9月 011997
 

ここでは、まず、前章に倣って、カントの倫理学が倫理学史上、どのような位置をしめるかを見定める。カントにとって『実践理性批判』は『純粋理性批判』とは異なって超越論的哲学ではないのが、理論理性と実践理性はどこまで同じで、どこが違うのかを考えよう。

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道徳の基礎付けを行うカントの実践哲学は、超越論的哲学と言うことができるだろうか。カントは、『純粋理性批判』の緒論の中で次のように主張する。

道徳性の最高原則とその根本概念はアプリオリな認識であるにもかかわらず、それらは超越論的哲学に属さない。なぜならそれらは、総じて経験に起源を持つ、快と不快/欲求と傾向性などの概念を、確かにその指令の基礎には置かないものの、義務の概念において克服されるべき障害として、あるいは動機とするべきではないのだが、刺激として、純粋な人倫性の体系を起草する際に必然的に一緒に取り入れなければならないからである。それゆえ超越論的哲学とは、純粋でたんに思弁的な理性の世界知なのである。

[Kant: Kritik der reinen Vernunft, B.28f.]

ここからわかるように、『実践理性批判』は、カントにとって、超越論的哲学ではない。だが実を言えば、カントの用語法からすれば、『純粋理性批判』までもが超越論的哲学かどうか怪しいのである。

超越論的哲学を成すものは全て純粋理性の批判に属し、そして批判は超越論的哲学の完全な理念であるが、まだこの学問そのものではない。

[Kant: Kritik der reinen Vernunft, A.24=B.28]

この批判が必ずしもそれ自体超越論的哲学と呼ばれないのは、批判が、完全な体系であるためにはアプリオリな人間の全認識の詳細な分析を含まなければならないという点に専ら基づく。

[Kant: Kritik der reinen Vernunft, A.13=B.27]

だから批判は「純粋理性の全ての原理の体系」[ibid] としての超越論的哲学に対するメタレヴェルの反省ということになろう。

カントは、自分の批判とは「純粋な理性能力それ自体の批判」 [Kant: Kritik der reinen Vernunft, A.13=B.27] であるとして、それを「超越論的批判」 [Kant: Kritik der reinen Vernunft, A.12=B.26] と名付けている。確かに「批判」は「哲学」でないにせよ、ちょうどマルクスの「経済学批判」それ自体が一つの経済学であるように、カントの「超越論的批判」はそれ自体一つの超越論的哲学であると考えられる。

事情は『実践理性批判』においては異なってくる。前の批判では、純粋理性は批判の対象であったのに対して、今度はそうではない。

実践理性批判は、純粋実践理性があるということをたんに確証するはずであり、そしてこの観点からその全実践的能力を批判する。もしこれに成功すれば、実践理性批判は純粋な能力自身を批判する必要がなくなる。

つまり『純粋理性批判』が「純粋思弁理性批判 Kritik der reinen spekulativen Vernunft」であったのに対して、『実践理性批判』は「経験的実践能力批判 Kritik des empirischen praktischen Vermögens」である。そうすると『実践理性批判』は、「実践的独断的教説 eine praktisch-dogmatische Doktrin」 [Kant: Abhandlungen nach 1781, S.252] であっても、《理性の自己反省の学=超越論的哲学》ではないということになる。現に『実践理性批判』の分析論の論述は、原則論→概念論→感性論 という“高踏な”順序になっている。もっともこれには、逆の順序を持つ『人倫の形而上学の基礎付け』が先行しているのであって、この後者の順序の方が望ましい。本章の目標は、両批判に対するカントの区別を撤廃し、できるだけ第一章の議論とパラレルに論じることによって実践哲学もまた超越論的哲学でありうることを示すことである。

まず哲学史上におけるカントの実践哲学の位置を表1に倣って、カント以前の実践哲学[p]との対比で三段論法式に示そう。

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表4 前カント倫理学における三段論法

独断論的合理論者は、やれ完全性、やれ神の命令、やれ正義等が善自体であると主張するのだが、その具体的内実が問われるや否や、見解に不一致が生じ、そしてこの独断論的帰結の否定が経験論の不可知論的小前提である。

[p]カント自身によるカント以前の倫理学の区分と分類については、 [Kant: Kritik der praktischen Vernunft,S.40] を見よ。但しそこでは(分類の仕方は同じであるものの)経験的/超越的ではなくて、主観的/客観的の区分が成されている。

ホッブス・ロック・ヒューム・スミス・ベンサム・ミルと続くイギリス経験論の倫理学は、経験的に実証されうる普遍的善を快楽・幸福・道徳的共感等に求めるのだが、彼等の理論が転倒していることは明白である。我々は、価値ある事物を獲得/実現することに対して快楽なり幸福なり道徳的共感なりを得るのであって、後者は価値そのものではない。そうだとすれば我々は、独断論的合理論者のように善自体とは何かを問わなければならないことになるであろう。

独断論的合理論者と懐疑論的経験論者はこのように相互に相手の結論の否定を自分の小前提にして対立し合う。このように、表1の推論にせよ、表4の推論にせよ、ともに表3の二律背反の構造を持っている。

カントは、例によって実践哲学の二律背反をも彼等の《対立地平=大前提》そのものを斥けることによって調停する。『純粋理性批判』で物自体の認識を否定して行為論的転回を遂行したように、『実践理性批判』でも善自体(Gut an sich - カントはこのような言葉を使わないが)の認識を否定して行為論的転回を遂行する。これがすなわち彼謂う所の「実践理性批判における方法のパラドックス」 [Kant: Kritik der praktischen Vernunft, S.62] である。

つまり善悪の概念は(一見すると道徳法則の基礎にされなければならないようだが)、道徳法則に先立って規定される必要はなく、(ここでそうしているように)道徳法則にしたがって・道徳法則によって規定されなければならないのである。

道徳法則は差し当り(特に幼少期においては)主観にとって超越的なものとして与えられる。一方我々は、前道徳的には自分の経験的な傾向性に従って行為しようとする。ハーバマスは道徳の諸段階を発達論的に、(1)前慣習的 (2)慣習的 (3)脱慣習的 の三つの類型に分けている [Habermas, Moralbewußtsein und kommunikatives Handeln,S.176ff] が、(1)に数えられる「権威に制御された相互行為」と「利害に制御された協力」はこの二つに相当する。超越的権威か経験的利害かという選択肢は独断論的合理論と懐疑論的経験論の対立地平で生じる。(2)の段階では人々は道徳規範に従うようになり、(3)の段階ではこれを反省的に吟味して基礎付ける。

精神分析家は、経験科学の立場から、(3)の道徳の超越論的基礎付けも、所詮は父親の超越的権威の事後的な内面化であると考えるかもしれない。フロイト曰く「子供の頃両親に従うよう強制されたように、自我はその超自我(Über-Ich)の定言命法に服従する」[Freud: Studienausgabe 3, S.315][f]。「それゆえカントの定言命法は、エディプス・コンプレックスの直接の相続人である」[Freud: Studienausgabe 3, S.351] 。

[f]フロイトが謂う所の超自我は超越論的意識に、自我は経験的意識に対応する。問題は無意識(エス)の位置なのであるが、もし「無矛盾性・第一次過程(備給の可動性)・無時間性・外的現実の心的現実による置換が、無意識のシステムに属する過程に見出すことができると予期してかまわない性格である」[Freud: Studienausgabe 3, S.146] とするならば、無意識はイデアールな存在性格を持つことになる。無矛盾性と無時間性は純粋悟性概念の性格であり、心的現実への置換の第一次的過程とは、前意識(構想力)によって検閲等の第二次的な加工がなされる前の内部感覚に相当する。フロイトによれば、自我とは「外界から、エスのリビドーから、そして超自我の峻烈さから三種類の服従を強いられ、それゆえ三種類の危険の脅迫のもとに苦しむ哀れな存在」[Freud: Studienausgabe 3, S.322] ということだが、自我を三つの異物に囲まれた第四のものと考えるのは、超越論的哲学の立場からすれば正しくない。快楽原則にしたがった即自的には無矛盾で無時間的(普遍的)な人間本性であるリビドーも、外界で実現(備給)しようとすると対他的には矛盾を起こすので、超自我が現実原則にしたがって、目的-手段の時間的秩序にそって欲望を抑圧しつつ満たしてやるという三者の総合の場が自我であると理解しておく。

20世紀における無意識の発見はデカルト以来の意識哲学の神話を崩壊させたといわれる。しかしフロイトの精神医学が、無意識に意識の光を当てることによって神経症的障害の除去を行う治療の実践であるとするならば、そのメタレヴェルでの認識の営み - フロイトの言葉で言えば、メタ心理学(Metapsychologie)- は、超越論的と名付けてもよいような自己認識のあり方であり、したがって、無意識の発見は、超越論的哲学の否定をもたらすのではなく、それ自体が知の超越の試みとして捉えられなければならない。

超越論的主要問題とは、アプリオリな総合判断の可能性を問うことであった。カントに言わせれば、仮言命法が分析的であるのに対して定言命法は総合的である。「目的を意欲するものは、[…]自分で制御できるそれに必要不可欠な手段をも意欲する。この命題は意欲に関するかぎり分析的である」 [Kant: Grundlegung zur Metaphysik der Sitten,S.417] 。ある目的に対して何が必要不可欠な手段であるかについての判断は総合的であるが、目的を意欲するものが手段をも意欲するということは分析的であるというわけである。だが定言命法も内容においては総合的であるが、形式においては分析的であるから、総合的/分析的の区別は、定言命法/仮言命法の区別の基準としては使えない。

既に確認したように、分析性とは概念の《自己同一性=無矛盾性》であり、《純粋統覚=時間性》の性質であった。「我意欲するものを意欲する」という自己同一性、目的と手段の概念的/時間的な差異を超越する自己同一性は、《アプリオリな総合判断=定言命法》の基礎になる。定言命法においては「私は、何らかの傾向性からの条件を前提することなく、行為[主語]を意志[述語]へと、アプリオリに、すなわち必然的に結合する」 [Kant: Grundlegung zur Metaphysik der Sitten,S.420] 。

例えば「弱者を助けること+すべし」といった結合がそうである。この判断で実践的なのは述語のほうであって、主語は理論的に与えられている。判断内部での主語と述語の総合には《直観と直観との総合=直観と概念の総合》が先行しているわけだが、未来へ企投された[弱者を助けること]という直観的統一に対して当為の肯定的態度を示すことによってこの判断が生じる。このかぎりで実践は理論によって基づけられており、実践的認識は理論的認識の一部であるが、理論もまた実践の一部であるという点で包摂関係は逆になる。

いずれにせよ、両者は規則に従った行為という点でパラレルである。ちょうど純粋統覚“Ich denke=Ich denke”が多様な現象へと超越して必然的な超越論的客体を構成することによって、おのれを超越論的統覚として自覚するように、純粋意欲“Ich will=Ich will”が多様な欲求へと超越して必然的な目的の国を超越論的に構成することによって、おのれを自由な英知的存在者として自覚する。前カント倫理学においては、subjectum としての善自体が、objectum である我々の感性的欲望を抑圧することによってその至高な存在を我々に顕示する。しかし実践哲学においても、図1図2へとコペルニクス的に転回されなければならない。二つのS-O関係を重ねた超越論的哲学の定式2の倫理学版は次のようになる。

【超越論的哲学の定式4】超越論的倫理学とは、主体(Subjekt)から超越する客体(Objekt=主体にとって疎遠で外的な規範)へと主体が超越すること(規範の正当化)、すなわち判断において主語(subjectum=人倫)から超越する述語(objectum=感性的欲望)へと基体が超越することを通して、主体が客体の超越的超越を超越しつつ、客体を超越論的に超越すること(自由=人格の尊厳)の学的自己意識である。

定式3の倫理学版は次のようになる。

【超越論的哲学の定式5】 超越論的反省のもとで、

  1. 善意志としての超越が、
  2. 善意志からの超越を
  3. 感性的欲望において超越しつつ、
  4. 感性的欲望から超越する(自律を自己意識する)

定式5を図5に倣って図解すると図7のようになる。

図7 定式5における四つの超越

但し、図7は物自体(善自体)を超越的超越とする点で、もはやカントの実践哲学に合致しない。実践哲学においてカントは、物自体の概念を、自然の因果的必然性によって捉えられない道徳的自由の世界へと変質させ、物自体(英知的世界)を人間にとって超越的な世界とは考えなくなる。

人間は、人間における純粋な活動性とでもいうべきもの(決して感官の触発によってではなく、無媒介に意識に現れるもの)の観点から、自分を英知的世界 - 人間はこの世界について英知的という以上のことは何も知らないのだが - へと数え入れなければならない。

ここにおいて理論哲学と実践哲学のパラレリテートが崩れる。

理論的な判定能力に関しては、通常の理性が敢えて経験法則や感官の知覚から離れようとすると、全くの不可解や自己矛盾に、少なくとも不確実・不明瞭・不安定の混沌に陥る。だが実践的な判定能力に関しては、判定力は、通常の悟性が全ての感性的な動機を実践的法則から排除するまさにその時に初めて、本来の真の卓越性を発揮し始めるのである。[…]それゆえ正直で善良であるために、それどころか賢明で有徳であるために何をすべきかを知るためには学問も哲学も不要である。

だが同様に理論的認識においても、何が真であるかを知るためには学問も哲学も不要である。まさに「経験法則や感官の知覚から離れ」て、である。前学問的に子供でも分かっている真/善の判定基準は矛盾律であるが、だからといって人間が物自体界に所属すると考えることはできない。当為についての総合的判断は決して自明ではない。

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