9月 011997
 

私たちは、感性的多様から出発して、時間性そのものである純粋統覚へと到達した。純粋統覚は、どのように感性的多様を総合し、超越論的統覚となることができるのだろうか。

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純粋統覚とは同一律の能力であるが、同一律は等根源的に矛盾律でもある。カントがアリストテレスを批判して言うように、矛盾律に「同時に zugleich」という条件は不必要である [Kant: Kritik der reinen Vernunft, A.152=B.192f.] 。

ハイデガーによれば「カントは …“矛盾律”の時間的性格を否認しようとした。というのも、根源的に時間[性]そのものであるものを、そこから派生してきた産物の助けを借りて本質的に規定しようとすることは理に悖ることだからである」[Heidegger: Kant und das Problem der Metaphysik,S.177] 。だが時間が矛盾を否定するというのはどういうことなのか。

「SはPでありかつ¬Pである」は、内的時間意識の流れの中で言明されので、“S als P”という述定と“S als ¬P”という述定の間には時間的な差異があるがゆえに言明自体は矛盾せず、したがって言明された事態が矛盾であることを明示するためには、やはり「同時に」という条件を挿入したくなる。しかしそうすれば、矛盾律はたんにレアールな、かつきわめてトリヴィアルな個物Sについての記述になってしまう。もし矛盾律が認識に役立つべきであるとするならば、それはむしろイデアールな、普遍的で時間的多様を越えた概念としてのPの述定を規制すべきである。

但し、「時間的多様を越えている」⇔「普遍的」という等式が成り立つわけではない。“個物「ソクラテス」が生まれてから死ぬまで様々に変貌しながらも同一性を保っているから、この固有名詞が普遍的な普通名詞と同じだ”と言う人は、フッサールも主張するように、固有名詞の外延的普遍性と普通名詞のシュペチエス的普遍性を混同しているのである [Husserl: Logische Untersuchungen 2, 1,S.162] 。普遍性は実在的な個物の時間内持続ではなく、複数の個物に妥当する理念的存在者の性質と定義するのが穏当である。

もしも、今ある無学な人間は、今のところ無学である[ein Mensch,der ungelehrt ist,ist nicht gelehrt]と言えば、“同時に”という条件がなければならない。というのも、ある時無学 [ungelehrt] な人 が他のときには極めてよく有識 [gelehrt] でありうるからである。だがもし、無学な人間には学がない[kein ungelehrter Mensch ist gelehrt]というならば、この文は分析的であり、[…]“同時に”という条件をつけ加える必要なく、矛盾律から直接明白である。

[Kant: Kritik der reinen Vernunft, A.153=B.192]

ある経験的な人間が同時に gelehrt かつ ungelehrt でないことは、

¬(gelehrt∧¬gelehrt)

という普遍的な論理法則からの帰結に過ぎない。

矛盾律は、例えば「ヒマワリは黄色い」と言明すれば、“同時に”そのヒマワリに対して、ということは当然として、“常に”いかなるヒマワリに対しても 「黄色い」と述定することを理性的(悟性的)存在者に命令する。“S als P”と述定する超越論的統覚の時点t1と“S als ¬P”と述定する超越論的統覚の時点t2は、同じではないが、時間の均質性・同一性は異なる時点の相互置換を可能にする。かくして S(t1)=S(t2) から P∧¬P が導出される。

矛盾律と同一律は「全ての分析判断の最高原則」 [Kant: Kritik der reinen Vernunft, A.150=B.189] であるが、「全ての真理のたんに消極的な基準」 [Kant: Kritik der reinen Vernunft, A.151=B.190] に過ぎないので、分析性の能力としての純粋統覚は、時間的多様において超越しなければならない。純粋統覚の、したがってまた超越論的統覚が超越する振舞の形式がカテゴリーである、と我々は解釈する。

カントは「カテゴリーの現象への適用[使用]die Anwendung der Kategorie auf Erscheinung」 [Kant: Kritik der reinen Vernunft, A.137=B.176] というような言い回しをするが、超越論的統覚がカテゴリーなる形式ないし規則「を」さながら道具のように「使用して」現象に「当てはめる」などという理解は斥けなければならない。カントは、カテゴリーを「悟性の主観的形式」 [Kant: Kritik der reinen Vernunft, A.287=B.343] 、「Gedankenformen」 [Kant: Kritik der reinen Vernunft, B.288] などの語で換言しているが、ここからも明らかなように、カテゴリーは、超越論的統覚にとってノエシスに対するノエマではなくてノエシスの形式なのである。

アリストテレスは述語、すなわち“下に置かれたもの(ヒュポケイメノン)について(カタ)語ること(アゴレウエイン)”をカテーゴリアと名付けた。カントもまた、主語-述語を持つ判断から述語(Kategorie)を導出しようとする。カテゴリーのドイツ語訳は 「純粋悟性概念 der reine Verstandesbegriff」であるが、これは「純粋概念」のような《判断によって総合される概念》ではなくて、《判断において総合する概念》である。

もし任意の経験的述語を類-種の階層にしたがって抽象していった結果の最高類概念[g]がカテゴリーであるとするならば、経験的概念とカテゴリーとの相違は相対的なものとなってしまう。アリストテレス自身は導出プロセスを省略してカテゴリーを列挙しているが、おそらく彼はこのようなやりかたで、カントが批判するように「なんらの原理をも持つことなく」「行き当りばったりに掻き集めた」 [Kant: Kritik der reinen Vernunft, A.81=B.107] のであろう。

[g]最高類概念とは、他の概念の種とならない最上位の類であるが、問題はそのようなものがただ一つあるかどうかである。この問題 は究極目的が一つかどうかという問題とも係わってくる。因みに最高類概念とは概念「類」であるなどとは言えない。最高類は全てを包摂しなければならないのだが、概念「類」は概念「個物」を包摂しないからである。命題「ソクラテスは人間である」は真であるので、個物「ソクラテス」は類ないし種「人間」に包摂される。しかし命題「個物は類である」は偽である。 ポルピュルオスの樹では、最高類は実体であるが、定義からして実体ではない偶有性をも包摂するのであろうか。ヘーゲルのように《主体=実体》のテーゼを掲げるならば、全てはことごとく主体(精神)の下へと包摂されるので、実体が唯一最高の類概念ということになるであろう。もっともここにノエマとノエシスを混同する《他の類への移行》が認められるが。だがカントにおいては、超越論的統覚は実体=物自体ではないので、唯一最高の類概 念やそれの意識相関項を考える必要はない。フッサールも最高類概念の複数性を認めている[Husserl: Ideen 1, S.30f.] 。但し実践哲学においては主体=物自体であるので、唯一最高の究極目的が存在しうる。

カントは次のように言っている。

形而上学とは人間的認識の第一原理についての学問であると言ったところで、ひとはそれによって全く特別の認識の種類に気が付いたわけではなく、ただ普遍性に関する序列を認めたに過ぎず、したがってそれによって普遍性が経験的なものから判然と区別されうるわけではない。というのも、経験的原理のもとでも、あるものは他のものよりより普遍的で、それゆえ、より高次であり、そのような従属関係の系列において(完全にアプリオリに認識されるものをただアポステリオリに認識されるものから区別しないのだか)、第一の部分・最上位の諸項と最後の部分・従属的な諸項とを分ける切断線をどこに設けたらいいのか? … と人は問うことになるであろう。同様に私は問う。延長しているものの概念は形而上学に属するか?-諸君は然り!と答える。おやおや、それでは物体という概念もか。然り!では液体の概念は。 諸君は当惑する。というのも、この調子で行くなら、全てが形而上学に属することになるだろうからである。

[Kant: Kritik der reinen Vernunft, A.843f=B.871f]

ノエシス/ノエマの区別はともかくとしても、カントはこのように、アプリオリ/アポステリオリを明確に区別するわけであるが、カテゴリー導出の恣意性という点では実はアリストテレスに優るとも劣らない。カントが手掛りとした判断表は、記号化して表現すれば、表2のようになる。

カントの『純粋理性批判』における判断表
カテゴリー判断記号化された判断
全称判断(∀x)Px
特称判断(∃x)Px
単称判断(∃x)(Px∧(∀y)(Py⇒x=y))
肯定判断Px
否定判断¬(Px)
無限判断(¬P)x [“¬P”を一つの述語記号とする]
関係定言判断Px
仮言判断Px⇒Qx
選言判断Px∨Qx
様相蓋然判断◇Px
実然判断Px
必然判断□Px

カントは「どこにおいても三番目のカテゴリーはそのクラスの二番目と一番目のカテゴリーとの結合から生じる」[Kant: Kritik der reinen Vernunft, B.110] と注釈するが、もし「結合」が連言を意味するならば、記号論理学的には、そうはなっていない。なぜなら、

  1. (∀x)Px∧(∃x)Px は(∀x)Px であり、
  2. Px∧¬(Px)は矛盾であり、
  3. Px∧(Px⇒Qx)は Qx であり、
  4. ◇Px∧Px はたんにPxであり、

決して第三の判断にはならないからである。

また「魂は可死的ではない」という否定判断と「魂は不可死である」という無限判断も、真理値的には同値で、通常の記号論理学では区別が表現できない。関係のカテゴリーでは、定言判断・仮言判断・選言判断という伝統的論理学の三区分が使われているが、条件法・選言・連言などの結合肢は、そのうちどれか一つと否定があれば他の結合肢をすべて定義できる、いやそれどころか、シェファーの棒記号を使えば結合肢は一つで済む[s]のだから、仮言判断と選言判断には本質的な区別はない(Px⇒Qx は ¬Px∨Qx と等値である)。カントは判断表/カテゴリー表の区分を『純粋理性批判』の論述のいたるところに使用している。

彼はこの[4-3構成の]枠組を彼の理解する形式論理学から自由に改作して、彼の議論の題材の全域にわたって断固として押し付けるのである。繰り返し、繰り返し同じパターンの分割・区分および結合が『批判』のいろいろな部門で再生されている。この強いられた体系の人工的で精巧なシンメトリーは、もし哲学においてバロック様式というタイトルに値するものがあるとすれば、このタイトルにふさわしい性格をもっている。しかしそれは我々に労をとる必要のない難題を負わせ、また主題とは関係のない喜びを与えるのであるが、結局無視して心配のない特徴なのである。

[Strawson: The Bounds of Sense,1, 1]

我々としては、カントのバロック建築をいったん取り壊したうえで、より現代的な再構成をする必要がある。

[s]“p|q”を「pとqがともに真というわけではない」つまり「少なくともどちらかは偽である」と定義すると、

 ¬p ←→ p|p

p∨q ←→ (p|p)|(q|q)

p∧q ←→ (p|q)|(p|q)

p→q ←→ ((p|p)|(p|p)) |(q|q)

とういように命題結合子を一つにして書き替え可能である。ウィゲンシュタインが、真理関数の一般的形式を定項と変項と否定の三つで表現しようとした [Wittgenstein: Tractatus, 6](これは数学的帰納法による命題の証明形式である)のも、シェファーの棒記号を意識してのことである。

第二版でカントは、量と質を数学的カテゴリーへ、関係と様相を力学的カテゴリーへと二つの部門(Abteilung)に分けているが、記号論理学的には質と関係、量と様相が相互に密接な関係をもっていると思われる。そこで次のようにカテゴリーを導出することにしよう。

  1. 質のカテゴリーにおいては要素命題の成立/不成立が知覚され、
  2. 関係のカテゴリーにおいてはそれらが結合子によって複合され、
  3. 量と様相のカテゴリーで量化子と様相子が導入される。

量化と様相は同じでないのだが、カントは普遍性と必然性を相互変換可能と見なしている[Kant: Kritik der reinen Vernunft, B.4] ので、ここでは差し当り一括しておく。この三つの操作過程は、

  1. 直観における把捉の総合、
  2. 構想における再生産の総合[r]
  3. 概念における再確認の総合

という三段の総合に対応するものと思われる。

[r]「再生産の総合」は「再生産的構想力」によって成されるが、この構想力が経験的であるのに対して、「生産的構想力」は超越論的である [Kant: Kritik der reinen Vernunft, A.118] 。だがカント自身は「生産の総合」という言い方をしていないので前者で代用させてもらう。

だが演繹に入る前に、図式 [s]についてコメントしたい。

さて、一方においてカテゴリーと他方において現象と同種でなければならず、カテゴリーの現象への適用を可能ならしめる第三者が存在しなければならないことは明白である。この媒介する表象は、経験的なものをいっさい含まず、純粋で、それでいて一方で知性的で他方において感性的でなければならない。そのような表象が超越論的図式なのである。

[Kant: Kritik der reinen Vernunft, A.138 =B.177]

それはちょうど「経験的概念、皿が、そこにおいて思惟された丸さが純粋幾何学概念円において直観されることによって、それと同種性を持つ」[Kant: Kritik der reinen Vernunft, A.237=B.176] のと同じである。

[s]カントの図式(Schema)は、語源的にはアリストテレスの「述語の形態(スケーマ・トーン・カテーゴリア)」の「形態(スケーマ)」から来ているものと思われる。但しアリストテレスの“スケーマ”は十種類あるカテゴリーの各々をいうのであって、カント的なカテゴリーと直観の媒介としての図式ではない。

こういうカントの説明をうさんくさく思うひともいるであろう。もしも、AとBが異種(ungleichartig)である時、AをBへ包摂するためには、一方においてはAと他方においてはBと同種(gleichartig)な媒介的第三者Mがなければならないとするならば、AとMは、完全には同種ではないので(さもなくば、仮定からして、MはBと異種になってしまう)、AをBへ包摂するためには、さらに一方においてはAと他方においてはMと同種な媒介的第三者Maがなければならないが、このMaもAと完全には同種ではないので云々、と無限後退に陥るからである。

しかしこのような背理が生じるのは、媒介的第三者を媒介される諸部分から切り離して考えるからであって、現象がカテゴリーへと包摂された《全体》が図式であるとすれば、問題は生じない。「図式はそれ自体においてはいつも構想力の産物である」 [Kant: Kritik der reinen Vernunft, A.140=B.179] が、「人間的認識の二つの幹すなわち感性と悟性」 [Kant: Kritik der reinen Vernunft, A.15=B.29] が構想力という「共通の、我々には知られざる根から生じる」[ibid] と見なす周知のハイデガーのカント解釈 [Heidegger: Kant und das Problem der Metaphysik, S.130] はここからも理解されえよう。《規定されたもの das Bestimmtes》としての現象(時間的多様)を《規定するもの das Bestimmende》としての純粋統覚(時間そのもの)へと包摂することが、《超越論的時間規定=図式》である。

以下、この包摂のプロセスである三段の総合をフォローして行こう。

1.直観における把捉の総合

「我々の表象は、どこから生じようとして生じるにせよ、外的事物の影響によってまたは内的原因によって引き起こされようとも、アプリオリにまたは現象として経験的に成立したのであれ、我々の表象は心の変容として内部感官に属し、そして最終的にはそれ自体において我々のすべての認識は、内部感官の形式的制約、即ち時間に従属する」 [Kant: Kritik der reinen Vernunft, A.99] [a]。時間の流れにおける「各表象は、ある瞬間に含まれたものとして絶対的単一体以外ではあり得ない」 [Kant: Kritik der reinen Vernunft, A.100] ので、それを取りまとめることが必要であるが、かかる行為が把捉の総合である。

[a]アプリオリな認識までが時間形式に服している点に注意。ここからも純粋統覚が時間そのものに他ならないことが読み取られよう。

この総合において、質のカテゴリーが直観に適用された結果生じるアプリオリな総合判断(原則)である「知覚の予料」が成り立つ[p]。「すべての現象において、実在的なもの、つまり感覚の対象となるものは内包量、すなわち度を持つ」 [Kant: Kritik der reinen Vernunft, B.207] 。

[p]個別的な知覚でさえカテゴリー負荷的であると考えられる。カントは 『プロレゴーメナ』では「いかなる純粋悟性概念をも要せず、ただ思惟する主観における知覚の論理的結合を必要とする」「たんに主観的に妥当な」知覚判断と「悟性において根源的に産出された特別な概念[カテゴリー]を要する」「客観的な妥当性を持つ」経験判断とを区別している [Kant: Prolegomena zur einer jeden künftigen Metaphysik, S.298] が、プラウスが主張するように [Gerold, Erscheinung bei Kant,SS.163ff] 知覚判断で適用されないのは関係のカテゴリーだけであろう。カントは質のカテゴリー(原則)の適用よりも量のカテゴリー(原則)の適用を先にしているのだが、直観(時間/空間)の普遍的均質性と概念(名辞/判断)のイデア的普遍性とを混同しているように思われる。とはいえ両者は純粋統覚の均質的自己同一性を共通の地盤として持っている。この点は超越論的演繹の最後で触れる。

質のカテゴリー自体はたんに要素命題[e]の成立/不成立の形式に係わるだけだが、それが時間内容に適用されることによって要素命題の成立が“検証”[v]される。もちろんアプリオリに予料されるのはそのようなことではなく、ただ感覚が0から100まで度を成すということを原則にしているに過ぎない。だけれども、もしも原則が「全ての判断一般の形式的制約(Bedingungen)」 [Kant: Prolegomena zur einer jeden künftigen Metaphysik, S.306] であるとするならば、当の《das bedingte Urteil》は経験と関係を持たなければなるまい。

[e]なかには最小単位の知覚に対応するのは「命題」ではなくて名辞ではないかと思う向きもあろう。「最も単純な命題、要素命題はある事態の存立を主張する」[Wittgenstein: Tractatus, 4.21] 。「要素命題は名前[Name]から成る。それは名前の連関・結合である」 [Wittgenstein: Tractatus, 4.22] 。だが例えばある花を知覚した時、その感覚が示す先述定的な内包が「…」であるとするならば、その知覚は「この花は…である」という命題の形を採る。要するに第0階の個体の知覚であっても、「として」によって媒介されているかぎりそれは要素命題なのである。

[v]「検証」と言っても、カントは“写像理論”的に知覚を「事物と知性の一致」とはみなしていない。質の図式に関してカントは、認識主体が感覚を模写するとは言わずに「感覚が[…]時間[認識主体]を[…]満たす erfüllen」 [Kant: Kritik der reinen Vernunft, A.143=B.182] という言い方をしている。

内包量は量のカテゴリーにいう外延量とは異なる。「度はただその把捉が継時的ではなく瞬間的である量を表示するだけである」[Kant: Kritik der reinen Vernunft, A.169=B.210] 。「度はそれゆえ量ではあるが、直観における量ではなくたんなる感覚による量である … 性質の量が度である」 [Kant: Prolegomena zur einer jeden künftigen Metaphysik, S.309] 。

例えば温度は、温度計の水銀の高さとして直観において外延量として継時的に把捉することができるが、水銀の高さ自体は温度ではなく、温度そのものはただ感覚されるほかはない。この点で性質の量と空間の量は異なる。しからば時間の量は如何。我々は時間を時計なり天体の位置なりによって測る。だがこれらが示す量は空間的な外延量であって時間の量そのものではない、という点で時間の量は性質の量にアナロガスである。

にもかかわらずカントは時間の量を空間の量と同様外延量の原則のもとで論じているが、これはベルクソンが批判するように [Bergson, Essais sur les données immédiates de la conscience,p.58] 時間の空間的固定化ではないのか。人はしかしここで認識主体自体が時間であることを思い起こさなければならない。カントにおいても空間化・客体化された「流れた時間」とは違った主体的な“純粋持続 durée pure”としての「流れる時間」[Bergson, Essais sur les données immédiates de la conscience,p.136] [b]が見失われていたわけではない。

[b]もちろんカントは時間を「真実存在」だの「elan vital」だのと称して自然科学批判をするわけではない。ベルクソンの生命論的科学批判がノエシス-ノエマの混同に基づく心理主義であることに関しては、シェーラーの論評 [Scheler, Vom Umsturz der Werte,S.324] を見よ。

2.構想における再生産の総合

把捉の総合は継時的に総合されない知覚の継時的総合なのであるが、この第一階の述語の反省的規定たる構想における再生産の総合は第二階の関数化に属する。だから、把捉の総合は再生産の総合と分かちがたく結び付いている。

頭の中で一本の線を引こうとしたり、ある正午から別の正午までの時間を考えようとしたり、それどころか、ある数を表象しようとする時でも、私はまず必然的に、これら多様な諸表象のうちの一つを他の諸表象の後に頭の中で捉えなければならないということは明白である。だがもしも後に行くにしたがって、先行する部分(線分の第一の部分・時間の先行部分・順次表象される諸単位)を頭の中で見失い、それを再生産することができないなら、全体の表象は、そして前述の全ての思想は、いやそれどころか空間時間の最も純粋で第一の根本表象ですら生じないであろう

[Kant: Kritik der reinen Vernunft, A.102]

カントによればこの再生産の総合は、構想力による「超越論的行為」[ibid] であるが、構想力による総合が統覚による総合と感官による総合との《間》にある外的媒介者でないのは、図式がカテゴリーと現象の間にある外的媒介者でないのと同じことである。したがって、構想力とは図式機能の能力であるが、ここの総合で全ての図式が適用されるわけではなくて、関係の図式だけが適用されると考られる。

関係の図式/カテゴリーは、まず実体と偶有性の二つに分かれる。実体の図式は時間における実在的なものの持続性である。この変易しない実体においてのみ、変易する偶有性、つまり現象の継起(因果性)と同時存在(相互性)が時間からみて規定されるのである。すなわち、因果性の図式は法則に従った変異する実在的なものの継起であり、相互作用の図式は法則に従ったそれらの規定性の同時存在である [Kant: Kritik der reinen Vernunft, A.144 =B.183f] 。この図式機能から「経験は知覚の必然的結合の表象によってのみ可能である」[Kant: Kritik der reinen Vernunft, B.218] という原則が生じる。カントはこの原則を「経験の類推」と名付ける。これには三つ(A~C)ある。

A:第一の類推は、「全ての現象の変化において、実体とその量は自然において増減しない」[Kant: Kritik der reinen Vernunft, B.182] という実体の持続性についての原則である。この原則の証明として、カントは次の二種類を用意している。

  1. 既に述べたように、変化は変化であるためにはむしろ持続するものを前提している。例えば、昔元気だったA氏が年老いて病弱に「なった」というためには、n年前の元気だった人、An と 今の病弱な人、A0 が同一の持続するA氏でなければならない。A氏はやがて死んでA氏でないものに変化する。だがそれが変化であるためには、生前/死後を通してある持続するものがなければならないのであって … というように持続するものへの問いは続く。それでは一体、時間の流れの中で究極的・絶対的に持続しているものは何なのか、という問いが生じるが、一番確実な候補は時間そのものである。ところが時間そのものは知覚されないから、知覚の対象の中に基体がなければならない。そしてこの基体が実体に他ならない。ゆえに実体は、その量が自然において増加も減少もすることなく持続する。
  2. カントはさらに背理法によってこの証明を補強している。今Bなる現象が全く新しく生じたとする。しかしB以前に時間が持続しているなら、知覚の対象となる現象Aがなければならないが、そうするとBは実体Aの偶有性ということになる。もしB以前に時間が持続していなければ、Bは新しく生じたことにはならず、かくしてBそれ自身が実体になってしまう。Bが消滅して全く何も残らなくなったと仮定した場合も同様に、Bは消滅したことにならず、それ自体実体になってしまう。

この二つの証明で、いずれも太字で強調した部分が問題になるであろう。空虚な時間が知覚されないというのはいいとしても、だからといってなにゆえ知覚の対象に実体がなければならないという結論が生じてくるのか。実体が知覚の対象であるというのは明らかにナンセンスである [岩崎武雄, カント『純粋理性批判』の研究, 251頁以下] 。エネルギーのような、知覚の対象ではないが経験科学の対象となるような「実体」であっても、それを「純粋悟性の原則」のもとで扱うことは不適切である。むしろ「主体は実体なり」という準ヘーゲル的なテーゼを掲げて主体である時間を実体にすべきである[t]。

[t]相対性理論によれば時間でさえ観測系の位置によって伸縮する。だがこれは経験的統覚の時間についてであって、これをも対象化する超越論的統覚(アインシュタイン)としての時間はこのかぎりではない。相対性理論自体が相対化されるかどうかはメタ物理学的(metaphysisch=形而上学的)問題である。

B:次に第二の類推についてであるが、これは「すべての変化は、因果結合の法則[der Gesetz der Verknüpfung der Ursache und Wirkung]に従って生起する」[Kant: Kritik der reinen Vernunft, B.232] という因果性の原則である。

ウィトゲンシュタインによれば、「因果法則は法則ではなくて、ある法則の形式である」[Wittgenstein: Tractatus, 6・32] 。「もし因果法則が存在するとしても、その意味しうるところは、せいぜい“自然法則が存在する”である。だが人はもちろんそのことを語ることはできない。それは示される」[Wittgenstein: Tractatus, 6・36] 。

語ることができる具体的な自然法則とは、原因に相当するある現象E1の後に、いつでも必然的にある別の現象E2が生起する規則性である。このような意味において因果性とは《限定による限定の無限定的限定》、すなわち特定の原因による特定の結果の無制約的(普遍的)規定であると定式化される。もっともこのような抽象的定式では、つまりE1やE2を具体的に限定しないならば、因果性はその定式の主張内容に反して何も限定しない。具体的な因果結合の関係を確定することの反照的規定として自然法則の存在は示される。

カントは、ウィトゲンシュタインとは違って、自然法則の存在のみならず、超越論的統覚の存在までも示そうとする。カントは、因果性の分析をも例によって内的時間の流れから始めるのだが、主観的な把捉の順序が E1→E2 だからといって両者が客観的な因果関係にあるとは言えない。

まず、E2→E1 という逆の順序の把捉が可能であってはならない。例えば、最初に家の屋根を見て次にその土台を見たからといって、屋根が土台の原因であるとは言えない。なぜなら、我々は土台を見てから屋根を見ることができるからである [Kant: Kritik der reinen Vernunft, A.192f=B.237f] 。

しかしたんに不可逆的であるだけでは不十分である。たまたま家の中で飼っている猫が鳴いた時に雨が降り、この逆が成り立たなかったとしても、両現象が因果関係にあると直ちには言えない。E1⇒E2 すなわち ¬(E1⇒¬E2)の関係が恒常的であることが経験的に検証されなければならない。

では昼の後に常に夜が継起するからといって、昼は夜の原因であると言えるであろうか。これは不合理である。しかし科学的探求が最終的に目指しているのは、事実的な因果関係の確定ではなく、この関係の法則への包摂であるので、これとて地球の自転・公転の天文学的法則によって説明されるべき与件である。

我々は、原因なる作用因を、したがってまたそれから区別された先行現象=《初期条件》をも想定することなく、所与の先行現象E1において法則によって説明されるべき《本質》を観取する。物理学者は、落下するリンゴにおけるリンゴの堅さや赤さやうまさといった非本質的属性を捨象して、それを地表に向かって加速度運動する一定質量を持った質点として観ずる。このようにいったん F=ma によってその運動 E1→E2 が説明されるなら、具体的なあれやこれやの状況において何が原因で(したがってまた何がその時の初期条件で)リンゴが落下したかはどうでもよい問題となる。問題は法則の妥当性であるが、これは超越論的主観性の内部での諸法則間の整合性に依存している。

かくして我々は、主観的な意識の流れにおける諸表象の結合の客観性を求めながら、却ってそれが「主観的な」法則に依存していることに気が付く。しかしなぜ与件 E1/E2 を全称命題に包摂することが、当の現象に客観的根拠を与えることになるのか。かく問いを立てて反省することは、すでに第三階の量化を行うことである。

図6 三段の総合

C:最後に相互作用の原則「全ての諸実体は、空間中に同時として知覚されるうるかぎり、全般的な相互作用のうちにある」 [Kant: Kritik der reinen Vernunft, B.256]であるが、ここでカントが「相互作用」という言葉で念頭においているのは、感官と諸対象との間の連続的影響であり、目と物体の間を戯れる光の働きであり、我々の位置感覚と物質の間の相互影響である。もし各実体が完全に孤立しているならば、諸実体を経験的に総合することはできず、それらが同時存在であることが知覚されえない。それゆえ諸実体はその位置を相互に規定し合い、一つの全体を成していなければならない、とカントは言う。

わざわざ“同時”と断ったのは、継起的な原因- 結果関係との違いを明示するためだったのであろう。だがなぜ同時“存在”なのか。カントの時代でも、光の速さが有限であることが知られていた。私が今見ている夜空の星は、なるほど光を通じて私と連続しているのだろうが、星そのものは既に消滅しているのかもしれない。

同時なのは存在ではなくむしろ作用の方である。壁を手で10kg の力で押す作用は“同時に”壁が手を 10kg の力で押し返す作用を、リンゴが地表に1m 落下することは“同時に”地球全体がリンゴに向かって1m 接近することを意味している。それゆえ原因-結果関係と相互作用関係は別のものではなく、後者は前者の反照的規定として前者(一方向的作用関係)と同時なのである。知覚において知覚が知覚されたものによって規定されると同時に、知覚されるものは知覚することによって規定されるというドイツ観念論的な有機体論的相互作用論が、量子力学の不確定性原理にまで結び付く、というようなことはいまさら注釈するまでもない。

我々は最初に、以上の再生産の総合を要素命題の結合子による複合として規定した。カントの説明によれば因果性のカテゴリーは仮言判断から、相互作用のカテゴリーは選言判断から導出される。だが相互作用においては作用と反作用の二つの要素命題が成立しているわけであるから、むしろ連言に近いし、また確かに因果関係は条件法による複合に似ているが、条件法によって結合された真理関数はたんに前件が真で後件が偽であることを排除しているだけだから、例えば「もし7+5=12であるならば、物体は延長している」といったような因果的結合として妥当でない命題も真ということになる。この点、命題結合子とカテゴリーの間にはギャップがあるわけだが、にもかかわらずここで真理関数を持ち出すのは別の思惑があってのことである。

Cで我々は、因果性が相互作用へと止揚され、個別的な出来事が宇宙の総体的な相互依存の関係へと組み込まれるのを見る。A → B → Cは派生的なものへの移行ではなく、CのモメントはかえってAのモメントへ還帰していると言えなくはないか。我々はAにおいて知覚の対象における実体が何であるかの判断をエポケーしておいたが、それを関数的諸関係の総体だと言えなくはないか。

全ての知覚の対象は変化するものであり、変化するものは持続するものを前提する。だから、知覚の対象全体は実体そのもの(時間そのもの)ではないにしてもその相関者である。ところですべての知覚の対象は、知覚ですらすでに直観と概念を《変数 Argumente》とする《関数 Function》 なのであるから、ことごとく法則のもとへと包摂される。ゆえに法則・真理関数の体系は実体の相関者である。

だが人あって次のように異議を唱えるかもしれない:真理関数においては独立自存の要素命題の真理値が一義的に複合命題の真理値を決定するのであって、したがって実体は関数や法則ではなくて、個物なのではないのか。しかしそれはラッセル流の素朴実在論的アトミズムの立場を採るからであって、フレーゲの“文脈原理”[f]を採用するなら関係の第一次性のテーゼは保持できる。我々はここで「実体概念と関数概念」というE.カッシーラー以来の論点を詳述できないが、 とりあえず経験科学の、したがって現象としての自然の可能性が法則(変項からなる全称の関数表現)の体系に必然性を与えることに依存していることを確認して第三階の量化に移ることにしよう。

[f]「完全な文においてのみ語は本来意味(Bedeutung)を持つ。[…]文が全体として意義(Sinn)を持つなら十分であり、そのことによって文の部分もまたその内容を得るのである」[Frege: Die Grundlagen der Arithmetik,§.60,S.71] 。この点フレーゲはウィトゲンシュタインの先駆である。なおラッセルもその後アトミズムを捨てている。

3.概念における再確認の総合

もしも構想力によって結合された継起する諸表象が瞬間ごとに異なるものであるなら、再生産の総合はおろか把捉の総合すら全く成り立たないことになるであろう。例えば1+1+1=3 において、それぞれの1を同一のものとして「再確認」することができないならば、この計算はできないことになる。概念は《いつでも》自己同一的な意味を保持していなければならないのであって、そこで「必然性の図式は、すべての時間での対象の現存である」 [Kant: Kritik der reinen Vernunft, A.145=B.184] ということになる。

カントはこのように必然性を普遍性で置換しようとする:「必然性と厳密な普遍性はそれゆえアプリオリな認識の確実な目印(Kennzeichen)であり、また分かちがたく相互に結び付いている」[Kant: Kritik der reinen Vernunft, B.4] 。もちろん個物についての必然的判断や偶然的でたんなる憶断に留まる普遍的判断もあるであろう。だが前者に関して弁明するならば、例えば「ソクラテスは可死的である」という判断の必然性は「全ての人間は可死的である」という判断の必然性から《演繹され》てきたと考えるならば、個別的/特称的判断の必然性は全称判断のそれに《権利を持っている》ことがわかる。では後者はと言えば、こちらの説明は簡単ではない。カントは慎重にも「厳密な streng」という形容を冠しているが、これで以って「必然的な」を意味しているならばそれはたんなる論点先取である。

そこでまず、必然性とは何であるかを問わねばならない。アリストテレスは、「必然的な(ἀναγκαῖος)」を (1)「そうあるより他ではありえないこと」[アリストテレス:形而上学, Δ5,1015a] と定義している。アリストテレスによれば、これ以外の(2)「必要不可欠の」、(3)「強制的な」という意味もそこから規定することができる。

(2)について言えば「例えば呼吸作用や栄養物などが動物に必要 [必然的]であると言われるが、それは、これらがなくては動物が生存できないからである」[アリストテレス:形而上学,Δ5,1015b] というように、□P=¬◇¬P である。(3)は「強制されるがために自らの衝動のままには行為することができないような場合」[アリストテレス:形而上学,Δ5,1015a] であるが、これも同じことである。カント流に特徴付ければ、これらは仮言命法的必然性であって、「SのためにはPが必然的である」(逆に言えば、Sがなければ、Pは不必要かもしれない ¬S⇒◇¬P)という形を取る限定的相対的必然性である。それは、普遍的認識が、所詮はある限定によって限定された相対的普遍性しか持たないのと同じことである。絶対的普遍性を持つのは矛盾律ぐらいであろうが、それは世界について何も語らない。

しかるにカントは、必然性の図式を「常に対象が現存在すること das Dasein eines Gegenstandes zu aller Zeit」、つまり超越論的統覚における遍在と定式化している。この点を弁明するためには、先の段落では区別しなかった全称性(一般性)と普遍性を、普遍性とは全称判断の総体の無矛盾的なシステムであると定義することによって、区別しなければならない。そしてここからなぜ普遍性が必然性に置換されうるのかという前段落で保留した問題が解決されるようになる。

個別的な全称判断は反証されうる、つまり「他でありうる」ので必然的とは称せないが、そのためにはそのように反証する判断は相対的に必然的でなければならず、かくして全称判断の整合的な体系は、最終的には必然的であることが「要請」される [p]。もしこの最終的な必然性まで認めないならば、所謂うそつきのパラドックスに陥ってしまう。

[p]「我々は[数学の公準 Postulat と]同等の権利をもって様相の原則を要請する[postulieren]ことができる。なぜなら、この原則は諸事物に関するその概念一般を増すことなく、ただいかに概念一般が認識能力と結合されるかの様式を指示するだけだからである」 [Kant: Kritik der reinen Vernunft, A.234f=B.287] 。だからこの「経験的思惟一般の要請」 [Kant: Kritik der reinen Vernunft, A.218=B.265] は、他の原則のメタレヴェルにあるのである。

全称性が抽象的普遍であるのに対して、ここで言う普遍性は具体的普遍である。Ich=Ich の能力としての純粋統覚は、差異を含んだ現象を無矛盾的に総合して超越論的客体[t]を構成することを通しておのれを超越論的統覚として自覚しうる。

[t]統一性と単一性(単位)は全体と部分として正反対の関係にあるようだが、ドイツ語では同じ Einheit である。このことは超ミクロとしての実体が超マクロとしての普遍へと反転しうることと関係がある。

このようにして得られた知のシステムは、純粋統覚の分析的統一のゆえに《単一的総体》として我々に与えられ、そして新たな感覚によって再充填されていくわけだが、そうすると様相のカテゴリーを適用した結果、さらに量のカテゴリー・質のカテゴリー… が適用されるということになるので、四つのカテゴリーは円環を成しているということになろう。「この進捗を通して[認識の]端緒は、直接的で抽象的なもの一般であるという規定性において一方的に持っているものを失う。端緒は媒介されたものとなり、学問的前進の直線はそれによって円環となる」[Hegel: Wissenschaft der Logik,S.58] 。この円環を循環しつつ人間的認識は進展する。

カントにおいては《自我の定立-非我の反定立-止揚》なる弁証法的運動には完結はない。時間としての純粋統覚は、(このように今における完結を否定する点で)おのれを無制約的に実現することを否定することによって、(時間は無限に流れるのだから)おのれを無制約的に実現する。超越論的統覚は、自らが経過した時間的多様を《超越》して無矛盾的な超越論的客体を構成しなければならないが、それは、科学的認識の場合では、

仮説→演繹→検証または反証(仮説理論の帰結と経験との矛盾)→仮説の変更

記号化すると、

(H1∧H2∧ … Hn→F)∧¬F → ¬H1∨¬H2∨ … ¬Hn

という過程を辿ることによって成される。

もしたんに「(1)いま・ここでは、SはPであるように(2)私には見える」としか判断しないのなら、私は決して誤謬を犯すことはないであろう。私は普遍的・客観的に 妥当な判断を下すことによって (1) 超時空感性的(2)超個人的な意識の高みへと上昇するが、それだけに誤謬を犯す、つまり反証されて相対的歴史的な意識となる可能性が増大する。

それゆえ超越論的統覚は、時間的多様を超越することによって時間的多様を超越しなくなるのである。しかしそれはまた時間的多様を超越していないがゆえに時間的多様を超越しようとする。

もしも我々の認識能力が、たんに空虚な時間である純粋統覚であったり、たんに内時間的な経験的統覚であったり、はたまた超時間的な知的直観(神的直観)であったりするなら、認識の進歩は不可能であるという以前に無意味である。内時間性と超時間性の間を「彷徨する」人間悟性[d]、すなわち、超越論的統覚においてのみ、認識の進歩は有意味かつ可能なのである。

[d]カントは、直観的(intuitiv)な神的知性に対して人間悟性を論弁的(diskursiv)と名付けるが、後者は 語源的には「彷徨する discurro」から来ている。これに関しては、[高橋昭二,1987, 74頁] を見よ。カントは経験的統覚による演繹について次のように言う。「ある人はある言葉の表象をある事柄と結び付け、別の人はそれを別の事柄と結び付ける。かくて経験的なものにおける意識の統一は、所与のものに関して必然的普遍的に妥当しない」[Kant: Kritik der reinen Vernunft, B.140] 。 してみるとこれとの対比で語られる超越論的統覚は、間主観的な言語共同体ということか。

ところでカントの認識論(というよりも近代哲学一般の認識論)に対して、真理の間主観的構成・相互主体的形成の側面が欠落している、モノロークであるという批判がよくなされる。しかしカントの超越論的哲学は間主観性の議論と不協和なわけではなく、実際『純粋理性批判』には、客観性を間主観的妥当性と等値している箇所 [Kant: Kritik der reinen Vernunft, B.140] があるぐらいである。

だがもしここからさらに一歩進んで、認識を知識社会学的、経験的に相対化することによって超越論的哲学を否定しようとするならば、それはカントが拒絶するところであろう。真理が間主観的に形成されるからといって、真理そのものが間主観的であるとは言えないのである。人-間の成立とともに真理が発生し、人-間の滅亡とともに真理が消滅するということは、明らかに理に悖る。《物自体を消去して=全てを物自体とすることによって》超越論的哲学を超越的哲学 [t]にした上でその認識を相対化するということは、カント以前への後退に他ならない。

[t]物自体を認識しえたと僭称する超越的哲学は、主観に対する客観の超越を否定することによって肯定する。すなわち、超越的哲学にとって自分は超越的ではないのだが、まさにそうであるがゆえに超越的哲学は超越論的哲学にとっては超越的なのである。

超越論的対象に完結ということはなく、常に新たな経験によって反証される可能性があるという点で現在の認識は相対的なわけであるが、この相対性はむしろ未来の認識がより相対的でないことを指示しているわけで、この謂わば《理想的な未来の超越論的対象》の極限値が物自体なわけである。それゆえ物自体の想定は、一見不可知論的なように見えて、実はその正反対なのである。かくして我々の主題は物自体にまで到達した。

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