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カントの超越論的哲学(05)超越論的弁証論

1997年9月1日

カントは、「批判」によって認識可能性と不可能性の境界を明確にした。境界を越えた超越的な理性の使用は二律背反を帰結する。カントは、二律背反における定立と反定立との対立をどのような弁証論(ディアレクティケー・テクネー=対話術)によって調停するのだろうか。

『カントの超越論的哲学』の画像
このページは電子書籍『カントの超越論的哲学』の一部です。

カントは、

  1. 魂の不死
  2. 無制約的な世界
  3. 神の存在

という三つの超越論的理念をそれぞれ

  1. 定言的
  2. 仮言的
  3. 選言的

の三つの推論の総合から得られる純粋理性概念としている[1]が、本書では、このバロック建築を崩して、全て以下のような仮言的推論の二律背反でまとめることにしたい。ドイツ語の bedingen は「制約する」という意味の動詞で、die Bedingung は制約者、das Bedingte は被制約者である。

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二律背反における仮言的推論

ここでの定立と反定立はそれぞれお互いに相手の結論の否定を自分の小前提にするという形で相争っているのだが、カントはそのいずれにも與さずに、物自体を認識しようとする《超越的実在論=経験的観念論》なる定立と反定立が共有する《地平》そのものを斥け、これに《経験的実在論=超越論的観念論》の《地平》を対置する、ということは本章の冒頭で誌した通りである。その内実を 1~3 の理念ごとに見ていくことにする。

1. 魂は不死でありうるのか

ここでの das Bedingte は霊魂が持続しているという経験である。「二律背反における仮言的推論」における「独断論的合理論による定立」と「懐疑論的経験論による反定立」に分けて、それぞれの主張を検討しよう。

定立:独断論的合理論である霊魂不滅論者は、この所与の部分から無制約的な全体(die Bedingung)つまり生前や死後における霊魂の持続を推論しようとする。霊魂、即ち「考える存在者としての私は、私の全ての可能的判断の絶対的主語である[2]」がゆえに実体であり、「その働きが、多くの働く事物の共働と決して見なされえない[3]」がゆえに単純であり、「様々な時間において自己自身の数的同一性を意識する[4]」人格であり、「そこから他の全ての現存在が推論され なければならない全ての現存在の相関者[5]」であって、したがって実体的に死後も持続し、複合物に分解されることなく物質から隔離された同一性を保持するというわけである。

だがここで掲げた四つの性質はすべて超越論的統覚(独断的合理論者にとっては、超越的主体)の特性であって経験的統覚の特性ではない。「思惟の総合における統一性を、この思惟の主観における知覚された統一性と見なす仮象ほど自然で誘惑的なものはない。この仮象は、実体化された意識(apperceptiones substantiatae)の取り違え[Subreption]と名付けることができよう[6]」。要するに霊魂不滅論者は「経験の統一」を「統一の経験」に摩り替える「誤謬推論 Paralogismus」を犯した、というわけなのである[7]

しかしここで、カントのこのような取り違えの批判自体が一つの取り違えに基づいているのではないか、という疑念が頭を抬げてくる。いま自分の魂が死後もなお存続するか否かについて真剣に悩んでいる人がいるとしよう。そこへカントがやってきて「君が問題にしているのは経験的統覚だが、それとは別に超越論的統覚というモノがあって、それは実体的に持続し、単純で、同一性を保持し云々」という議論をやり出したとする。この高尚な超越論的統覚の理説は当の悩みに光明を与えるであろうか。否。してみると霊魂不滅論者が超越論的統覚を経験的統覚に摩り替える Subreption を犯したのに対して、カントは経験的問題の解決を超越論的問題の解決に摩り替える Subreption を犯したのではないかと人は考えたくなるであろう。

だが、カントはその点もよく承知しており、ただそのような経験的問題に答えることは《批判哲学=超越論的哲学》の仕事ではないとして、判断をエポケーするだけである。カントは、一般に「異論」を独断的/批判的/懐疑的に三分したうえで次のように主張する。「批判的異論は、命題の真理値の有無に触れることなく、ただ証明に異論を唱えるだけであるから、対象をよりよく知っている、あるいは知っていると僣称する必要は全くない。批判的異論はただ主張が無根拠であることを示すだけであって、それが間違っているということを示すわけではない[8]」。もちろんカントはここでも「批判的異論」を唱えているのである。

反定立:他方で、「二律背反における仮言的推論」の「懐疑論的経験論による反定立」が示すように、懐疑論的経験論は、独断論的合理論の結論を否定する(¬ die Bedingung)あまり、そこから所与の確実な与件までを否定してしまう(¬ das Bedingte)結果となる。つまり、懐疑論的経験論は生前や死後の霊魂の持続のみならず、(例えばヒュームがそうであるように)生存中の霊魂の持続までを疑わしいものにしてしまうのである。

しかし、カントによれば、懐疑論も独断論も、世界概念において物自体と現象を区別しないのとアナロガスに(もっとも同じことではないのだが)超越論的統覚と経験的統覚を区別しないという点で同一地平に立っている。独断論は経験的統覚を超越論的統覚にまで格上げして、前者にオカルト的な持続性を主張し、懐疑論は超越論的統覚を経験的統覚にまで格下げして、前者の持続性一般を習慣と連想の産物にまで貶めた次第であるが、カントは二つの統覚を区別し、経験的統覚の持続性が習慣と連想の産物であることを認めながら超越論的統覚には実体的な持続性を認める。

ところで、経験的統覚の不死の証明を認めないにしても、超越論的統覚の“不死”の証明の方はどうか。超越論的統覚はせいぜい超越論的客体の相関者であって、現象界の内部に留まる。だがもし超越的認識というものがあるとするならば、それは超越論的統覚の背後にあってそれを現象させる、つまり超越論的統覚の死後もなお存続する物自体の相関者としての「自我自体 Ich an sich[9]」の認識ではないだろうか。

しかしこのような問いに対しては、人は慎重でなければならない。超越論的統覚は時間そのものであるから、それの生前や死後を語ること自体がナンセンスである。時間が成立した前は時間が流れているし、時間が消滅した後も時間が流れる。そこで謂う所の超越的問題は、無限な時間が可能かどうかという問題になる。しかしこれは次の宇宙論的理念をめぐる二律背反の問題である。

2. 世界は無制約的でありうるのか

そこで次に宇宙論的理念をめぐる二律背反を考察しよう。これには四つある。

  • 第一の二律背反
    • 定立「世界は時間において端緒を持ち、空間においても限界付けられている[10]」。
    • 反定立「世界は端緒を持たず、空間に限界を持たず、時間的にも空間的にも無限である[11]」。
  • 第二の二律背反
    • 定立「世界の複合的実体は単純な部分から成り立っており、単純体とその合成物しか現実存在しない[12]」。
    • 反定立「世界におけるいかなる複合物も単純な部分からは成り立っておらず、世界には一般に単純体は現実存在しない[13]」。
  • 第三の二律背反
    • 定立「自然法則による因果関係だけでなく、自由による因果関係によっても世界の現象は説明されなければならない[14]」。
    • 反定立「自由は存在せず、世界のすべてはもっぱら自然法則にしたがって生起する[15]」。
  • 第四の二律背反
    • 定立「世界には、その部分または原因として端的に必然的な存在者が属する[16]」。
    • 反定立「世界の中にも外にも、端的に必然的な存在者が世界の原因として現実存在することはない[17]」。

以下、「二律背反における仮言的推論」の仮言的推論を手引きとしつつ、それぞれについて検討していくことにしよう。

まずは、第一の二律背反から始めよう。定立は、次のような根拠で有限な時間空間を主張している。

世界は時間上の始まりを持っていないと仮定すると、各所与の時間点[これが das Bedingte に相当する]までに永遠が流れたことになる […]しかし[…]そうすると、系列の無限性はいつまでたっても継時的総合によって完結されえないことになる。[18]

要するに、現在までに無限の時間が流れるのは不可能であるということから「世界の始まり ein Anfang der Welt」という制約(die Bedingung)が推論されるわけだ。

これは一見不可解である。独断論的合理論者ともあろう者が世界の「有限性」を主張するのか。霊魂の不滅を説く以上は当然《永遠=無限な時間》を認めなければならないのではないのか。これはもっともな疑問である。しかし、デカルト以来の合理論者は、精神と物質あるいは思惟と延長を二分した上で、前者に(そして最終的には神に)無限を認めようとするのであるから、後者の物質(延長)の方は創造された世界として有限である必要がある。デカルトは神の存在証明を試みた人であるが、霊魂の不滅についてまでは論じていない。彼の『省察』の第一版のタイトルにあった「神の存在及び霊魂の不死が論証される Dei existentia et animae immortalitas demonstratur」が、第二版では「神の存在および人間の霊魂と肉体との区別が論証される Dei existentia,et animae humanae a corpore distinctio,demonstrantur」に修正された所以である。

そもそもキリスト教では、旧約聖書の『創世記』に書かれているとおり、この世は神によって創られたということになっており、世界は時間において端緒を持たなければならない。霊魂の不死と言っても、地上で肉体を持ったまま永遠に生きるのではなく、天国で永遠の生を享受するということになっているので、だから、霊魂の不滅と世界の有限性は矛盾しないのである。これに対して、キリスト教以前の、そしてキリスト教よりは経験主義的なアリストテレスの哲学では、原因なしで何かが生じることはないという理由から、時間に端緒はないとされている。原因なしで、何かが生じるかどうかは、第三の二律背反のテーマなので、ここではこれ以上取り上げないことにしよう。

第一の二律背反ではさらに空間の限界の有無が問題にされるが、ここでも問題は「無限な世界の部分の継時的総合[19]」が、したがってその総合をするための無限な時間が可能か否かであって、最初の問題に帰着する。それは無限分割をめぐる第二の二律背反においても同様である。部分を一定にして全体を無限に拡大することは、全体を一定にして部分を無限に縮小させることと同じ操作であるから、第一の二律背反における無限大と第二の二律背反における無限小は、数学的には同じ極限の問題なのである。経験論者は、時間の始まり/空間の限界/分割不可能な最小単位といった独断論的合理論者の第一原理に懐疑の眼差しを向ける。もしも時間の始まりの前が、空間の限界の外が空虚で知覚不可能なら、それらはもはや始まり/限界ではないし、最小単位といえども広がりを持つ以上はさらに分割可能である。独断論的合理論者によれば、懐疑論的経験論者のこのような ¬ die Bedingung からは ¬ das Bedingte が、つまり、いま・ここという確実な与件の存立までが怪しくなるという帰結が生じる。

カントは差し当り懐疑論的経験論者の結論に近い結論を引き出す。但し、独断論的合理論者と懐疑論的経験論者が共有する現象を物自体と見なす地平を否定して、である。すなわち、時間空間が無限であるのは、それが物自体としてそうだからなのではなく、ただ知覚の継時的総合という《認識行為》が無限に続きうるからであり、また無限分割が可能であるのは、物自体が実際に単純な部分から成り立っているからではなくて、ただ分割するという《認識行為》が無限に続きうるからに他ならない。

制約されたもの[das Bedingte]が与えられている時、それに対するすべての制約[Bedingung]の系列における背進は、まさにそのことによって私たちに[与えるられている gegeben のではなくて]課せられている[aufgegeben]のである。[20]

宇宙論的理念をめぐる二律背反は、現代では形而上学というよりも物理学のテーマになっている。ビッグバン仮説は既に定説として受け入れられているが、ビッグバン以前が存在するかどうかに関してはコンセンサスが得られていない。希薄なガスがただよう空間だった宇宙が集まって塊となり、ブラックホールを形成し、その中の密度が極限に達した時にビッグバンが起きて、現在の宇宙が形成されたという説[21]もある。宇宙の終焉に関しても、諸説あって、かつてはビッグバンとよく似たビッグクランチという特異点で宇宙が消滅するとされていたが、宇宙の膨張が加速されているという新しい観測結果から、宇宙の全ての物質が、宇宙の無限大の膨張のために引きちぎられるビッグリップを予測する仮説が提起されているが、異論もある。

宇宙の空間的な大きさが無限かどうかに関しても定説はない。観測可能な宇宙(observable universe)は半径470億光年程度と考えられている。観測可能な宇宙は、今の人類が実際に観測している宇宙ではなく、理論的に観測が可能な宇宙ということであるから、カントの用語で言えば、経験的対象ではなくて、超越論的対象ということになる。そして、観測可能な宇宙の外部は、認識不可能なので、物自体ということになる。物自体としての宇宙自体は、ちょうど二次元の存在者にとっての球の表面のようなもので、境界と境界がつながっていて、宇宙の果ては存在しないという見解もある。時間も循環していると考えれば、端緒なき有限な時間のモデルを作り上げることができる。だが、そうした思弁的な見解は仮説の域を出ていないし、そもそも経験的に実証できない。

第二の二律背反に対しても、現代科学は決定的な答えを見出していない。近現代の科学者たちは物質を原子、素粒子、クォークといった単純な部分へと分解してきた。現代における万物の理論の最も有力な候補である超弦理論/M理論によれば、自然界に存在する4つの力も、素粒子のあらゆる性質も、すべてプランク長程度の小さな弦(string)、あるいはp次元の膜(p-brane)という基本単位で説明される。しかし、プランク長が最小の長さというわけではない。超弦理論/M理論からは、プランク長よりも小さい物理学とプランク長よりも大きな物理学にT双対性を見出すことができる。T双対性の仮説が正しいなら、プランク長以上の宇宙と等価な小宇宙がプランク超未満にあることになる。

話をカントの二律背反に戻そう。第一/第二の二律背反が有限と無限を扱っていたのに対して、第三/第四の二律背反は自由と必然を扱っている。後者の問題は前者の問題と無関係ではない。因果連鎖は時間系列であり、時間に始めがあるなら、自由な存在者による原因のない結果、無からの天地創造を認めなければならない。これはキリスト教の教義であり、ニュートンのような物理学者も、神の最初の一撃によって力学的な運動が始まったと考えていた。

カントは、第一/第二の二律背反に対しては、懐疑論的経験論者の結論に近い結論を引き出していたが、第三/第四の二律背反に対しては、独断論的合理論者の結論に近い結論を引き出す。但し自由が存在するのは行為主体が道徳法則を遵守する限りにおいてであり、必然性の制約としての第一原因が存在するのは、認識主観が自然法則を探求する限りにおいてである。要するに、超越論的理念の使用は統制的であって、構成的ではない。

理念はもともとただ発見的[heuristisch]な概念であって、直示的 [ostensiv]な概念ではなく、対象がどのような性質であるかをではなく、その発見的概念の導きのもとに経験の対象の性質と結合を一般にどのように探求すべきかを指示する。[22]

超越論的心理学の理念も同様であって、「内的経験の導きの糸に従って、私たちの心の全ての現象・働き・感受性を、あたかも心が人格的同一性をもって(少なくとも生存中は)持続的に存在する一つの単純な実体であるかの如く結合する[23]」。つまり、人格の同一性という理念も、統制的に使用しなければならないということである。

カントの時代においては、自然法則による因果関係の必然性は疑いの余地のないもので、意思の自由は、統制的、倫理的に要請するほかはなかった。ラプラスが、ある瞬間における全ての初期条件からすべての時点における状態を見渡すことができる「知性[24]」、所謂「ラプラスの悪魔」を想定したのは、1814年であるが、ニュートン力学がヨーロッパの学界を席巻して以来、こうした決定論が主流になっていたのである。ところが、20世紀になって量子力学における不確定性原理が知られるようになると、「ラプラスの悪魔」の存在は否定されるようになった。量子力学的なミクロなレベルにおいてのみならず、マクロなレベルでも、多体問題やバタフライ効果の発見から、決定論が疑問視されるようになった。また、意識のあり方が量子力学的な性質が深く関わっているとする量子脳理論により、自由意志の因果的閉包性を否定する主張も現れている。要するに、現代科学においては、もはや神のような超越的存在者を持ち出さなくても、因果的必然性からの自由を経験科学のレベルで認めることができるようになったということである。

3. 神は存在しうるのか

カントが超越論的弁証論の最後で取り上げるのは、神の存在証明である。神の存在証明において最も中枢的なのは次のようなアンセルム以来の存在論的証明である。

形式論理学においては、全ての述語はその否定が矛盾対当を成すものとして可能であるが、そこでは「明るくない」という否定的述語が、同時に「暗い」という肯定的述語でもあるというように、肯定的か否定的かは相対的である。だが超越論的論理学では、肯定は存在を、否定は非存在を意味する。さて神は最も完全な存在者であり、現象における全ての模型の根源的根拠なのだから、この意味において全ての肯定の述語を持つ超越論的基体でなければならない。従って神の理念は、肯定/否定の選言推論において常に肯定のほうを選ぶことによって得られる。ヴィトゲンシュタイン風に言えば、存立/非存立の二値を取る諸事態の無限系列の中で、存立の場合だけを連言で結合した組合わせが神なのである。そしてこの神は当然「存在する」という述語を肯定形で持っているはずである。故に神は存在する。

この証明を行う独断論的合理論者は、「肯定の述語=存在する」という das Bedingte から「神=全き存在者」という die Bedingung を推論しているのだが、これに対して、懐疑論的経験論者は、それはイデアールな「実在の述語」とレアールな「述語の実在」との混同であるとして ¬ die Bedingung を主張する。ところがこのように完全な必然的存在者を否定すると、個別的な必然性まで怪しくなるという¬das Bedingte が帰結する。

この二律背反を解決するために、カントは、例によって物自体の認識という独断論的合理論者と懐疑論的経験論者が共有する前提を斥けて、実践論的な転回を行う。すなわち神の理念は、「世界の諸事物を目的論的な法則にしたがって結合し、かくして世界の諸事物の最大の体系的統一性へと到達する[25]」ため、統制的に使用しなければならない。

ここで本章のこれまでの議論を反省してみると、カントの『純粋理性批判』の行為論的性格が際立たされてくる。概念のみならず直観をも悟性の産物と見なす超越論的演繹による超越論的問題の解決と超越的問題に対する超越論的批判は、超越論的統覚の超越論的行為論という盾の両面を成している。

カントは純粋理論理性の思弁を批判し、実践理性の優位を説いたと謂われる。しかしその《実践》は直ちに道徳的実践を意味するのではなく、むしろ理論理性-実践理性の対立以前的なより根源的な位相で行為論的転回を遂行することによって、旧来の存在論的形而上学の超越的問題を、遡っては自然科学的認識に関する超越論的問題を解いたといいうる。即ち弁証論における超越論的仮象は、

  1. 超越論的対象を総合・構成する統覚の行為を実体化したり、
  2. 知覚の継時的把捉という行為に先だって無限な時間空間を、分割するという行為に先だって最小単位を、道徳的行為に先だって自由を、因果連鎖を遡及する行為に先だって第一原因を客観自存するものとして想定したり、
  3. 自然の合法則性を探求することなく英知的創造主を前提したり

することによって生じるのである。

結局のところ、カントは認識行為によって構成された自然の物象化的自存視を批判したわけである。もちろん、カントの全批判哲学を実践哲学として統一的に理解するということは、かつてフィヒテによって為されたことであるし、私の勝手な造語である「行為論的転回」とは、従来「コペルニクス的転回」と呼ばれていたものに他ならない。物自体の認識を否定して実践へと転回することは、ヘーゲルの観想の哲学をプラクシスの立場から「唯物論的に転倒」したマルクスや論理実証主義の科学主義をホーリズムの立場からプラグマティズムへと改作したクワインにおいて反復されることである。だが、私たちはこの問題を哲学史的にではなく哲学的に解明しなければならないし、行為論は最終的には、目的論に結び付けられなければならない。

次章では、認識が行為であるとはどういうことであるのか、認識行為と身体行為はどのように関係しているかを検討することになる。

4. 参照情報

  1. Kant, Immanuel. Kritik der reinen Vernunft. Felix Meiner Verlag. 1967. A.323=B.379.
  2. Kant, Immanuel. Kritik der reinen Vernunft. Felix Meiner Verlag. 1967. A.348.
  3. Kant, Immanuel. Kritik der reinen Vernunft. Felix Meiner Verlag. 1967. A.351.
  4. Kant, Immanuel. Kritik der reinen Vernunft. Felix Meiner Verlag. 1967. A.361.
  5. Kant, Immanuel. Kritik der reinen Vernunft. Felix Meiner Verlag. 1967. A.402.
  6. Kant, Immanuel. Kritik der reinen Vernunft. Felix Meiner Verlag. 1967. A.402.
  7. P.F.Strawson, The Bounds of Sense. p. 37.
  8. Kant, Immanuel. Kritik der reinen Vernunft. Felix Meiner Verlag. 1967. A.388.
  9. Adickes, Erich. Kants Lehre von der doppelten Affektion unseres Ich als Schlüssel zu seiner Erkenntnistheorie. ed. J.C.B. Mohr, 1929.p.31.
  10. Kant, Immanuel. Kritik der reinen Vernunft. Felix Meiner Verlag. 1967. A.426=B.454.
  11. Kant, Immanuel. Kritik der reinen Vernunft. Felix Meiner Verlag. 1967. A.427=B.455.
  12. Kant, Immanuel. Kritik der reinen Vernunft. Felix Meiner Verlag. 1967. A.434=B.462.
  13. Kant, Immanuel. Kritik der reinen Vernunft. Felix Meiner Verlag. 1967. A.435=B.463.
  14. Kant, Immanuel. Kritik der reinen Vernunft. Felix Meiner Verlag. 1967. A.444=B.472.
  15. Kant, Immanuel. Kritik der reinen Vernunft. Felix Meiner Verlag. 1967. A.445=B.473.
  16. Kant, Immanuel. Kritik der reinen Vernunft. Felix Meiner Verlag. 1967. A.452=B.480.
  17. Kant, Immanuel. Kritik der reinen Vernunft. Felix Meiner Verlag. 1967. A.453=B.481.
  18. Kant, Immanuel. Kritik der reinen Vernunft. Felix Meiner Verlag. 1967. A.427=B.455.
  19. Kant, Immanuel. Kritik der reinen Vernunft. Felix Meiner Verlag. 1967. A.429=B.457.
  20. Kant, Immanuel. Kritik der reinen Vernunft. Felix Meiner Verlag. 1967. A.497f=B.526.
  21. Veneziano, Gabriele. “The Myth of the Beginning of Time". in Scientific American 290:5 (May 2004), pp. 54–65.
  22. Kant, Immanuel. Kritik der reinen Vernunft. Felix Meiner Verlag. 1967. A.671=B.699.
  23. Kant, Immanuel. Kritik der reinen Vernunft. Felix Meiner Verlag. 1967. A.672=B.700.
  24. Laplace, Pierre-Simon. Essai philosophique sur les probabilités. 1814. Courcier. p. 2.
  25. Kant, Immanuel. Kritik der reinen Vernunft. Felix Meiner Verlag. 1967. A.687=B.715.