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言語行為と規範倫理学(09)ロールズの正義論

1997年9月3日

現代英米系倫理学/社会哲学を論じる上で、ロールズの存在は無視することができない。彼のおかげで、英米でも実践哲学の関心事がメタ倫理学から規範倫理学へと回帰したわけだが、ロールズの正義論は、哲学的にはどのように評価できるだろうか。

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このページは電子書籍『言語行為と規範倫理学』の一部です。

1. 功利主義の限界

ロールズの正義論は、サールの言語行為論を基礎にしていて、言語の持つ超越性を手掛りに、英米で伝統的に支持されている経験主義的倫理学において支配的な功利主義を批判しようとする。ロールズは、まず功利主義を、行為功利主義と規則功利主義に分ける。行為のそのつどの功利性を問題にする行為功利主義は言語行為論的に支持できない。野球でヒットを打った打者がなぜまず一塁へ走って三塁へ走らないのかと聞かれて、そのほうが“最大多数の最大幸福”に貢献するからだと答えることはできない。私たちは差し当り行為の帰結の善悪を反省/吟味することなく、規則に従って行為している。

ちょうど命題が真か偽でありうるためにはまず有意味でなければならないように、行為も善や悪でありうるためにはまず有意味でなければならず、そして有意味であるには、規則にしたがっていなければならない。そして、有意味な命題が真であるためには、あるいは有意味な行為が善であるためには、また別の規則に従っていないければならない。私たちがその帰結の善悪を反省/吟味するのは一回一回の行為の際ではなくて、行為規則の受容の際である。

この点、ロールズは行為功利主義に対する規則功利主義の相対的正しさを認める。但し規則は幸福のための手段ではなくて、幸福追求行為の制約である。私たちは全く規則に従わないで行為することは不可能であるから、何らかの規則に従うことは功利行為でないし当為でもない。この規則に従うことの目的非制約性からの独立が、功利行為に対する正義の自律性のテーゼにつながる。

ロールズは「正当な reasonable」と「合理的な rational」を区別する[1]。後者は目的に対する手段選択の効率性に係わる。規則にしたがった行為の中には、合理的ではないのに正当な行為があるから、正当性と合理性は同じではない。たんなる功利主義は、手段選択に合理性を与えても、目的に正当性は与えない。ロールズは、そこに功利主義を越えた正義論の意義を見出す。

2. 社会契約論の言語哲学的位相

こうした功利主義批判なら、ヘアーが既に行ったところだ。ロールズはしかし、ヘアーのように形式的正当性と実質的合理性あるいは分析性と総合性の“ドグマ”に固執するわけではない。彼は『正義論』序言で「私がしようとしていることは、ロック・ルソー・カントに代表されるような社会契約の古典的理論を一般化し、より高い抽象性の段階にもたらすことである[2]」旨を宣言するが、謂う所の「社会契約」はその締結が規約主義的に任意の契約なのではなくて、クワインのある論文のタイトルをもじって言えば、「自然化された社会契約 the Social Contract Naturalized」なのである。

ヴィトゲンシュタインは規約主義の源泉の一つであるが、彼は次のように言う。

なぜ私は料理の規則を恣意的とは言わないのに、文法規則は恣意的であると言いたくなるのか。なぜなら「料理」はその目的によって定義されるが、これに対して「言語」はそうではないからである。それゆえ言語の使用は、料理や洗濯がそうではない意味で自律的である。料理では正しい規則以外の規則に従うと料理がまずくなる。だがチェスゲームの規則以外の規則でゲームをするものは、別のゲームをしているのである。そしてかくかくの文法規則以外の文法規則に従うものは、だからといって何か間違ったことをしゃべっているのではなくて、違ったことについてしゃべっているのである。[3]

ヴィトゲンシュタインのこの規約主義は、言語と自然・分析性と総合性という二元論にひとを導きかねない。文法規則は個人が任意に変えうる規則ではなく、別の規則でしゃべるものは周囲からサンクションを受け、さながらまずい料理を作ったときのように“苦い目にあう”。また料理のほうも、確かにこがしたり調味料を入れ過ぎたりするとまずくなることは人間の自由にはならないが、だがなぜこがしたり調味料を一定量入れるとまずくなるのかに関しては恣意的である(自然はそのように造られているとしか言えない)。言語も自然もこのように規約性と非規約性の両面をもっている。

英米の分析哲学者の中には、カントを規約主義者と理解する向きもあるが、カントは、数学的命題を先天的分析判断ではなく、先天的総合判断と考えたのだから、正しくない。同様にカントの倫理学を規約主義的に解釈することも正しくない。ロールズは正当にも、カントの定言命法をたんに功利主義の形式的要素と見なすヘアーの解釈に反対して、自律的人格の目的の国を自分の「原初的位置 original position」の概念に引き付けている[4]。ロールズは、「何にもまして斥けなければならないのは、カントの教説が、たんに功利主義的理論に対して(あるいは全くどんな理論に対してであっても)一般的ないし形式的要素を提供しているだけという考えである[5]」と言っている。

私が信じるところ、カントは、人が自律的に行為するのは、その人の行為原則が、自由で平等な理性的存在者という彼の本性の最も十全的で可能な表現としてその人によって選ばれるときである。彼が則って行為するところの原則は、彼の社会的地位や天賦の才能のゆえに、あるいは自分が住む特殊な種類の社会や、彼がたまたま欲望する特定の事柄の観点から採用されない。そのような原則に則って行為することは他律的に行為することである。さて無知のヴェールは、原初的位置の人々から、彼等に他律的原則を選ばせかねない知識を奪い取る。当事者たちは、正義の原則を必要とするような状況が広く行き渡っているということのみを知っている自由で平等な理性的な人々として原則の選択に合意する。[6]

特殊な社会的関係を捨象してもなお抽象的な諸個人が存立しうるのかと疑問を投げかける人もいるかもしれない。しかしロールズは、原初的位置を、社会契約という理念的な契約を結ぶ前の理念的な状態として定立しているにすぎない。

無知のヴェールは、[…]自我の本性に関するある特定の形而上学的含意を持っているわけではない。すなわちそれは、人々についての、当事者たちが知らされていない事実に、自我が存在論的に先んじているということを意味しているわけではない。[7]

原初的位置は、正義についての直観的判断(帰結)と原則(前提)との間の帰納-演繹の調整(反省的均衡 reflective equilibrium)を通して探索される。それは超越論的反省であり、ロールズも「私は正義論を意味と分析性の観念から独立に作ろうとした[8]」と言うように、正義とはたんなる矛盾律に解消される取扱の分析性ではない。

定義と意味の分析は特別な位置を占めない。定義は理論の一般的構造を設立するのに使われる一つの装置にすぎない。いったん全体の枠組が作り出されれば、定義は何ら明確な位置を持つことなく、理論それ自身と共に浮沈する。[9]

これはクワイン的な考えであり、正義を目指す社会はノイラートの船であるということだ。

道徳理論の第一の原理/想定が自明である必要があるとか、その概念や基準が、非-道徳的なものとして認証されうる他の観念によって置換されることができると考える理由はない。[10]

これは、ロールズなりの自然主義的誤謬批判である。

ではロールズは、「よいの意味は何か」というムーアが問うたメタ倫理学的な問いにどう答えるのか。分析的定義を行っても意味はない。彼はさしあたり記述主義の立場を採る。「対象によって基準がまちまちであるにもかかわらず、名辞“よい”は、哲学的目的にとっては通常記述的とされる他の述語のと同じ種類の恒常的な意義(または意味)を持つ[11]」。すなわち「よい」は人生計画への選択の合理性という記述的意味を持つ[12]

但しここで言う合理性は《理性=定言命法》のことではない。「合理性の概念は、所与の目的に対して最も効率のよい手段を取るという可能な限り狭い、つまり経済学説で標準的な意味で解釈されなければならない[13]」。そこで正義論を論じる以上は、この「良い good」とは別に「正しい right」を定義しなければならない。フランケナによれば目的論的理論(彼の場合、功利主義のこと)は「良い」を「正しい」から独立に定義し、「正しい」を「良い」を最大化するものとして定義する。このような「功利主義は人格間の区別を真面目に扱わない[14]」。

良く使われる例で言うと、それぞれ心臓・肝臓・腎臓の移植手術を受けなければ死に至る三人の患者を助けるために一人の健康者を解体することは、二人分命が多く救われるので、功利主義の立場からは正しいとされてしまうではないか、というわけである。「理性の均衡は明らかに平均値的功利の原則よりも正義の二つの原則に、そしてまた推移的に考えるならば、古典的理論[諸人格の相違を無視した功利計算をする功利主義]よりもそれに好意を示す[15]」。カントもまた「正義は何らかの値段で自らを売るならば消滅する[16]」と言う。例えば犯罪者に医学上の生体実験を行い、犯罪者が生き残り、かつ公共体に有益な知見が得られたなら、彼を解放することにしようと言う医師団の刑の提案を、裁判官は軽蔑をもって却けるとのことである。

では謂う所の「正義の二つの原則」とは何か。「正しい」はどのように定義されるのか。「正義の原則は無知のヴェールの背後で選ばれなければならない。このことにより、原則の選択に際して、自然の偶然の結果や社会的環境の偶然性によって誰も利益を得たり不利益を被ったりしないことを確実にする[17]」。この社会契約説で言えば“自然状態”に相当する原初的位置では、各当事者はエゴイストではないが「[目的]合理的で相互に無関心[18]」であるとされる。これではホッブスの社会契約論とあまり変わらないのではないのか。ロールズは正義の原則としてたんなる矛盾律ではない実質的な原則を考えているのだが、このことは正義の原則と功利の原則との相違をあいまいにしないのだろうか。

ひとはここでサールの構成的規則と統制的規則の区別を想い起すべきである。サールは言語行為という制度的事実を規則に支配された振舞の形式に従事することとしたが、ロールズもまた言語行為論的・言語ゲーム論的に「制度でもって、役目と地位を権利と義務・行使と免除の権限などと共に定義する規則の公的体系[a public system of rules]を考える[19]」。サールによれば、統制的規則が「もしYならXせよ」の仮言命法の形式を取るのに対して、構成的規則は「文脈CにおいてXはYとして妥当する」という意味規則の形式を持ち、後者は制度の規則というよりも制度そのもの、いわば制度としての規則なのである[20]

ロールズはこれをふまえて、「様々な権利と義務などを設定する制度の構成的規則と特定の目的のために制度をどのようにしたらもっと良く利用できるかに対する戦略・格率との区別[21]」によって正義の原則と功利の原則との間に境界線を引こうというわけなのである。

だがロールズは現存する社会の構成的規則がそのまま正義の原則であるとは主張しない。ちょうど安定した社会では「私は … を約束する」という発話行為の《Is》が、「私はその約束を守るべきである」という《Ought》と一体になっているように、カースト社会においては、人選で人事担当者が他の担当者に「彼はパリア(不可触賤民)だ」と発話することは「彼をこのような要職に採用すべきでない」という当為と一体になっているが、このような構成的規則が正義の原則にあっているとは言えない[22]

そこで、「原則に忠実であること adherence to the principle」、「システムに従うこと obedience to system」という形式的正義以外に実質的正義が必要になる。これが次の正義の二つの原則である[23]

  1. 各人格は、他の人格の同じような権利と両立する最大限の基礎的自由に対する平等な権利を持つべきである。
  2. 社会的経済的不平等は、その不平等が、(a)全ての人の利益になるように正当に期待され、(b)全ての人に開かれた地位と役目に施されるように手配されるべきである。

2が社会的経済的な正義の原理であるのに対して、1は法的政治的な正義の原理であると言える。ロールズによれば「権利の概念は、形式においては(1)一般的、適応においては(2)普遍的な道徳的諸人格の衝突する諸要求を(3)整序するために訴える(4)最終的な法廷として(5)公的に認識されるべき諸原則の一組みである[24]」。つまり権利概念の形式的制約は、(1)一般性 (2)普遍性 (3)原則間の序列 (4)最終性(5)公共性である。これらを哲学用語で言い換えると、(1)普遍化可能性(2)全称化可能性(3)無矛盾性(4)対象化不可能性(5)私的言語の排除であるということになる。

(1)と(2)は逆になっているように見えるが、ロールズは、「直観的に固有名ないし見かけ上の確定記述として認識されるであろうものを使うことなく、原則を定式化することが可能[25]」であるときその原則を「一般的 general」と呼び、「全ての人に、道徳的人格である点で妥当する」ことが原則の「普遍的 universal」適用であるとしている[26]ので、ヘアーの「一般的/普遍的」の語法とは逆になっている。ロールズは、固有名を含んだエゴイズムの原則は普遍的ではありうるが一般的でないと言うので、(1)を普遍化可能性、(2)を全称化可能性としておいた。

いずれにせよ、これら五つの属性は言語の属性であり、正義の制約は言語であると言えそうだ。そういう仮説を作って、実質的原則の方を検討してみよう。2の原則はさらに次のようにパラフレイズされる。「社会的経済的不平等は、その不平等が、(a)最も不利益を被っているものの最大の利益となり、かつ(b)公正な機会均等の条件下で全てのものに開かれている役目と地位に施されるように手配されるべきである[27]」。ここからわかるように、ロールズは「リベラルな平等性 Liberal Equality」を、たんに出世が才能に開かれているだけの「自然的貴族社会 Natural Aristocracy」ではなくて、弱者中心の「民主的平等性 Democratic Equality」を主張しているのである。

3. リベラルな正義論の功罪

ニーチェやシェーラーならば、ロールズが説くようなリベラルな「民主主義」をルサンチマンの産物として糾弾するであろう。だがロールズによれば「合理的な個人は、すくなくとも自分と他人の相違が不正の結果であるとは考えられず、かつある限界を越えないかぎり、嫉妬に陥ることはない[28]」。ロールズは「嫉妬 envy」と「憤り resentment」を区別して「私たちが、自分が他人より少ししか持っていないことを憤るのは、不正な制度や彼等のほうの間違った行いの結果、彼等の生活がよいと私たちが考えるからでなければならない[29]」と主張する。

自然が各人に才能や財産を平等に分配していないことは確かであるが、そのような不平等性は自然的事実であって、不公正ではない。

公正であったり不正であったりするのは、制度がこれらの事実を取り扱う方法である。[…]社会システムは人間の制御を越えた変えることのできない秩序ではなくて、人間的行為の様式である。[ … 1と2の]二つの原則は、運命の恣意性に対処する公正な方法であって、これらの原則を満たす制度は、他の点では疑いなく不完全であるにせよ公正なのである。[30]

才能ある者はない者よりも多くの収入と名誉を得るが、そのことは全体の労働の生産性を高め、かえって弱者に利益をもたらす。弱者を保護するためには、社会福祉費を充実させなければならない。そのためには国家財政が、つまり税収が豊かでなければならない。そのためには経済活動が活発で、生産力が増大していなければならない。そのためには市場での自由競争によって生産性の効率を上げることが必要となる。ゆえに不平等の拡大を帰結する資本主義的経済の肯定は、不平等の縮小を帰結する、という論理である。

「不平等が最も不利益を被っているものの最大の利益となる」のだから、正義の原則は「運命の恣意性」を矯正していると言える。この意味で、固定的な悪平等は、強者にとってはもちろんのこと、弱者にとっても望ましくない。他方、貧富の差の固定化は、弱者にとってはもちろんのこと、強者にとっても望ましくない。生産手段などの資本を所有する経済的強者は、自らの商品の販売市場を拡大するために、社会に大きな購買需要が存在することを望む。そのためには社会の大多数が経済的弱者であってはならない。

ロールズのある批評家は、マルクス主義の立場から、支配階級が、被支配階級を搾取する不公正さを、無知のヴェールのもとで、社会契約を結んで平和的に破棄することはありえず、不平等はただ階級闘争によって暴力的に止揚されるのみであるとロールズを批判する[31]

だが一時的不平等という差異をダイナミックに伴った自由主義経済の中で、フェアでかつ豊かな(あるいはフェアであるがゆえに豊かな)社会を、法的には平等だが、経済的には強者と弱者の関係にある両当事者が、お互いの利害関係から、実現を目指すことに同意することはありうるのではないであろうか。共産主義が崩壊した今日、敢えてそう主張したい。

しかし逆に言えば、ロールズのように、たんに道徳的な立場から公正としての正義を訴えても、非現実的で説得力に欠く(マルクス主義の批評家の言うとおり)。もし分析性/総合性の二元論のドグマを破棄するのであれば、正義と功利を峻別するロールズの出発点も破棄されるべきではないであろうか。その時正義論は目的論的倫理学へと止揚される。

ここで正義論の問題をその否定性から逆照射して考えてみよう。人間社会において相互に人権を認め合うことは、その外部の存在者の権利を認めない、あるいは少なくとも平等には扱わないことを同時に意味するという排除の論理がある。

ロールズは、人間であることの性質は「一定の範囲内で動く性質 a range property」であると言って、それを円の中の点に喩えている[32]。ある点は相対的に中心に近く、またある点は相対的に周縁に近いということはあるが、いずれも円の内部の点という性質を平等に持っている。それと同様に人-間のシステムにおいても、有能で理性的な人は《中心》に近く、狂人や犯罪人は《周縁》に近いという差異はあるものの、人間は「正義の原則を適用しうる」という性質を平等に持っている。

ではなぜ正義の原則は、円の内部の人間のみに適用されて、それ以外の動物などの存在者には適用されないのか。もし私が無知のヴェールによって、自分が人間であることを知らされていないならば、動物が平等のコミュニティの外部へと放り出されることに同意できないのではないか。

この疑問に対しては、「もし私が動物であるならば、平等を要求する能力自体が失われてしまうので、無知のヴェールの想定は意味を成さない」と答えればよい。正義の原則を理解しうるものにのみ、正義の原則は適用される。「もし私があの人の立場であるならば …」という想定を可能にするのは言語の普遍性であるのだから、相互に人権を認め合う《私たち》とは言語共同体である。

もちろん人間の中には、言語能力を欠いた人もいる。精神障害者や乳幼児や植物人間などである。これらの人々は、《私たち》にとって周縁的な存在者である。そもそも人間(中心)と非人間(周縁)との間には明確な境界線はなく、だからこそ、どこまでなら堕胎で、どこまでなら殺人なのかとか、脳死か心臓死かといった問題もでてくるのである。どの定義にもまといつく境界線のそのような不明確性を指摘した上で、《私たち》とは少なくとも潜在的にはコミュニケーション可能な存在者の集合と定義しておきたい。

日本語を理解できない外国人の面前で私が日本語で人種差別的な発言をしたとしても、私は直ちには抗議を受けないであろう。しかし彼等は潜在的には私の発言の内容とその不当性を理解しうるのだから、彼等とは潜在的にはコミュニケーション可能である。精神障害者・乳幼児・植物人間なども、その能力をたまたま欠いているが、潜在的にはコミュニケーション可能な存在者であるから、周縁的ではあっても《私たち》の内部に入るのである。言語能力を理性と呼ぶとするならば、正義の原則が目指すところ(正義の目的)は、理性による理性の理性的な自己保存であるということができる。

ここまでくれば、ロールズの正義論をカントの超越論的哲学の深みまでもたらすことができるであろう。カントの定言命法第一範式から第二範式への移行は、次のような推論であった。

人間の諸目的は究極的には理性的に統一されるべきである。

人間の究極目的は人間の諸目的の究極的統一である。

ゆえに理性的な統一が人間の究極目的である。

つまり人間が究極目的であるということになるのであるが、『判断力批判』ではさらに思弁が進んで、

理性的な統一が人間の究極目的である。

歴史とは人間の悟性的統一である自然の理性的統一である。

ゆえに歴史の究極目的は理性的存在者としての人間である。

という目的論的歴史哲学が帰結する。

ロールズは「超越論的観念論やそれに類するその他の形而上学的教説は、政治の基本的諸観念の組織化と解明に何の役割も果たさない[33]」と言っているのだが、なぜ正義の原則が理性的存在者にのみ適応されるのかを考えれば、超越論的観念論が必要になってくる。正義論は経験的な功利主義とは異なった超越論的目的論によって基礎付けられなけれならないのである。

4. 参照情報

  1. Rawls, John. Political Liberalism. 1993. Columbia University Press. Kindle Edition: 2005. p. 48f.
  2. Rawls, John. A Theory of Justice. 1972. Oxford University Press. p. ⅷ.
  3. Wittgenstein, Ludwig. Das Blaue Buch. 1964. Ludwig Wittgenstein Schriften. Bd.5. Suhrkamp. p. 355.
  4. ロールズは、カント解釈の註に「何にもまして斥けなければならないのは、カントの教説が、たんに功利主義的理論に対して(あるいは全くどんな理論に対してであっても)一般的ないし形式的要素を提供しているだけという考えである。例えば、R.M.ヘアーの『自由と理性』(Oxford,Clarendon Press,1963)123頁を見よ」(A Theory of Justice,p.251)と記している。
  5. Rawls, John. A Theory of Justice. 1972. Oxford University Press. p. 251.
  6. Rawls, John. A Theory of Justice. 1972. Oxford University Press. p. 252.
  7. Rawls, John. Political Liberalism. 1993. Columbia University Press. Kindle Edition: 2005. p. 27.
  8. Rawls, John. A Theory of Justice. 1972. Oxford University Press. p. xi.
  9. Rawls, John. A Theory of Justice. 1972. Oxford University Press. p. 51.
  10. Rawls, John. A Theory of Justice. 1972. Oxford University Press. p. 578f.
  11. Rawls, John. A Theory of Justice. 1972. Oxford University Press. p. 405.
  12. Rawls, John. A Theory of Justice. 1972. Oxford University Press. p. 407-416.
  13. Rawls, John. A Theory of Justice. 1972. Oxford University Press. p. 14.
  14. Rawls, John. A Theory of Justice. 1972. Oxford University Press. p. 27.
  15. Rawls, John. A Theory of Justice. 1972. Oxford University Press. p. 183.
  16. Kant, Immanuel. Die Metaphysik der Sitten. 1797. Kant’s gesammelte Schriften (hrsg. von der koniglich preussischen Akademie der Wissenschaften, Berlin) Abteilung 1, Band 6. p. 332.
  17. Rawls, John. A Theory of Justice. 1972. Oxford University Press. p. 12.
  18. Rawls, John. A Theory of Justice. 1972. Oxford University Press. p. 13.
  19. Rawls, John. A Theory of Justice. 1972. Oxford University Press. p. 55.
  20. Rawls, John. A Theory of Justice. 1972. Oxford University Press. p. 34f.
  21. Rawls, John. A Theory of Justice. 1972. Oxford University Press. p. 56.
  22. Rawls, John. A Theory of Justice. 1972. Oxford University Press. p. 59.
  23. Rawls, John. A Theory of Justice. 1972. Oxford University Press. p. 60.
  24. Rawls, John. A Theory of Justice. 1972. Oxford University Press. p. 135.
  25. Rawls, John. A Theory of Justice. 1972. Oxford University Press. p. 131.
  26. Rawls, John. A Theory of Justice. 1972. Oxford University Press. p. 132.
  27. Rawls, John. A Theory of Justice. 1972. Oxford University Press. p. 83.
  28. Rawls, John. A Theory of Justice. 1972. Oxford University Press. p. 530.
  29. Rawls, John. A Theory of Justice. 1972. Oxford University Press. p. 533.
  30. Rawls, John. A Theory of Justice. 1972. Oxford University Press. p. 102.
  31. Miller, Richard. W. “Rawls and Marxism" in Reading Rawls: Critical Studies on Rawls’ “A Theory of Justice". 1975. Stanford University Press. ed. Richard W. Miller, Norman Daniels. p. 206-230.
  32. Rawls, John. A Theory of Justice. 1972. Oxford University Press. p. 503.
  33. Rawls, John. Political Liberalism. 1993. Columbia University Press. Kindle Edition: 2005. p. 100.