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カントの超越論的哲学(10)判断力批判

1997年9月1日

カントの哲学を行為論的・目的論的に解釈するとき、認識的・身体的を問わず、行為一般の究極目的は何かが問題となってくる。『判断力批判』を、ヘーゲル的な視点から再構築してみよう。

『カントの超越論的哲学』の画像
このページは電子書籍『カントの超越論的哲学』の一部です。

『純粋理性批判』においては悟性の能力が、『実践理性批判』においては理性の能力が批判的に吟味されたが、『判断力批判』では「悟性と理性の中間肢[1]」である判断力の可能性が問われる。しかし、カントの三批判書は、三つの能力をそれぞればらばらに吟味した書ではない。理性も判断力も『純粋理性批判』において導入された概念であり、『純粋理性批判』において論じられている理性と判断力は、『実践理性批判』において論じられている理性や『判断力批判』において論じられている判断力とは異なる。同じ理性でも、『純粋理性批判』においては純粋理論理性が、『実践理性批判』においては純粋実践理性が扱われた。では、三批判書は、それぞれ真・善・美という三つの理念を扱っているのかと言えば、そう単純ではない。たしかに『判断力批判』の第一部の主題は美観的判断力であるが、第二部は目的論的判断力となっている。自然が合目的であることは美しいと言えなくはないが、それならば、道徳的に正しい行為とか真理とかも美しいと言えるから、拡大解釈するべきではないだろう。

この点に関するカントの説明は明快ではないので、私のほうで仮説を立てることにしよう。カントの三批判書は、直説法(Indikativ)、命令法(Imperativ)、接続法(Konjunktiv)という、ドイツ語の文の三つの法(Modus)に対応していると考えることはできないだろうか。事実をありのままに陳述する直説法と命令する時に使う命令法が理論と実践に対応していることは容易く見て取れる。もちろん、命令法が使われる命令が道徳的とは限らないが、それは直説法が使われる事実陳述が学問的に真であるとは限らないのと同じことである。これに対して、接続法は、日本語の文法にはない文法範疇であり、説明を要する。英文法を知っている人なら、英語の仮定法に相当すると言えばわかるかもしれない。英語では、仮定法現在、仮定法過去、仮定法過去完了にそれぞれ動詞の不定形、過去形、過去完了形を使うが、ドイツ語では接続法第一式と第二式という接続法でしか使わない独特の動詞の活用形を用いるので、ドイツ人はイギリス人以上に接続法を直説法から意識的に区別して使っていると言うことができる。

ドイツ語の接続法第一式は、主として間接話法で用いられる。他人の話を間接話法で引用する時、接続法第一式を用いることで、その話が事実であるかどうかに話者が関与しないことを示すことができる。この他、話者が願望を示す時にも接続法第一式が使われる。願望は、事実ではないからこそ願望なのであり、事実であることを主張する直説法とは異なる。接続法第二式は、主として事実とは異なる仮定をする時に使われる。またそこから転じて、事実の断定を避け、婉曲的に発言する時にも使われる。要するに、接続法は、事実と異なる、もしくは事実かどうかを問題としない可能的事態に対する想像的な判断に用いられるということである。

カントは『純粋理性批判』で「悟性一般が規則の能力として説明されるのに対して、判断力とは、規則のもとへと包摂する能力である[2]」と定義しているが、それなら、直説法の判断、命令法の判断、接続法の判断でも、規則のもとに個物を包摂しているのだから、その能力は同じ判断力であると言うことができる。しかし、直説法の判断力は悟性に服従しているし、命令法の判断力は理性に服従しており、どちらも独自の領域を持たない。しかし、接続法の判断力は、悟性や理性から自由に、すなわち、それが事実かどうかとか、道徳的に正しいかどうかといったこととは無関係に、行使できるから、独自の認識領域を持ちうる。だからこそ、カントは『判断力批判』という独立した書を書いたのである。

カントのようなキリスト教文化圏の人々は、美しいものや崇高なものを見ると、それは偶然の産物ではなく、創造主が意図的に創ったもので、したがって、自然は合目的的に創られているに違いないと考える傾向にある。米国では、生命や宇宙の精巧な仕組みは知性のある存在者によって意図的に設計されたとする、インテリジェント・デザイン仮説を公教育の理科で教えるべきだと主張する人が、ジョージ・ブッシュを含め、今でもたくさんいるぐらいである。しかし、悟性的にしか考えない科学者からすれば、インテリジェント・デザインなどは想像の産物に過ぎない。啓蒙主義者のカントも、そうした考えに近い。しかし、想像というのは、まさに接続法の判断力が関わるべき認識能力であり、その可能性の批判吟味、超越論的認識が『判断力批判』固有のテーマとなる。

かくして、『判断力批判』では「自然は合目的的である」というアプリオリな総合判断の可能性が超越論的問題となるのであるが、『実践理性批判』の時と同様、主語は理論哲学によって与えられており、ただ述語のみがここに特有である。超越論的哲学の定式3の『判断力批判』版は、次のようになる。

【超越論的哲学の定式6】超越論的反省のもとで、

(1) 合目的性としての超越が

(2) 合目的性からの超越を

(3) 自然において超越しつつ

(4) 自然から超越する。

本章の構成に関して言えば、(1) が主観的合目的性(第一節)、(2) と (3) が客観的合目的性(第二節)、(4) が自覚的合目的性(第三節)に相当する。

『純粋理性批判』では構想力の図式が悟性と感性の総合の媒介となった。悟性と理性を総合する媒介は判断力の原則であるが、人間悟性と物自体を媒介しようとすると仮象が生じるので、その判断の無制約的な推論は否定された。『実践理性批判』においては、判断力は範型を通して悟性に理念を与える。『判断力批判』では、差し当りこれらの媒介機能から遊離した判断力の独自の能力が考察される。

「判断力一般は、特殊を普遍のもとに含まれたものとして考える能力である。もしも普遍(規則・原理・法則)が与えられているならば、特殊をそのもとへと包摂する判断力は規定的である。しかし、もしただそれに対して判断力が普遍を見つけるべき特殊が与えられているだけならば、判断力はたんに反省的である[3]」。規定的判断力は図式によって悟性概念を感性化したが、これに対して反省的判断力は「象徴 Symbol」によって、本来感性化されえないアプリオリな概念を「類比的 analogisch に[4]」に直観する。

反省的判断力は美感的判断力と目的論的判断力とに下位区分される。前者の原理が形式的主観的合目的性(自然美)であるのに対して、後者の原理は実在的客観的合目的性(自然目的)である。ところでカントに言わせれば、これら自然の合目的性という「概念は実践的合目的性(人間の技術のまたは人倫の)からは完全に区別される[5]」。もし反省的判断力の合目的性が実践的合目的性と異なるなら、道徳の現象界における実現という超越論的問題は、解決されえないことになるのではないだろうか。

しかし総合するために予め区別するというのがカントの常套手段であるということを想起しなければならない。「究極目的の可能性の条件をアプリオリに、また[即自的には]実践的なものへの顧慮なしで前提するところのもの、即ち判断力は、自然概念と自由概念との間を媒介し、純粋理論的理性から純粋実践的理性への、前者に従う合法則性から後者に従う究極目的への移行を可能ならしめる概念を、自然の合目的性という概念において暗示している。なぜなら、この媒介的表象によって、それのみが自然において、また自然の諸法則に一致して現実的となりうる究極目的の可能性が認識されるからである[6]」。自然における自由の実現、理論と実践の統一に際して、自然と自由のどちらが主体であるかに関して、次の二つが考えられる。

(1) 主体(自由)から超越する客体(自然)へと主体が超越する。

(2) 主体(自然)から超越する客体(自由)へと主体が超越する。

(1)は人間理性の主体性を強調した立場であるが、『判断力批判』や歴史哲学的諸論文の面白いところは、そうした「近代的」あるいは「カント的」と形容される立場が揺らいで、ヘーゲルの歴史哲学を彷彿とさせる視点が顔を覗かせている点にある。本章では、第三批判を、真・善と並ぶ美という理念を扱った書としてではなく、最初の二批判書を架橋する書として解釈することを目指すが、その際、理性の自覚の歴史である文化を《戯れ Spiel》という概念を手がかりに解明しつつ、カント的(と世間では考えられている)主体性の解体を試みる。

『判断力批判』は、第一部が「美感的判断力の批判」で、第二部が「目的論的判断力の批判」で、第三部はない。ヘーゲル的な弁証法になじんでいる哲学者なら、第三部を書きたくなるものだ。田辺元は、「意志が自己と独立に自己の外にあるものに於て、自己に対する合目的性を自覚するといふ意味で[7]」、「自覚的合目的性」という第三の合目的性を提案した。以下私は、田辺のこの用語を借用して、主観的合目的性と客観的合目的性に、自覚的合目的性という謂わば『判断力批判』の《未だ書かれざる第三部》を補って、超越論的問題の究極的解決の意味を考えてみたい。

参照情報

  1. Kant, Immanuel. Kritik der Urteilskraft. 1790. Kant’s gesammelte Schriften (hrsg. von der königlich preussischen Akademie der Wissenschaften, Berlin) Abteilung 1, Band 5. p. 177.
  2. Kant, Immanuel. Kritik der reinen Vernunft. Felix Meiner Verlag. 1967. A.132=B.171.
  3. Kant, Immanuel. Kritik der Urteilskraft. 1790. Kant’s gesammelte Schriften (hrsg. von der königlich preussischen Akademie der Wissenschaften, Berlin) Abteilung 1, Band 5. p. 179.
  4. Kant, Immanuel. Kritik der Urteilskraft. 1790. Kant’s gesammelte Schriften (hrsg. von der königlich preussischen Akademie der Wissenschaften, Berlin) Abteilung 1, Band 5. p. 255.
  5. Kant, Immanuel. Kritik der Urteilskraft. 1790. Kant’s gesammelte Schriften (hrsg. von der königlich preussischen Akademie der Wissenschaften, Berlin) Abteilung 1, Band 5. p. 181.
  6. Kant, Immanuel. Kritik der Urteilskraft. 1790. Kant’s gesammelte Schriften (hrsg. von der königlich preussischen Akademie der Wissenschaften, Berlin) Abteilung 1, Band 5. p. 196.
  7. 田辺元. 「カントの目的論」 『田邊元全集第三巻』 1924. 筑摩書房, 64頁.