9月 011997
 

私たちは、しばしば感性的な動機から、理性的な判断を曇らせ、道徳的に悪しき行為に走る。道徳的に正しくあるためには、そうした倫理学的感性から自由にならなければならない。しかし、その正しさを判断する実践理性は、理論理性とは異なる理性なのだろうか。認識行為と身体行為の相関関係を分析して考えたい。

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我々は第一章でハイデガーのカント解釈を手掛りに時間性から出発したが、ここでもその方法を採る[z]。超越論的哲学は内的時間から外的空間へと超越するわけだが、超越論的倫理学もまた内的時間意識において企投された可能的な目的を実在化しようとする。前者の現実化には認識行為による総合が、後者の現実化には身体行為による総合が必要である。

[z]ハイデガーは『カントと形而上学の問題』の第30節で『実践理性批判』に言及し、尊敬の感情を論じた感性論を自分の現存在分析に引き付けつつ、「尊敬の本質的構造は、自らの中に超越論的構想力の根源的機制を際立たせる」[Heidegger: Kant und das Problem der Metaphysik, S.146] と言う。だがもともと Sollen の問題には関心がなかったのか、彼は時間性と道徳の問題について詳しく論じていない。

《内部から外部への超越》という体裁をとる外界の存在証明は、実は《部分的契機から全体性への超越》であると前の章で主張した。そして可能性-現実性-必然性という超越論的統覚の自覚の弁証法的運動が超越論的演繹であった。これとパラレルな演繹が超越論的倫理学にも可能かどうか。

だがその前に、なにゆえに理論と実践/認識行為と身体行為が、同一でないにもかかわらずパラレルでありうるのかが問題となる。そうだとするならば、両者の相関関係を分析することが我々の課題にとっての先決問題となるだろう。

認識行為と身体行為の異同と関係を論じるにあたって、まずは両者に共通する「行為」概念を論究しなければならない。行為によって現象が変化する(変化が生じない場合でもそれは変化の否定としての「維持」という行為である)わけだが、前者が根拠として変化を規定するのに対して、後者は原因として変化を惹き起こす。両者は対等に並びうるものではなく、認識行為は、自由意志による変化である行為とそうではないたんなる変化も規定対象にするのだから、メタレベルの行為ということになるであろう。「超越論的統覚による構成行為」とは、平易な日常言語で記すなら「時間が流れる」ということに他ならない。時間としての構成と時間の中での構成とは区別されなければならない。

《認識行為=時間》はそれ自体知覚されえず、ただ、例えば、変化 Z1(t1)→ Z2(t2)の知覚における他の規定可能性、¬Z2(t2)の排除を通して反省的に認識されるのに対して、身体的行為の場合は行為が知覚の対象となる。例えば、時点t1における私の腕の垂れ下がった状態Z1の知覚、時点t2におけるその直立した状態Z2の知覚から「挙手」という行為が認識される。

しかしまた二つの知覚Z1とZ2自体は行為ではないので、身体行為そのものは知覚の対象ではないとも考えられる。そこでひとは、身体行為では Z1(t1)→ Z2(t2)は未来において意欲されるのに対して、認識行為ではそれは過去において反省の眼差しのもとで認識される、というように時間関係で区別しようと考えるかもしれない。だが身体行為の場合でも、他者の行為の場合、事後的にその動機を遡るしかないし、認識行為の場合でも、未来の自然の出来事を予測するという場合があるであろう。

むしろ自然と人間を区別するのは意志の自由ではなかったのか。カント自身、次の如く言っている。「自然のどの事物も法則に従って活動する。理性的存在者のみが法則の表象に従って、つまり原理に従って行為する(handeln)能力を、 換言すれば意志を持っている」 [Kant: Grundlegung zur Metaphysik der Sitten,S.412] 。

蓋し行為(Handeln)を行動(Verhalten)から区別する[h]のは意志の自由である。我々は一方で腕の運動を私の意志のたんなる結果と見なし、その原因としての行動を脳細胞の生理的プロセスにまで萎縮させることができるが、他方挙手による法案可決に対する賛意の表明やその結果としての制度の変革をも私の行為と見なす、というように拡大することもできるが、どこまでを行為と見なすかは、どこまでを予め目的として意識しているかにかかっている。感性的に制約された《いまここ》を自由に超越して目的を設定する実践理性的な認識/身体行為、これがカントの言う自由意志に他ならない。しかし同じ意味で理論理性的な認識行為もまた自由だと言えなくはないか。

[h]「行為 Handelnとは、単数/複数の行為者が主観的意味を結び付けた時、またそのかぎりでの人間の行動Verhalten]を指す」[Weber, Soziologische Grundbegriffe, S.542] 。

一般に自由という概念には、英米系の (1)反因果的予測不可能性→偶然性という意味とドイツ系の (2)超感性的本質洞察性→必然性という意味があって二義的だが、カントはもちろん (2)の意味で使っている。超越論的超越は最終的に時間的多様から超越するのだが、これは(2)の意味での自由なのである。両者は「frei ~から離れた」という共通概念から出発しながら全く逆の帰結をもたらしている。もしも(1)の意味で自由を理解するならば、《自由とは道徳法則に束縛されていることなり》というカントのテーゼや《自由とは必然性の洞察なり》というヘーゲルのテーゼは理解できないであろう。

このように自由を(2)の意味に理解するなら、フィヒテが主張するように [Fichte, Grundlage des Naturrechts, S.224ff]、それはたんに実践哲学の原理であるだけでなく理論哲学の原理にまで拡張されえるはずである。だが理論哲学においては、超越論的統覚は時間的多様を越えることによって時間的多様を越えない有限な自由しか持たないのに対して、実践哲学においては、主体は物自体的な英知的存在者として無限な自由を持つという差はある。もっともカントは「理性的なものは現実的であり、現実的なものは理性的である」と喝破するには至っていないので、結局実践理性の自由でさえも真に無制約的なものとは言えまい。

ともあれカントは、超越論的弁証論の第三の二律背反で、自然必然的な現象から道徳的自由を救うためにこれを物自体に帰したのであったが、その意味するところは、人間は道徳的実践においては、神の知的直観と同じく自らの物自体的理念にしたがって現象を創造するということである。

カントのこの区別を平板化して、理論においては主観が客観を受動的に模写するので真理の源泉(物自体)は客観にあり、実践においては主観が客観を能動的に産出するので、《真理の源泉=物自体》は主観にあると言うことはできない。カントは「事物と知性の一致」という古い真理観を引きずっていたとはいえ、模写説を却け、構成説を採っていたことを想起されたい。

しかしこの《コペルニクス的転回=行為論的転回》において彼には、フッサールが批判するように、ノエシスとノエマを混同する傾向がある。ノエシスとノエマを混同した時、認識論的に見て極めて不合理な事態が生じることは明白である。例えば私が円を認識している時、私のノエシスが、従ってまた私自身が円であとするならば、私は却って円そのものを認識することができいであろう。しかるにカントに言わせれば「皿は丸い」と言うためには、その図式機能、即ち「この図式を伴った悟性の振舞[Verfahren]」 [Kant: Kritik der reinen Vernunft, A.140=B.179] 自体が丸くなければならないのである。すると身体行為を認識するということは行為を行為するということになろうが、その際行為を行為することと行為された行為が区別されないのだから、もはや行為は行為されなくなるであろう。

だが一歩譲って、カントがノエシスとノエマを区別しているものとしよう。問題はここから先である。自由は裸で認識されるわけではない。「自由はもちろん道徳法則の存在根拠であるが、道徳法則は自由の認識根拠である」 [Kant: Kritik der praktischen Vernunft,S.4] とカントが言う通り、道徳的自由は道徳法則を遵守することの反照的規定として自覚される。それは理論哲学において、超越論的超越が時間的多様において超越することによって時間的多様から超越するのと同じことである。かくして自由の問題は規則遵守(rule-following)の問題へと移行する。

カント(より典型的には新カント学派)においては、構成的にせよ統制的にせよ原理は、したがってまた法則は客体の形式ではなく、-それは模写説的な法則観である-主体(統覚・構想力)が則るべき規範なのである[k]。ここから経験的-純粋という区別が、事実問題-権利問題という妥当性に関する区別を媒介にして、存在-当為という全く別の区別と混同されてしまうわけだが、両者が同じでないことは、存在命題・当為命題の各々の内部で経験的-純粋が区別されうることからして明らかである。両者の混同の上に成り立っている構成主義的な《実践理性の優位》は、第一哲学と倫理学を同一視するプラトン以来の[p]誤てるイデアリスムスの行為論的変容に他ならない。以下彼等の主張を、類型化して検討してみよう。

[k]新カント学派はカントの行為論的な側面を強調するのだが、その主唱者であるリッカートも、フッサールの規範主義批判などを受けて行為論的な価値哲学を意味の哲学にまで後退させている。これに関しては、[九鬼一人,新カント学派の価値哲学, 第二章] 参照。

[p]プラトンによれば「我々は、我々が同じ名前を適用するような多くの物をひとまとめにして、その一組ごとにそれぞれ一つの“エイドス”というものを立てることにしている」[プラトン, 国家, 第十巻 596A] のだが、「毛髪や泥や塵や、あるいはその他の何か非常に賎しくてくだらないものについても」[プラトン, パルメニデス, 30C]、エイドス(これはイデアと同じ意味である)と呼ぶことを拒否している。イデアに倫理的模範という意味を含ませることからくるアポリアである。

1.妥当性概念を手掛りにした真理と価値の同一視

一般に真理には価値があり、価値は真理と同様に人々が求める理念であるが、これには、

  1. 価値なき真理、例えば道徳的悪という事実、
  2. 非真理の価値、例えば「嘘も方便」という諺が妥当とする事態、

などの“反証例”がある。哲学的価値と倫理的価値を区別するという逃げ路があるが、そうすれば「真理は価値である」というテーゼはたんなるトートロジーになってしまう。ゆえに《真理=価値》のテーゼは、不毛な同語反復か有害な混乱かのどちらかしかもたらさない。

2.様相概念を手掛りにした存在と当為の同一視

「 … である sein」という事実命題とは異なって、法則命題は「 … でなければならない sein müssen = その反対は不可能である」という必然性を帯びる。紛らわしいことに、この müssen は道徳的義務を表す助動詞の müssen と同じである。

両者の違いは、言語学的に言えば認識的法と義務的法の区別に相当する。例えば英語では両者の間に次の対応がある。

英語における認識的法と義務的法の区別
5.1. 理論的様相(認識的法)
(1)必然It must be true.
(2)偶然It may not be true.
(3)可能It may be true.
(4)不可能It cannot be true.
5.2. 実践的様相(義務的法)
(1)義務You must(have to)do it.
(2)任意You don’t have to do it.
(3)許可You may do it.
(4)禁止You must not(may not)do it.

もしも様相を外延量で表現することができるなら(そしてカントは実際そうしているのだが)、(1)の否定が(2)であり、(3)の否定が(4)であることは、

¬(1)⇔(2) : ¬ (∀X)FX ⇔ (∃X)¬FX

¬(3)⇔(4) : ¬ (∃X)FX ⇔ (∀X)¬FX

から明かである。(2)「Fでないxが存在する」と(3)「Fであるxが存在する」は等値ではないが、もし存在量化が普遍量化を排除する狭い意味を持つなら等値である。(2)と(3)は《FかもしれないしFでないかもしれない》という不確定性の領域である。《必然的にF/必然的にFでない》という二値論理的な否定関係の否定が不確定性なのである。否定によって構成され・否定によって対自化されるという点で、確定性と不確定性は地平である。

同じ対応はドイツ語にも見られる。

ドイツ語における認識的法と義務的法の区別
6.1. 理論的様相(認識的法)
(1)必然Es muß wahr sein
(2)偶然Es mag nicht wahr sein.
(3)可能Es mag wahr sein.
(4)不可能Es kann nicht wahr sein.
6.2. 実践的様相(義務的法)
(1)義務Du mußt es tun(brauchst es zu tun).
(2)任意Du brauchst es nicht zu tun.
(3)許可Du magst es tun.
(4)禁止Du mußt(magst)es nicht tun.

ただドイツ語の場合、müssen の否定は(2)と(4)のどちらをも表しうるので、ドイツ語圏の哲学者は英米系の哲学者のように「日常言語の用法」の差にこだわらなくてもよいのかもしれない。

認識的法と義務適法は、しかしながら、様相論理学的には、同じレベルにはない。

  1. 必然的な偶然性(例えば判断内容は偶然的だが、学問的に妥当な不確定性の原理)や
  2. 偶然的な必然性(例えば必然的な内容を主張しているのだが、たんなる個人的臆断に留まる判断)

が形容矛盾でないことから明らかなように、対象レベルとメタレベルの様相概念は区別されうるし、また区別されなければならない。そして、道徳的義務の müssen は対象レベルの必然性に過ぎず、その義務の妥当性を表すメタレヴエルの必然性はその義務判断の知のシステムにおける無矛盾的整合性であって、倫理学に固有のものではなくて理論的判断のそれと同じである。その必然性は、「 … である」「 … であるべし」「 … はよい」という存在判断・当為判断・価値判断に対して、「 … である-は必然的である」「 … であるべし-は必然的である」「 … はよい-は必然的である」というようにつながるわけである。

3.規則遵守を手掛りとした理論と実践の同一視

T「全ての物体はニュートンの第二法則に従って運動する」という理論的法則と、P「全ての人は正直でなければならない」という実践的規範は、ともに個物の全集合の普遍的法則への包摂を主張しているという点で似ていると言える。だが、

  1. 見て明らかなように、Tには当為の müssen がない。強いて付けるなら「判断Tを下すべきだ」というようになるであろう。したがってこの法則を破る物体が出来しても、その物体が罰せられたり道徳的な非難を浴びたりすることはなく、むしろ判断主体のほうが修正を迫られ、かくして相対性理論が成り立つ。もちろんPにおいても判断主体のほうが修正を迫られる場合があるが、人は物体と違って《引責能力がある=自由がある=法則を表象しうる》のである。実践哲学においては道徳的行為を行う主体と立法を行う主体というように主体概念は二義性を帯びるが、それらは経験的と超越論的との区別で振り分ければよい。
  2. 他方PはTとは異なって、事実について何も語らない。もちろんPも「もしも他人に好かれたければ、正直であるべきだ」というように変形すれば、それは人間社会の事実について何かを語っていることになろうが、これは仮言命法であって定言命法ではない。定言命法は、本来的にはただ道徳的主体に超越を指令する機能を持つだけである。

ⅠとⅡからTとPの相違は明らかである。

我々は以上の認識行為と身体行為の相関関係の分析において《妥当性=必然性》が理論的法則や道徳的法則よりもメタレヴエルにあることを確認した。それゆえ実践哲学における超越論的演繹(これは倫理的判断の倫理的判断ではない!)は、理論哲学のそれと全く同じで、無矛盾的整合的なシステムの構成ということになる。両者の相違は、演繹されるべき感性的与件が感覚であるか欲求であるかに過ぎない。

しかるにカントは、『実践理性批判』においては道徳法則の超越論的演繹は不要であると言う。

道徳法則は、さながらアプリオリに我々に意識され、かつ必当然的な純粋理性の事実として与えられる。[…]それゆえ道徳法則の客観的実在性は、演繹によって、つまり思弁的ないし経験的に裏付けられた理論理性の努力によって証明されえるものではないのである。

[Kant: Kritik der praktischen Vernunft, S.47] 。

実践理性の最高原則は「それ自体で存立している für sich bestehen」 [Kant: Kritik der praktischen Vernunft,S.46] のだから、Deduction ではなく Exposition のみが可能である、というわけである。

しかし同じことは理論哲学にも言えるのではないか。超越論的演繹とはカテゴリーの正当化ではなく(それはただ既存の判断表から導出されて exponere されるだけである)カテゴリーによる認識の正当化であったのだから、定言命法(der kategorische Imperativ = カテゴリー的命法)自体が正当化不可能であるからといって、定言命法による倫理的判断の正当化までが不要であるということにはならないはずである。そこで我々は、次に節を改めて第一章の第二節と同じように超越論的演繹を行うことにしよう。

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