9月 031997
 

ウィトゲンシュタインの哲学は前期と後期で決定的に異なるわけではないが、前期では、世界を等質的な単位から組立て可能/計算可能とする近代科学のイデオロギーの権化であった初期分析哲学の立場に近かったのに対して、後期では、世界を所与の全体性として理解する解釈学的傾向にある。

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ウィトゲンシュタインは、中期の代表作の一つ『哲学的文法』で、次のように述べている。

“水素と酸素がいっしょになって水をつくる。” - “2つの点と3つの点がいっしょになって5つの点をつくる。” この二つの命題を比較せよ

[Wittgenstein: Philosophische Grammatik, TeilⅡ, 19]

「原子論的」に、H2Oを原子3個あるいは陽子10個 と電子/中性子8個と記述したところで、「水」の定性的な特質が明かになるわけではない。ちょうど「仲良く暮らしている2人の人間と、仲良く暮らしている3人の人間とから、仲良く暮らしている5人の人間ができるわけではない」[Wittgenstein: Philosophische Grammatik, TeilⅡ, 19]ように、フリーラジカルの状態にある水素原子二つと酸素原子一つが水を形成するわけではない。『哲学的探求』では次のようなくだりがある。

誰かに“ほうきをもってきてくれ!”と言う代わりに、“ほうきの柄とそれにはめこまれている刷毛をもってきてくれ!”と言っている場合を考えよ。 - これに対する答えは、“君はほうきが欲しいのか。それなら、なぜそんな奇妙な表現をするのか”ではないであろうか。

[Wittgenstein: Philosophische Untersuchungen,60]

ウィトゲンシュタインにとってアトミックな部分よりもそれを関数化する意味連関全体が重要になっていく。

伝統的論理学に即して言えば、全体部分関係論の重要な出発点は主語-述語の総合のあり方である。 従来の哲学的説明によれば、「これ(S)はPである」という命題は、《PとしてのS》という複合的事態を分析したものである。その分析は所与の全体を事後的に分析したものであって、まず基体Sが与えられ、それからそれに述語Pが与えられるわけではない。

ハイデガーは、次のように言う。

了解において開示されたもの、つまり了解されたものは、そのものに即してそのものの《何かとして als Was》ということが表だって目立ちうるというように常にすでに近付きうるものになっている。この《として》が、了解されたものが表だっているということの構造を成しているのであり、解釈を構成している。[…]《として》が存在的に言表されていないからといって、了解のアプリオリな実存論的機構としてのこの《として》を見逃すように惑わされてはならない。

[Heidegger: Sein und Zeit, S.149]

ウィトゲンシュタインも次のように言っている。

[ある線画を顔として見ることは、たんに線を見ることではない]という表現は、ある種の経験の付け加えを暗示しているように思えるかもしれないが、その線画を顔として見るとき、それをたんなる線として見るという経験をして、それとは別に[besides]ある別の経験をもするなどとは決して言ってはならない。

[Wittgenstein: Blue and Brown Books,p.168-169]

だが、ウィトゲンシュタインからすれば、ハイデガーのように、「実存論的には、全ての《見る》は《として見る》である」とテーゼ化することは、哲学者に固有の過ちを犯すことになる [奥雅博:思索のアルバム, 68-69頁] 。

「私は今それを … として見る(Ich sehe das jetzt als …)」と言うことは、ナイフとフォークを眺めて「私はそれを今ナイフおよびフォークとしてみる」ということと同様、私にはほとんど意味を持たなかったことだろう。人はこの発言を、「それは今私にとってフォークである」とか「それはまたフォークでもありうる」と同様、理解しないであろう。ひとはまた、テーブルで食器と認める物を食器として‘解釈’はしない。ちょうど食事中に通常口を動かそうと試みたり、動かそうと努力したりしないように。「今それは私にとってある顔である」と言う人に対して、「どういう変身があるというのかね」と問うことができる。

[Wittgenstein: Philosophische Untersuchungen, TeilⅡ,S.195]

あるものがフォークにしか見えないとき、ひょっとするとフォークではないのかもしれないと疑うことすら思い付かないとき、「私はそれをフォークとしてみる」と述べることは、「として」の文法的誤用である。このこだわりはいかにもウィトゲンシュタインらしい。ウィトゲンシュタインは、解釈学という点でもハイデガーより一歩先を行っている。

では、フォークを指示しながら、改まって「私は今それをフォークとして見る」と発話するのはどういうときか。それはひとが《哲学》をしているときである。

かくして哲学者が、名と名ざされるものとの関係なるものを取り出そうとして、眼前のある対象を凝視し、そして何回も名を繰り返したり、あるいは“これ”という言葉まで繰り返したりするときに、ある奇妙な結合が実際に生じる。というのも、言葉がお祭りをしているときには、哲学的問題が発生するからである。そして確かにそこで我々は、名付けることが何か注目すべき心の働きであり、いうなれば対象に洗礼を施すようなものだと想像することができる。そして我々はまた、“これ”という言葉をいわば対象に向かって言うことができ、そしてそれでもって対象に語りかけることができる。これはこの言葉の奇妙な使い方であって、おそらく哲学しているときにしか起きないことである。

[Wittgenstein: Philosophische Untersuchungen,38] 。

最晩年の『確実性について』では、「私は … を知っている」という言い回しが取り上げられる。このG.E.ムーアが濫用した表現は、「 … として見る」と同様に、哲学的=懐疑的態度においてのみ意味を持つ。

私がある哲学者と庭に腰を掛けている。彼は何度も「私はあれが木であることを知っている」と繰り返し、そう言うたびごとに近くの立木を指し示す。たまたま別の人がやってきてそれを聞き、私はその人にこう告げる「この人は気が変なのではありません。我々は哲学をやっているのです」。

[Wittgenstein: Über Gewißheit,467]

生活世界的な自明性の地平に留まっているかぎり、「私はSをPとして見る」あるいは「私はSがPであることを知っている」といった表現は不要である。しかし自明性が揺らいで「SはP1かもしれないし、P2かもしれない」「他者は、私はSがPであることを知っていることを知らないかもしれない」というように、他の可能性が顕在化するとき、それを否定するために、それらの表現を用いなければならなくなる。

ウィトゲンシュタインは、『論理哲学論考』では「我々が見る全てのものは、他のようでもありうるであろう[könnte auch anders sein]。我々が 一般に記述することができる全てのものは他のようでもありうるであろう」[Wittgenstein: Tractatus,5.634] と言っていた。他の可能性を排除するためには正当化が、したがって超越論的基礎付けが必要ではないであろうか。もし批判的反省の可能性を否定している直観主義者が、主体的=批判的反省を放棄すべきだということを当為として立てられるとしたら、おかしなことだ。それは解釈学的誤謬と呼んでもよいかもしれない。

学の基礎付けを試みるものは、デカルトのように一度疑えるものは全て疑ってみるべきである。ウィトゲンシュタインは、「子供は学校で2×2=4を習いはするものの、2=2を習いはしない」[Wittgenstein: Philosophische Bemerkungen,163] と数学基礎論に皮肉たっぷりだが、厳密な学を志すものは、ユークリッドのように「線とは幅を持たない長さである」という自明な命題も自明でないかのように語るところから始めなければなるまい。

ウィトゲンシュタイン批判はここで一端中断して、後期の重要な主題の一つである他者の問題の検討に入りたい。

論理哲学論考』では、他者や間主観性の問題は正面から論じられることはなかった。「私の言語の限界が私の世界の限界を意味する」[Wittgenstein: Tractatus,5.6] という有名なテーゼも、たんに“言語=世界”を主張しているだけであって、狭義の独我論を主張しているとは考えられない。そのテーゼは「他者の言語の限界が他者の世界の限界である」や「我々の言語の限界が我々の世界の限界である」などのテーゼと両立しうる。実際、『論理哲学論考』の草稿では、この命題の後に、「世界霊魂がただ一つ現実に存在する。私はこれを私の魂と呼ぶ。そして私が他者の魂と呼ぶものももっぱらこの世界霊魂として理解する」[Wittgenstein: Tagebücher,1915. 5.23] と書かれている。

また5.6の註5.61に「我々が考えることができないものを我々は考えることはできない。それゆえまた我々は、我々が考えることができないことを語ることはできない」という説明があるが、ここから明らかなように、『論理哲学論考』のウィトゲンシュタインは一人称単数と複数の区別にこだわっていない。カント的に言えば、それは経験的統覚と超越論的統覚の区別であるが、「主観は世界に属さない。それは世界の限界である」[Wittgenstein: Tractatus,5.632] という命題における「主観」は超越論的で、彼が謂う所の「独我論」はたんなる超越論的観念論であるように見える。

では「私とは私の世界である(ミクロコスモス)」[Wittgenstein: Tractatus,5.63] と言うときの「ミクロコスモス」とは何のことなのだろう。「ミクロコスモス」=「世界の限界」の外に“マクロコスモス”があるとでも言うのだろうか。しかしそのような外部世界の想定は、カントが行ったような物自体の想定ではないのなら、ナンセンスである。ウィトゲンシュタインの『論理哲学論考』における独我論が経験的なのか超越論的なのかのこの不明さは、彼の写像理論がアトミズムなのかホーリズムなのかの不明性に対応している。なぜならば、経験的独我論はアトミズムをもたらし、超越論的独我論はホーリズムをもたらすからである。

確実に言えることは『論理哲学論考』以降論理的アトミズムと(それと同じことだが)アトミスティックな独我論が放棄されていったことである。ウィトゲンシュタインの言語哲学は、Bedeutung とは名が be-deuten する対象であり、Sinn とはかかる Bedeutung の複合であるというかつての写像理論的意味論・統語論から、Sinn=Gebrauch とする語用論へと変貌する。

なるほど『論理哲学論考』においても「記号が使用されない[nicht gebraucht 原文ゲシュペルト]時、その記号には意味がない」[Wittgenstein: Tractatus,3.328] と言われていた。しかし『哲学的探求』では、意味は使用そのものであり、言葉を使う私の生活そのものなのである。これと相即して Subjekt は、世界を模写する“鏡のような”主観から言葉を使っ て相互主体的に生活する主体へと変貌する。小学校教員として子供に言葉を教える苦労を積んだウィトゲンシュタインは、その経験を通してと忖度されるのだが、語の直示的教示には所謂指示の不確定性の難点があることに気付き、「言語を教えることは、ここ[子供の言語教育]では、説明ではなくて訓練である」[Wittgenstein: Philosophische Untersuchungen,5] と主張するに至る。

大人の言語の知識は子供のときの教育を基盤にしているので、言葉は頭で理解するのではなくて、からだで覚えるものであることは、大人についても成り立つ。「それでもって子供が言葉を使い始める言語形態」[Wittgenstein: Blue and Brown Books,p.17]、「それを介して子供が母国語を学ぶゲームの一種」[Wittgenstein: Philosophische Untersuchungen,7] として導入された言語ゲームが、「言語と言語がそれへと折り込まれている諸活動性の全体」[ibid] でもあるゆえんである。言語ゲームは決して普通の意味でのゲームではない。

“言語ゲーム”という言葉は、ここでは、言語を語ることはある活動性ないしある生活形式の一部分であることを明確にするものでなければならない。

[Wittgenstein: Philosophische Untersuchungen,23]

「語用論 Pragmatics」の重視は「プラグマティズム Pragmatism」を帰結する。

“不正確”は本来非難であり、“正確”は称賛である。とはいえこのことは、不正確なものは正確なものほどその目標を完全には成し遂げないということに他ならない。それゆえ問題は、我々が何を“目標”と呼ぶかである。もしも太陽までの距離を1mまで正確に述べなかったり、家具師に机の幅を0.001mm まで正確に言ってやらなかったりしたら不正確ということになるのか?

[Wittgenstein: Philosophische Untersuchungen,88]

言語行為は目的によって有意味に成るが、言語そのものはそうではない。「人間にかくかくの作用を及ぼすための目的を満たすためには、言語がどのようになっていなければならないかを文法は語らない」[Wittgenstein: Philosophische Untersuchungen,496] 。言語はむしろ言語行為/人-間の目的の体系を統制的に規制すると言えるであろう。

論理哲学論考』でも「日常言語は人間的有機体の一部である」[Wittgenstein: Tractatus,4.002] と言われていたが、しかしそこでは日常言語が論理(人工言語)から区別されていた。『哲学探求』では『論理哲学論考』の人工言語自体が、無限に多様な言語ゲームのうちの一つとして相対化される[Wittgenstein: Philosophische Untersuchungen,23] 。

原初的な言語ゲーム/言語行為、例えば「命令する・質問する・物語る・雑談をする、これらは行く・食べる・飲む・遊ぶと同様、我々の自然史に属する」[Wittgenstein: Philosophische Untersuchungen,25] 。“水! あっち! ああ! 助けて! すてき! ちがう!”などの語は明らかに《対象を名指している》記号ではない。

記号と印は混同されてはならない。“ふん”という音声を疑念の表現と呼ぶことはできるし、それを聞く他人にとっては、雲が雨の印であるように、疑念の印であると言える。だが、“ふん”は疑念の名辞ではない。

[Wittgenstein: Philosophische Grammatik,TeilⅠ,82]

“ふん”のようなタイプの言葉の使い方を、我々はちょうど道具の使い方を技術的にマスターするように生活の一部として覚える。

意味の説明は、語の使い方を説明する。その言語におけるその語の使い方がその語の意味である。文法は、その言語における様々な語の使い方を記述する。したがって言語に対する文法の関係は、あるゲームに対するそのゲームの記述、つまりそのゲームの規則の関係に似ている。

[Wittgenstein: Philosophische Grammatik, TeilⅠ,23]

《知る》という言葉の文法は明らかに《できる》《能う》という言葉の文法と密接な関係にある。だがまた《理解する》という語の文法とも密接な関係にある。-《習熟する》技術。

[Wittgenstein: Philosophische Untersuchungen,150]

ひとはここで、主語(対象)と述語(語)の一致という伝統的な言語哲学の構図を却け、「理解することのうちには、存在することができる(Sein-können)こととしての現存在の存在様式が実存論的に潜んでいる」[Heidegger:Sein und Zeit,S.143] として、世界-内-存在の開示性の構造を解明したハイデガーの『存在と時間』を想い起こし、R.ローティとともに「言語哲学の解釈学的転回!」と叫びたくなるかもしれない。

しかし『論理哲学論考』でもすでに「世界と生(das Leben)は一つである」[Wittgenstein: Tractatus,5.621] と言われていたから、ウィトゲンシュタインの生の哲学的な性格は、昨今の「理解対説明」論者が秋波を送る所謂「後期ウィトゲンシュタイン」において初めて生じてきたのではないし、また何よりもウィトゲンシュタインは、言語以前的=先述定的な生活世界に還帰したり、主客未分・自他未分の反省以前的な生のカオスに安直に回帰したりすることなく、Leben の問題をあくまでも直観ではなくて言語の問題として考え抜こうとする点では終始態度が一貫していた。「哲学的な研究は、《事象そのもの》を問い尋ねるためには《言語哲学》を断念しなければならないであろう」[Heidegger:Sein und Zeit,S.166] と言うハイデガーとは違うのである。

認識が一種のゲームである言語行為であるとするならば、そして行為は規則によって判断されるとするならば、真理の基準は《事象そのものとの一致》ではなくて、《規則の遵守》でなければならない。そして規則に従うことは社会制度でもある。

我々が《ある規則に従う einer Regel folgen》と呼んでいるものは、ただ一人の人間が人生においてただ一回だけすることができるようなものだろうか。もちろんこれは、《ある規則に従う》という表現の文法への注解である。たった一人の人間が一回だけ規則に従うことはありえない。

[Wittgenstein: Philosophische Untersuchungen,199]

たった一回だけ規則に従うことは、「規則」の定義から不可能である。これは、言葉の定義の問題であり、まさに「文法への注解」の問題に過ぎない。だが一人だけが規則に従うことができるかどうかの問題は少しく検討を要する。所謂私的言語の問題である。

私的言語とは「他者は誰も理解できないが、私は“理解しているように見える”音声」[Wittgenstein: Philosophische Untersuchungen,269] のことである。伝達不可能な主観的理解がありうるか否かが問われる。

なぜ私の右手は、私の左手に金を贈ることができないのか? 私の右手は私の左手に金を手渡すことができる。私の右手は贈与所を書き、私の左手は受領所を書くということはできる。-しかしそれ以上の実際上の帰結は贈与のそれではあるまい。左手が右手から金を受け取ったりしたとき、「それでどうだというのだ?」とひとは問うだろう。同じことは自分に私的な言葉の説明をしたときに言えるであろう。

[Wittgenstein: Philosophische Untersuchungen,268]

なるほど、左手は右手から金をもらうわけにはいかない。では現在の私が未来の私に《私的に》金を贈ることは? アルバイトでこっそり得た金をたんすのひきだしの奥に“誰にも知られないように”隠して、「この金は今度の休暇の旅行に使う金なんだぞ」と自分に言い聞かせておく場合は如何?この場合もしかし、私は決して私的に規則に従っているわけではない。たとえ私のこのへそくりが誰にも気付かれなかったとしても、私のその行為は「へそくり」として可能的他者に有意味に理解されうるのである。実際「貯金」という概念は、経済的な社会制度を抜きにしてはありえないのである。

感覚についても同じことが言える。他人には伝達できないようなある私的な感覚が生じたとき、私はカレンダーにEを記入することにする [Wittgenstein: Philosophische Untersuchungen,270] 。ところが私の行為は、(少なくとも可能的には)ウィトゲンシュタイン通の哲学専門家に「さては私的言語が可能かどうか試しているのだな」と見抜かれてしまう。だから人は誰もが思いつかないような仕方で私的言語を語らなくてはならないのだが、そのような誰もが思いつかないような仕方は、まさに誰も思いつくことができないのである。

知っていることと語ることを比較せよ。モンブランは何メートルの高さか-“ゲーム”という語はどのようにして使われているか-クラリネットはどのような音が出るか。-知ることはできるが語ることはできないことに驚く人は、多分一番目のような場合を考えているのであって、三番目のような場合ではないことは確かである。

[Wittgenstein: Philosophische Untersuchungen,78]

クラリネットの音色は筆舌に尽くしがたい。それは当然であろう。クラリネットの音色の描写はクラリネットの音色そのものではないのだから、完全に正確にそれを語ることは不可能である。しかしクラリネットの美しい演奏に盛大な拍手が送られ、奏者がアンコールに答える、あるいは隣の部屋の耳ざわりなクラリネットの練習に対して「うるさい!」と怒鳴ったところ練習を止めてくれたなど、自他の行為の呼応がうまく機能しているなら、聴衆がどのような微妙なニュアンスで音色を聴いたかとか、私がどのような特殊な不快感でクラリネットの音色を聞いたかなどといった私的感覚を正確に描写することはどうでもよいことなのである。

私的言語の否定は、我々を他者の内的意識の解釈から解放するが、今度は他者が従っている言語ゲームの解釈という新たな問題を与える。言語ゲームの無限な多様性は、「どのような行動様式も規則と合致させることができる」[Wittgenstein: Philosophische Untersuchungen,201] 、つまり他者の振舞はどうとでも解釈できるという帰結を生む。

おもえば私的言語の処理は論実証主義において重要な課題であった。論理実証主義者は命題の真偽をセンスデータによって検証しようとするのだが、もしもセンスデータが私的な伝達不可能なものであるとするならば、その上に構築される科学的命題の客観性は怪しくなるからである。ところが私的言語を公的言語に包括するや否や、公的言語自体が私的な性格を帯びるようになるという逆転が生じて来た。実際私的言語の抹殺は、「統一科学」をではなくて、「パラダイムの共約不可能性」をもたらしたのである。

ウィトゲンシュタインは、『哲学的考察』の中で、次のような「パラダイムの共約不可能性」を彷彿とさせるようなことを書いている。

p が証明可能と語るのでは十分ではなく、ある特定のシステムにより証明可能と言わなければならない。しかもその命題は、p はシステム S により証明可能と主張するのではなく、自らのシステム、p のシステムにより証明可能と主張するのである。p がシステム S に属することは主張されえず、示されなければならない。[…]p が一つのシステムから別のシステムへと転じると見える場合は、p は実際には自らの意義を変化させているのである。

[Wittgenstein: Philosophische Bemerkungen,153]

私が初等三角法の規則を知っていれば、私は sin2x=2sinx・cosx という命題を扱うことは可能だが、sinx=x-x3/3!+ … という命題を扱うことは不可能である。そしてこのことは、初等三角法の正弦と高等三角法の正弦とは異なった概念であるということである。

[Wittgenstein: Philosophische Bemerkungen,151]

加法定理しか知らなかった生徒がマクローリンの定理を学んだとき、彼は正弦について新しいことを学んだのではなく、新しい正弦の定義を学んだのである。同様にアリストテレス的な力概念からニュートン的な力概念へのパラダイム転換においては、力についての理論が進歩したのではなく、力の概念が変質したのである。近代科学が攻撃するときの「中世の力概念」と中世のスコラ学者が親しんでいた力の概念は、依拠するシステムが異なるがゆえに、意味が異なる。したがって近代の力学は中世の力学よりも進歩しているとはいえない。こんなこのとになってしまうのである。ここから帰結するのは、パラダイム間の相互不可知論である。

こういう言語相対主義の根は超越論的反省の欠如にある。ウィトゲンシュタインの“認識=rule-following”のテーゼは、カント・新カント学派のように規範的な性格がない。「規則に従っているとき、私は選択をしない。私は規則に盲目的に従う」[Wittgenstein: Philosophische Untersuchungen,219] 。だから《規則に従うこと》は自由=超越ではない。「“一致”という言葉と“規則”という言葉は親戚関係にある」[Wittgenstein: Philosophische Untersuchungen,224] のであり、「“規則”という言葉の使用は“同じ”という言葉の使用と関連している」[Wittgenstein: Philosophische Untersuchungen,225] 。

規則の本質は同一性であるが、規則は差異性によって対自化される。ウィトゲンシュタインは「法則がいやしくも法則であるからには、ある可能な出来事が法則と矛盾するのでなければならない」[Wittgenstein: Philosophische Bemerkungen,233] とも言っているが、この対自化された意識が超越論的反省を促すのである。

K.-O. アーペルなどは、技術の習熟としての言語ゲームが「哲学的言語ゲーム」を前提にしているとして、超越論的語用論を提案する [Apel: Transformation der Philosophie,S.348] が、そのような新カント学派流の規範主義を復活するだけでよいのだろうか。次節では言語ゲームの問題をクワインのネットワークの問題と重ね合わせながら考えてみることにする。

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