9月 031997
 

言葉の意味を指示対象と同一視する写像理論を放棄するならば、言葉の意味をどう考えたらよいだろうか。ウィトゲンシュタイン以降の分析哲学を、クワインを中心に考えてみよう。

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「人は数学を書くことはできないのであって、数学を作ることしかできない」[Wittgenstein: Philosophische Bemerkungen,157] 、「我々の記号法には確かに恣意的なところがあるが、しかしあるものを恣意的に規定したならば、他のことが実情とならざるをえないということは恣意的ではない」[Wittgenstein: Tractatus,3.342] と説くウィトゲンシュタインは、確かに論理の必然性を規約主義的に捉えているように見える。

ダメットも、ウィトゲンシュタインが、公理の定立のみならず定理の導出の真理性までを規約とする「根源的規約主義 radical conventionalism」であったと解釈する [Dummett: Truth and Other Enigmas,p.170]が、ウィトゲンシュタインにとって言語ゲームは、従ったり従わなかったりすることができる任意のものではなかった。たとえウィトゲンシュタインが規約主義であっても、それは彼の言語ゲーム論にとって本質的でないと考えられる。クワインは、当時ウィトゲンシュタインを含めた論理実証主義者の間で広く採られていた規約主義を解体した哲学者として知られているが、むしろまずはウィトゲンシュタインとの共通点[q]を重視したい。

[q] クワイン自身「翻訳の不確定性の理説は、後期ウィトゲンシュタインの意味に関する省察に精通している読者には、おそらくほとんどパラドキシカルな感じを与えないであろう」[Quine: Word and Object,p.77] と言っている。

1951年の良く知られたクワインの論文「経験主義の二つのドグマ」における

1α. 分析的/総合的の区別の撤廃

2α. 還元主義(reductionism)批判

という二つの論点は、それぞれ 1960年の主著『言葉と対象』における

1β. 翻訳の不確定性(indeterminacy of translation)

2β. 指示の不可測性(inscrutability of reference)

のテーゼに対応する。1は命題における語と語の交換(翻訳)の、2は語と対象との交換(翻訳)の不確定性を主張しているのだが、実は1と2は(したがって上掲の四つのテーゼは全て)同じことを言っている。このことを以下確かめてみよう。

1αでクワインがその存立を批判するのは、論理的分析性=同一性、例えば「未婚の男は結婚していない。No unmarried man is married.」ではなくて、意味の分析性=同一性、例えば「いかなるバッチェラーも結婚していない。No bachelor is married.」であるが、後者は要する に“Bachelor = unmarried man”という交換(翻訳)が必然的か否か、「全てのバッチェラーが、そしてバッチェラーのみが未婚の男である。Necessarily all and only bachelors are unmarried man.」が成り立つか否かの問題なのである [Quine:From a Logical Point of View,p.29] 。したがって1αは1βと同じ主張である。

次に2αと2βの関係であるが、2βは、「語がいかなる対象を指示しているか不確定である」という主旨のテーゼである。私がある独身者を指示して「ほら、あれがバッチェラーだよ」と教えても、聞き手は常に誤解する可能性を持つ。相手はバッチェラーとは眼鏡を掛けた顔のことかと思うかもしれないし、貧乏学生の俗称かと推測するかもしれない。だから語と指示対象との間には“ずれ”がある。クワインは『存在論的相対性』では「直接提示 direct ostension」と「差延された提示 deferred ostension」を区別している [Quine: Ontological Relativity, p.39] が、全ての対象指示には「差延 deference」があると言ってよいであろう。そして、それゆえに2αのテーゼ「ある語を特定の対象に《還元》することが不可能である」が帰結する。2αも2βも《言葉と対象》の隔たりを主張しているのである。

今度は1と2の関係を調べてみよう。“Bachelor = unmarried man"という交換(翻訳)が可能か否かは、“Bachelor”で指示されている対象と“unmarried man”で指示されている対象が一致するかどうかであるから、1は2に基づく。

ところが、たとえ外延的に“Bachelor”のデノテーションが一致していても、内包的には、例えば「バッチェラーのある段階、バッチェラーの不可欠な一部分、そこにおいてバッチェラー性が顕示されるところのバッチェラー融合体 …」というように [Word and Object,p.52f] コンノテーションが一致していないのかも知れないのである。そこで我々は、

「独身者」⇔ ¬「結婚している」∧「男」⇔ ¬「女と同棲し∧結婚届を役所に提出している」∧「人間∧♂」⇔ …

というように他の語で定義しなければならないのだから、2は1に基づく。「指示の不可測性は、同一性の翻訳の不確定性[…]に依存していた」[Quine: Ontological Relativity,p.45] のである。結局のところ、クワインの論点は《指示対象を基準とした意味の分析的自己同一性》の否定という一点へと収斂して行くわけである。

クワインはしかし意味に全く自己同一性がないとは言っていない。語の意味は緩やかな同一性を保持しながら、歴史的に変遷して行く。もし「一基準語 one-criterion word」[Putnam, The analytic and the synthetic, p. 33-69] [p]なる語があり、かつ基準と成る対象が完全な分析的自己同一性を持つならば、その語の意味は分析的自己同一性を持つと言える。しかし完全に単純な対象は存在しないので、全ての語は、いやしくも意味を持つ以上は多基準語である。そして多基準語は、ある基準に依拠しながら他の基準を捨て、新たな基準と結び付くことによって漸次的に変化する。

[p] 「多基準語」というのは law-cluster word の意訳である。これについては、[丹治信春,クワインにおける理論と言語, 69頁以下] 参照。

パトナムは「独身ノイローゼ」という基準を仮想して“No bachelor is married.”が偽と成りうると主張するが、仮想例など持ち出すまでもない。 bachelor は「騎士に成ろうとしている野心的な若者」という意味の13世紀のフランス語 bacheler から来ている。もちろん独身の男が全て出世への野心があるわけでないし、出世への野心がある時、かつその時のみ学士であるわけでもないし、学士には既婚者や女性もいることであろう。しかし意味基準のラフな繋がりから、「騎士に成ろうとしている野心的な若者」は「独身の男」とか「学士」などの違う意味に成りうるのである。自然科学用語から例を取れば、atom はもともと「分割不可能なもの」の意であったが、いったん分子の下位単位として定義されると、分割されることがわかっても相変わらずそれは「原子」と呼ばれる。

ウィトゲンシュタインも次のように言っている。「基準と徴候との間の文法的揺れ動きによって、一般に徴候しか存在しないかのような外見が生じる」[Wittgenstein: Philosophische Untersuchungen,354] 。「科学的定義の変動:今日現象Aの経験的な随伴現出として見なされるものが、明日には《A》の定義に使われるであろう」[Wittgenstein: Philosophische Untersuchungen,79] 。この定義の変動を図示すれば、表2のようになる。

多基準語の意味の歴史的変遷
Bedeutung 時点1ABCDE
Bedeutung 時点2BCDEF
Bedeutung 時点3CDEFG
Bedeutung 時点4DEFGH
Bedeutung 時点5EFGHI
Bedeutung 時点6FGHIJ

時間1の Bedeutung(A・B・C・D・E)と時間6の Bedeutung(F・G・H・I・J)はまったく異なるにもかかわらず、どの時間 n と時間 n+1 の間にも[基準=意義]の連続性がある。このような連続性は、ウィトゲンシュタイン謂う所の「家族的類似性」を想い起こさせる[f]。

[f] クワインは、「私はこれまで、類似性や種類などの観念が我々の思考にとってどれほど根本的であるかを、そして論理学や集合論にとってどれほど異質であるかを強調してきた」[Quine: Ontological Relativity, p.121] と、数学や論理学だけを聖域視するけれども、論理学における主語/述語あるいは変項/関数の包摂関係や、集合論における要素の集合への帰属関係は、家族的類似性に基づいてはいないであろうか。

「家族的類似性」は、『青色本』では言語ゲームの幼少期に習得された原初的形態から大人になってからの発展した形態に至るまでの連続性概念として持ち出されたものであった。

我々は、例えば全てのゲームには何か共通するものがなければならず、またこの共通属性が、類概念“ゲーム”を様々な諸ゲームへ適用することを正当化すると考えがちである。実際には、ゲームは、そのメンバーが家族的類似性をもっている一つの家族を成している。同じような鼻を持っているのもいれば、同じような眉毛を持っているのもあれば、同じような歩き方をするものもいて、類似性は交差している。

[Wittgenstein: Blue and Brown Books,p.17]

この「互いに重なり合い、交差し合う複雑な類似性の網の目」[Wittgenstein: Philosophische Untersuchungen,66] は、例えば表3のように説明できるであろう(○は他の成員と類似していることを、×は類似していないことを示す)。

家族的類似性
 身体つき顔の特徴目の色歩き方性格
家族成員1×
家族成員2×
家族成員3×
家族成員4×
家族成員5×

この家族は、全構成員が共有するような一つの類似性を持っていないにもかかわらず、どの二人の構成員をとっても四つの特徴を共有している、つまり両者は極めてよく似ており、その意味で全体として強い類似性を持っている。

ウィトゲンシュタインは家族的類似性という《非連続的連続性=連続的非連続性》を糸のメタファーを用いて説明する。「糸の強さは何らか の一本の繊維が糸全体の長さを貫いている点にあるのではなく、多くの繊維が相互に重なり合っているところに存する」[Wittgenstein: Philosophische Untersuchungen, 67] 。「一本の繊維」とは世界の《基体=実体》のことだが、これを否定したからといって「あるのはただばらばらな繊維だけだ」という独断論の裏返しである懐疑論が帰結するわけでない。

ではウィトゲンシュタインは何が統一だと考えるのであろうか。

しかしながらもし誰かが“それゆえこれら全ての構成物には何か共通のもの、すなわちこれらの諸共通性の選言がある”と言おうとするならば、私は、あなたはそこでただ言葉と戯れているだけだと答えるであろう。同様に人は、糸全体をあるものが、つまりこれらの繊維の間断なき重ね合わせが貫いていると言うことができるかもしれない。

[Wittgenstein: Philosophische Untersuchungen, 67]

ここでウィトゲンシュタインは、「実体は存在しない。ゆえに無こそ真の実体である」とか「全ては不確定である。ゆえに不確定性こそは唯一の確定性である」といった類の詭弁を斥けようとしている。「言葉と戯れる mit einem Wort spielen」ことも一つの「言語ゲーム Sprachspiel」であり、詭弁にもそれなりの意味があるなどというのは、それ自体悪しき言葉の戯れである。同じ論理で、様々な家族的類似性に「家族的類似性」という一つの概念を適用することにも問題がある。不確定性概念自体が不確定であるように、家族的類似性の概念自体も不確定である。

一体、全ては不確定であるとか、全ての命題は修正可能であるということは可能であるのだろうか。“経験主義のドグマ”によれば、総合的命題は全て反証される可能性があるが、矛盾律のような分析的命題はそうではないということになっている。ところが、クワインによれば矛盾律のような論理法則(それは知のシステムの中心に位置するのだが)ですら、比較的周縁に位置する経験科学によって修正される可能性が、非常に少ないとはいえ、全く無いわけではない。

だが“それならば論理学も経験科学の一つである”と言う人がいれば、それは誤りである。但し次のことは正しい。同じ命題が、あるときには経験的に検証されるべき命題として、別のときには検証の規則として取り扱われてよい。

[Wittgenstein: Über Gewißheit,98]

かくして、それぞれ違った意味においてであるが、相互包摂の関係がある。自然科学の一部としての認識論と認識論の一部としての自然科学。

[Quine:Ontological Relativity, p.83]

今世紀に入って、数学や論理学などの形式科学も自然科学のような経験科学も等しく不確定性の問題に直面する。クワインによれば、ラッセルのパラドックスという数学基礎論上の不確定性と《光=波動かつ粒子》説という物理学上の不確定性は密接な関係を持っているし、「算術には決定不可能な命題がなければならないというゲーデルの証明によって1931年に突如としてもたらされた現代の数学基礎論が直面する第二の大危機は、ハイゼンベルクの不確定性の原理の物理学に対応物を持つ」[Quine: From a Logical Point of View, p.19] 。相対性理論は、カントがアプリオリな直観形式と考えた絶対時間の概念を否定し、量子力学は排中律を無効にした。経験科学という比較的周縁に近い知が排中律という比較的中心に近い知を修正したのである。

「それでも矛盾律だけは絶対に修正されない。なぜならそれは修正を可能ならしめるミニマムな分析的原理なのだから」などと言う人は、(まさに分析的に)何も実質的なことは主張していないも同然なのである。実質的な主張をするや否や不確定性の問題に引きずり込まれる。「矛盾律」「修正」「分析的」「規則」等々の概念の意味自体が歴史的に変化しうる[g]。そして「歴史的に変化しうる」の意味自体も。

[g] 「そこで即ち次のように言うこともできよう。もし“規則”とい う言葉の用法に対して他の規則があてはまるなら ー “規則”という言葉が他の意義を持つなら ー 規則は互いに矛盾しても差し支えない」[Wittgenstein: Philosophische Grammatik, TeilⅡ,14] 。

もちろん我々は知のシステムを一度に全て疑ったり、一度に全部を修正したりすることはできない。何かを疑うためには何かを信じなければならないからである。しかしだからといって、知のシステムには、絶対に疑うことができないある部分(例えばコギト・エルゴ・スム)があるはずだと推論する必要はない。我々の知のシステムは、いかなる部分も修正可能である。今仮にこの世界にはA,B,Cという三つの命題しか存在しないと仮定しよう。我々はAが正しいことを前提にしてBをbに修正することができる。次にbが正しいことを前提にCをcに修正し、さらにcが正しいことを前提にしてAをaに修正することもできる。このように、一度にA,B,Cをa,b,cに修正することはできないにしても、全ての部分は結果としては修正することができるのである。

クワインは、このように自己同一性を保ちながら漸次的に変化して行く知のシステムを「ノイラートの舟」のメタファーを援用して描写している。我々は、舟をいつかドックに引き入れて最良の部品で新たに建築すること(つまり、コギト・エルゴ・スムから出発して全ての学の体系を基礎付けること)ができず、果てしない海の上でそれを少しずつ改造しなければならない船乗りのようなものだというわけである。知のシステムは周縁を経験と接している組織体で、環境である経験によって反証された場合、どこかを修正しないと環境に適応して生き延びることはできない。その際最も周縁に近い、すなわちもっとも破棄のためのコストが小さい部分が捨てられる[p]。

[p] 通常、中心的な命題は、周縁的な命題に比べてより多くの命題の 前提となっており、修正するのには多くのコストを要するので修正されにくいのであって、物自体をより忠実に模写しているから修正されにくいわけではない。「仮説が放棄されるのは、専らより高い価値のもの[中心的な仮説]との交換においてのことである。帰納[検証]は経済原理にしたがった過程である」[Wittgenstein: Philosophische Bemerkungen,227] 。

知のシステムについて言えることは、人-間のシステムにも当てはまる。例えば企業システムにおいて、外部とのあつれきによって、いきなり中心(社長)の地位が危うく成ることはない。大概は周縁付近の手直し、例えば、部下の左遷/首切り、研修の強化、経営方針の転換などによって難を免れる。しかしそれぐらいでは追いつかなくなったときには(知のシステムにおける“科学革命”に相当することだが)社長の辞任が迫られる。

これはたんなるアナロジーではない。知のシステムの反照的規定が人間システムなのである。部下が左遷されるのは彼が誤謬を犯したからであって、誤謬を選択する社員の配置が選択の誤謬であるとして、左遷という修正がなされる。知のシステムも人間のシステムも、真/善を先取し、偽/悪を後置する選択の主体である。修正と選択の連続によって知のシステムは全く違ったものに成りうる。人-間のシステムも同じである。もし全ての企業の構成員が同時に退社するならその企業は消滅することになろうが、部分的な交替を繰り返すことによって、当の企業は自己同一性を保持しながらその構成員を全部取り替えることができる。

カントが、物自体の認識による学の超越論的基礎付けを断念したように、クワインは言葉を指示対象へと還元することによる言語システムの基礎付けを断念した。クワインが、言葉と対象の間にあると想定されていた一対一の関係を切り断ったために、我々の知のシステムは大地から切り離された根無し草のように大海を漂流するノイラートの船になってしまった。

しかしそれでよいのである。言語は、我々の生活の一部としてうまく機能していれば、それが本当にリジッドな指示対象を持つかどうかということはどうでもよいのである。うまく行かなくなったときには部分的に手直しをすればよい。問題は「うまく機能する」というときの「うまく」という価値語が何を意味するかである。こうして分析哲学においても、認識の問題は認識行為を含めた行為一般の問題に、そして行為論はいかに行為するべきかという価値と実践の問題となってくる。

ウィトゲンシュタインは、言語のアプリオリ性から、彼なりの超越論的哲学を試み、後年言語の意味を使用に求めるプラグマティズムの傾向を見せた。クワインは、ウィトゲンシュタインが依然として前提していた規約主義的な分析性と総合性の区別を廃棄し、指示の不確定性、それゆえ知の不確定性をあらわにしたが、その不確定性、世界と我々の間にある“ずれ”に対してプラグマティックに対処しようとした。

プラグマティズムは、《経験主義の第三のドグマ》とでも言うべき事実と価値の区別を破棄し、哲学と倫理学の境界をあいまいにする。このプログラムはカント哲学においてあらかじめ用意されていた。カントも物自体の認識を断念し、理性の関心を理論から実践へ振り向けたのだから。次の章では、意味から価値へと考察を転じることにしたい。

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