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カントの超越論的哲学(09)倫理学的弁証論

1997年9月1日

純粋理性批判』では止揚できなかった、魂・世界・神の三つの理念をめぐる二律背反が、『実践理性批判』では、解決される。しかし、実践理性においても、理論理性においてと同様に、人間理性には調停不可能な二律背反が生じるのではないだろうか。

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このページは電子書籍『カントの超越論的哲学』の一部です。

ここでも、第一章の時と同様に、理念を

  1. 魂の不死
  2. 無制約的な世界
  3. 神の存在

の三つに分けて、対応する実践哲学的問題を考察してみよう。

1. 魂の不死の問題

カントは、『純粋理性批判』において、経験的統覚の不死の問題をエポケーしたまま、魂の実体性・単純性・同一性・非物質的離存性を超越論的統覚の述語とするに留まったのだが、『実践理性批判』で初めて、その理念を「純粋実践理性の要請」として、つまり道徳的行為のために統制的に使用することを認めるに至る。

道徳法則への意志の完全な適合性は神聖性であり完全性であるが、感性界の理性的存在者にはその現存在のいかなる時点においてもそれが不可能である。とはいえ、それは実践的に必然的なものとして要求されるので、それはかの完全な適合への無限に続く進歩においてのみ可能であり、そのような実践的前進を私たちの意志の実在的な客観として想定することは純粋実践理性の原理により必然的である。[1]

だがこれで終わりにしてしまってよいのだろうか。経験的統覚の不死だけでなく、超越論的統覚の不死をもここで問題にすべきではなかったのか。規範の超時空的(普遍的)妥当性こそ実践哲学におけるすぐれて無制約的超越的な問題のはずである。理論哲学において、超越論的統覚は、時間的多様を越えることによって時間的多様を越えない相対的に有限な存在者であった。実践的道徳的人格にはこのような有限性はないのだろうか。

カントは「共通の人間悟性[der gemeine Menschenverstand 常識][2]」は、理論的な思弁に関してはそうではないにしても、少なくとも道徳的判断に関しては誤らず、弁証論的な二律背反に陥ることはないと説くが、問題はこの“共通の gemein”の範囲である。

道徳法則の存立を理性の事実として確実視することは特殊近代的な妥当性しか持たないのではないのか。さらにまた、直線的時間、進歩史観、来世における魂の救済といったカント倫理学の諸前提はユダヤ・キリスト教の伝統に基づくのであって、この定立には円環的時間のもとにおける輪廻転生を説くインドの宗教や、現世肯定の儒教などの非ヨーロッパ的宗教の諸教説が反定立となる。

超時代的・超文化的に妥当する倫理という超越論的理念は、『純粋理性批判』における無制約的な時間空間の超越論的理念の倫理学版として当然考察されてもよかったのだが、ケーニヒスベルク周辺から外に出たこともない書斎の哲学者カントは、このような「他のようでもありうるのではないのか」という問いが生起する地平すら持たなかった。パラダイムの相対性の問題は、超越論的哲学と超越論的倫理学がはらむ難点の一つである。

2. 自由の問題

自由の問題も、《感性からの自由あるいは認識の超時空性》vs.《マンハイム以来の存在被拘束性あるいはイデオロギー性》の問題にスライドさせれば、第一項の議論を単に蒸し返すことになるので、むしろよく取り上げらる論点「根本悪 das radikale Böse」を考えよう。

私たちは道徳法則の遵守を通してその根拠である自由を認識するのであるが、道徳法則は常に遵守されているわけではない。私たちは道徳法則から逸脱した悪しき行為から悪しき格率を、悪しき格率から悪しき人間本性を推論できる。但しこの「人間本性」は経験的な傾向性ではなく、「それ自体常に再び自由の働きでなければならない(というのも、さもなくば道徳法則の観点からする人間の選択意志[Willkür 恣意]の使用/誤用は人間に帰責されなくなり、人間の善悪は道徳的でありえなくなるであろうから)[3]」。

すると人間の自由には、善き行為を行う自由以外に、悪しき行為をも選びうる恣意的な自由があることになる。善への自由、すなわち自由への自由が《理性の事実》であるとするならば、悪への自由、すなわち不自由への自由は《感性の事実》とでも名付けられるだろうか。私たちは以前自由概念が二義的であることを確認したが、ここでも「選択される自由」と「選択としての自由」が区別されなければならない。だがこれは、「認識の自由」と「実践の自由」の区別ではない。理論的な認識においても、所与の主語に対してある述語を帰属させるべきか/否かという“選択”がその 活動の総体を成すのであって、真の述語を選択すれば時間的多様からの超越(自由)が得られるであろうが、有限な存在者である人間には偽の述語を選択する“不自由への自由”までが(経験的統覚のではなくて)超越論的統覚の“本性”に属する。

だがなぜここから神の恩寵が求められるのであろうか。倫理から逸脱しようとする人間の本性を悪として裁断するカントは、逆に言えばプロテスタンティズムの倫理の存立を理性の事実として確実視しているわけであるが、むしろこちらのほうが人間の判断(選択)の有限性ではなかったのか。かくして問題は第一項に戻るのであるが、同じことは次の項にも言える。

3. 元首の問題

「法律のない外的で(獣的な)自由の状態/強制力ある法則によって拘束されない状態が、政治的公民的な状態に入るために人がそこから脱出すべき各人に対する各人の正義なき戦争状態であるように、倫理的自然状態は徳の原理の公的で相互的な命令と内的な人倫性の欠如の状態であり、自然的人間はそこからできるだけ早く抜け出すよう努力すべきである[4]」。かくして人間は神を「立法主体として他の意志に服従することのない」「元首 Oberhaupt[5]」と仰ぐ目的の国の成員となるわけである。

最高善とは彼岸的な徳の完遂とそれのための此岸的な条件である福の付随であったのが、その意味するところは《世界連邦=永遠平和》という政治的条件のもとでの神が統治する宗教的倫理的“国家”の成立である。このパラレリスムスのゆえに、カントにおいては神の存在証明と至上の国家の超越論的演繹はよく似ているのである。

国家とは共同意志の代弁者として立法し、権力を行使し、正義を司る三権を持った人為的人格(議会/政府/裁判所)である。カントは、国家(status)と市民社会(civitas)を区別しなかった所以であるが、地理的・時代的に有限な実在する国家を純粋実践理性概念にまで上昇させてしまった。

それゆえ立法する国家の元首に対しては、国民に何ら合法的な抵抗権はない。というのも、国民の普遍的な立法意志への服従を通してのみ合法的状態は可能となるからである。[…]抵抗に権能を与えるためには、この国民の抵抗を許可する公的な法律がなければならない。つまり最高の立法は最高でないという規定を、そして同じ判断において臣民としての国民は、国民が臣従している者に対して主権者となる規定を自らの中に含むことになるが、これは自己矛盾である。[6]

こうして、臣民には抵抗権も革命権もないことがアプリオリに証明されてしまう。

この抵抗権/革命権の否定の証明は「神はその定義からして、全能、完全、世界の原型等々であり、したがってもし述語《存在する》を持ってないなら、それは、全能、完全、世界の原型等々ではないので、概念の自己矛盾に陥る。ゆえに神が存在することは必然的である」という神の存在論的証明を連想させる。

神の存在論的証明に対してカントは次のように批判していた。

もしも同語反復的判断における述語を破棄して主語を保持するならば矛盾が生じるので、その述語はその主語に必然的に帰属する。しかしもしもその主語を述語もろとも破棄するならば、矛盾は生じない。[…]《神は全能である》これは必然的な判断である。もし諸君が、その概念が神と同一な神性すなわち無限な存在者を措定するなら、全能は破棄されない。だがもし《神は存在しない》と諸君が言うなら、全能やその他の神の諸々の述語は与えられなくなる。なぜならそれらは主語と共にことごとく破棄されたからであり、そしてこの考えには全くなんの矛盾もない。[7]

このカントの理屈を用いて、私たちは次のように言うことができる。もし最高元首が最高でないと言うならば、それは矛盾であるが、主語そのものを破棄してしまえばそこに何の矛盾もない。つまり現存の国家体制そのものを否定しようとする革命行為そのものは合法的でなければ非合法的でもなく、失敗すれば現在の体制から非合法とされるが、成功すれば自らが国家となるのだから合法である。現に当時のフランスのように革命が成功したところもあるではないか。

カントによれば「もしも革命が一度成功して新しい憲法組織が設立されたなら、革命の最初において、あるいはその実行において非合法であったからといって、新しい秩序に良き市民として従うという拘束性から免れることはできないのである[8]」とのことである。これでは御都合主義と言われても仕方がない。

カントを論理の破綻から救う道はないだろうか。カントは革命権を否定したというよりも、むしろ革命権が否定されうるような国家を政治的な実践理性の理念にしたと考えることはできないだろうか。

カントの有名な神の存在論的証明に対する批判には、これまた有名なヘーゲルの反批判がある。

神の存在論的証明に対するカントの批判が無条件的に好意をもって受け取られたのは、カントが思惟と有とのあいだにどんな区別があるのかを説明するのに、100ターレルの例を用いたことも確かにその一つの理由であろう。すなわち 100ターレルは、それがたんに可能的にすぎなかろうと、現実であろうと、概念からすれば同じ100ターレルなのだが、私の財産状態にとってこのことは一つの本質的な相違を成している、というのである。[…]神が話題となる場合、神とは、100ターレルとか何か一つの特殊な概念とか、表象とか、あるいはどんな名前を持とうと、とにかくそのようなものとは違った種類の一対象である、ということをよく考えてみなければならないのである。実際、全ての有限者の有限たる所以は、それの定在はそれの概念とは別であるという点に、そして専らこの点にのみあるのである。これに反して神は、明らかにただ《現存すると考え》られうるものであるはずである。[9]

このヘーゲルのカント批判を、今度は国家論においては逆にカント擁護のために使うことができる。理念的国家とは、フリードリッヒ・ヴィルヘルム2世統治下のプロイセンとかアンシャン・レジュームのフランスとか、あるいはどんな名前を持とうと、とにかくそのようなものとは違った種類の一対象である、ということをよく考えてみなければならないのである。実際、全ての有限な国家の有限たる所以は、それの定在はそれの概念とは別であるという点に、そして専らこの点にのみあるのである。これに反して理念的国家は、明らかにただ統制的に《現存すると考え》られうるものであるはずである。

実在する諸国家は本来的には相互に《法的でない状態=戦争状態》にあるので、根源的な社会契約によって《永遠平和の状態=理念的国家(連合)としての世界連邦》を形成しなければならない。この理念は「確固とした原則にしたがった漸次的改革によって企てられ実行されるなら、最高の政治的善、永遠平和への連続的接近へと導くことができるのである[10]」。「この普遍的で永続する平和の創設は、たんなる理性の限界内における法論の究極目的のたんに一部を成すのではなく、全体を成すと言える[11]」。

それでもなかには「プロレタリア独裁による国家の死滅こそが人類史の究極目的であり、階級支配の手段としての国家を永遠視するカントの法哲学は後進国ドイツのプチブル的イデオロギーの一形態なのであって云々」と言い出す人がいるかもしれない。だが国家あるいは少なくとも権力秩序は、人-間の存在するところには必ず存在する。認識にせよ実践にせよそれらは全て選択行為なのだが、選択による複雑性の縮減は既に権力システムを前提している。完全な理念的国家とは、ちょうど完全な存在者(神)が判断における肯定的述語の総体であるように、正当な選択肢を選ぶ一般意志である。

問題は何を以って「正当な」と見なすかである。人間が《善自体》を実現できるかどうかという前に、《善自体》が何であるのか認識することすらできない。超越論的主体性は、実践理性の分野でも不確定性の地平に留まる。人間にできることは、せいぜい《物自体》の認識に向けての、そして《善自体》の実現に向けての無限な接近でしかないのだから、ただ過去との比較的/相対的な改善と進歩の積み重ねで満足するしかないのが実情である。いずれにせよ、実践哲学の次に問題にしなければならないのは、歴史哲学である。

4. 参照情報

  1. Kant, Immanuel. Kritik der praktischen Vernunft. 1788. Kant’s gesammelte Schriften (hrsg. von der königlich preussischen Akademie der Wissenschaften, Berlin) Abteilung 1, Band 5. p. 122.
  2. Kant, Immanuel. Grundlegung zur Metaphysik der Sitten. 1785. Kant’s gesammelte Schriften (hrsg. von der königlich preussischen Akademie der Wissenschaften, Berlin) Abteilung 1, Band 4. p. 404.
  3. Kant, Immanuel. Metaphysik der Sitten. 1797. Kant’s gesammelte Schriften (hrsg. von der koniglich preussischen Akademie der Wissenschaften, Berlin) Abteilung 1, Band 6. p. 21.
  4. Kant, Immanuel. Metaphysik der Sitten. 1797. Kant’s gesammelte Schriften (hrsg. von der koniglich preussischen Akademie der Wissenschaften, Berlin) Abteilung 1, Band 6. p. 69.
  5. Kant, Immanuel. Grundlegung zur Metaphysik der Sitten. 1785. Kant’s gesammelte Schriften (hrsg. von der königlich preussischen Akademie der Wissenschaften, Berlin) Abteilung 1, Band 4. p. 433.
  6. Kant, Immanuel. Metaphysik der Sitten. 1797. Kant’s gesammelte Schriften (hrsg. von der koniglich preussischen Akademie der Wissenschaften, Berlin) Abteilung 1, Band 6. p. 320.
  7. Kant, Immanuel. Kritik der reinen Vernunft. Felix Meiner Verlag. 1967. A.594-5=B.622-3.
  8. Kant, Immanuel. Metaphysik der Sitten. 1797. Kant’s gesammelte Schriften (hrsg. von der koniglich preussischen Akademie der Wissenschaften, Berlin) Abteilung 1, Band 6. p. 322.
  9. Hegel, Georg Wilhelm Friedrich. Enzyklopädie der philosophischen Wissenschaften im Grundrisse. 1827. Gesammelte Werke herausgegeben von der Rheinisch-Westfälischen Akademie der Wissenschaften, Bd.19. 2. Aufl. Felix Meiner Verlag. p. 68-69.
  10. Kant, Immanuel. Metaphysik der Sitten. 1797. Kant’s gesammelte Schriften (hrsg. von der koniglich preussischen Akademie der Wissenschaften, Berlin) Abteilung 1, Band 6. p. 355.
  11. Kant, Immanuel. Metaphysik der Sitten. 1797. Kant’s gesammelte Schriften (hrsg. von der koniglich preussischen Akademie der Wissenschaften, Berlin) Abteilung 1, Band 6. p. 355.