9月 031997
 

サールは、米国生まれの哲学者だが、オックスフォード大学で博士号を取得したこともあり、オックスフォード大学の日常言語学派の一人と目されている。同じオックスフォード大学のヘアーとは異なり、事実と価値の二元論を否定し、言語行為論を通じて倫理学を自然化した。だが、その試みは正当化されるのだろうか。哲学的に考えてみたい。

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ヘアーの普遍的指令主義以後、ないしはそれと並行して、新自然主義と呼ばれるメタ倫理学上の一派(あるいはメタ倫理学の克服?)が現れた[n]。フット(P.R.Foot)、ギーチ(P.T.Geach)、ウォーノック(G.J.Warnock)などが新自然主義の論者として挙げられようが、ここではそのなかでも特に重要である(と思われる)J.R.サールの言語行為論を取り挙げることにしたい。

[n] ヘアーはしばしば日常言語学派であると言われるが、彼は記述主義を批判しながら、「言語による理解には、たんに定義一致のみならず(奇妙に聞こえるかもしれないが)判断の一致もが属している」[Wittgenstein: Philosophische Untersuchungen,242] というウィトゲンシュタインの命題を道徳哲学に持ち込むことが「危険」であると言っている [Hare: Moral Thinking,p.70] 。つまり彼は「分析性のドグマ」に固執しているのであって、この点むしろ彼は批判的合理主義の潮流に属するのではないかと思われる。科学哲学におけるポッパーとクーンの対立が倫理学におけるヘアーとロールズの対立に対応すると言ってもよいであろう。我々は本章で、サールとロールズをクワイン以降のポスト分析哲学の系列に位置付ける。

サールはメタ倫理学的な事実と価値の峻別を「自然主義的誤謬の誤謬」[Searle: Speech Acts, p.132] [s] として斥け、

  1. ジョーンズは「私はこれによって君スミスに5ドルを支払うことを約束する」と発話した。
  2. ジョーンズはスミスに5ドルを支払うことを約束した。
  3. ジョーンズはスミスに5ドルを支払う義務を引き受けた。
  4. ジョーンズはスミスに5ドルを支払うことを余儀なくされている。
  5. ジョーンズはスミスに5ドルを支払うべきである。

というように、1の《Is》から5の《Ought》が導出することができると考えたわけで、この点ヘアーなどからすれば、サールは典型的な「記述主義者」であるに違いない。しかしそれにしてもサールのこの「自然主義的誤謬」批判は、彼の言語行為論とどう関係するのであろうか。

[s] ただしサールは、この自然主義的誤謬の解釈がムーアに不当であることを註で断っている。

サールによれば「言語を話すということは、規則に支配された振舞の形式に従事すること」[Searle: Speech Acts, p.22] であり、かかる形式は「ただの事実 brute facts」から区別された「制度的事実 institutional facts」である。 「これらの[言語行為の]制度は、構成的規則の体系である。全ての制度的事実は《Xは、文脈CにおいてYとして妥当する》なる形式の規則の体系によって下図を描かれている」[Searle: Speech Acts, p.51f] 。

サールはカント式に統制的規則と構成的規則を区別する。「統制的規則は、それに先だって、またはそれから独立に現存する振舞の形式を統制すると言ってもよいであろう。例えば多くの礼儀作法の規則は、その規則から独立に現存する間人格的な関係を統制する。しかし構成的規則は、振舞の新しい形式をたんに統制するだけでなく、創造/定義する」[Searle: Speech Acts, p.33] 。

もしジョーンズがスミスに約束の5ドルを支払う意志が初めからなく、かつスミスがこれに抗議しないなら、ジョーンズは約束を破ったのではなくて、そもそも約束をしなかったのである。というのも、約束を守ることを意志することは、約束という言語行為にとって構成的だからである。

それゆえ「私はこれによって君に5ドルを支払うことを約束する」と発話しておきながら、なぜこのような発話の《Is》から「私は約束を守るべきである」という《Ought》が出て来るのか、と問うことはできない。ジョーンズがスミスから5ドルを付けにしたという文脈Cにおいては、「私はこれによって君スミスに5ドルを支払うことを約束する」と発話することは約束として妥当するのである。

サールのこの言語行為論が、ヘアーの指令主義と同様に、ウィトゲンシュタインの“意味=使用=規則に従うこと=社会制度”なる言語ゲーム論を背景にしていることは明らかに見える。ちょうどチェスゲームの駒の意味はチェスゲームをするという規則に従った行為において意味を持つように、約束・忠告・祈願などといった言語行為は、制度における規則、厳密に言えば、制度としての規則に従った発話行為として意味を持つのであって、発話の言明の指示対象が当の発話の意味ではない。

コミュニケーションの制度的理論とでもいうべきオースティンや私やそして、私が思うところ、ウィトゲンシュタインの理論は、例えば刺激-反応の意味の説明に依拠するような意味での自然主義的理論とでもいうべきものから袂を分かつ。

[Searle: Speech Acts, p.71]

サールを新自然主義者と呼ぶとき、このような意味での自然主義者ではないことはいうまでもない。

このように『言語行為論』(1969年)当時のサールは、ウィトゲンシュタインに自分の哲学的基礎を見出そうとするのだが、実は中期ウィトゲンシュタインの志向性についての議論の中に、既に発話内的行為と発話媒介的行為の区別に相当する主張が成されていた。

ウィトゲンシュタインは、次のように言う。

“砂糖をもってこい”や“牛乳をもってこい”という命令は意味を持つが、“砂糖を私に牛乳”という組み合わせは意味を持たないと私が言う場合、それは、後者の語の羅列を口に出しても何も[発話媒介的な]結果が生じないということではない。そして聞いた相手が口をぽかんと開けて私を見つめるという結果が生ずるとしても、だからといって私は、その語の羅列を、口を開けて私を見つめろという[発話内的]命令だとは言わない。たとえ私がまさしくこの結果を生ぜしめようと思っていたのだとしてもである。

[Wittgenstein: Philosophische Grammatik, TeilⅠ,136]

言語と行為との間の因果性は外的な関係であり、他方我々が必要としているのは内的関係である。

[Wittgenstein: Philosophische Bemerkungen, 21]

この内的な関係、《内的に広がること in-tendere》が言語表現の志向性(intentionality)であり、それは因果的あるいは外的な延長性(extensionality)、《外的に広がること ex-tendere》から区別される。

志向性と延長性の区別に基づいて、ウィトゲンシュタインは、次のようなラッセル批判をしている。ラッセルによれば、誰かが私の命令を遂行するとは、その人がその後で私を喜ばせるということであるが、そうすると「私がリンゴを食べたいと思っていて、そして人が私の胃に一撃を与えたので私の食欲が消え失せたとすれば、この一撃こそがもともと私が望んでいた当のものである」[Wittgenstein: Philosophische Bemerkungen, 23] ということになってしまう。しかし願望文「リンゴが食べたい」は、実際に食欲が満たされるか否かとは独立に、未来に向けた志向性を現在において含んでいる。

オースティンは、彼の言語行為論の主著『言葉による行為の仕方』の主要関心事は「本質的に、第二の発語内的行為に焦点を絞り、これを他の二つ[発語行為と発語媒介的行為]と比較することである」[Austin: How to Do Things With Words,p.103] であると言っているが、物理的発語行為とその因果的帰結である発語媒介的行為に内在しつつそれを超越する志向性である発語内的行為の認識こそ言語行為論の本意なのである。

志向性は狭義の行為だけでなく、認識行為の根幹をも成すモメントである。

[私が私の腕を上げる時、そこから私の腕が上がるという事実を差し引くならば、何が残存するか]というウィトゲンシュタインの問いを考察することによって、行為と知覚の平行性をさらに精査することができる。この問いは、私がテーブルを見ているとき、もしそこからテーブルを差し引くならば何が残存するか、という問いと精確に類似しているように私には思われる。どちらの場合でも、答えはある形態の現表象的志向性[presentational Intentionality]が残存するとなる。

[Searle: Intentionality,p.87]

サールは、『志向性』(1983年) では、「志向性を言語によって説明するからといって、志向性は本質的必然的に言語的であるというわけではない」[Searle: Intentionality,p.5] として、彼の出発点であったはずの言語哲学から逸脱して心の哲学へと向かうのであるが、中期ウィトゲンシュタインにとっては、志向性は言語の問題であり、言語の問題は志向性の問題であった。「言語から志向性という要素が取り除かれるならば、そのことによって言語の全機能が崩壊するであろう」[Wittgenstein: Philosophische Bemerkungen, 20] 。

もっとも、志向性概念はあまりに現象学的・意識哲学的であり、ウィトゲンシュタインは最終的にこの概念を放棄し、そこからいわゆる後期ウィトゲンシュタイン哲学が始まる。《意識から言語へ》とか《鏡のような主観から行為する主体へ》が何か哲学史上における画期的な20世紀的パラダイム転回でもあるかのように考える人は、ここに志向性概念に固執するフッサール現象学に対する分析哲学の優位を見て取るかもしれない。だが、このパラダイム転換はすでにカントによって準備されたものであった。現象学が、カント/新カント学派的立場を克服する努力の上に築かれたものであることを忘れてはなるまい。

認識は言語行為であるとともに受動的体験でもある。言語行為を通して、ある世界が開示される。我々はある世界を《見る》。ハイデガーが「人間は、おそらくすでに今まで数世紀にわたって、行為はあまりにも多く成してきたが、思惟することはあまりにも僅かであった」[Heidegger: Was heißt Denken?,S.2] というときの「思惟」は、決して規則にしたがった認識行為ではない。認識は行為であるとともに体験でもあり、現象学のように後者を重視し過ぎると、ある種のイデオロギーとなるが、前者の側面だけを強調しても、人間の認識の理解として不十分である。

だから、サールが志向作用と志向内容の間で揺れたとしても同情に値する。いずれにせよ、ひとはここでサールをウィトゲンシュタイン-オースティンの言語行為論の延長線上に位置付け、次のように考えて彼の《べし》から《である》の導出/推論を理解しようとすることはできない。すなわち約束において発話された言明の意味は発話行為であり、したがってその意味は実践的関心によって規定され、あらかじめ価値を含んでおり、かくして約束をしたという事実からそれを守るべしという当為が導出されうるのだ、と。

サールの議論はこう単純ではない。彼は恩師オースティンの「知っている」という語は「保証する」という行為のために使われるという行為論的な定義、一般に言って「語Wは言語行為Aを遂行するために使われる」という形式の定義を「言語行為の誤謬」と名付けて批判し [Searle: Speech Acts, p.137] 、この誤謬の根を“意味=使用” というウィトゲンシュタインのテーゼに求めている [Searle: Speech Acts, p.146] 。サールは「語“よい”は勧めるために使われる」というヘアーの定義をも言語行為の誤謬の内に数えている [Searle: Speech Acts, p.137] ので、これを手掛りに考えて見よう。

あるものの記述的意味X,Y,Zを基準=理由としてそのものに「よい」を適用するとき、その判断「X,Y,Zはよい」が妥当であるならば、事実から価値が導けることになる。「一般にもしも“WはAを遂行するために使われる”がWの分析の一部であるとされるなら、我々はX,Y,ZのどれもがAを遂行するためには使われないと考えるので、WをX,Y,Zのどの語によっても定義することが不可能であるように思われるであろう」[Searle: Speech Acts, p.140] 。

以前の例を使って、Wに「よいイチゴ」、Aに「私はこのイチゴを勧める」、X,Y,Zに「甘くて・果汁が多く・身が引きしまっていて」を代入してみよう。言うまでもなくWはX,Y,Zによって“定義”されえない。なぜならば、記述的属性「甘くて・果汁が多く・身が引きしまっていて」はいかなる意味でも「勧める」という行為ではないのだから。サールは「あるものをよいと呼ぶこと」が「勧める commend こと」であることを認めつつも、「よい」を「勧める」で分析することはできないと言う[Searle: Speech Acts, p.139] 。

6年後の論文でサールが次のように言うときも、おそらくヘアーを念頭においていると推測される。

倫理学において、“良い”“正しい”“べし”などはなんとなく命令的ないし“行為誘導的な”意味を持っていると一般に考えられてきた。この見解は、“あなたはそれをすべきである”というような文は、しばしば聞き手にあることを命じるべく発話されるという事実に依拠している。しかしそのような文が命令として発話されうるという事実から“べし ought”が命令的意味を持っていることが帰結するわけでないのは、“Can you reach the salt?”が塩を取ってもらうことの要望として発話されうるという事実から“can”が命令的意味をもっていることが帰結するわけではないのと同様である。最近の道徳哲学における多くの混乱は、そのような間接的言語行為の本性を誤解することから生じる。

[Searle: Expression and Meaning, p.32]

晩餐会という発話状況で“Can you reach the salt?”と聞かれて塩を取ってやったところ、「私はあなたの手に塩まで届く能力があるかどうかを尋ねただけであって、塩を取ってくれとは頼んでいない」などと言われれば、私は面喰らうであろう。「あなたはそれをすべきである」と言っておきながら、「私がそれをしろと命令したことにはならない」と言うことは、「私はあなたに5ドル支払うことを約束する」と言っておきながら、「私はあなたに5ドル支払う義務はない」と言うことと同様な誤謬を犯すことになる。だからサールの「言語行為の誤謬」批判と「自然主義的誤謬の誤謬」批判とは整合的であるとは言いがたい。

このようにサールの立場はアンビヴァレントなのであるが、とりあえず、彼の言語行為論は、極端な実践哲学、単純な行為一元論ではないとまでは言えそうである。サールがオースティンの

1.発語行為(locutionary acts)

例)私は彼に「アイ・プロミス・トゥ・カム」と発話した。

I said to him, “I promise to come.”

3.発語内的行為(illocutionary acts)

例)私は彼に来る約束をした。

I promised him to come.

4.発語媒介的行為(perlocutionary acts)

例)私は彼を安心させた。

I set him at ease.

の区別に対して [Austin: How to Do Things With Words,p.94-108] 、1と3の間に、指示行為と述定行為を含む

2.命題的行為(propositional acts)

例)私は私自身を指示しつつ私が未来において来ることを述定した。

I referred to myself and predicated future coming of it.

を導入する [Searle: Speech Acts, p.24] のもこのためと推測される。サールは命題的行為を、発語行為に内包させるべく、発語行為を F(RP)と表記する[f]。

[f] F=illocutionary Force(発語媒介的力), RP=Referring expression and/or Predicating expression(指示かつ/または述定表現)

FとRPが異なることは、

(1) F¬(RP): I promised not to come.

(私は来ないことを約束した)

(2) ¬F(RP): I did not promise to come.

(私は来ると約束したわけではなかった)

という二種類の否定から明らかである。(2)は(1)とは異なって、何も約束しなかった可能性を含意している。

サールは、諸言語は規約的であるとして、クワイン流の意味の分析性に対する懐疑にコミットしていない [Searle: Speech Acts, p.38-40; p.4-15] が、指示・述定の不確定性の問題をクワインと同様にプラグマティックに扱っている。「もしも述語がある客観について真ならば、その述語は、どのような表現がその客観を指示するために使われるかに係わりなく、その客観と同一であるもののどれについても真である」[Searle: Speech Acts, p.77] という《同一性 identity の公理》を唱えはするが、しかし彼はカルナップのように、同一の客観を指示するがゆえに異なった表現も置換可能であるとは考えない。

サールは《同一化 identification の公理》として次のように主張する。

表現の発話において確定的指示を首尾良く遂行するための必要条件は次の二つのうちどちらかである。その表現の発話が、一つの唯一の客観について真である記述ないしは事実を聴者にコミュニケイトしなければならないか、あるいはもし発話がそのような事実をコミュニケイトしないなら、話者は、その発話がコミュニケイトする表現を代用することができなければならない。

[Searle: Speech Acts, p.80]

クワインも言うように、表現には「コミュニケーションに必要な固定性」[Quine: Word and Object, p.56] があればそれでよいのである。

指示表現の典型的な場合である固有名詞についても同じくクワイン的に問題が処理される。

私は“アリストテレス”の使い方を、それはスタゲイラ生まれのギリシャの哲学者の名前であると聞いて覚えるかもしれないが、しかしもし学者が後に、アリストテレスはスタゲイラ生まれでは全然なくてテバイの生まれであることを私に納得させたとしても、私は彼等が自己矛盾に陥っているとは非難しないであろう。

[Searle: Speech Acts, p.169]

しかるにラッセルの記述理論によれば、固有名詞「アリストテレス」は 「スタゲイラ生まれかつアレクサンドロス大王の教師かつ『ニコマコス倫理学』の著者かつ … 」という確定記述によって置換可能であるから、「アリストテレスはスタゲイラ生まれではない」という命題は自己矛盾であるということになってしまう。「アリストテレス」は、その指示対象の「一意性 uniqueness」にもかかわらず多基準語であるから、部分的に特定の基準を失っても、なお自己同一性を保持しうる。

しかし誰もがこれまでにアリストテレスについて真であると信じてきたすべてのことが、実際には本当のアリストテレスについては真ではなかったなどという想定は意味を成すであろうか。あきらかにナンセンスである。

[Searle: Speech Acts, p.169]

固有名詞は普通名詞と同様に、まったく記述と結び付かないことはできないが、特定の記述と結び付かなければならないという必然性はない。

固有名詞は記述としてではなく、そこへと記述を掛けるべきかなめとして機能する。このように固有名詞への基準の結び付きのゆるさは、言語の指示機能を言語の記述機能から分離するための必要条件なのである。

[Searle: Speech Acts, p.172]

このような記述的基準からの固有名詞の分離は、ムーアの記述的意味からの価値の分離を連想させる。そこで自然主義的誤謬を誤謬とするサールに対しては、記述的意味「私は … を約束する」も当為「私はその約束を守るべきである」と必ずしも必然的な結び付きを持たないのではないのか、という疑問を持つことができるであろう。だがこれはもはや指示の問題ではなく述定の問題である。

言語行為論的相対化は指示だけでなく述定についてもあてはまる。主語は個体を指示し、述語はそれに普遍的属性を帰属させるというのが伝統的哲学の構図であるが、サールに言わせれば、「バラは赤い。The rose is red.」という主語-述語形式を持つ文は、

(1) The thing which is a rose is red.

(バラであるものは赤い)

と書き替えることができるが、順序を逆にして、

(2) The thing which is red is a rose.

(その赤いものはバラである)

と書き替えることもできるから、主語-述語の区別は相対的である。

サールは、主語は「特殊な項 particular term」を同定し、述語は「普遍的な項 universal term」を同定するというストローソンの理論を批判して次のように言う。「もしもこの理論が主張するように述語表現が普遍を同一化するのなら、この理論が見落としていることだが、主語表現も普遍を同一化する」[Searle: Speech Acts, p.118] 。

ストローソンはさらに、述語によって同一化される普遍的項が「非言語的項 non-linguistic items」であると主張する。しかしながら「普遍は[言語外の]世界の中にあるのではない」[Searle: Speech Acts, p.115] 。「古めかしいジャーゴンで言うならば、普遍にとって本質と存在は一体である」[ibid] のだから、普遍の存在は言語の中での存在で十分であり、《意味の第三領域》など想定する必要はない。「普遍は世界を記述する我々の一様式 our mode of describing the world の部分であって、世界の部分ではない」[Searle: Speech Acts, p.117] のである。普遍は「記述する」という我々の言語行為の形式なのである。

このように指示/述定を「総体的な発語内的行為からの切片」[Searle: Speech Acts, p.123] と見なすことによって、意味の同一性だけでなく、論理の分析性も言語行為論と相関化されるようになる。

同語反復は真理条件ではない。なぜならば、同語反復は無条件に真であるから[…](例えば、私は雨が降っているかいないかのどちらかであることを知っていると言う時、私は天気について何も知っていないことになる)。

[Wittgenstein: Tractatus Logico-Philosophicus, 4.461]

こういう『論理哲学論考』でのウィトゲンシュタインの主張によれば、ある政治家を指示して「彼はファシストであるかないかのどちらかである」と述定する時も「彼は共産主義者であるかないかのどちらかである」と述定する時も、同じく何も語っていないことになるが、その政治家への疑念的認識という点では、疑いが発生する《地平》という点では違いがある [Searle: Speech Acts, p.124] 。

「何事も真理とは無関係ではありえない Nothing could be further from the truth」。「戦争は戦争だ」、「規則は規則なんだ」、これらはある発話状況においては同語反復以上のことを語る。

このように発話内容と発話行為/行為の規則のシステムとを相関させることで、「私は何をすべきか」という倫理学の問題が解決されうるであろうか。答えは否である。ちょうど普遍にとっては本質と存在は一体であり、即自的には無制約的に存立しうるにしても、指示表現との結び付き方によっては妥当性を失いうるように、「私は…を約束する」は即自的には「私はその約束を守るべきである」と一体になってはいるが、状況次第ではその約束を守らなくてもよい/守るべきでない場合も生じることであろう。

サールもこの点はよく心得ており、「ある義務が他の義務によって無効になるかもしれないという事実、ある義務が免除されたり大目に見られたりするかもしれないという事実は、その義務の存在を否定しないことはもちろんのこと、義務を制限さえしないということを強調することは多分重要である。無効になったり大目にみられたりするためにはまず義務がなければならない」[Searle: Speech Acts, p.180] と断っている。

しかし倫理学にとって重要なのは、二つの競合する義務のうち、どちらをどのような基準で無効にするのか、である。サールはこの問題に取り組もうとしない。曰く「ついでに言えば、約束を守るという義務はおそらく道徳性とは何ら必然的な関係を持たない、と私は思う」[Searle: Speech Acts, p.188] 。

してみるとサール謂う所の《Is》からの《ought》の導出とやらは、約束はその遵守の当為性を意味の構成的規則としているという極めてトリヴィアルな意味分析に過ぎないことになる。もちろん言語行為論の論者が道徳の問題をも論じなければならないという必然性はない。だがもしもサールの言語行為論の射程が、「可能的原則 prima facie principle」の確認以上のものでないとするならば、彼は価値不可知論という点で、ヘアーからあまり遠くないところにいることがわかるであろう。

《Is》から《ought》を導出するためには、行為の目的を問わなければならない。その意味で、サールの『志向性』は注目に値する著作である。“Intentionality”とは、“ … するつもり intend”から作られた抽象名詞であり、行為の目的志向性を意味するからである。

だが、そのような関心からこの本を読むと、大いに失望する結果となる。そこでは志向性が因果性によって説明され、心の問題が大脳生理学の問題となる。サール曰く「私の説明では、心の状態は他の生物学的現象と同じぐらいリアルであり、だから、乳汁分泌や光合成や細胞核の有糸分裂や消化と同じぐらいリアルである」[Searle: Intentionality,p.264] 。これでは「思想の脳髄に対する関係は、胆汁の肝臓に対する関係や尿の腎臓に対する関係とほとんど同じである」と唱えたフォークトのあの悪名高い俗流唯物論と変わるところがない。

行動主義とは一線を画し、《裸の事実 brute facts》から《制度的事実 institutional facts》を区別することがサールの新自然主義の出発点であったはずなのだが、彼が行き着いたところは、ただの自然主義であった。一般に英米の哲学者は年をとるにしたがって若い頃の鋭さを失って常識的になると言われているが、サールもその例に漏れないというのが私の感想である。

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  2 コメント

  1. “認識は行為であるとともに体験でもあり、現象学のように後者を重視し過ぎると、ある種のイデオロギーとなる”とありますが、志向的体験の重視はどのような意味で虚偽意識なのでしょうか?

  2. 廣松渉の用語で言うならば、物象化的錯視に陥りやすいということです。

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