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カントの超越論的哲学(03)超越論的感性論

1997年9月1日

カントにとって超越論的主要問題とはアプリオリな総合的判断の基礎付けである。総合的判断における感性と悟性の総合は、いかなる超越によって可能なのだろうか。まず「総合的判断」について考えよう。

『カントの超越論的哲学』の画像
このページは電子書籍『カントの超越論的哲学』の一部です。

1. アプリオリな総合判断はいかにして可能か

「総合的判断」という言葉は聊か剰語的である。というのもカントにおいては、総合とは「様々な表象を相互に結合し、その多様性を一つの認識において概念的に把握する行為[1]」であり、判断とは「私たちの諸表象における統一性の機能[2]」である、つまり判断とはすべて総合であるからである。ただハイデガーに言わせれば、主語と述語の総合としての判断は最も派生的な総合である[3]。すなわち、以下の三つの総合において、1と2が先行しており (1と2は同じこと)、しかる後に、3の総合が成立する。

  1. 多様な直観の総合:黄色い金の知覚
  2. 直観と概念の総合:「コレハ金ダ」「コレハ黄色イ金属デアル」
  3. 主語と述語の総合:「コノ金ハ黄色イ金属デアル」

このアポステリオリな総合的判断では、属性「金」と「黄色」は、対応する直観において偶然に結合している。が、この判断はアプリオリな総合的判断「スベテノ金ハ黄色イ金属デアル」と個体の記述「コレハ金ダ」から導出されることによって、その結合は必然的になる。カントがその可能性を問うている総合的判断は、もちろんそのようなアプリオリな判断である。

ではアプリオリな総合的判断において、主語と述語を必然的に総合するのは何か。

もし所与の概念[主語]を他の概念[述語]と総合的に比較するためには、それ[主語]を越え出て行かなければならないことを認めるならば、そこにおいて(worin)のみ二つの概念が総合されうる第三項が必要である。ところでしかしこの全ての総合的判断の媒介としての第三項とは何であろうか。それは[…]内部感覚であり、それのアプリオリな形式、時間である。[4]

この引用からわかるように、判断内部における主語と述語の総合(概念と概念の総合)としての Transzendieren は時間である。もちろん、感性的な時間的多様がそのまま超越論的意識であるわけではない。厳密に言えば、Transzendieren は時間の流れそのものではなくて、時間の流れを可能ならしめている時間性(Zeitlichkeit)である。

2. 時間性と超越論的哲学

この時間性の概念に定位して超越論的哲学の定式2を書き換えると、次のようになる。

【超越論的哲学の定式3】 超越論的反省のもとで、

(1) 時間性としての超越が

(2) 時間性からの超越を

(3) 時間的多様において超越しつつ、

(4) 時間的多様性から超越する。

超越論的自己意識の歴史」の図を用いて この定式3の四つの超越を説明すると、以下のようになる。

画像
定式3における四つの超越

紫色の矢印で示された (1) は超越論的超越であり、有限であるがゆえに、物自体は時間性から超越的に超越している。時間性はそれ自体では無媒介で空虚な純粋統覚であり、また緑色の矢印で示された (2) の超越的超越は主体にとっては疎遠な超越であるから、超越的超越を超越論的に超越するべく、(3) が必要となる。青色の矢印で示された (3) は、subjectum を物自体から超越論的客体の水準へ引き降ろし、このXへと感性的多様を結合する。その際、何と何を結合するのか、あるいは同じことだが、何から何へと超越するのか、その組み合わせとして、まずは先ほどのハイデガーの1~3の段階付けに対応して、

1{直観,直観},

2{直観(主語),概念(述語)},

3{概念(主語),概念(述語)},

さらに、

4{判断(根拠),判断(帰結)},

5{主観,客観}

が考えられる。感性的多様を総合して一定の形象へもたらすことは、それを概念的に把握することであるから、1と2は同じ超越の行為である。だがある概念を正しく適用するためにはその概念の《適用基準=定義》を知らなければならないし、その定義が妥当であるためには、それが知のシステムにおいて整合的に位置付けられていなければならないという意味において2は3を、3は4を前提する。そして (3)1から4までの超越(時間的多様における超越)の過程が、同時に5の超越(時間的多様=感性的有限性からの超越)である。赤色の矢印で示された (4) がこの超越である。

もちろん超越的超越は完全には超越されえないから、「定式3における四つの超越」の (2) の矢印は相変わらず残る。以前、「前カント哲学の三項図式」で、S→O→M→Sの三角形は、「カントの超越論的哲学の四角形 」の超越論的対象→経験的意識→超越論的意識→超越論的対象に相当すると説明した。「定式3における四つの超越」では、TG→EB→TB→TG に相当する。確かにそう解釈してかまわないであろう。しかしそこでは、前カント哲学にはなかった物自体と現象の区別が導入されたのであるから、別の解釈が妥当性を持つはずである。つまり前カント哲学の三項図式は、むしろこの図の上部の三角形、∞→TG→TB→∞ としてカントの批判哲学に残存している。

3. 時間はなぜ空間よりも根源的なのか

超越論的超越のプロセスと構造は、所謂《三段の総合》に即して詳説しなければならないのだが、感性論が主題である本節では、その前に超越の「媒介」たる時間についてもう少し論じなければならない。なぜ空間ではなくて時間が超越の媒介になるのだろうか。カントは次のように説明する。

全ての外的直観の純粋形式としての空間は、アプリオリな制約としてたんに外的現象に制限される。これに対して全ての表象は、外的事物を対象として持っていようといまいと、心の規定性としてそれ自体において内的状態に属しているのだが、この内的状態は内的直観の形式的制約、つまり時間に属するので、時間は全ての現象一般のアプリオリな制約である[5]

カントは「超越論的感性論」を、空間→時間の順序で論じているが、デカルト以来の観念論の伝統に立って内的意識を外的知識よりも確実と見なす。この内的と外的というのは空間的な意味でのそれではない。もしも空間が空間的な意味で外的なら、内的なものもまた空間的であるから、明らかにナンセンスである。むしろ意識に対する与えられ方が「間接的[6]」、二次的であるという意味である。

カントは内的時間意識の流れから出発する。しかし本当に時間は空間よりも根源的なのであろうか。私たちは普通「時間の流れ」を川の流れのような空間的アナロゴン(類同的代理物)から理解しているという意味で、空間のほうが時間よりも私たちにとっては根源的・直接的・一次的であり、時間は空間的変化の矛盾を回避するために捻出された派生的な形式であるという考えだってありうる。

カントは、一方で「変化の概念、およびそれと(場所の変化としての)運動の概念は、時間を通して、時間においてのみ可能である[7]」と言いながらも、「すべての時間規定は、(例えば地球上の諸対象から見た太陽運動などの)空間における持続的なものとの関係における外的関係の転変(運動)を通してのみ可能である[8]」ことを認めている。もちろん内的時間意識には「喜び」「痛み」「不安」のようなそれ自体は空間的でない感覚もあろうが、しかしそのような非空間的感情も、それの原因となっている空間的規定(私の現存在と環境との関係)なしにはありえないであろう。それなら、時間は空間を前提していることにならないだろうか。

こう問う人は空間の概念を広く取り過ぎている。時間の前提となる空間はすでに時間的認識によって媒介された空間なのだ。そのような空間は三次元的であるが[9]、時間の流れに与えられている空間は、ちょうど映画のスクリーンの画像は三次元的に見えるが実は二次元的であるように、二次元的であるのかもしれない。そこで内的時間意識の確実性から出発する超越論的哲学は、二次元平面から三次元空間へと超越しなければならない。

数学的に言えば、0次元の点の変動軌跡が線で、一次元の線の変動軌跡が面で、二次元の面の変動軌跡が立体で、三次元の立体の変動軌跡が四次元時空体、すなわち歴史的現実である。このように空間は、時間変数を積分することによって構成されるのであるから、時間のほうが空間の基礎であると言えなくもない。カントの「観念論論駁」は、実は二次元平面から三次元空間への超越を通して、空間の基体が、時間性としての超越論的統覚であることを示そうとする試みなのである。

私は自分の現存在を時間において規定されたものとして意識する。全ての時間規定は知覚における何らかの持続的なものを前提する。しかしこの持続的なものは私の内部における何かではありえない。なぜなら時間における私の現存在はこの持続的なものによって初めて規定されうるからである。それゆえ、この持続的なものの知覚は、ただ私の外部の事物によってのみ可能なのであって、私の外部の事物のたんなる表象によって可能なのではない。[10]

ゆえに外界は存在するというわけである。

たしかに、例えば《氷-水-水蒸気》といった変化が、「転変 Wechsel」でなくて「変化 Veränderung」であるためには、そこに水分子という持続的なものがなければならない[11]。水分子はさらに水素と酸素に分解されうるが、分子は原子に、さらに素粒子、クォーク、ストリングというように、より持続的な実体/基体に還元される。カントは『自然科学の形而上学的原理』(1786年)の中で実体とは物質だと言っている[12]が、そうすると「実体の持続性の原則[13]」は、『純粋理性批判』第一版出版の7年前にラヴォアジエによって唱えられた質量一定の法則だということになる。因みに、その後原子核反応において質量がエネルギーに転化して減量することが知られて以来、不変量の実体はエネルギーとされているが、いずれにせよ『純粋理性批判』における「実体」は、『自然科学の形而上学的原理』の実体とは異なり、アプリオリなカテゴリーであって、経験科学の知識によって同定できない。かくして私たちは、より基本的普遍的な実体・基体を求めることによって世界の総体概念、さらにその相関者としての超越論的統覚に辿り着くのであるが、この《実体=主観》の転倒は、既に述べた通りである。

してみると、カントが謂う所の「私の外部の事物 ein Ding außer mir」とは、実体/基体としての超越論的統覚だということになる。私、すなわち経験的統覚の外部は存在するが、その外部をも含む超越論的統覚の外部は、ただ物自体という超越不可能な限界として与えられるだけである。私たちはもはや「経験的統覚の内部から外部へ」などというミスリーディングな表現は慎むべきである。《内部から外部への超越》という体裁をとる外界の存在証明は、実は《部分的契機から全体性への超越》なのである。「世界を“物自体”と理解するならば、世界“自体”と私たちに対して現われるような世界、即ち世界の諸現象との違いは、全体と部分との違い以上のものではないことがたやすく分かる[14]」。

カントは『純粋理性批判』第二版の序言で、「私たちの外なる事物の現存在をたんに信念に基づいて想定しなければならないことは、常に哲学と普遍的人間理性のスキャンダル[15]」であったとして、自らの超越論的観念論が外界の存在を証明しえたことを誇示している。ハイデガーはこれに対して次のように言う。

《哲学のスキャンダル》は、この証明がこれまでにまだなされていない点にあるのではなく、そのような証明が絶えず期待され、試みられてきたという点にある。そのような期待・意図・要求は、それとは独立に、それの《外部で》《世界》が、事物的(vorhanden)なものとして証明されるはずの当のもの[世界内存在]を存在論的に不十分に評価するところから生じるのである。[16]

このハイデガーの批判に対して、私たちは ある程度カントを弁明することができる。カントの超越論的哲学においては、世界から切り離された宙に浮いたフォアハンデンな主観が、現存在の「気遣い Sorge」から切り離された「延長したもの res extensa」としてのフォアハンデンな客観へと《飛び移る》というような構図には必ずしもなってない。主観は《いつも・既に》世界のもとに住んでいる。内部が外部を認識するのではなくて、部分的契機が全体性を理解するのである。

とはいえ、このことは、時間が部分的契機で空間が全体性であるということではない。意識作用が時間的であるなら意識内容も時間的である。経験的な作用と内容を部分として包摂する全体性に相当するのは、超越論的統覚と超越論的客観である。ハイデガーも「現存在は、その存在においてそのつど既に、後からやってくる証明が現存在のために前もって論証してやることが必要だと思っているまさにそれ[世界内存在]なのだ[17]」と言っている。

《超越問題》は、どのようにして主観というものが客観というものへと踏み出すかという問題に変えることはできないのであって、そう変えてしまう場合には、客観の全体性は[フォアハンデンな]世界の理念と同一視されているのだ。… 《主観》が、その存在が時間性に根付いている実存する現存在として存在論的に理解されるなら、世界は《主観的》だと言われなければならない。この《主観的》な世界は、しかしながらその時には、時間的-超越的な世界としてどの可能的《客観》よりも《客観的》である。[18]

ここで次のように考える人がいるかもしれない。もし超越論的統覚が時間を部分的契機として含んでいる全体性であるとするならば、超越論的統覚自体が時間的性格を帯びてくるはずである。だが、超越論的統覚の認識がたんに総合的であるだけでなくアプリオリでもあるのは、それが超時間性(純粋統覚)をももうひとつの部分的契機として含んでいるからなのではないのか。カントは純粋統覚のことを「立ち留まる自我 das stehende und bleibende Ich[19]」と表現しているが、これは時間の流れからの独立性を言っているのではないのか、と。ハイデガーによれば、しかし、純粋統覚が“立ち止まっている stehend und bleibend”であるのは、それが時間を越えているからではなくて、むしろそれが時間そのものだからである[20]。もっとも、これは精確な表現ではない。純粋統覚は、時間(Zeit)そのものではなくて、時間性(Zeitlichkeit)とみなされるべきである。

システム論的には、時間とはエントロピーの増大であり、純粋統覚は、そのエントロピーの増大に抵抗する意識システムの働きである。再び「時間の流れ」を川の流れに喩えるなら、川の流れそれ自体も、川に一方的に流されるだけの存在者も、流れから超然として川の上を飛んでいる存在者も川の流れを感じることはできない。川の流れを感じることができるのは、川の中で流されそうになりながら、それこそ“stehend und bleibend”にその流れに抵抗して立っている者である。私たちの意識システムは、エントロピーの増大に無抵抗な存在でもなければ、時間の流れ(エントロピーの増大)そのものあるいはエントロピーの増大に対して超然としていられる存在者でもない。時間的存在でありながら、刹那的な現在を超越し、過去を記録し、未来を予測する普遍性を求めるがゆえに、意識システムには時間認識が可能になる。

超越論的感性論は結局のところ超越論的時間論である。本書は次に超越論的分析論へ移行するが、超越論的統覚が時間の流れを可能にする制約である以上、そこで問われるのは、「時間はいかにして流れるか」であり、最後の超越論的弁証論においても「無制約的な時間はいかにして可能なのか」が問われるのだから、カントの超越論的哲学は超越論的時間論であると言ってもよいかもしれない。しかしカント哲学を時間論的に解釈することは、小著の目標ではない。時間論はさらに目的論・歴史哲学の前座として理解されなければならない。

4. 参照情報

  1. Kant, Immanuel. Kritik der reinen Vernunft. Felix Meiner Verlag. 1967. A.77=B.103.
  2. Kant, Immanuel. Kritik der reinen Vernunft. Felix Meiner Verlag. 1967. A.69=B.94.
  3. Heidegger, Martin. Kant und das Problem der Metaphysik. 1927. Martin Heidegger Gesamtausgabe Bd. 3. Vittorio Klostermann. p. 34.
  4. Kant, Immanuel. Kritik der reinen Vernunft. Felix Meiner Verlag. 1967. A.155=B.194.
  5. Kant, Immanuel. Kritik der reinen Vernunft. Felix Meiner Verlag. 1967. A.34=B.50.
  6. Kant, Immanuel. Kritik der reinen Vernunft. Felix Meiner Verlag. 1967. A.34=B.50.
  7. Kant, Immanuel. Kritik der reinen Vernunft. Felix Meiner Verlag. 1967. B.48.
  8. Kant, Immanuel. Kritik der reinen Vernunft. Felix Meiner Verlag. 1967. B.277f.
  9. Kant, Immanuel. Kritik der reinen Vernunft. Felix Meiner Verlag. 1967. B.154.
  10. Kant, Immanuel. Kritik der reinen Vernunft. Felix Meiner Verlag. 1967. B.275.
  11. Kant, Immanuel. Kritik der reinen Vernunft. Felix Meiner Verlag. 1967. A.187=B.231.
  12. Kant, Immanuel. Metaphysische Anfangsgründe der Naturwissenschaft. 1786. Kant’s gesammelte Schriften (hrsg. von der königlich preussischen Akademie der Wissenschaften, Berlin) Abteilung 1, Band 4. p. 503.
  13. Kant, Immanuel. Kritik der reinen Vernunft. Felix Meiner Verlag. 1967. A.182=B.224.
  14. Dietzgen:Das Wesen der Menschlichen Kopfarbeit. p. 151.
  15. Kant, Immanuel. Kritik der reinen Vernunft. Felix Meiner Verlag. 1967. B.39.
  16. Heidegger, Martin. Sein und Zeit. 1927. Max Niemeyer Verlag. p. 205.
  17. Heidegger, Martin. Sein und Zeit. 1927. Max Niemeyer Verlag. p. 205.
  18. Heidegger, Martin. Sein und Zeit. 1927. Max Niemeyer Verlag. p. 366.
  19. Kant, Immanuel. Kritik der reinen Vernunft. Felix Meiner Verlag. 1967. A.123.
  20. Heidegger, Martin. Kant und das Problem der Metaphysik. 1927. Martin Heidegger Gesamtausgabe Bd. 3. Vittorio Klostermann. p. 174f.