9月 031997
 

ムーアが糾弾した「自然主義的誤謬」とは、事実から価値を導く誤謬ではない。事実から価値を導くことができないならば、あらゆる価値判断は不可能になるが、それはムーアが意図したことではない。

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英米系倫理学に対する従来の常識は、以下のようなものだ。

論理実証主義的な意味の検証理論は価値述語に真偽の基準を否定し、日常言語学派も規範倫理学を断念し、価値語の[意味=使用]の記述に甘んじるメタ倫理学を提唱した。メタ倫理学は道徳心理学や道徳社会学などの実証科学とは一線を画すけれども、事実と価値を峻別する価値中立的・実証主義的な道徳言語学であることには変わりがない。

こういう常識からすれば、メタ倫理学の開祖[m]たるG.E.ムーアは当然規範倫理学を放棄する端緒を作ったはずだが、その結果はともかくとしても、彼の『倫理学原理』の意図はむしろ逆に規範倫理学の基礎付けにあった。

[m] ムーア自身は meta-ethics なる語を使っていない。岩崎武雄によれば[岩崎武雄: 現代英米哲学入門,280頁]、 W.K.Frankena の発案のようである。そのフランケナもまた、倫理的タームの意味をメタ倫理学的に分析する目的は規範倫理学の justification であると位置付けている [Frankena: Ethics, Chapter 6.p.95; Albert: Ethik und Meta-Ethik: SS.173-175] 。ただしアルバートはメタ倫理学の根本動機は規範倫理学に対する中立性のテーゼであると考えている。

彼自身「私は“学問として現れうるであろう全ての将来の倫理学へのプロレゴーメナ”を書こうとした」[Moore: Principia Ethica, p.Ⅸ] と序文で明記している。

倫理学においては他のあらゆる哲学の部門と同じく、その歴史の中にはふんだんに見出される異論や見解の相違は、大抵非常に単純な原因に因るように思われる。その原因とは即ち、答えたいと望む問いがまさにどんな問いであるかをまず知ることをしないで、問いというものに答えようと試みることである。

[Moore: Principia Ethica, p.Ⅶ]

ムーアによると「何がよいのか? 」という問いで使用されている「よい」という概念には、「目的として善い」と「手段として良い」の二つの異なった意味があって、両者を区別することがまずもって重要である。しばしば(典型的にはカントにおいては)倫理学の本来の問いは「何をすべきか?」であると考えられているが、するべき行為とは目的として善いものを結果として産出する行為であるから、この問いは、さらに基礎的な問いを前提する以上、最も基礎的な問いとは言えない。道徳的行為は「結果を度外視して」なさねばならないとも考えられようが、このような《目的として善い行為》は、《目的として善いもの》という類の一種と考えておく。

かくして倫理学における基礎的な問いは「何が目的として善いのか?」であることになるが、「善いもの the good thing」は複合観念であり、「善い good」という単純観念の理解を前提にしている。それゆえ倫理学における最も基礎的な問いは「“善い”とは何か?」「“善い”はいかに定義されるか?」である。この問いが「十分に理解されず、その正しい答えが明瞭に認識されないかぎり、倫理学の残りの部分[メタ倫理学ではない規範倫理学]は、体系的知識という観点からは無用も同然である」[Moore: Principia Ethica, p.5] 。

このようなムーアの論理的分析は無用の長物と思うかもしれない。現に例えばウィトゲンシュタインは次のように言っている。

私が常にムーアと議論したことは、日常言語の命題で我々が意味することは、論理的分析を待って初めて明らかになりうるものなのかという問題である。ムーアはそう考えがちであった。そうすると人々は、“今日は昨日より天気がよい”という時、自分が何を意味しているか、知らないのだろうか。我々はその場合、まず論理的分析を待たねばならないのか。何とひどい考えだ!

[Wittgenstein: Tagebücher, 1930.12.28]

だが“今日は昨日より天気がよい”の“よい”は“快晴”を意味しているかもしれないし、日照り続きに農場での農民間の会話におけるように、“雨が降りそうだ”を意味しているかもしれない。コミュニケーションにおいて「よい」でもって何が考えられているかは決して自明ではない。したがって改めて「よい」の定義をする必要性が生じてくるのである。

ところが「善いとは何か」に対するムーアの解答は、以下のような一見「極めて失望させるもの」であった。

もし“善いとは何か”と問われるならば、私の答えは“善いとは善いである”であって、それで終わりである。またもしも“善いはいかに定義されるべきか”と問われるならば、私の答えは、“それは定義されえない”であって、私がそれについて言わなければならないことはそれが全てである。

[Moore: Principia Ethica, p.6]

ではなぜ「善い」は定義できないのだろうか。「善い」が定義できないならば、彼が目指す「体系的学問(science)としての倫理学」[ibid] など不可能なはずである。ムーアは「善い」を定義することは自然主義的誤謬であるというが、なぜ・いかなる点でそれは《誤謬》であるのか。

これに対する 彼の説明は必ずしも明解ではなく、複数の解釈が可能である。そこで以下それらを類型化しつつ順次検討してみよう。まず、

1.「善い」は「善い」であって、他とは意味が異なり、この異なるものを混同することが自然主義的誤謬である

という「定義」を「他の言葉で置換しうる」の意に採った解釈が考えられる。ムーアはあたかもこの解釈を仄めかすかの如く『倫理学原理』の冒頭に「全てはそれがあるところのものであって、それ以外のものではない」というバトラーの標語を掲げている。

しかしこの解釈によると、「善い」が例えば「快い」で定義できないのは「善い」が「快い」と違う言葉だからである、ということになろうが、「この意味で“善い”が定義できないというわけではない」[Moore: Principia Ethica, p.8] 。事実ムーアは、「善い」が「内在的価値」「存在すべき」と同じ意味であると言って、前者を後者によって“定義”しているのである [Moore: Principia Ethica, p.7] 。

ムーアによると、定義には

  1. 私が「馬」と言う時、それは「馬属の有蹄四足獣」を意味するものとするというような恣意的な(規約主義的な?)言語的定義
  2. 人々が「馬」と言う時、それは「馬属の有蹄四足獣」を意味しているというような本来の(クワイン的な?)言語的定義、つまり経験社会学的・辞書的定義
  3. 「馬」とは四足・頭・心臓・肝臓 等々が一定の関係で並んでいるものであるというように複合物を部分に分解して、その配列を記述する(ラッセル流の?)実在的定義

があるが、彼が問題にしているのはCの意味での定義なのである。

だから、

2.自然主義的誤謬とは「善い」は単純で分析不可能であり、これを複合物として定義しようとすることである

と解釈される [Ewing: Ethics,p.79] 。つまり「“善い”は、単純で部分を持たないがゆえに定義ができない」[Moore: Principia Ethica, p.9]ということである。

ちょうど“黄色い”が単純観念であるように“善い”は単純観念である。つまりちょうど諸君が、それをあらかじめ知らない人[例えば色盲者]に黄色が何であるかをいかなる方法によっても説明することができないように、諸君は善いが何であるかを説明することはできないのである。

[Moore: Principia Ethica, p.7]

ところがムーアが挙げている自然主義的誤謬の例には、「善い」を「欲せんと欲すること that which we desire to desire」のような複合物で定義している場合のみならず、「善い」を「快い」のような単純概念で定義している場合もある [Moore: Principia Ethica, §.13] 。それゆえ少なくとも自然主義的誤謬の説明としては、この解釈は成り立たない。ムーア自身『倫理学原理』第二版序言の草稿(1920-1年頃・未完)の中で、「善い」が分析不可能であるから定義できないという議論が誤っていたことを認めている [Lewy: G.E.Moore on the Naturalistic Fallacy] 。

むしろ重要なのは「善い」が「独特の対象 a unique object」[Moore: Principia Ethica, p.16] であり、複合的か単純であるかを問わず、「善い」とは違った種類の観念と同一視されてはならない、ということであろう。ムーアが「善いについての命題は全て総合的であって、決して分析的ではない」[Moore: Principia Ethica, p.7] と言うのはこの意味においてである。本来総合判断である、つまり主語と述語が異質である「xは善い」が「善いとはxであり、かつその時のみである」という分析判断に転化されるとき、自然主義的誤謬が犯される。

そこで問題は、「善い」がいかなる点で「独特」で、他の観念とは「違った種類」であるのか、ということになるのだが、ここでまず思い付きそうなのは、

3.「善い」は非自然的属性であって、自然的属性によっては定義されえず、自然的属性によってこれを定義することが自然主義的誤謬である

という解釈である [Broad: Certain Features in Moore’s Ethical Doctrines,p.57-67] 。このように定義すれば、確かになぜ「善い」を定義する誤謬が“自然主義的”誤謬であるかのかが明確に成る。「もし[快いなどと]同じ意味で、自然的対象ではない“善い”を、およそ何らかの自然的対象と混乱するならば、それを自然主義的誤謬と呼ぶ理由がある」[Moore: Principia Ethica, p.13] 。

ところが他方ムーアは、「善い」を「完全性」「永遠性」 「超感性的」などの非自然的属性と同一視する形而上学的倫理学 をも “自然主義的”誤謬を犯したとして、自然主義的倫理学の時と全 く同じ論証形式で論駁している。それゆえ「自然主義的誤謬」は必ずしも適切な名称とは言えないのだが、「我々がその誤謬に出合った時それを認識するならば、それをどう呼ぶかはどうでもよい問題なのである」[Moore: Principia Ethica, p.14] 。いずれにせよ「善い」の特異性はその非自然的性格にあるのではない。

そこで次に、

4.「善い」は倫理的属性であって非倫理的属性によっては定義されえず、これを定義することが自然主義的誤謬である

という解釈が考えられる [Frankena: The Naturalistic Fallacy, p.56] 。このように解釈すれば、なぜ「善い」が「正しい」や「望ましい desirable」などで定義されうるが、「快い」や「欲求されている desired」では定義できないかが明確と成るが、同時にこの二分法はヒューム以来の《Is》と《Ought》、つまり理性と道徳感情の区別を彷彿させる[h]。

[h] 周知の《ヒュームの法則》をヒューム自身が本当に主張していた かどうかは疑問である。彼は「[is から ought への変化は]極めて重要である。というのもこの“べし”ないし“べからず”はある新しい関係または断定を表現しているので、それを注視し、説明し、同時に、この新しい関係がどのようにして全く異なったものから導出されうるのかという極めて不可解に思われることに理由が与えられることが必要だからである」と言っており、《is》から《ought》を導出することができないとは明言していない [Hume: A Treatise of Human Nature,p.469] 。

実際ムーアが「“実在はこのような性格である”と主張する何らかの命題から、“これはそれ自身において善い”と主張する何らかの命題を我々が推論できる、または確証することができると考えることは、自然主義的誤謬を犯すことである」[Moore: Principia Ethica, p.114] と言う時、あたかも自然主義的誤謬とは事実から価値を導出することであるかのようだが、蓋しこれが最も一般に流布している解釈なのである[i]。

[i] 日本のものでは[岩崎武雄、現代英米の倫理学,62頁]などがそうである。

しかし、非倫理的な命題と倫理的な命題を混同して、後者を前者に、あるいは前者を後者に還元するという誤謬は言語的誤謬であっても、倫理的誤謬ではない。ムーアの関心はたんにメタ倫理学にあったのではなく、規範倫理を基礎付けるかぎりでのメタ倫理学にあったことを想起しなければならない。

例えば、自然淘汰により生物は進化して来たという事実命題から、ゆえに弱肉強食の生存競争はあるべきだという規範命題を導出するソーシャル・ダーウィニズムを我々が信奉するとき、果たして我々は当為が存在に還元されていること、結論における「べし」が“情動的意味”を欠いていることを批判しているのだろうか。そうではあるまい。情動的意味が欠けているなら、むしろ誰もソーシャル・ ダーウィニズムを批判しないぐらいである[a]。

[a]アルバートは、自然主義的誤謬推論を

  1. 道徳的命題の記述的誤解(Sollen の Sein への還元)
  2. 記述命題から規範命題を導出する誤謬推理(Sein の Sollen への還元)

という帳消しにし合う二つの謬見を合わせたものとして説明している [Albert: Ethik und Meta-Ethik, SS.482f.] 。自然主義的誤謬推論:

大前提:進化は善い
小前提:自然淘汰は進化である
結論:ゆえに自然淘汰は善い

において、事実判断(小前提)から価値判断(結論)が導出できるかどうかは、結局大前提判断が妥当か、つまり事実を表す主語に価値の述語を付けられるかどうかに係っている。ムーアが問題とする自然主義的誤謬とは、総合判断である倫理的判断が分析判断化されることであるが、その分析判断には次の二つが考えられる。

  1. 「事実=事実」:この場合「進化は善い」は「進化は進化である」と同じ意味になる。つまりは“進化⇔善い”という定義がなされているのだが、この「善い」にはなんら“指令的意味”がない。これが自然主義的誤謬だというのが、ヘアーの「自然主義的(記述主義的)誤謬」の解釈である。
  2. 「価値=価値」:この分析判断化の場合、「進化は善い」の主語「進化」(あるいはより適切には「進歩」)の中にあらかじめ価値が潜んでいて、この判断はそれをただ取り出しただけになる。この命題を主張している人には「進化」のもたらす悪しき側面を反証例として提示しても「それは進化ではない、退化だ」と答えるので無駄である。

実証主義者は「事実から価値は出て来ない」と言い張り、解釈学者(と仮にこう名付けておくが)はこれに対して「裸の事実などありえない。事実は常に価値と共にあるのだから、価値判断は可能である」と応酬する。実証主義者曰く「事実は事実だ!」-解釈学者、答えて曰く「価値は価値だ!」- 規範倫理を目指す者はこの不毛な対立地平を克服しなければならない。

ソーシャル・ダーウィニズムの批判者たちが批判するのは、推論内容が誤っているから、即ち自然淘汰が常に善いとはかぎらないからである。逆に云えば「善くない(もちろんなぜ善くないかが争点と成るのだが)自然淘汰」という“反証例”(例えば植民地での圧政、弱者の大量殺戮等々)を提示しないかぎり、そしてなぜそれが悪いかを正当化しないかぎり、我々はソーシャル・ダーウィニズムを批判できないのである。

このことを倫理学以外の例で見てみよう。「白鳥は白い」という命題は、もし白鳥が白さそのものであるならば、それは「白鳥であるとき、かつそのときのみ白い」という同語反復になる。あるいはそこまで言わなくても、「白鳥」が“swan”ではなくて“white bird”であるならば、当の命題は分析的に真となる。そしてこのような誤謬がおかされると、「白鳥が白色か否か」という動物学的探求が無意味になる。

しかしここで注意しなければならないのは、スワンという意味での「白鳥」と「白色」が異質であり、前者から後者が分析的に導出されないからといって「白鳥は白い」という判断が直ちに不可能になるのではなくて、むしろ「白鳥が白色か否か」という動物学的探求を有意味にするということである。「白鳥は白い」という総合判断を論駁するためには、白色でない白鳥(例えばオーストリアに棲息するクロハクチョウ)を反証例として提示しなければならない。より高度な自然科学の命題ではさらに反証例の解釈が問題となるであろうが、それは倫理学でも事情は同じである。

以上から明らかなように、事実と価値は存在性格が異なることは、両者を主語と述語として結合した判断が偽であるための必要条件であっても十分条件ではなく、したがって倫理学が有意味であるための不可欠条件なのである。倫理学は、事実から価値を正しく導くことができるかもしれないのであって、ムーアはそれが《直覚》によって(積極的にではなくあくまでも消極的にではあるが)できると考えていた。

ここで結局4の解釈は、

5.自然主義的誤謬とは、「善いもの」という複合観念における単純観念「善い」以外の非倫理的属性Pを「善い」と混同して同一視し、 Pが唯一の善であると考えてしまう誤謬である

という解釈 [Moore: Principia Ethica, p.10] に移行する。すなわち、自然主義的誤謬が犯される時、Pが極めて頻繁に「善い」と同時に生起するとき、Pと「善い」との間に結合が生じ、Pが「善い」の代わりに用いられるようになる。

この虚偽を暴露するためには、Pであっても善くはない反証例を挙げればよい。例えば「自然は善い」という自然主義的倫理学の命題においては、自然という善いものが持つ「正常な」という属性と「善い」という属性との間に結合が生じて、しばしば「正常な」⇒「善い」の結合は、「正常な」⇔「善い」にまで進展する。しかし後者はもちろん、前者も成り立たないことは、¬「正常な」∧「善い」(例えば、ソクラテスやシェークスピアなどの“異常な”天才)を反証例として提示することによって暴露される [Moore: Principia Ethica, §.27] 。

形而上学的倫理学を批判するときも形式は同じである。例えば「最高善は永遠の実在である」と言う時、「超感性的」と「善い」が混同されている。「超感性的」という点では「悪のイデア」も考えられるはずであり、これが反証例となるのだが、この種のイデアの存在を認めようとしなかったプラトンは、広い意味での「自然主義的」誤謬を犯していたわけである。

ここでムーアが批判していることはPを唯一の善とみなすことであって、Pがある一つの善いものであると判断することまでが誤謬であるとは言っていないことに注意しなければならない。定義できないのは「善い」であって「善いもの」は《定義》できるのである。

もし私が“善い”だけでなく“善いもの”までが定義できないと考えているならば、私は倫理学の本を書かなかっただろう。というのも私の主たる目的は、善いものの定義を発見することを助けることなのだから。いま私が善いを定義できないということを強調しているのは、そうした方が“善いもの”の定義を求めるときに誤る危険が少なくなるであろうと考えるからに他ならない。

[Moore: Principia Ethica, p.8f]

ムーアは、この「善いもの」の定義は《直覚》に拠るしかないと考えて、直覚主義的倫理学を打ち立てようとする。このムーアの議論は意外である。というのも、彼の自然主義的誤謬批判は、自然主義のみならず直覚主義をも批判するだけの潜在能力を持っているからである。つまり

(∃x)(PX∧¬GX) 「善くないPが存在する」

という反証例は、

(∀x)(PX ⇔ GX)「Pのみが善い」

という自然主義者の分析的命題のみならず、

(∀x)(PX ⇒ GX)「Pはすべて善い」

という直覚主義者の総合的命題をも否定するからである[m]。反証例があるにもかかわらず、そのような P∧¬Gは“真の”Pではないとうそぶきつつ、「Pが唯一の善なり」と主張することが自然主義的誤謬であるとするならば、「Pはいつでもどこでも誰にとっても善きものなり」と主張する誤りは直覚主義的誤謬とでも名付けられよう。

[m]一般に(∃X)(PX∧¬GX)⇔ ¬(∀X)(PX⇒GX)である。この式を私の方法で説明する方法で証明しよう。

(1) (∃X)(PX∧¬GX)より、

PX(1-GX)≠0

∴ PX≠0∧GX≠1

(2) ¬(∀X)(PX⇒GX)より、

(1-PX+PX×GX)≠1

PX(GX-1)≠0

∴ PX≠0∧GX≠1

ムーアはその実体主義的絶対主義的発想[b]のゆえにこの誤謬を犯した。だが我々は、彼の批判の射程を拡大することによって、当の彼の規範倫理学をも破-壊することができると考える。しかしムーア批判を云々する前に、彼の《目的として善いもの》即ち「内在的価値 intrinsic value」についての議論を一瞥しておく必要がある。

[b] 我々は「実体主義」と「偶有主義(?)」の対立地平に対して「関係主義」の立場を、「絶対主義」と「相対主義」の対立地平に対して「相関主義」の立場を採る。ムーアはラッセルと共に、ブラッドリーを始めとする当時のイギリスのヘーゲリアンに対抗して new realism の旗手となっていた哲学者で、ラッセルと同様その哲学は(そして当然その倫理学も)素朴実在論的原子論的性格が強い。

ムーアは、一方で内在的価値は直覚によってしか知りえないという無媒介性のテーゼを掲げながらも、他方ではその内容確定に際しては彼なりに方法を工夫していた。「絶対的孤立の方法 method of absolute solution」[Moore: Principia Ethica, p.188] がそれである。「[何が内在的価値を持つかという]この問いに関して正しい解決に到達するためには、何が絶対的孤立においてそれ自身で存在していても、我々がその存在を善いと判断するであろうようなものであるかを考察する必要がある」[Moore: Principia Ethica, p.187] 。

この方法は快楽主義批判に際して駆使されるのだが、実は以前の直覚主義的誤謬批判の時と同様に、

¬(∀x)(PX ⇒ GX)

と論理的に等値な

(∃x)(PX∧¬GX)

が示されるだけなのである。ムーアは『ピレボス』(21A)を引用しつつ次のように主張する。もしも快が唯一の善であるならば、快以外の何物も、例えば記憶も意識も知性もなくても善いはずなのだが、そうだとするならば、自分がかつて快を感じていたことも、今快を感じていることも、将来快を感じるであろうこともわからなくなり、かくして牡蠣のごとき生活を送らなければならないだろうというわけである [Moore: Principia Ethica, p.88f] 。

快と快の意識が同じではないことは確かだとしても、色の無い青色がないように、意識の無い快はありえないのではないのかとムーアの読者は反論したくなるであろう [Duncan-Jones: Intrinsic Value: Some Comments on the work of G.E.Moore: p.315-8] 。しかし一歩譲って、快楽主義者が唯一の善とみなすものが快の意識であると認めたとしても、具体的意識内容を欠いた抽象的な快の意識を絶対的に孤立させた場合、それが唯一善いものであるかどうかは極めて疑わしい [Moore: Principia Ethica, p.91] 。我々が「善い」と判断するとき、そこに常に快の意識が随伴しているからといって、快の意識が「善いもの」であるとか、況んや「善い」そのものであるなどとは言えないのである。

全ての事象を意識作用に還元する認識論的主観主義は、新実在論者ムーアが常に否定する立場であった。対象と作用の区別は『観念論論駁』に詳しい。ムーアによると、あらゆる観念論の根底には

「実在するとは知覚されることである」

(∀x)(EsseX⇒PercipiX)

というバークリー以来の命題が横たわっているが、これを否定するのに

「知覚されていない実在物がある」

(∃x)(EsseX∧¬PercipiX)

という反証例を“考える”ことはできない。なぜなら「考える」ことも広義の「知覚する percipere」こと(つまり認識作用)である以上、その実在物は依然として percipi であるからである。しかし両者は実在的に区別されえないにしても概念的には区別されうる。

例えば「青の知覚」は「青に対する知覚」であって、知覚自体は青くない。たとえ「青の知覚」と「青い知覚」が同じであっても、我々はなお「認識の対象」と「対象の認識」を区別することができるのである [Moore: The Refutation of Idealism, 26] 。同様に青色が好きな人の場合であるが、「青の快」は「青に対する快」であって、快自体は青くない。たとえ「青の快」と「青い快」が同じであっても、我々はなお「快の対象」と「対象の快」を区別することができるのである。快楽主義者は快の対象から快の意識を孤立化させることができなかったので、「善い」と「快の意識」を同一視したのである。

ムーアはこの経験的意識に当てはまることを超越論的意識についてまで当てはめようとする。ムーアによると、カントの理論哲学においては「正しい」を「一定の方法で認識されている」と同一視し、実践哲学においては「善い」を「一定の方法で意志されている」と同一視したが、この《コペルニクス的転回》も対象と作用の(ノエマとノエシスの)混同なのである。「Ich denke は、全ての私の表象に伴いえなければならない」をもじって言えば、「Ich will は、全ての私の格率に伴いえな ければならない」という前提に立って、カントはあの形式的倫理学を打ち立てたのである。かくしてカントは、「善い」を「善き意志」=「定言命法」、すなわち「ある実在的で超感性的な権威によって命令されている」で定義する自然主義的誤謬を犯したというわけである[p]。

[p] このムーアのカント批判が不当であることについては、[Paton: The Categorical Imperative,p.43] を参照せよ。

以上から明らかなように、「絶対的孤立の方法」は以前の反証例提示の方法と目的と形式は同じである。但し、反証例提示の方法では、混同されている非倫理的属性Pが特定の対象であったので、反証例を一つ提示すればそれで足りたのだが、全ての善の判断に随伴する作用がPである場合は、概念上これを孤立化させて、その内在的価値を吟味する次善の方法が採られたわけである。この絶対的孤立の方法は、反証例提示の方法とは異なって、全ての自然主義的/直覚主義的誤謬を暴露する包括的な方法なので、内在的価値をこの方法によって検証された価値として定義することができる。

ではいかなる内在的価値が絶対的孤立においてもなお多くの価値を保持しうるのだろうか? ムーアは明言していないがおそらく皆無であろう。彼自身は「人間間の交際の楽しみ」と「美的対象の享受」を内在的善と考えている [Moore: Principia Ethica, p.188] が、例えば後者などもそれを (1)対象に備わる美的性質 (2)これに感動しうる情緒性(3)対象が実在することの正しい信念という各構成要素に分解し、それらを単独で考察した場合、ほとんど価値がないことになってしまう [Moore: Principia Ethica, p.199] 。最も価値がありそうな(1)の美的対象、例えば美しい絵画も、額・縁・画布・絵の具・油等々の部分に分解すれば、どれも価値がないことが判明する。(2)や(3)に至っては、もしその対象が醜いものならば、積極的に悪くさえある。

この事態に気が付いたムーアは、自分の立場を守るべく「有機的統一体の原理 principle of organic unities」なるものを提唱する。すなわち「全体の内在的価値は、その部分の価値の総計と同じでもなければ比例もしない」[Moore: Principia Ethica, p.184] 。論敵の快楽主義を攻撃するときには全体を部分へと分解してその価値を貶めておきながら、自分の立場を説明する段階になると、部分には還元されえない全体の価値を云々する彼のやり方は一見いかにも卑怯に見える。しかしここで彼が否定しているのは自然主義的誤謬であって直覚主義的誤謬ではないということを想起しなければならない。彼は、快が内在的価値の一構成要素であることを認めるに吝かではないのであって、ただそれが唯一の内在的価値を僭称することを批判しているだけなのである。

この[有機的統一体の原理を無視するという]誤謬は、もし全体の一部分が内在的価値を持たないならば、全体の価値は全て他の部分に存しなければならないと考えられるとき犯される。かくして、もし全ての価値ある全体が、たった一つの共通属性しか持っていないと見做されうるならば、この属性を所有しているからというだけで全体は価値があるに違いないと通常考えられてきた。そして当の共通属性は、それだけで考えられると、それだけで考えられたそのような全体の他の諸部分より大きい価値を持っていると思われるなら、その幻想は大いに強められる。しかし、我々が当の属性を孤立して考察して、その属性を、それを部分とする全体と比較すれば、当の属性が持っている価値は、それだけで存在しているときそれの属する全体が持っている価値には遠く及ばないということがたやすく明らかになるだろう。

[Moore: Principia Ethica, p.187f] [g]

[g] 因みに、英語の“good”は、語源的には「結合する・統一する」を意味する“ghedh”に由来する。

ここから以前の自然主義的誤謬の5の解釈を、

6.自然主義的誤謬とは、有機的全体としての内在的価値を、全体を構成する特定の非倫理的な部分の価値に還元する誤謬である

と表現することができる。

当初、事実/価値という実証主義的な二分法によって提起されていた問題が、いまや、部分/全体というホーリステ ィックな二分法のもとで考え直される。ここにカントからヘーゲルへという思想的転回を見ることができる。ムーアとヘーゲルは何の関係もないと読者は思うかもしれないが、ムーアが若かりし頃のイギリスの哲学界では、ブラッドリーなどを筆頭とするヘーゲル主義が主流となっていて、『倫理学原理』を書いていた時のムーアも、それなりにヘーゲルの影響を受けていたのである。ムーアの自然主義的誤謬批判は、後世には倫理学に対する実証主義的批判のように誤解されたが、じつは実証主義的倫理学に対するヘーゲル的批判であったわけである。

だがムーアは、全体と部分の関係をはっきりと捉えなかったために、実証主義者を満足させるような価値理論を作り得なかった。ムーアによれば、内在的価値の全体を構成する部分は、それ自体無価値であるどころか積極的に悪くさえあることもある [Moore: Principia Ethica, §§.129-133] 。部分の価値の合計が全体の価値ではないし、全体としての価値の根拠をどの部分にも求めることはできない。

だがこのように価値を全体が持つ創発的特性(emergent property)として特徴付けることによって、彼は不可知論に陥ってしまったのではないか。部分を事実、全体を価値に置き替えたとき、部分に対する全体の独立性のテーゼは、実は事実から価値が導けないことの婉曲な表現であることがわかるであろう。ムーアの規範倫理学が不可知論に終わった原因は、しばしばそう考えられているように、彼のメタ倫理学的な問題設定にあるのではなくて(この反省的=超越論的問題設定自体は我々も積極的に受け継がなければならないであろう)、彼の価値概念の実体主義的・絶対主義的性格にあるのではないのか。

ムーアによると「ある種の価値が“内在的”であるということは、あるものがそれを所有するかどうか、そしてどの程度それがそれを所有するかという問いが、当のものの内在的本性にのみ依存するということを意味することに他ならない」[Moore: The Conception of Intrinsic Value,p.260] 。内在的価値は、超時間空間的不変性と超個体的普遍性を持って内在的本性に依存する。この内在的価値の概念規定から、彼が実体的な内在的価値の絶対的妥当性を信じていたと考えることができるであろう。ムーアによれば、関係概念としての価値は“外在的”な手段としての価値に過ぎない。すなわち、内在的価値とは「性質(character)であって、関係的属性(relational property)ではない」[Moore: Is Goodness a Quality?,p.97] 。

しかしその反面ムーアは「善い」「美しい」などの述語が第一性質ではないことはもちろん「黄色い」のような第二性質とも存在性格を異にした述語であることをも了解していた。「黄色さと美しさは、両方ともそれを所有しているものの内在的本性にのみ依存する述語であるが、黄色さがそれ自身内在的述語であるのに対して、美しさの方はそうではない」[Moore: The Conception of Intrinsic Value,p.272] 。では価値のこの特殊な存在性格とは何か。

ムーアによれば、価値とは部分に還元されない全体であった。この全体とは部分と部分の関係であると言えないか。次のように考えてみよう。

[テーゼ1]価値とは事象に独立自存する実体はなく、主体(但し経験的な主体)と客体との関係である。

この実体概念と関係概念の対比は、カッシーラーのそれである。価値とは、主体と客体を包括する欲求という(疑似)志向性における、心的契機と物的契機の関数値である。世界-内-存在する主体が客体に対して関係を持つ(sich verhalten)ということは、主体が客体に対して態度を採る(sich verhalten)ということである。主体との関係を絶たれた《絶-対 ab-solute》的孤立における客体は、理論的客観的に観察される「対-象 Gegen-stand=主体に対して立つもの」として価値を失う。もちろんここで言っている《関係》は、レアールな《人と物との関係》であって、イデアールな《人と人との関係》ではない。経験的な主体と客体との関係は、超越論的反省において概念的に述定されなければならない。

そこで次に「よい(善い+良い)」の意味(基準ではない!)を次のように定義しよう。

[テーゼ2]「よい」とは、我々実践主体が持つ目的に対する手段/形態の有用性である。

我々は、ムーアの「目的として内在的に善い」と「手段として外在的に良い」の区別を撤廃し、「¬にとって/としてよい」で統一することができる。我々は以前、(1)「~にとってよい」と (2)「~としてよい」を区別したが、両者は(1)目標的目的-実現手段、(2)理念的目的-実現形態の関係を表す概念であって、ムーアの区別とは異なる。このテーゼ2から、直覚主義的誤謬を、ある価値が目的との関係を離れて無制約的に妥当すると考えられた時に犯される誤謬と定義することができる。この誤謬が犯されたとき、PがGと結合して、あたかもGはPという「内在的本性にのみ依存する」かの如く思念されてしまうのである。

この我々の目的論のテーゼに対して、はたして目的は手段を正当化しうるのかと疑問を持つ向きもあろう。しかしそれは、目的の概念を狭く採ることによって生じる[m]。例えばある革命家が、革命の目的のためには手段を選ばないと豪語したとする。ところが彼は、革命の目的は人民の福祉であり、これを犠牲にしてまでも革命を起こすことは目的と手段の転倒であることに気が付いて、もっと穏健な手段を選ぼうとするようになるかもしれない。その場合確かに革命という目的が全ての手段を正当化するわけではないが、正当化しないことを正当化しているのはより高次の目的であることに注意しなければならない。

[m] ムーア自身 「“正しい”[手段として良い]は“善い結果の原因”以外の何物をも意味しないし、意味しえず、したがって“有用な”と 同一である」[Moore: Principia Ethica, p.147] と言って、「目的は決して手段を正当化しないものだ the end will never justify the means」という常識を否定している。

要するに《悪しき目的》の反価値性は、それを手段/形態とするより高次の目的に対する不適合性なのである。目的ー手段/形態の系列を上昇して行けば、究極目的に到達するであろうが、この究極目的(最高諸目的の体系的実現の形式=超越論的主観性)自体は善でも悪でもない。ちょうど物体の総体に重さがないように価値の総体には価値がないのである。

ここでもう一度『現象学的に根拠を問う』に掲載した超越論的目的論的還元の図を見られたい。Gは空虚な統一性であって内容を持たない。内容を持った理念的目的のうちで最も抽象的な(最高の)目的はFである。Fは究極目的Gの(1)一つの(2)実現形態である。(1)は自然主義的誤謬に陥らないための、(2)は直覚主義的誤謬に陥らないための要件である。すなわち究極目的の実現形態はF以外にも他にありうるし、他の諸目的との関係で、Fの実現に(per se にではないが per accidens には)価値がない場合もありうるのである。

ではFの内容はどのようにして決めるのだろうか。この問いに対しては次のように答えたい。

[テーゼ3]目的から手段/形態を選ぶ前に、手段/形態から目的の内容を確定しなければならない。

ムーアは具体的な手段/形態の価値を捨象して、いきなり「目的として善いもの」を捜そうとしたために直覚主義、ひいては不可知論に陥った [Kaulbach: Ethik und Metaethik,SS.79f/82f] 。我々はこれに対して現存する全ての価値を出発点にしつつ、その根拠を一なるものへと収斂させ、そこから現存の行為規範・制度を正当化/修正する。そしてそれが、以前私が提唱した目的論的還元・構成・破壊であったわけである。

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