9月 011997
 

カントの哲学を行為論的・目的論的に解釈するとき、認識的・身体的を問わず、行為一般の究極目的は何かが問題となってくる。『判断力批判』を、ヘーゲル的な視点から再構築してみよう。

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純粋理性批判』においては悟性の能力が、『実践理性批判』においては理性の能力が批判的に(自己反省的=超越論的に)吟味されたが、『判断力批判』では「悟性と理性の中間肢」 [Kant: Kritik der Urteilskraft,S.177] である判断力の可能性が問われる。この位置付けからも、合法則性を原理とする悟性(認識能力)の産物である自然は、合目的性を原理とする判断力(快不快の感情の能力)の産物である文化(Kunst 技術)を通して究極目的を原理とする理性(欲求能力)の産物である自由へと導かれる [Kant: Kritik der Urteilskraft,S.198, Kant: Handschriftlicher Nachlaß, S.246] ことが理解される。

判断力批判』では「自然は合目的的である」というアプリオリな総合判断の可能性が超越論的問題となるのであるが、『実践理性批判』の時と同様、主語は理論哲学によって与えられており、ただ述語のみがここに特有である。超越論的哲学の定式3の『判断力批判』版は、次のようになる。

【超越論的哲学の定式6】 超越論的反省のもとで、

  1. 合目的性としての超越が
  2. 合目的性からの超越を
  3. 自然において超越しつつ
  4. 自然から超越する。

本章の構成に関して言えば、一番目が主観的合目的性(第一節)、二番目と三番目が客観的合目的性(第二節)、四番目が自覚的合目的性(第三節)に相当する。

純粋理性批判』では構想力の図式が悟性と感性の総合の媒介となった。悟性と理性を総合する媒介は判断力の原則であるが、人間悟性と物自体を媒介するわけではなく、その判断の無制約的な推論からは仮象が生じた。『実践理性批判』においては、判断力は理念の範型を通して悟性に統制的原理を与える。『判断力批判』では、差し当りこれらの媒介機能から遊離した判断力の独自の能力が考察される。

「判断力一般は、特殊を普遍のもとに含まれたものとして考える能力である。もしも普遍(規則・原理・法則)が与えられているならば、特殊をそのもとへと包摂する判断力は規定的である。しかし、もしただそれに対して判断力が普遍を見つけるべき特殊が与えられているだけならば、判断力はたんに反省的である」 [Kant: Kritik der Urteilskraft,S.179] 。規定的判断力は図式によって悟性概念を感性化したが、これに対して反省的判断力は「象徴 Symbol」によって、本来感性化されえないアプリオリな概念を「類比的 analogisch に」 [Kant: Kritik der Urteilskraft,S.255] に直観する。

反省的判断力は美感的判断力と目的論的判断力とに下位区分される。前者の原理が形式的主観的合目的性(自然美)であるのに対して、後者の原理は実在的客観的合目的性(自然目的)である。ところでカントに言わせれば、これら自然の合目的性という「概念は実践的合目的性(人間の技術のまたは人倫の)からは完全に区別される」 [Kant: Kritik der Urteilskraft, S.181] 。もし反省的判断力の合目的性が実践的合目的性と異なるなら、道徳の現象界における実現という超越論的問題は、解決されえないことになるのではないだろうか。

しかし総合するために予め区別するというのがカントの常套手段であるということを想起しなければならない。「究極目的の可能性の条件をアプリオリに、また[即自的には]実践的なものへの顧慮なしで前提するところのもの、即ち判断力は、自然概念と自由概念との間を媒介し、純粋理論的理性から純粋実践的理性への、前者に従う合法則性から後者に従う究極目的への移行を可能ならしめる概念を、自然の合目的性という概念において暗示している。なぜなら、この媒介的表象によって、それのみが自然において、また自然の諸法則に一致して現実的となりうる究極目的の可能性が認識されるからである」 [Kant: Kritik der Urteilskraft,S.196] 。自然における自由の実現、理論と実践の統一に際して、自然と自由のどちらが主体であるかに関して、次の二つが考えられる。

(1) 主体(自由)から超越する客体(自然)へと主体が超越する。

(2) 主体(自然)から超越する客体(自由)へと主体が超越する。

(1)は人間理性の主体性を強調した立場であるが、『判断力批判』や歴史哲学的諸論文の面白いところは、そうした「近代的」あるいは「カント的」と形容される立場が揺らいで、ヘーゲルの歴史哲学を彷彿とさせる視点が顔を覗かせている点にある。本章では、第三批判を、真・善と並ぶ美という理念を扱った書としてではなく、最初の二批判書を架橋する書として解釈することを目指すが、その際、理性の自覚の歴史である文化を《戯れ Spiel》という概念を手がかりに解明しつつ、カント的(と世間では考えられている)主体性の解体を試みる。以下我々は、田辺元に従って[t]、主観的合目的性と客観的合目的性に、自覚的合目的性という謂わば『判断力批判』の《未だ書かれざる第三部》を補って、超越論的問題の究極的解決の意味を考えてみよう。

[t]田辺元は、著作『カントの目的論』において次のように三種の合目的性を位置付けている:「初め一切を我の立場より見る形式的合目的性から、次に一切を、それ自身を目的とするものと観る内面的合目的性に移り、再び我れに復帰して、一切がそれ自身を目的にしながら、同時にそれは具体的の立場に於て我の目的に適ふことに由って、却て始めてそれ自身を目的にすることが出来るのであると観るのが自覚的合目的性である。此立場に於て、意志が自己と独立に自己の外にあるものに於て、自己に対する合目的性を自覚するといふ意味で、私は之を自覚的合目的性と名付ける」[田辺, カントの目的論, 64頁] 。 最近出た本書の立場に近い欧語文献としては、[Auxter, Kant’s Moral Teleology,Chapter 4] などがある。

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