カントの超越論的哲学(12)客観的合目的性

1997年9月1日

自然界には、偶然にできたとは信じがたい合目的的な相互連関があり、人々は、かつてそこから神の存在を感じ取った。たんなる部分の寄せ集め以上の合目的的全体はいかにして可能なのか、『判断力批判』を手掛かりに、考えてみよう。

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自然の客観的合目的性(例えばあたかも種の自己保存を目的として巧妙に造られているかのような生物のメカニズム)は、自然の因果結合という点からすればむしろ偶然的であって、それをアプリオリに想定する権利はなく、ただ特殊な事例から反省的に想定されるだけである。だから(少なくとも本節で扱う)目的論的判定は、構成的な規定的判断力にではなく、統制的な反省的判断力に属する。カントは、アリストテレスのように自然の説明に目的因が必要だとは考えなかったわけである。合目的性の概念は、主観的と客観的、形式的(反省的)と実質的(規定的)、内的と外的の区別にしたがって分類されているので、表9でそれを整理してみた。

合目的性の分類
主観的合目的性 客観的合目的性
実質的規定的 形式的反省的 実質的規定的 形式的反省的
内的 幸福の合目的性(快楽) 趣味の合目的性(美と崇高) 道徳の合目的性(完全性) 自然の合目的性(有機体)
外的 幸福への合目的性(有用性) 趣味への合目的性(芸術) 道徳への合目的性(文化) 自然への合目的性(真理)

最後の「真理」の合目的性に関してコメントしておくと、これは真理そのものにとっては必然的ではない諸真理間の有機的体系性のことであって、真理が技術知として人間生活に奉仕するというような実質的有用性(これは一番左の幸福への合目的性に該当する)とは異なった可能的有用性のことである [Kant: Kritik der Urteilskraft,S.362] 。

ここでもまた形式的合目的性は、 形式的なるがゆえに特定の実質的目的を持たない《目的なき合目的性》なのである。同じ客観的形式的合目的性でも真理の合目的性が、可能的にではあるが有用性を前提しており、また部分が全体から独立しているという点で外的であるのに対して、自然目的(有機体)は、おのれ自身が目的であると同時に手段であり、また全体が部分に優先しているという点で内的な合目的性を持つと言える。

生命体においては、種内的にも個体内的にも自己が自己を産出し、諸部分は相互に因果関係にある(相互依存の関係にある)。この意味において自然目的は、「組織化され、かつ自己自身を組織化する存在者[organisiertes und sich selbst organisierendes Wesen]」 [Kant: Kritik der Urteilskraft,S.374] 、スピノザ流に言えば《能産的自然 natura naturans》である。

L.アルチュセールは、因果性論のモデルを、(1)ガリレオ=デカルト型の推移的・分析的因果性の理論、(2)ライプニッツ=ヘーゲル型の表出的因果性の理論、(3)スピノザ=マルクス型の構造因果性の理論に分類している [Althusser, Pour Marx,TomeⅡ,p.167] が、カントの有機体論的因果性の理論はどれに入るであろうか。要は原因と結果を時間的な先行/後続の関係、精神的な内的本質/外的現象の関係、構造論的な全体/部分の関係で捉えるかである。

カントは、イギリス経験論的変容を経て(1)の力学的機械論的モデルを受け継いでいる。しかしカントの哲学は超越論的観念論であって、(1)のモデルは(2)のモデルに包摂される。さらに既に確認したことであるが、カントの超越論的哲学の超越は、内部としての主観が外部としての客観へと「超越する」わけではなくてむしろ部分的モメントが全体性へと超越するのだから、(2)のモデルは(3)のモデルへと変形される。

もちろんスピノザにおいては、カントにおけるように目的論は単なる統制的原理ではない。スピノザの能産的自然は、その機能という点からはカントの《超越論的統覚=超越論的客体》に相当するが、たんなる現象ではなくて無限実体つまり物自体なのである。だがカントの《超越論的哲学=超越論的目的論》に、スピノザ-マルクス-構造主義的なモデルへの萌芽がなかったとは言えない。

目的論を機械論と比較するなら、表10のようになる(アルチュセールの分類で言えば、機械論は(1)に、目的論は(2)と(3)の混合に相当する)。

機械論と目的論の相違
機械論 目的論
結合様式 一方向的因果関係
実在的原因
相互作用
観念的原因
存在了解 唯物論的
原子論的
無機的
物活論的
全体論的
有機的
運動観 力学的
外発的
自己再生力なし
生物学的
内発的
自己増殖的

カントは時計を有機物の例として挙げ、無機物と比較する。

時計のある部分が他の部分を産出するということはないし、ましてやある時計が他の材料を使って(それを有機化して)他の時計を産出することはない。それゆえ時計は、自分からなくなった部分を補充したり、最初に出来た時の欠陥を他の部分を援用して直したり、調子が狂ったとき自らを修繕したりすることはない。これに対して我々はこれら全てを有機化された自然に期待することができる。

[Kant: Kritik der Urteilskraft,S.374]

カントのこの説明では、まるで目的論と機械論の区別は(無機物と有機物という)客体の区別に求められるかのようである。なるほど時計は人-間によって造られる。しかし人-間[o]もまた時計によって造られるとは言えないだろうか。目的論的結合が観念的原因によるものであることを上の表で確かめられたい。時計もまた目的論的体系の中での有機的一分肢なのである。また生命体に自己増殖力があると言っても、それは環境との不断の新陳代謝を行う開放系としてのみ可能なのであって、この点同じく外部からエネルギーを得ている時計と人間との相違は相対的である。

[o]カント自身、国家組織などを Organisation(生物の組織体)に喩えることを「きわめて適切だ」と言っている [Kant: Kritik der Urteilskraft, S.375] 。

人間行為の目的論的説明、例えば「彼は喉の渇きをいやすために水を飲む」は、同時に「喉の渇きが彼をして水を飲ましめた」というように機械論的説明へと転換可能であり、他方(古代インドの思想やアニミズムなどがそうするように)宇宙の総体をマクロ生命と見なすことも可能であるのだから、目的論と機械論の相違は世界観的な相違だと言える。

実際カントは正当にも、機械論を構成的、目的論を統制的というように判断様式によって区別している。『純粋理性批判』の弁証論を想起されたい。目的論的格率は我々の自然観察の手引きであって、自然科学の探求者が「何物も偶然には生じない」を格率とするように、有機体の研究者は「何物も無駄にはない」を格率とするのである。合目的性のこのような性格を忘れて、目的論と機械論のどちらが正しいかを問うならば、合目的性の実在性に関して表11のごとき二律背反が生じる。

機械論と目的論の二律背反
第一格率(機械論) 第二格率(目的論)
物理的 偶然性の観念論
(エピクロス)
leblose Materie
物活論的実在論
(ターレス)
lebende Materie
超物理的 宿命性の観念論
(スピノザ)
lebloser Gott
唯神論的実在論
(中世神学)
lebendiger Gott

カントは「二律背反」という言葉を使いながら、『純粋理性批判』における二律背反のように、“定立 Thesis”と“反定立 Antithesis”ではなくて、“第一格率 die erste Maxime”と“第二格率 die zweite Maxime”あるいは“命題 Satz”と“反対命題 Gegensatz”という名称を使っている。これは、ここでの第一格率と第二格率が『純粋理性批判』における定立と反定立に対応していないためと考えられる。

カントは、偶然性の観念論は自然の合目的性を仮象としてすら説明することができず、スピノザの宿命論的決定論は全てのものを目的と見なすことによって目的の表象を不可能にしているとして機械論を斥け、目的論も、それが物活論であれ、唯神論であれ、根拠なき独断論であるとして斥ける。表12にまとめたように、カントはここの二律背反でも、《超越論的観念論=経験的実在論》の立場を採ることによって定立と反定立の対立地平そのものを克服しようとする。

二律背反の止揚
規定的人間悟性 反省的人間悟性 規定的神的悟性
結合様式 機械論 目的論 目的論
結合様相 必然的 偶然的 必然的
理念 構成的 統制的 構成的
悟性 diskursiv diskursiv intuitiv
認識順序 部分 → 全体 部分 → 全体 全体 → 部分
順序内容 因果 → 法則 有機体 → 目的 目的 → 有機体

この三者のうち左の機械論しか認めないのが第一格率、右の目的論までも認めるのが第二格率、機械論を認めながらも真中の目的論をも認めるのがカントの立場である。右の目的論は物自体的な目的論であって、人間には認識不可能であり、ただ神的な知的直観によってのみ《認識=創造》される。

しかしカントは、規定的構成的目的論を人間に全く認めないわけではない。理論的自然目的は偶然的統制的概念であるが、実践的道徳目的は必然的構成的概念なのである[p]。定言命法の実現は、認識が同時に無制約的なものの創造であるという点でも神的な知的直観と類似しているが、ただ実現能力が有限か無限かの相違があるだけである。

[p]カントは『判断力批判への第一序論』のなかで、「実践的」の名に値する行為はただ自由の理念に基づいている場合だけであり、幸福促進のための選択意志的行為は、「実践的 praktisch」ではなく「技巧的 technisch」であり、その原理は理論的認識の適用に過ぎないと主張する [Kant: Handschriftlicher Nachlaß,SS.197-198] 。それゆえ規定的構成的目的論は道徳的実践に限られる。

かくして目的論のトピックは、自然目的の観察から道徳目的の実現へと移って行く。《目的なき合目的性》としての自然に究極目的が措定されることによって《超越論的哲学=超越論的目的論》の画竜は点睛を得る。