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カントの超越論的哲学(13)自覚的合目的性

1997年9月1日

私たちは、これまで、主観的合目的性と客観的合目的性を考察してきた。客観的合目的性を可能ならしめる主観的制約は何かを考える時、カントの目的論は歴史哲学、それもたんに人間界だけでなく全自然界を、究極目的を目指して展開される理性の自己実現と観ずる歴史哲学となる。

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このページは電子書籍『カントの超越論的哲学』の一部です。

1. 究極目的としての理性の自己実現

カントは、『世界市民的意図における普遍史のための理念』の中で、「およそ被造物の全ての自然素質[Naturanlage]は、いつかは完全に合目的的に開展されるように規定されている[1]」と述べている。有機体の構造がそれぞれ多様であるにもかかわらず類似性を持っていることは、それらが単純で根源的な有機体から進化して来たことを示すのであるが、このように自然を知性的な第一原因による進化(第四の二律背反の主題である神の世界創造)の体系と見なすためには目的論的原理が必要である。

カントは、ダーウィンに先立つこと70年ほど前に、機械論に徹し切れない進化論を唱えたという次第であるが、種および個体の発生に関しては、目的論的な前成説(Evolutionstheorie)を採りながら機械論的な後成説(Involutionstheorie)をも採るというように彼一流の“調停”をやってのけている[2]。今日的な認識から言えば、遺伝子の連続性という点では前成説が正しいし、環境への後天的な適合あるいは淘汰による形態決定という点では後成説のほうが正しい。

カントはもちろん今日的な進化の説明はしていないが、総合説的な進化論を《Spiel》という不確定性概念から理解することは可能である。遺伝子が同じ個体を再生産することは、パラダイム内部でのパズル解きに相当する。問題はパラダイム転換である。総合説によれば、突然変異という《Spiel》によって遺伝子の様々な可能性が生まれ、それらが環境によって淘汰される。人間による芸術的創造が主観的合目的性における《Spiel》であるのに対して、神による種の創造は客観的合目的性における《Spiel》であると言っていいかもしれない(カントは 多分同意しないと思うが)。

造形芸術家は、自分の《Spiel》に基づいて様々な造形の可能性を産み出す。だが気にいらない作品は、惜しげもなく破棄(淘汰)する。そのことによって、彼の選び抜かれた作品には希少価値が生じる。生物の進化にせよ、知の進化にせよ、そのメカニズムは《選択することが選択されること》である。『判断力批判』においては、《spielen しつつ spielen される》人間存在のあり方が描かれているような気がする。

進化のプロセスを通して自覚される究極目的について考えてみよう。究極目的とは、目的の表象によって行為する存在者の存在の目的がその存在者の内に含まれているような存在者(要するに理性の実現を目的として持つ理性的存在者)のことである。前節では、マルチバース仮説に基づく人間原理により、理性的存在者の存在を目的とした宇宙の歴史の目的論的説明が可能であることを説明したが、ここでは、現代科学ではなくて、カントのテクストに即して、この問題を考えたい。

カントによれば、自然界内部には「最終目的 ein letzter Zweck」はありえても「究極目的 ein Endzweck」はありえない。最終目的とは、他の存在者の手段とはならない目的のことであるが、本当にそのような目的が自然にあるのであろうか。例えば人間は動植物を食用その他の手段として利用するが、逆にこのことによって彼等の間に均衡を作るという点で動植物の手段になっている。このかぎりでは自然的存在者としての人間は最終目的ですらないし、したがって自然は人間をピラミッドの頂点とする目的の体系ではないことになる。

だが人間は、他の存在者とは異なって目的の表象によって行為する存在者であり、目的という表象を可能にする存在者であり、おのれを目的として行為しうる存在者である。目的論は反省的判断力という人間の超感性的原理によってのみ可能となる。ゆえに超感性的存在者としての人間は究極目的たりうるのである。しかしながら、果して「自然を可能にしているのは私である」からといって「自然の目的は私である」と言えるのだろうか。

このカントの論証がいかにもトリッキーに見えるのは、目的の概念を狭く考えるからである。究極目的は、それが同時に自然の第一原因でもありうる所以であるが、超感性的な概念であって、《感性的な=時間的な》目的-手段系列の最後に位置する自然的事物ではない。

実際、地球の歴史が人間理性の自己実現という極相(climax)で終結するという保証はなく、「永遠平和」とは逆の核戦争か何かで人類が滅亡し、後には下等動物だけが残るということも考えられるが、しかしその時その下等動物が自然の究極目的だとは言えないのである。下等動物には目的意識がないのだから、その時には目的論的な歴史そのものがなくなるからである。いやそれどころか彼等には意識一般が欠けているから、歴史どころか自然一般が不可能になるだろう。「人間が滅亡した後」という観念からして、人間の《直観形式=純粋統覚》である時間の観念を前提しているのである。

歴史が人間の反省行為によって可能となる以上、そして反省行為が人間の行為一般に属し、また人間の行為がすべて道徳的理念を究極目的としている以上、歴史の究極目的は人間理性の自己実現である。理性によって規定された現象は、理性によってはじめて可能になるがゆえに、理性的存在者を究極目的としなければならない。これが人間原理の哲学バージョンである。

2. 最終目的としての徳福一致

究極目的自体は超歴史的であるにしても、それは歴史において最終目的として実現されなければならない。最終目的とは、人間が究極目的でありうるために自然が成しうることであって、それは差し当り人間の幸福だと考えられる。蓋し徳福一致が最高善の教説であった。

だが外的自然は様々の災害によって人間を苦しめ、内的自然は人間を相互に戦争状態に置かせるので、自然が人間の幸福を目的としているとは言えまい。たんなる幸福なら、下等動物のほうが本能によって人間よりもはるかに容易に手に入れることができるだろう[3]。しかるに人間は本能以外に理性を持つ。《自ら考える》という禁断の木の実を食した人間は本能の楽園から追放され、困難を理性によって克服することを通しておのれの自然素質を開展するように宿命づけられている。

理性なき生物の生活史は同じものの繰り返しであり、そこには厳密な意味での歴史がない。これに対して人間は、自分達の新しい開化を子孫に教育・伝達することによって開化(Kultur 文化)の歴史を築く。だから「人間にあっては、人間の理性の使用を目指している自然素質は個体においてではなく類においてのみ完全に発展するようになっている[4]」のである。大器晩成である。

そしてこの自然素質の完全な開化が自然の最終目的であって、人間の幸福を不断に危機に晒すことはこの目的を実現するために自然が仕組んだ巧妙な手段(理性の狡智?)であるわけである。飢えと災害は人間をして生産手段・生活形式を改善せしめ、戦争の悲惨さは人間を反省させて平和へと向かわせる。個体内的にも個体間的にも国家間でも、人類は対抗関係(Antagonism)において進歩する。

カントはとりわけ、人間本性にある社会進歩の原理を「非社交的社交性 die ungesellige Geselligkeit[5]」と名付ける。もし人間がたんに非社交的で個体化するばかりであるならば、社会はホッブス謂う所の《万人の万人に対する闘争 bellum omnium contra omnes》となって解体するであろう。またもし人間がたんに社交的で利己心を持たないならば、社会はマンドヴィルの謂う蜂の集団となって進歩しなくなるであろう。諸個人が社会化しつつ個体化することによって社会の存立と進歩は可能となるのである。

カントはこのように歴史を否定的なものの克服による理性の自己実現として弁証法的に観る。歴史の最終目的は完全に公正な市民的体制(世界連邦の樹立と永遠平和)であり、そしてそこにおける最高善の全き成就が究極目的であるが、このような目的の達成が事実上不可能なのは、科学がいくら進歩しても物自体の認識が不可能であるのと同じことである。理論的認識もまた道徳的実践と同様人間の行為である。

目的論的な自然だけでなく機械論的な自然もまた、自然の自己意識の歴史としておのれを展開して来た。機械論的な自然はケプラーやニュートンのような人物を産出したが、機械論的な自然はまた彼等の意識によって《構成=産出》されたのである[6]。そしてこのような歴史哲学全体がカントという自然の産物によって産出されたのである。だから合目的的な自然は、合目的的な自然を産出するカントを合目的的に産出することによっておのれの合目的性を産出しえたということになるであろう。

しかしカントは、ミネルバの梟の巣立ちを観望するような悟りの境地には達していない。歴史はまだ終わっていないのだ。究極目的は、それがまさに究極的であるがゆえに実現は究極的に不可能であり、また究極的に不可能であるがゆえに究極的に永遠の理念として人間に当為を命じうるのである。

私たちが究極目的と名付けているものは、目的論的系列の上を漂って、この系列に対して、ちょうど地平[Horizont]が地上の道に対するような関係にある。地上の道はたえず地平に向かっているが、どんなに長くさまよい歩いても、出発点の時より地平に近付くわけではない。[7]

だがカントが謂う所の当為は、個人道徳的な修身精進の域を出ず、あまつさえ、『純粋理性批判』においては超越的な形而上学が否定されていたにもかかわらず、“背後世界”への逃避が説かれており、今日の私たちから見るならば、彼の倫理学は、ちょうど彼の哲学が当時のユークリッド幾何学やニュートン力学の絶対視を前提にして成り立っているように、所詮は当時のプロテスタンティズムの倫理の学的反省に過ぎないと言わざるを得ない。同時代のフランスの思想家のように、現象界の社会/国家を変革しようとする実践哲学からは程遠い。彼の目的論や歴史哲学も同様である。

カントにとって目的論は統制的に使用される判断力の理念であって、その唯一の例外は人間の道徳的行為であった。だがこのような自然か人間かという二者択一を緩めて、その間に「社会」という中間項を入れることはできないだろうか。非道徳的行為は機械論的因果決定論的に説明される他ないというカントの議論は、自然科学偏重・社会科学未熟 の当時としては止むを得なかったとはいえ、今日の私たちが採るところではないであろう。大学・企業・国家というような社会組織は、その設立の目的無しには意味の定義すらできないのだから、これらの概念にとって目的概念は統制的ではなく構成的というべきである。

人間社会は目的の体系である。全ての人間の行為は(もしそれが本当に“行為”であるとするならば)目的を持った有意味的なものであり、またそうであるがゆえに全ての人間によって造られた社会組織は合目的的で有意味的である。

それなのに、なにゆえに諸個人の“主観的に意図された”行為の有意味な産物(理論的・実践的・文化的な超越論的行為によって構成された最広義での合目的的社会)が、物象化的に自己運動し始め(とその個人には観えるのだが)、“わけのわからない世の中”となって諸個人を“疎外”するようになるのか。なにゆえにプロテスタンティズムの倫理という「いつでも脱ぐことができる薄い外套」が「鉄の檻」となって、資本主義という「機械を化石化」し、人間を《無》にするのか。これらの倫理学的な問いに答えるためには、私たちはもはや資本の蓄積なり官僚制の成立なりといった「結果を度外視して」来世における徳福一致を夢想することなく、目的の体系を社会哲学的に考察しなければならない。

既に第二章第三節の「倫理学的弁証論」で述べたように、カントはパラダイムの相対性を問題にしようとしない。このことは彼の倫理学において(あるいは総じて彼の哲学において)他者や社会が問題とされないことと同じことである。なぜなら意識の他者性とは意識の不確定性のことであるからである。私たちはしかしまた、認識の社会性を問題とするにしても、カントの超越論的哲学を“上空飛行的”な「先験哲学」へと矮小化した上でこれを切り捨て、ケセラセラの相対主義に走るという路線をも取らない。パラダイムの相対性なり、間主観性なりといった問題圏はむしろ超越論的哲学にとっては射程拡大の領域だと思うのであるが、これについては後日論ずることにしたい。

3. 超越論的目的論としての超越論的哲学

最後に本書を総括しよう。

超越論的哲学とは、(1)超越的超越を超越論的に超越すること、有限な所与性を超越して部分が全体へと係わることについての学的反省であった。大まかな構図を言えば、(2)純粋統覚(時間そのもの)は(3)現象(時間的多様)において超越することによって(4)超越論的統覚(時間総括)を形成するわけで、(2)~(4)全体が《部分から全体への超越》なのであるが、さらにこれら三つのモメンテもそれぞれ《部分から全体への超越》なのである。

すなわち、(2)時間は今の一点を脱自的に超越して過去/未来の全体に係わるという点で可能的形式的な Transzendieren であり、(3)《現象の認識=現象における時間の超越》は、概念が自らを超越して判断全体へと、さらに判断がおのれを 超越して知のシステム全体へと係わる現実的実質的 Transzendieren であり、(4)知のシステムを整合的自己同一的に構成することは「今ここでは私にはかくかくに思われる」という臆断的段階から「いつでもどこでも誰にとってもかくかくに違いない」という確信的段階へと上昇する、つまり、時間的有限性から超越する形式と実質の総合としての必然的な Transzendieren である。

以上の(1)から(4)までをまとめると、以前本書が《超越論的哲学の公式》と名付けた「(1)時間からの超越を(2)時間としての超越が(3)時間的多様において超越しつつ、(4)時間的多様から超越する」なる定式ができる。以上は分析論であるが、弁証論においては超越的理念が問題とされる。もとより本書は物自体と現象が全体と部分の関係にあると解釈するので、やはり問題は《部分から全体への超越》なのである。無制約的なものに関しては(次の点では本書のスタンスはカントのそれと異なるのだが)理論哲学だけでなく実践哲学においても完全な超越は不可能であるが、超越可能性のみならず超越不可能性の可能性をも洞察しうるのは超越論的哲学であって、超越的哲学や経験的哲学ではない。

A.ここからさらに「目的論は超越論的である」という命題を主張したい。カントによれば目的とは「その概念がある客観の現実性の根拠を同時に含んでいるかぎりでのその客観の概念[8]」かつ「その規定根拠がたんに原因の結果の表象であるようなそういう原因の産出[9]」のことである。要するに目的志向的行為においては、レアールな時間的経過において

(1) 目的を実現しようとする動機(原因)→ 手段の行為(結果)

(2)手段の行為(原因)→ 実現されるであろう目的(結果)

なる二つの因果関係が絡まっているのであって、両者を総合すれば、

(3) 目的の表象 → 手段の行為 → 表象された目的

という因果系列ができる。現在の行為は、過去の目的と未来の目的の中間(Mitte)である手段(Mittel)として媒介されて(vermittelt)いる。 狂人や不随意の行為においては、未来へ企投された目的が表象されないが、自由な行為においては、目的は特定の時点を《超越》して未来へと係わる。目的tnに至る手段系列 t1,t2 … tn-1 は、合目的的連関という全体の部分としてその存立が規定されるという意味で目的論は全体-部分関係論なのである。したがって目的論は部分が部分を超越して 全体へと係わるという点で超越論的なのである。

もちろんカントが謂う所の合目的性は「目的なき合目的性」である。私たちは決して、実用的な目的だけに縛られずに、遊ぶことがある。だが、遊びには、一見すると目的がないようで、実は目的がある。既に述べたように、生命システムは、長期にわたって存続し続けるには、環境適応と変化適応という二律背反的な要件を満たさなければならない。実用的な目的の実現ばかりを目指していると、現在の環境に過剰に適応してしまい、想定外の環境の変化に適応できなくなってしまう。それを避けるために、実用的な目的を度外視して、遊ぶことで、多様性を生み出さなければならない。だがそうした多様性が、結果として生命システムの存続に貢献するとするならば、「目的なき合目的性」と思えたものも、実は「目的ある合目的性」にその母体を持つと言わなければならない。

B.ここからさらに「超越論的哲学は超越論的目的論である」という命題を主張したい。

カント自身「哲学とは、すべての認識を人間理性の本質的目的(teleologia rationis humanae)へと関係付けることについての学である[10]」と定義しているのでこの命題は支持されよう。理論的実践的文化的を問わず人間の認識は、すべて「理性の自己実現」という《本質的目的=究極目的》に貢献すべく理念によって統制される行為である。

目的論は、従来、前近代的な形而上学と思われていたが、私たちは、本書において、現代科学で謂う所の「人間原理」を超越論的に解釈することで、理性を宇宙の制約条件としてみなすことができることを確認した。それは、たんに理性が宇宙を認識するということのみならず、理性的存在者を作り出すように宇宙が進化しなければならないという意味で、制約条件である。

もちろん私たちは日常の生活世界では、そうした形而上学的な目的を意識することなく経験的な諸事物を認識し、また卑近で近視眼的な目的しか念頭におかずに行為している。だが超越論的哲学=超越論的目的論は「対象にではなく、むしろそれがアプリオリに可能であるかぎりでの対象についての私たちの認識様式一般に」「目的にではなく、むしろそれがアプリオリに可能であるかぎりでの目的についての私たちの認識様式一般に」反省の眼差しを向け、認識はアプリオリな原理にしたがった行為であって、その目指すところは超越論的統覚の自己実現であり、目的志向的行為においてもその目指すところが諸目的の体系的合目的的実現であることを自覚するようになる。

C.以上のAとBの命題を合わせ考えるならば、本書が謂う所の「超越論的目的論」は超越論的分析論や超越論的弁証論などと並ぶ超越論的哲学の一下位部門ではなく、むしろ超越論的哲学そのものであると言える。超越論的反省による認識の基礎付けと二律背反の調停は《予定調和的=目的論的》である。目的論は『判断力批判』に至ってやっと登場する付加物ではなく、むしろ三批判書全体を貫く原理であった。

そこで本書の結論として次のように主張したい。目的論は超越論的であり、超越論的哲学は超越論的目的論、それも超越論としての目的論、目的論としての超越論である。

4. 参照情報

  1. Kant, Immanuel. Abhandlungen nach 1781. Kant’s gesammelte Schriften (hrsg. von der königlich preussischen Akademie der Wissenschaften, Berlin) Abteilung 1, Band 8. p. 18.
  2. Kant, Immanuel. Kritik der Urteilskraft. 1790. Kant’s gesammelte Schriften (hrsg. von der königlich preussischen Akademie der Wissenschaften, Berlin) Abteilung 1, Band 5, §.81.
  3. Kant, Immanuel. Grundlegung zur Metaphysik der Sitten. 1785. Kant’s gesammelte Schriften (hrsg. von der königlich preussischen Akademie der Wissenschaften, Berlin) Abteilung 1, Band 4. p. 395.
  4. Kant, Immanuel. Abhandlungen nach 1781. Kant’s gesammelte Schriften (hrsg. von der königlich preussischen Akademie der Wissenschaften, Berlin) Abteilung 1, Band 8. p. 18.
  5. Kant, Immanuel. Abhandlungen nach 1781. Kant’s gesammelte Schriften (hrsg. von der königlich preussischen Akademie der Wissenschaften, Berlin) Abteilung 1, Band 8. p. 20.
  6. Kant, Immanuel. Abhandlungen nach 1781. Kant’s gesammelte Schriften (hrsg. von der königlich preussischen Akademie der Wissenschaften, Berlin) Abteilung 1, Band 8. p. 18.
  7. Simmel, Philosophie des Geldes. p. 238.
  8. Kant, Immanuel. Kritik der Urteilskraft. 1790. Kant’s gesammelte Schriften (hrsg. von der königlich preussischen Akademie der Wissenschaften, Berlin) Abteilung 1, Band 5. p. 180.
  9. Kant, Immanuel. Kritik der Urteilskraft. 1790. Kant’s gesammelte Schriften (hrsg. von der königlich preussischen Akademie der Wissenschaften, Berlin) Abteilung 1, Band 5. p. 408.
  10. Kant, Immanuel. Kritik der reinen Vernunft. Felix Meiner Verlag. 1967. A.839=B.867.