは、「脱自的-地平的に基づけられた世界の超越[時間性]へ還帰」することが外界の存在証明の問題に答えを与えると言っている。

ここで次のように考える人がいるかもしれない。もし超越論的統覚が時間を部分的契機として含んでいる全体性であるとするならば、超越論的統覚自体が時間的性格を帯びてくるはずである。だが、超越論的統覚の認識がたんに総合的であるだけでなくアプリオリでもあるのは、それが超時間性(純粋統覚)をももうひとつの部分的契機として含んでいるからなのではないのか。カントは純粋統覚のことを「立ち留まる自我 das stehende und bleibende Ich」 [Kant: Kritik der reinen Vernunft, A.123] と表現しているが、これは時間の流れからの独立性を言っているのではないのか、と。

ハイデガーによれば、しかし、純粋統覚が「stehend und bleibend」であるのは、それが時間を越えているからではなくて、むしろそれが時間そのものだからである [Heidegger: Kant und das Problem der Metaphysik,S.174f] とのことである。もっとも、これは精確な表現ではない。純粋統覚は時間(Zeit)そのものではなくて、時間性(Zeitlichkeit)である。システム論的には、時間とはエントロピーの増大であり、《時間性=主観性》は、それによって可能となり、またそれを可能ならしめるネゲントロピーであるから、両者は区別する必要がある。

カントは、引用した箇所の後で、「すべての意識は、すべてに係わる一つの純粋統覚に属するが、それはちょうど全ての表象としての感性的直観が一つの純粋な内的直観、つまり時間に属するようなものである」 [Kant: Kritik der reinen Vernunft, A.123f.] と付け加えるが、この「ちょうど … のように … ;ebensowohl …wie …」という言い回しは、イデンティシュな合致をではなくて、純粋統覚(時間性)と時間とのパラレールな対応を表現している。純粋統覚とは「全ての可能的表象のもとにおける自己自身の全般的同一性」 [Kant: Kritik der reinen Vernunft, A.116] のことで、時間性は、時間内容・時間的多様とは異なって、その均質的連続性からして同一性を持つ。

デカルトは既に『哲学の原理』[Descartes: Principia philosophiae, p.27] において、時速は各物体でまちまちであるが、時間は一様に流れることから、時間ないし持続を思惟の一様態としている。デカルトは、他方次のような所謂《連続創造説 la doctrine de la création continuée》を唱えている。

私の一生涯の全時間は、無数の部分に分かたれることができ、そしてそのいずれの部分も他の部分に全く依存しないがゆえに、私が少し前に存在したということから私が今存在しなくてはならないということは[…]帰結しない。

[Descartes: Principia philosophiae, p.48f.]

だがもし時間が私の内部の観念であり、そして私の存在が瞬間的なものであるとするならば、全ての時間系列はそのごく一部分である瞬間の中にあるということになる。こういう不合理に陥らないために、カントは自我を経験的と超越論的とに二分したわけである。なお絶対時間の考えは相対性理論によって否定されたが、このことは現代哲学が近代哲学とは違って、モノローギッシュではなくて、ディアローギッシュであることと関係がある。つまり現代の哲学は、自我という唯一の観測システムから世界を記述しないのである。

超越論的感性論は結局のところ超越論的時間論である。我々は次に超越論的分析論へ移行するが、超越論的統覚が時間の流れを可能にする制約である以上、そこで問われるのは、「時間はいかにして流れるか」であり、最後の超越論的弁証論においても「無制約的な時間はいかにして可能なのか」が問われるのだから、カントの超越論的哲学は超越論的時間論であると言ってもよいかもしれない。しかしカント哲学を時間論的に解釈することは、小著の目標ではない。時間論はさらに目的論・歴史哲学の前座として理解されなければならない。

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