9月 031997
 

ヘアーは、日常言語学派の立場から道徳的言説の分析を行ったメタ倫理学者として知られるが、規範倫理学にも取り組んだ。ヘアーの規範倫理学はどの程度成功したのだろうか。

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超越論的目的論的倫理学はいかにして倫理的言説の正当化というメタ倫理学の根本問題を解決しうるのか。還元・構成・破壊という我々の方法の必然性を示すには、具体的な倫理的ディスコースの分析を通して、メタ倫理学の立場が目的論へと対話弁証法的(dialog-dialektisch)に移行することを示すのは一つの方法である。

対話例は何でもよいのだが、ここでは学校教育はいかにあるべきかについての議論を取り上げることにする。Aは教育評論家、Bは財界人である。

  1. 今の日本の学校では、世の学歴至上主義の影響を受けて画一的 教育による偏差値序列・偏差値選抜が行われていますが、このような教育では子供たちは他人を蹴落とすことしか考えない偏狭な人間になって、いじめの問題もいつまでたっても解決しません。落ちこぼれの子供も明るく楽しい学校生活が送れるような、そういう愛の教育によって初めて人間味豊かな子供を育てることができるのではないでしょうか。
  2. 君、そんな生ぬるいことで子供の教育ができると思っているの かね。現実の社会をよく見たまえ。どこでも弱肉強食だよ。そういう厳しい競争を通してこそ、真の人間形成がなされるんだ。 学校を馬鹿の天国にしないためにも、競争を通した相互の切瑳琢磨があってもいいと思うね。

この対話の直覚主義的ムーア的段階においては、評論家と財界人はそれぞれ自分の趣味判断的な価値・規範をそれぞれ表出しているにすぎず、 そこには和解の余地はない。このAとBの対立は、以前の四項図式を用いて表現すれば図2のようになる。

図2 評論家Aと財界人Bの直観的価値の対立

これは以前「自己実現」(A) と「他者帰属」(B) と名付けた、二つの精神的目的の永遠の葛藤である。もし情動主義者が言うように倫理的ディスコースがたんに感情の表出に過ぎないなら、両者の間にはもうこれ以上議論に進展はないはずである。趣味は争えないのだから。しかし両者は普遍的妥当性要求をもった倫理的主張である。

合理的な和解を求める評論家Aは、この直覚レヴェルでの原則の葛藤を解決するために、ヘアーが提唱する「批判的思考」によって財界人Bを説得させようとするかもしれない。これが対話の第二段階である。

  1. でも、もっと生徒の気持ちを考えてみるべきではないでしょう か。あなたは、学歴社会の被害者の選好を十分に想像して、その立場に自己を移し置き、それでもなおかつ弱肉強食たれと指令できますか?
  2. 確かに落ちこぼれの気持ちがわからないでもない。だがそう言う君こそ優等生の選好を十分に想像する必要があるのではないのかね。怠け者と同じ扱いでは優等生もさぞ迷惑することだろう。しかしたとえ優等生の選好の強度よりも劣等生の選好の強度の方が強いとしても、だからといって直ちに実力社会を潰せということにはならないはずだ。勉強などというものはもともと嫌でもやらなければならないものなのだから、こんなものにいちいち子供の選好を斟酌する必要はないのではないのか。

ここでBは、たんに優等生の選好と劣等生の選好を強度の点で比較することが技術的に困難であることを指摘するのみならず、このような方法の正当性そのものを疑っている。Bにとって劣等生の怠けたいという選好はいかがわしいものであり、Aにとって優等生のエリートになりたいという学歴社会=産業社会=資本主義のイデアロギーによって生み出された選好はいかがわしいものなのである。

かくして評論家Aは、ヘアー流の共感倫理学の限界に気が付き、目的論的還元の方法によって財界人Bを説得させようとする。対話の第三段階:

  1. それでは一つお聞きしたいのですが、なぜ学生達はあんなに一生懸命に勉強しなければならないのですか?
  2. それは君、今の高度技術社会の有能な担い手となるためだよ。
  1. 高度技術社会はなぜ必要なのですか?
  2. それは日本の、ひいては全人類の福祉に貢献するため、つまり人類が快適で豊かな生活を送ることができるためだよ。
  1. にもかかわらず生徒たちは「快適で豊かな生活」を送ってはいけないというのは自己矛盾ではないのですか?
  2. 君は努力目標と努力そのものとを混同している。結果の価値も さることながら、真に美しいのは、熱心に仕事に取り組み、未知の分野に果敢にチャレンジして世間に役立つ人間になろうとする企業精神、これなんだ。
  1. あなたのおっしゃること自体はもっともですが、視野が一面的 なのではないのですか? 自己実現は人間や社会が求める唯一のものではないわけで、例えばビジネスの世界でも《和の精神》が日本的経営の必須のモメントとなっているわけでしょう。テクノロジーが人類の福祉に貢献するといっても、それは政治的安定を前提してのことですね。しかし健全な民主主義社会を維持するためには各国民が教養、それも断片的な技術知ではなくて全人格的な教養知を持っていなければならないわけで、そのためにも学校教育はたんに試験によって生徒に知識を詰め込ま せるだけではなくて、読書や討論によって教養を深めることができるように生徒に“ゆとり”を与えるべきではないでしょうか。
  2. (沈黙)

果たしてこれで財界人Bは納得するであろうか。納得すればそれでよいのだが、実際にはそううまくはいくまい。教育評論家Aの話に苛立ちを感じてきた財界人Bは、規範の“超越論的基礎付け”に熱弁をふるうAの説得をもうわのそらに煙草をふかし始め、あまつさえ腕時計にちらちら目をやりながら「ちょっと用事を思い出したのでこれで失敬」などとうそぶきながら出て行ってしまうかもしれない。これに対して評論家Aは何ら成す術を知らない。- これが《コミュニケーション的理性》の限界なのだ。

かくして教育評論家Aは、“自由浮動型”の一介の知識人である自分のディスクールと膨大な資本の蓄積を背景にした財界人のディスクールとの間にある権力的な差異に痛感の思いを新たにする次第であるが、ここでロゴス中心主義的な目的論的倫理学は差異の戯れへと転落して消滅するわけではない。目的論的還元・構成・破壊は、我々の実践において問題になっていることは結局のところ主体(システム)の存在であるということ、全ては権力への意志であることを暴露する。目的論的倫理学は、真理が権力闘争の産物であることを認めた上で、その権力構造になお目的論的ロゴスを見出さなければならない。

次に目的論による正当化ではなくて、目的論そのもの正当化という問題を扱おう。設問はこうである。なぜ我々は価値や規範を目的論的に還元しつつ構成/破壊しなければならないのか。

この問いに対しても我々は、通常の規範を基礎付ける時と同じように答えればよい。すなわち還元・構成・破壊“する”ことは一つの《行為》であり、それゆえこの行為の原則は、その妥当性を目的論的に還元・構成・破壊することによって正当化される。超越論的目的論的還元の根本動機は「厳密な学としての倫理学」である。我々は直覚的な価値判断・当為判断に導かれて 多くの過ちを犯して後悔し、正確な価値判断・当為判断を下したいと切実に願うようになる。この目的が必然的である以上、その手段/形態である目的論的還元・構成・破壊の当為化も必然的なのである。

しかしここで人は、目的論的還元・構成・破壊を目的論的還元・構成・破壊によって正当化することは循環論証ではないのかという疑念を抱くかもしれない。確かに循環論証である。しかしもしも目的論的還元・ 構成・破壊の方法を目的論的還元・構成・破壊以外の方法で正当化するならば、その方法をいかにして正当化するのかという更なる同じような問題が生じるであろう。いやそれ以前の問題として、すべての行為は目的論的還元・構成・破壊によって正当化されると言っておきながら、目的論的還元・構成・破壊という行為は目的論的還元・構成・破壊によっては正当化されえないと言うことは自己矛盾である。

こうして我々は、自己矛盾か循環論法かという正当化の方法を正当化するときに直面せざるをえないディレンマ[a]に直面する。このディレンマをいかにして乗り越えるか。デカルトのように不可疑で自明な出発点を作ってしまうか、それともハイデガーのように循環こそが真理であると開き直るか。

[a] アルバートによれば、真理の究極的基礎付けは (1)無限後退 (2)論理的循環 (3)一定点での手続きの中断 のトリィレンマに直面する [Albert: Traktat Über Kritische Vernunft,S.13] 。だが(1)は基礎付けのアポリアであり、(2)と(3)はその解決策であると考えれば、謂う所のトリィレンマもディレンマと見なされうる。

しかしながらこの自己矛盾か循環論証かというディレンマは、他のディレンマと同様、ある一つの事態の二つの現れに過ぎない。つまり究極的真理は、それがコギトの如き点であるか循環する円であるかを問わず、基礎付けることができないのであって、いやむしろ基礎付けることができないがゆえに究極的真理は《究極的に》真理なのである。

ムーアの表現を借りて言えば、それは自己自身を真理の証拠とするほかがないゆえに自明(self-evident)なのである [Moore: Principia Ethica, p.143] 。したがって目的論的還元・構成・破壊を他の方法によって基礎付ける必要はない。それは我々が合理的な実践的思惟において常に暗黙のうちにではあるが前提にしている方法であると言えばそれで十分なのである。

そのような暗黙の前提をなぜことさら超越論的反省のもとに対自化しなければならないのか?-と、ある種の論者は口を挟む-超越論的目的論などという反省的思弁は「…のために」という日常言語が仕事を休んでする言葉のお祭りであり、哲学者の病気・倫理的饒舌云々。だがお祭りもまた「生活形式 Lebensform」の一つでなのであって、病気扱いするのは不適切である。要はメタレヴェルを自己言及的に対象レヴェルへと内在化させつつ、自己関係性の論理を貫くことなのである[w]。

[w] ウィトゲンシュタイン自身次のように言う「哲学が“哲学”なる語の使用について語るなら、第二階の哲学がなければならないと考えることができるかもしれない。しかしそうでは全くないのであって、その事情は、正字法が“正字法”という語をも扱わなければならないからといって、第二階の正字法が存在するわけではない事情に対応している」[Wittgenstein: Philosophische Untersuchungen, 121] 。

確かに我々は目的論的還元・構成・破壊なる反省的方法を自然的態度において用いてはいない。目的論的還元・構成・破壊の目的は倫理的判断の厳密化であるので、逆に言えば厳密さを要求しないような場合(例えば日常の些細な行為の決定)においては、いちいち目的論的に還元する必要はないのである。このように目的制約的妥当性しか認めないことは、常に還元することを説く絶対主義や還元すべきときとそうでないときとの区別ができない相対主義から区別された相関主義のテーゼに基づくものである。

それゆえ我々の論敵は目的論的還元・構成・破壊を全面的に拒む人でなければならない。だがこのような人は「なぜ私は、自分の行為や価値を正当化する時に目的論的に還元しなければならないのか?」と問うことはできない。このような問いは、「なぜ私は理由を問わなければならないのか?」という問いが自己矛盾的であるのと同じぐらい自己矛盾的である。そこで我々の“論”敵は、このような問いすら立てない直覚と感情に埋没した人でなければならない。そしてこのような人とはもはや対話は不可能である。対話が不可能な精神錯乱者は、精神病院に幽閉されるなどして《我々》の言語共同体から追放される。真理は[権力=中心]であり、周縁は排除される。

倫理的判断の基礎付けの問題にヘアーはどのように対処していたのであろうか。ヘアーは、メタ倫理学者の常として対象レヴェルとメタレヴェル、彼が謂う所の直覚的レヴェルと批判的レヴェルを区別するが、批判的レヴェルが直覚的レヴェルを正当化する同じ方法で批判的レヴェルが批判的レヴェルを正当化するわけではない。早い話、普遍化可能性が正当であるのは、普遍化可能性が普遍化可能だからではない。

そこで彼はメタレヴェルのメタレヴェルとして「メタ倫理学的レヴェル」という段階を設定し [Hare: Moral Thinking, p.26] [h]、批判的レヴェルの基礎付けを試みるが、結局彼の結論は、それが道徳語の使用規則なのだというものであった。

[h] 直覚的レヴェルが第一階の関数化で、批判的レヴェルが第二階であるとするならば、このレヴェルは第三階の反省的規定ということになる。

このヘアーの日常言語分析の手法に対して、ひとは、道徳的思考を言葉の奴隷にしてしまうのではないのか、という危惧を抱くかもしれない。

しかしながらもし我々が我々の言葉の意味[使用規則]を変えてしまうならば、我々は問うている、そして恐らく答えているところの問いをそれによって変えていることになるだろう。我々は道徳哲学を始める時ある道徳的な問いを立てているのであって、そしてその問いはある概念によって立てられている。もし我々がその問いに答えようとし続けるならば、我々はその概念に拘束される。

[Hare: Moral Thinking, p.18]

道徳的な問いを立てる人は「なぜ私はそもそも道徳的でなければならないか?」と問うことはできない。すべきかすべきでないかの問いは《いつも・すでに》超越論的合理性なる“地平”において生起するのであり、そして超越論的合理性の問いは、人-間の目的論的構造にその答えの基盤を持つのである。

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  7 コメント

  1. 実に面白い切り口で構成なさっていらっしゃる内容だと思います。
    僭越ながら楽しく読ませていただきました。
    この内容を「イメージで以って」述べさせていただけば、【とある立体多角対(所謂ダイヤモンドのような立体)の多角各面に立ちつつ不透明であるその立体多角体内部を覗く姿】がそれであるような感じさえ持ちました。
    言語表現というのは、(表現対象がメタ対応型であればあるほど)難しいものであるとも考える中、永井俊哉氏の文章にて論じられている内容は(誠に僭越ながら)笑みさえ浮かびますほどの精密さに在るとも思いました。
    また、ウィトゲンシュタイン曰くであるところの【哲学が“哲学”なる語の使用について語るなら、第二階の哲学がなければならないと考えることができるかもしれない。しかしそうでは全くないのであって、その事情は、正字法が“正字法”という語をも扱わなければならないからといって、第二階の正字法が存在するわけではない事情に対応している】←との一説につきましても、以前から『哲学』-その-語表現における『語そのものと事実上との誤差』を感じておりましたことから、私もこの件に関しましては、彼(ウィトゲンシュタイン)に悉く同意を致しておりました次第であります。
    つきましては、永井俊哉氏がお考えになる【ディレンマ消滅法】などについても伺いたく思いましたところです。

  2. ディレンマとは、ギリシャ語で「二つの命題」という意味で、この言葉は、日常的には、ある命題を肯定しても否定しても、困ったことになる時に使われます。論理学的には、以下のように表現することができます。
    (P⇒Q∧¬Q)∧(¬P⇒R∧¬R)
    こういう時には、Pか、それとも¬Pかという対立を生じしめる前提を検討することで、ディレンマを解消することができる場合が多いようです。本ページの場合、自己矛盾か循環論証かというディレンマは、真理全体を究極的に基礎付けなればいけないという前提から生じるので、この前提を否定すればよいというのが本論での主張です。

  3. (P⇒Q∧¬Q)∧(¬P⇒R∧¬R)
    例えば、そのことを「生と死・楽と苦」に置き換えてみると、
    {(生きているならばそれは楽しい)且つ(生自体、楽ではない)}且つ{(死ぬならばそれは苦しい)且つ(死自体、苦しくない)}
    ということになりますでしょうか?

  4. 連言は条件法よりも結び付きが強いというのが一般的な約束なのでわざわざ括弧で括らなかったのですが、誤解があるようなので、冗長になることを厭わず書くなら、
    (P⇒(Q∧¬Q))∧(¬P⇒(R∧¬R))
    となります。背理法を使うと、
    (P⇒(Q∧¬Q))⇒¬P
    (¬P⇒(R∧¬R))⇒P
    となるから、いつまでたっても決着がつきません。そこで隠れている条件を見出し、
    ((P∧A∧B∧C…)⇒(Q∧¬Q))⇒(¬P∨¬A∨¬B∨¬C…)
    ¬P以外の選択肢、¬Aや¬Bや¬Cなどを選ぶことを考えます。「前提を検討することで、ディレンマを解消する」というのは、そういうことです。
    「日常的には、ある命題を肯定しても否定しても、困ったことになる」と書きましたが、一般的に言って、困るとは、欲望と現実が一致しないことであり、欲望されている可能的事態と現実的事態が異なること自体は矛盾ではないものの、その可能的事態を現実的事態に変えようと欲望している者は矛盾に直面していると考えることができます。ご提案の例で言うと、自殺してもしなくても困ったことが起きるというディレンマを解消するには、「生きている」をいう前提以外の前提を否定することで、欲望が満たされることはないかどうかを検討するということになります。

  5. > (P⇒(Q∧¬Q))∧(¬P⇒(R∧¬R))
    {生きているならばそれは楽であり楽ではない}且つ{死ぬならばそれば苦しくもあり苦しくもない}
    ということですね。
    ただ、
    【{生きているならばそれは楽であり楽ではない}且つ{死ぬならばそれば苦しくもあり苦しくもない}という論理を考えることができているのも生きているからである】
    ということだけは謂えますよね。
    >ご提案の例で言うと、自殺してもしなくても困ったことが起きるというディレンマを解消するには、「生きている」をいう前提以外の前提を否定することで、欲望が満たされることはないかどうかを検討するということになります。
    【死ぬ】ということは、何も「自殺」に限ったことでもなく、そう、それは「事故」だったり「病気」だったり「寿命」だったりということによる【果てであるところ】に位置付けられるのが【死ぬ】ということでありますので、この(私からの設問例)の場合における【>前提以外の前提を否定することで、欲望が満たされることはないかどうかを検討する】←というのは、言語表現で以ってすると具体的にどのように表現され得るコトガラなのでしょうか?

  6. 例えば、多額の借金を抱えた貧しい母子家庭があって、母親は、自分の子供に不自由のない生活を送らせてやりたいと思っているとしましょう。この場合、母親が死んでも死ななくても、母親の欲望に矛盾が生じます。
    (1) もしも、母親が自殺することを望むと仮定します。母親が死んだならば、母親と共に借金は消滅するが、子供は、育ててくれる親を失い、不自由のない生活を送ることが不可能になります。よって、子供たちが不自由のない生活を送ることを母親が望み、かつ望まないという矛盾が生じます。
    (2) もしも、母親が生き続けることを望むと仮定します。母親が生き続けるならば、母親の稼ぎが借金の返済に充てられ、子供は、養育費不足が原因で、不自由のない生活を送ることが不可能になります。よって、子供たちが不自由のない生活を送ることを母親が望み、かつ望まないという矛盾が生じます。
    自殺を欲望しても、しなくても、どちらにしても矛盾が生じるのだから、これはディレンマの一例とみなすことができます。もしも、母親が、これまで思いつかなかった何らかの手段を用いることで、生きたまま借金を短期間で返すことができるようになるなら、欲望の矛盾が解消されるので、ディレンマも解消されたということになります。

  7. >もしも、母親が、これまで思いつかなかった何らかの手段を用いることで、生きたまま借金を短期間で返すことができるようになるなら、欲望の矛盾が解消されるので、ディレンマも解消されたということになります。
    『>もしも、母親が、“これまで思いつかなかった何らかの手段を用いる”ことで』←という仮定も【あり】なのでしたら、
    どうせ多額の借金をするなら、借金の可能機関は何も一箇所ではないので、「生活費に当てる」程度の額を借金するよりも、【智慧の限りを尽くし“これまで思いつかなかったほどの「財産レベルの借金」をし、尚、「子供の生活プラス教育費すべてを借金」でまかない、且つ、「子供には難関校を卒業」させ、且つ、「エリートコースの確信」を得て、且つ「奨学金の申請」をしてから(母親自らは)自殺する】という無矛盾なディレンマ解消法もあるのではないかと思います。
    「>母親が生き続ける」と仰るところの、その-「生き続ける」-期間というのにも(人であるがゆえに寿命があるということから)それぞれの限度があるとも云えますので、【自分の命の終わりは自分で決める】という意味で以って、もし【矛盾の生じない借金】ということを考えるのであれば、上記のような流れ(方法)も考えられるのではないかと思うところです。

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