9月 011997
 

私たちは、美しいものに惹かれ、崇高なものに感嘆する。悟性や理性とは無関係に見える美感的判断力は、カントの哲学においてどのような位置を占めるのだろうか。目的論の立場から考えてみよう。

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カントは、『判断力批判』を「美感的判断力 die ästhetische Urteilskraft の批判」[a]をもって始めるわけであるが、この「美感的」はもちろん『純粋理性批判』の感性論(Ästhetik)とは関係がない。美や醜は対象の認識に係わる感性的直観の表象様式ではなく、快・不快の感情による表象様式であるからである。この快・不快はまた、『実践理性批判』での主題である 快適(Angenehm)や 善(Gut)とも異なる。 美はそれらと「適意 Wohlgefallen」という点で同じなのだが、実践的関心と結び付いていないという点で異なる。「趣味判断を規定する適意は全ての関心を離れている」 [Kant: Kritik der Urteilskraft,S.204] のである。

[a]「美的判断(力)」などとも訳されるが、これではまるで判断(力)自体が美しいかのようなので、「感知する αἰσθάνομαι」というギリシャ語の原義を生かして「美感的判断(力)」と訳しておく。

趣味判断は、このように関心から自由であるがゆえに普遍性を持つ。但し趣味判断の普遍性は、悟性(概念)によって規定されたものではないので、客観的ではなく“主観的”である。「趣味判断における表象様式の主観的普遍的な伝達可能性は、何ら特定の概念を前提することなしにそうであるのだから、構想力と悟性の自由な戯れ[das freie Spiel der Einbildungskraft und Verstandes]における心的状態以外の何物でもない」 [Kant: Kritik der Urteilskraft,S.217f] 。この自由な戯れの結果、美的なものに関して諸個人の間に共通感覚(Gemeinsinn 共通のセンス)が形成されるようになるが、これはたんなる外的感覚でもなければ、概念とも、したがって常識(共通の悟性 der gemeine Verstand)とも異なる。

しからば趣味判断の普遍的な伝達可能性は、共通感覚あるいは純粋感情のいかなる形式を根拠としているのであろうか。カントは、それは合目的性であると言う。「趣味判断は対象(ないしはそれの表象様式)の合目的性の形式以外何物をも根拠としない」 [Kant: Kritik der Urteilskraft,S.221] 。合目的性とは、概念(手段)が対象(目的)の規定根拠となっているということであって、この因果性の主体における意識が快となる。合目的性は、目的の欲求(意志)を必ずしも前提しておらず、その可能性は規則の表象によって理解されうる。美感的判断力の根拠たる合目的性は《目的なき合目的性》であって、実質的目的を欠くがゆえに形式的であり、したがってアプリオリなわけである。

この形式は実質実例(Beispiel)によって直観化されるが、絵画や音楽の本質は、色や音という感覚的魅力にではなく、素描や作曲に(正確に言えばその合目的的な形式に)ある、とカントは主張する。もちろん絵画に感性的な色が無かったり、音楽に感性的な音が無かったりすればそれらに対する美もないであろうから-いやそれどころかそれらは絵画や音楽ですらないであろうから-趣味判断は実例を、さらには模範を必要とするわけだが、しかしいかに完全な美の模範と雖えどもわれわれ自らが美しいと感じなければ美しくないのだから、趣味判断の基準は客観にではなく主観に求めなければならないであろう。

最高の模範・ 趣味の原形はたんなる理念(Idee)であって、各人はその理念を自分の中に産出し、その理念に従って趣味の客体や趣味による評価の実例である全てのものを、そして各人の趣味すらをも評価しなければならないのである。

[Kant: Kritik der Urteilskraft,S.232] 。

美の理念は構想力の平均値的理念であっ て、理性の理想(Ideal=die Vorstellung eines einzelnen als einer Idee adäquaten Wesens)とは異なり、その必然性(普遍妥当性)は《模範的 exemplarisch》であって《必当然的 apodiktisch》ではない。美感的判断力は、個別反省的であって普遍規定的ではないことを思い出されたい。「美しい『花』がある。『花』の美しさといふ様なものはない」[小林秀雄,無常といふこと, 12頁] のである。

反省的判断力が与える合目的性は偶然的で、それだけに意外さと快の感情の余地がある。構想力が悟性に仕える規定的判断力の合法則性が退屈であるのに対して、悟性が構想力に仕える反省的判断力の「法則なき合法則性 Gesetzmäßigkeit ohne Gesetz」は、構想力が自由に戯れることができるので飽きない。自らは規則正しい生活を送ったカントも「全ての硬直した合規則性は(それは数学的な合規則性に近似しているのだが)、それ自体趣味に反するものを持っている」 [Kant: Kritik der Urteilskraft,S.242] と漏らした所以である。

ガダマーは、『判断力批判』における「構想力と悟性の自由な戯れ」の概念に注目しつつ、次のように批評する。「我々にとって重要なことは、Spiel という概念がカントやシラーにおいて持っていたような、そして近代の全ての美学と人間学を支配していた主観的な意味から、この概念を解放することである。芸術経験との関連で Spiel について語る ならば、Spiel は[芸術作品の]創作者と享受者の関係ではないし、ましてや心的関係ではなく、一般に言って Spiel において活動する主観性の自由ではなく、芸術作品そのものの存在様式なのである」[Gadamer, Wahrheit und Methode, S.107] 。

《Spiel》は、さらに芸術作品の存在様式であるのみならず、作品一般の存在様式でもある。本章は、ガダマーが試みる存在論的転回の方向に沿って、『判断力批判』第二部の“客観的”合目的性や、第三部と位置付けた歴史哲学にまで《Spiel》論を拡張するつもりである。その際重要なことは、ガダマーの解釈学的な伝統論/歴史哲学を“模倣”するの ではなくて、システム論の立場から“継承”することである。

システム論的には善も美もネゲントロピーであるが、両者は似て非なる概念である。我々は可能的にシステムの維持・発展をもたらす普遍的法則への合目的性に対して「善い」という述語を与えるが、これに対して「美しい」という述語は《目的なき合目的性》に与えられる。芸術は美を創造する人間の営為であるが、その活動の本質は、労働における生産と対照を成す《遊び Spiel》である。芸術は語源的に《技術》から由来している。今日でこそ芸術は科学技術とは明らかに異なるが、もともと芸術は現代芸術のように完全に自己目的化しておらず、労働や宗教と一体となっていた。それゆえアルタミラ洞窟の絵画は、決して現代的な意味での芸術ではなかった。逆に言えば芸術は、技術からその実質的目的を捨象し、創作形式を自己目的的に抽象化することによって歴史的に誕生したといえる。

芸術以外の遊びには、たんなる《戯れ Spiel》もあれば、《勝負・賭 Spiel》を含む《ゲーム Spiel》もある。多様な種類の《Spiel》が持つ一つの“家族的類似性”は、やはり[実利的な目的に結び付かないこと]である。遊びがなくても人間は生きていくことができる。したがって遊びは贅沢であり、過剰ゆえの富の蕩尽という人間文化の構造的特性を持つ。芸術が他の遊びと異なる点は、それが他者によって観賞されうる作品を産み出すこと、遊戯活動よりもその作品に評価の重点がおかれることにある。[作用-対象-内容]という実践/認識の基本的な図式に即し て言えば、芸術作品を創造/観賞するどちらの場合でも、レアールな作用-対象ではなくて、イデアールな内容が重要であり、かつ間主観的合意が得られなければならない。美自体は心的事実ではあるが、美の真理はたんなる心的事実を越える。ルーマンの術語を用いて言えば、芸術はコミュニケーション・メディアの一つであり、ダブル・コンティンジェントな複雑性の増大を通して複雑性を縮減する。

芸術は手段的な有用性を持たない。しかし芸術は、有用性を持たない(あるいは持とうとしない)がゆえにある有用性を持つ。もし効率だけが問題であり、一切の無駄を省こうとするならば、芸術を含め遊びは不要となる。その時人間社会は機械的で単調となり、安定はするものの進歩しなくなる。進歩には飛躍が必要であり、秩序はゆらぎを通して自己形成しなければならない。芸術は、虚構において現実の新たな可能性を探るという意味で精神の実験である。芸術あるいは遊びは、人間の精神の自由で多様な活動の余地(遊戯空間 Spielraum)を造る。それはさしあたり有用性を持たない[遊び]ではあるが、システムが環境の変化に適応する際に何らかの形で意図せずして役に立つことがある。「芸術を通して聴覚的/視覚的世界の新しい諸可能性が発見され、役に立つ。分散 [秩序化の放棄]の戦術を採ることによって、そうでないときよりも世界を秩序化するより多くの可能性が現れる」[Luhmann, Essays on Self Reference, p.219] 。

芸術/美的観賞においては、システムが要素を“規定的に”決定する のではなくて、要素がシステムを“反省的に”形成する。科学や道徳においても、既製のパラダイム内部でのパズル解きは規定的であるが、パラダイム転換に際して生じる新たな可能性の出現は芸術的創造に近い。その時、いかなるパラダイムが望ましいかを決める基準をあらかじめ設定しておくことはできない。そうした高次の基準そのものが解体するのだから。それは事後的に追認されるのみである。それゆえ、『判断力批判』での超越論的“演繹”は、《上から下へ》ではなくて、《下から上へ》という方向を取らざるを得ない。

カントは趣味判断の超越論的演繹を次のような「三段の総合」(?)によっておこなう。「1.自分で思考すること、2.あらゆる他人の立場で思考すること、3.いつでも自分自身と一致して思考すること」 [Kant: Kritik der Urteilskraft, S.294] 。

まず、1.に関してであるが、趣味判断においては個別判断が普遍的判断に先行するので、「美しい」と言うためには自分で確かめてみなければならない。趣味の「継承 Nachfolge」と「模倣 Nachahmung」は区別されるべきであって、前者は後者とは異なり、偉大な先人と同じものを汲み取りながら、その汲み取り方だけを模倣する。「間主観的に妥当している、ゆえに美しい」などということはありえない。しかしまた2が1より派生的というわけでもない。カントは趣味を「所与の表象についての我々の感情を、概念の媒介なしに普遍的に伝達可能にするもの[共通感覚 sensus communis]の評価の能力」 [Kant: Kritik der Urteilskraft,S.295] として定義しているぐらいである。もし も普遍妥当性を持たないならば、それは趣味判断ではなくて、たんなる感覚(Empfindung)である。

2の格率は、換言すれば「(他者の立場に自己を置き移すことによってのみ規定することができる)普遍的な立場から自分の判断を反省する」[ibid] ことであると言う。だから反省的判断力において《特殊から普遍を見出す》ということは、個別判断を全称化することではなく(さもなければそれは趣味判断ではなく論理的判断となってしまう)[Kant: Kritik der Urteilskraft,S.285] 、それの間主観的妥当性を得ることと考えられる。

3で謳われる判断の首尾一貫性も、超越論的統覚による統一ではなく、概念以前的・自他未分的な間主観的統一として受け取らなければなるまい。

以上の超越論的演繹を可能ならしめる《共通感覚》の存在はいかにして証明されるのであろうか。カントはこの問いに答えようとしない。さながらその存在は《判断力の事実》だとでも言わんばかりである。

主観的合目的性は自覚的合目的性に止揚されるので、カントの美学の細部に深く立ち入る必要はない。実践的関心を持つ者にとっては、むしろこの合目的性の即自的段階に価値哲学を読み取ることのほうが重要課題であるが、そのためには美の感情だけでなく崇高の感情をも考察する必要がある。

崇高なるものとは「それとの比較においては全てが小さくなるようなもの」 [Kant: Kritik der Urteilskraft, S.250] のことであるが、これにはさらに「それをただ考えることができるだけでも、あらゆる感官の尺度を凌駕するような心の能力を示すようなもの」[ibid] という条件が付け加わらなければならない。

Aよりも大きいB、Bよりも大きいC … という部分から全体への把捉の継続(例えば、私の身体→私の家→私の町→日本→地球→太陽系→ 銀河系 usw.)において最初のAやBが忘れられるならば、この思惟の運動は同じものの繰り返しであり、その大きさは相対的であるがゆえに崇高の感情は生じない。しかしもしも直観の最初に把捉された部分表象が構想力のうちに保たれているなら、その大きさには最大があり、またその絶対性のゆえに崇高性を持つ。

例えば最初に地球儀を眼前にありありと思い浮かべ、次に本物の地球を思い浮かべるとき、二つの球の思惟の地平における大きさはほとんど同じである。それは本物の地球を表象しているとき、その中に含まれているはずの地球儀の思惟における大きさがどれぐらいであるかを考えることによって逆に推測がつく。大きさを 「論弁的 diskursiv」に知ることと偉大さを「直観的 intuitiv」に理解することとは別なのである。

似たような例をもう一つ挙げれば、社会経験の浅い子供は「内閣総理大臣」の地位がそれほど高いとは思わないだろうが、もし彼が公務員となって序列社会の厳しさを、身をもって体験すれば、「自分がその足元にも及ばないあの上司の上のさらにその上の … 」という“把捉の総合”を続けていって首相の地位の高さに驚嘆することであろう。

キリスト教においてはこのような最高権力者ですら神の前において相対化される。今、地上の強者の権力が100で、弱者のそれが1だとする(100は思惟の地平における最大限度の量を表すとする)。ところが次に神の無限大の力を表象すると、無限が100になるために先ほ どの地上の99の権力格差は無限に0に近付く。また現世のことしか考えない人にとって自分の人生は100の長さで与えられるが、来世において自分の魂が永遠に不死であることを知れば、現世での苦しくて辛い人生の長さは無限に0に近付く。キリスト教は(総じて背後世界を説く宗教は)このように思惟の地平の有限性を利用して人々の魂を“救済する”。

第二巻で説明するように、「地平」とは「否定によって構成され、否定によって対自化される意識の領域」なのであるが、ここでもまず現世における大と小の格差が対比(否定)によって構成され、次に現世という地平が来世という地平によって対自化されるわけである。

崇高とは、無制約的なものに対する感情である。把捉の総合の極限として得られる無制約的客体は、『純粋理性批判』に謂う純粋理性概念(Idee)に外ならない。そこで美の感情の根拠が悟性と構想力との戯れにおける自然の合目的性であったのに対して、崇高の感情のそれは理性と構想力との戯れにおける自然の反目的性であると言えよう。

もっとも反目的的であるといっても、理性は感性を端的に越えているがゆえに、自然が理念に不適合・反目的的であるということは、 理性の本性(自然)にとっては適合的であるから、これとて結局は自然の合目的性を根拠としているということになる。「我々の能力が、我々にとって法則である理念[道徳的理念]に到達するのに不適切であるという感情が尊敬である」 [Kant: Kritik der Urteilskraft,S.257] 。不適切性としての適切性の感情が、適切的たらんとする道徳的行為の客観的ではないが主観的な動機となるのである。

理論哲学において、超越論的統覚が超越論的客体を構成する際、外界の規定によって内界が反照的に規定されるというありかたで経験的統覚が触発されるのと同様に、実践哲学においても、純粋実践理性が目的の国を構成するする際、自他の義務遂行のために経験的欲求(傾向)が否定されるというありかたにおいて尊敬という感情が惹き起こされる。

純粋実践理性は、我々の自尊心を傷付けることによって道徳法則を尊敬の対象にするわけである。我々は謂わば、低められることによって高められるのであって、それはかつてカントがルソーの本に接して経験したことであった。

尊敬という感情は、全く理性によってのみ惹き起こされ、理性によってアプリオリに認識される道徳的感情として、経験的な情念的感情からは区別される。後者が快を生じさせる感情であるのに対して、前者は快を生じさせないことによって快が生じる感情である。カントはここからキリスト教の隣人愛を批判する。人間は、愛という情念的感情に従って道徳法則を守ることができるほど高尚な存在者ではないのである。「人間がその都度ありうる道徳的状態は、Tugend 即ち戦闘の中にある道徳的心術であって、意志の心術の全き純粋性を所有していると思念された神聖性ではないのである」 [Kant: Kritik der Urteilskraft,S.151] 。

だがこのことを 逆に言うならば、神の如き傾向性と戦う必要のない存在者には尊敬の感情が生起しないということなのである。ここに道徳のパラドックスがある。道徳の価値が理解できるのは、「心の欲するところに従いて矩を踰えぬ」君子ではなくて、「心の欲せざるところに従いて矩を踰えぬ」凡人なのである。犠牲にしなければならない欲望が大きければ大きいほどそれだけ道徳的な価値は輝きと崇高さを増すのであって、この点、感性的に制約されていることは、人間の道徳的な弱さであると同時に強さでもあると言えよう。

できるかぎり犠牲を少なくしようとする努力とこれに伴う痛切な感覚のゆえに、我々は、犠牲が完全になくなって初めて生は最高度の価値へと高められると思い込む。しかしこの際我々が見落としていることは、犠牲は必ずしも外的な障害ではなく、目標それ自体とそれへの道のりの内的な条件であるということである。[…]魂は罪を克服した後に永遠の祝福へと高められるのであるが、その罪が魂に初めてかの《天上の喜び》を保証するのであって、天上にいるそもそも始めから義しい人はこの喜びに与かることはない。

[Simmel, Philosophie des Geldes,SS.39-40]

ところがカント自身は、このような「欠点のある人間のほうが意志なき天使の群れよりも優れている[ハラーの詩]」 [Kant: Die Religion innerhalb der Grenzen der bloßen Vernunft,S.397] という考えを、価値の「量の評価の主観的制約を量そのものの客観的制約と見なす」「錯視」[ibid] であるとして斥ているが、我々はこのよう な価値実在論に対してもコペルニクス的転回を施すべきではないだろうか。

カントは『純粋理性批判』の第二版序論でプラトンのイデア界への飛行を揶揄している。「軽快な鳩は、自由に空気中を飛び回って空気の抵抗を感じるので、真空の中ではもっとずっとうまく飛べると考えるかもしれない」[Kant: Kritik der reinen Vernunft, S,8] 。しかしもし空気が無ければ、うまく飛べるどころかそもそも飛ぶこと自体が不可能になるであろうというわけである。同様に我々はカントに対してこう言うことができよう。道徳的完全性を目指す有限な存在者人間は、もしこの肉体的欲望の障害が無ければもっと容易に神聖で崇高な人間になれるのに、と考えるかもしれない。しかしもしこの障害が無ければ、そもそも神聖さや崇高さ自体が存在しなくなるであろう。

もっとも尊敬感情は、義務遂行の動機ではなくて結果にすぎず、カント倫理学においては本質的な構成契機ではない。あたかも、道徳は感情とともに(mit)始まるにしても感情から(aus)生じるわけではない、とでも言わんばかりである。それにしても彼の尊敬感情論は、M.シェーラーによって「形式主義」の烙印を押された『実践理性批判』の中では殆ど唯一の「実質的価値倫理学」であるという点で注目してよい。

一般に価値は(経済学の用語で言えば)有用性と希少性の二つの契機から成り、(例えば水や空気がそうであるように)いかに有用性があっても希少性がなければ、その価値は価値として対自化されない。この点道徳法則の遵守は、互酬性(reciprocity)の原理から言って、感性的欲求充足の 有用性価値を犠牲にした結果の(それに相当する量の)希少性価値を持つと言える。

しばしばカントの三批判書に真・善・美の三区分をあてがう試みがなされる[c]が、この三者は対等に並びうるものではない。『第二批判』で論じられているのは当為であって価値ではない。価値判断は趣味判断や美感的判断と親近性を持つので、そして実践における価値と当為の間の関係は理論における受動的感性と自発的悟性の関係とパラレルであるので、当の三区分は理論的(真)と実践的(善・美)の二区分として整理される。

[c]例えば H.Cohen の Logik der reinen Erkenntnis,Ethik des reinen Willens,Ästhetik des reinen Gefuehls の 三部作を想起されたい。

カントは快の感情の対象として、(1)das Angenehme (2)das Schöne(3)das Erhabene (4)das Schlechthin-Gute の四つを挙げている [Kant: Kritik der Urteilskraft,S.266] が、(3)が(4)から生じてきたように、(2)は(1)から生じてきたと言 えないのだろうか。しかるにカントは、美の感情を「関心なき適意」として美的なものの独自性を主張する。彼はただ「美しいものは人倫的に善なるものの象徴である」 [Kant: Kritik der Urteilskraft,S.353] と言って善と美の関係を仄めかすだけである。

ペイトンによれば

“範型”という言葉は、一般に神学においてカントが“象徴”という言葉を用いるのと多かれ少なかれ同一の意味で用いられる。すなわち“範型”は何物か[定言命法]を象徴化しあるいは図示するものである。

[Paton, The Categorical Imperative, p.160]

定言命法の範型は倫理における実質的なものと形式的なものの総合であり、ペイトンのこの示唆は意味深長である。

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