このウェブサイトはクッキーを利用し、アフィリエイト・リンクを含んでいます。サイトの使用を続けることで、プライバシー・ポリシーに同意したとみなします。

言語行為と規範倫理学(01)言語論的転回

1997年9月3日

『言語行為と規範倫理学』導入節:哲学は、アルケーを探求する学問である。デカルト以来の近代哲学は、自己意識をアルケーとする哲学であったのに対して、二十世紀に英米で生まれた分析哲学は、アルケーを言語に求める哲学として特徴付けることができる。意識哲学から言語哲学へのパラダイム・チェンジは、言語論的転回(linguistic turn)と呼ばれている。

『言語行為と規範倫理学』の画像
このページは電子書籍『言語行為と規範倫理学』の一部です。

もしも哲学者に「哲学とは何か」と尋ねたなら、哲学者ごとに様々な答えが返ってくるだろう。それぐらい哲学の位置付けは定まっていない。哲学が発祥した古代ギリシャで、フィロソフィアが「知を愛する」という意味だったという語源的知識は、今の哲学を定義する上で役に立たない。当時の「哲学」は、現在の学問一般を表すほど幅広い領域を包括する概念だったからだ。1687年に、ニュートンが物理学の古典『自然哲学の数学的諸原理』を書いた頃、そのタイトルが示すように、物理学は依然として自然哲学とみなされていた。その後、専門的な諸科学が哲学から独立する中で、抜け殻のように残った部分が今日「哲学」と呼ばれている学問なのである。

この点、アリストテレスが第二哲学である自然学から区別した第一哲学(プローテー・フィロソフィア)が、現在使われている「哲学」の概念に近い。アリストテレスは、自然学や数学のように特殊な諸存在ではなく、存在一般の本質あるいはアルケー(始原、原理)を研究する学を第一哲学と呼び[1]、ハイデガーもこの定義を継承して、哲学としての存在論を復活させようとした。ハイデガーによれば、諸科学が様々な存在者を研究対象としているのに対して、哲学は、様々な存在者を基礎付ける存在そのものを問わなければならない[2]

アリストテレスは、アルケーとして不動の動者、つまり神を想定したが、すべてのギリシャの哲学者が同じ考えであったのではない。アリストテレスが「哲学の始祖」[3]とみなすタレースは、アルケーが水だと考えていたし、アルケーという言葉を最初に哲学的に用いたアナクシマンドロスは、アペイロン(無限定なもの)をアルケーとみなしていた。この他、いちいち列挙しないが、様々な哲学者たちが様々なものをアルケーと考えた。しかし、彼らは、アルケー、すなわち世界の究極の原理を探求しようとする共通の姿勢を持っていた。そこで、第一哲学、すなわち現代の意味での「哲学」とは、アルケーが何であるかを探求する学問であると定義することができる。アルケーが何であるかに関して、哲学者の意見はばらばらであるが、それは狭義の哲学が定義できない学問であるということを帰結しない。結論が学者によって異なるという状況は他の学問でも見られることだからだ。

近代になると、デカルトが『第一哲学についての省察』における方法的懐疑を通して、自己意識をアルケーとする新しい哲学を提唱した。この意識哲学の伝統はフッサールの現象学まで西洋哲学の主流として続くが、20世紀になると、言語論的転回(Linguistic turn)が起き、アルケーを意識ではなく、言語に求める動きが生まれる。本書の主たる検討対象となる分析哲学は、言語論的転回を惹き起こした主要な哲学的潮流である。

科学が独立した後の抜け殻となった哲学は、常に科学とどう違うのかが問われる。例えば、意識哲学は意識を対象とする科学である心理学とどう違うのか、そして言語哲学は言語を対象とする科学である言語学とどう違うのかが問われる。そういう時、哲学は派生的な対象についての学ではなくて、アルケーの学であるという定義に立ち戻ればよい。

科学者にとって、心理は、生物学によって、より根源的には物理学と化学によって基礎付けられる派生的な一対象にすぎない。ところが、意識哲学にとって、すべての科学は意識によって基礎付けられる派生的な学にすぎない。なぜなら、どのような対象も必ず意識を通して認識されるのであり、意識と対象の関係を見誤れば、すべての知が間違いを犯すことになるからだ。この意味で、意識はすべての知識のアルケーである。

同じことは、言語についてもあてはまる。言語は、人類学、民俗学、社会学といった実証的な科学にとって、たくさんある研究対象の一つにすぎない。言語学という専門的な科学においても、研究の媒体としてではなく、研究の対象として扱われる。これに対して、言語哲学は、言語をあらゆる認識の媒体として位置付ける。私たちの認識は、言語を通じて意味付けられるので、言語は私たちの認識の制約条件であり、言語の意味と対象との関係を見誤れば、すべての知が間違いを犯すことになる。この意味で、言語はすべての知識のアルケーである。

なぜ意識の代わりに言語がアルケーとみなされるようになったのか。どちらも認識の制約条件ではあるが、意識が抽象的で捉えどころのないのに対して、言語はより具体的で分析しやすいという利点がある。もっともそれだけなら、精神と物体の両義性を帯びた身体にアルケーを求めたメルロー=ポンティの現象学にも同じことが当てはまるのだが、言語哲学には、フッサールやメルロー=ポンティの現象学にはないメリットがある。それは、意識であれ、身体であれ、自我から始める現象学では、間主観性の問題で袋小路に入ってしまうのに対して、言語は最初から他者の存在を前提にしており、言語をアルケーとすることで、間主観的にその存在と認識が規定される私たちの本質が解明されるという点だ。この点を踏まえ、本書では、アルケーとしての言語を主題として、二十世紀の英米の哲学、倫理学、社会哲学を批判的に検討してみたい。

参照情報

  1. Αριστοτέλης. Τὰ μετὰ τὰ φυσικά. アリストテレス. 『形而上学』 1959. 岩波書店. 出隆訳. 1026a.
  2. Heidegger, Martin. Sein und Zeit. 1927. Max Niemeyer Verlag. p. 9-10.
  3. Αριστοτέλης. Τὰ μετὰ τὰ φυσικά. アリストテレス. 『形而上学』 1959. 岩波書店. 出隆訳. 983b20.