9月 031997
 

ロールズの『正義論』以後、英米では社会哲学/政治哲学に対する関心が高まっていったが、本節では、ロールズの平等主義的政治哲学に対するアンチテーゼを提起したロバート・ノージックを取り上げたい。

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目的論的還元によって得られる二つの精神的目的は、他者帰属と自己実現であった。ロールズかそれともノージックかという選択は、この二つの目的のどちらを優先させるのか、平等主義かそれとも自由主義かという倫理学にとって宿命的な二律背反であるのだが、政治哲学的な問題としては、福祉国家は必要か不要かという問いに変換される。

ノッジクを有名にした処女作『アナーキー・国家・ユートピア』は、「“いちはやく西部に行ってインディアンの土地を侵略すれば、ひとかどの権利を持てる”という“開拓者”の自律と、彼等・侵略地主たちのローカル・コミュニティを「理論」化した以上のものではない」[大庭健:他者とは誰のことか,318頁] などと評されたりすることがあるが、国家の役割を最小限にまで切り詰めようとする彼の理論的試みは、検討に値する問題提起であって、「アメリカ移民のイデオロギー」で片付けることはできない。

ロールズの『正義論』は1971年に出版され、ノージックの『アナーキー・国家・ユートピア』は1974年に出版されたから、ほぼ同時代に出版されたと言ってよい。しかし両者の間の1973年には世界史的に重要な事件が起きている。第4次中東戦争に伴う石油危機である。

第二次世界大戦以後上昇期にあった第4長期波動が、これをきっかけに後退期に入り、先進諸国で行財政政策の、と言うよりも政策理念の抜本的修正が迫られる。すなわち、石油危機による慢性的な世界同時不況下で、サッチャー政権(1979年~1990年)およびレーガン政権(1981年~1989年)が、マネタリズム的な緊縮財政を通して、福祉国家から安価な政府への転換を図った。この一見ケインズ以前的とも思える夜警国家への回帰は、実はたんなる逆戻りではなく、世界史の新たな発展段階を意味するものだと思うのであるが、その理由については、『システム論研究序説』の末尾で、ウォーラーステインの世界システム論との関係で改めて論じたい。

イギリスのサッチャー、アメリカのレーガン、日本の中曽根などが行った、戦後の社会民主主義的な経済政策への反逆(肥大した行政の削減、福祉水準の切り下げ、労働組合の交渉力の排除、所得税や法人税の減税、国有企業の民営化、規制緩和による不良産業の保護の停止、自由貿易の障壁撤廃等々)は、通常新保守主義と呼ばれている。だが、これは適切な名称だとは言い難い。そこには、左翼革新以外は全て保守主義であるという残余範疇的な内容の空虚さがある。新保守主義は、斜陽産業に見切りを付けて新産業・新階層を育成し、国民国家的な枠組を打破して自由貿易体制の構築を目指すという意味で、守旧的保守主義ではない。

もちろんサッチャーもレーガンも中曽根も、80年代の新保守主義の政治家は、古い保守主義のメルクマールであるタカ派的・国粋的な体質を持っていた。人によっては、新保守主義の政治と聞くと、フォークランド戦争におけるサッチャーの“果断”、レーガンの対ソ軍事戦略と「強いアメリカ」の誇示、中曽根の日本列島不沈空母発言や靖国神社公式参拝などをまず連想する向きもあるかもしれない。

しかしこうした一見ナショナリスティックな軍拡路線は、新保守主義の冷戦時代における時代的制約であって、新保守主義の本質ではない。戦争(への準備)という“公共事業”への支出の増大によって景気を浮揚させるレーガノミックスの財政政策はケインズ的であり、新保守主義の理念に反してさえいるのであって、その矛盾のつけである巨額の財政赤字が今日に至るまで米国経済の重荷となっていることはよく知られている。レーガノミックスのような不純なタイプから区別するために、新保守主義の本来の精神をリバタリアニズムと名付けたい。「新自由主義 Neoliberalism」という呼称もあるが、実際には、古典的な自由主義を表しているのだから、この言葉を用いるのは不適切である。

18・19世紀の古典的な自由主義を克服すべく登場してきたファシズムとコミュニズムという左右の統制主義が過去の遺物となった現在、リバタリアニズムは世界システムを普遍的に貫く政治原理となっている。このリバタリアニズムこそ、小著において、複雑性の縮減を通して自己組織化する秩序というシステム論のテーゼによって超越論的に基礎付けたい政治哲学の理念なのである。

ノージックが彼のミニマル・ステイト論を打ち出したのは、以上のような問題意識からであるかどうかは疑わしい。ノージックの無政府主義的傾向は、おそらく彼がユダヤ系アメリカ人であることから来ているのではないかと推測される。周知のようにユダヤ人は、バビロン捕囚から中世のゲットーでの宗教迫害を経てナチスによるホロコーストに至るまで、国家権力によって保護されるよりもむしろ絶えず抑圧されてきた流浪の民族である。このことに(冒頭引用した大庭氏の評にあるように)アメリカ移民という歴史が加わって、彼は、一体何のために国家は存在するのかという問題意識を持つようになったのであろう。

しかし彼がいかなる個人的動機で『アナーキー・国家・ユートピア』を書いたのかは重要な問題ではない。重要なのは、なぜこの本があれほど大きな反響を呼んだのかということである。本人が自覚していたかどうかは別として、ロールズが民主党のニューディール政策以来の社会民主主義的政治理念を総括したのに対して、ノージックは、来たるべきレーガンの共和党政治の理念を、いち早く誰よりも明解に理論化したと位置付けることができる。

「小さな政府」というリバタリアンな理念は、1970年代以降、日米英の中産階級から支持を得た。サッチャー政権下における2回の総選挙での保守党の圧勝、レーガン時代の大統領選挙での共和党の3回の勝利、第2次中曽根内閣の成果を問う1986年の衆議院選挙での自民党300 議席突破という数字はこれを実証している。それゆえ『アナーキー・国家・ユートピア』は、いかにその内容が粗野で野蛮に見えようとも、それなりに人心をつかむ時代的背景があったのである。

さてノージックは、古典的な夜警国家、市民生活の治安と国防を主要任務とする消極国家を「最小国家 the minimal state」と呼ぶ。「最小国家は、正当化されうる最も規模の大きい国家である。それより規模の大きい国家は、どんなものであれ人民の権利を蹂躙する。にもかかわらず、これまでに多くの人が、もっと規模の大きい国家を正当化するための理由を持ち出してきた」[Nozick: Anarchy, State and Utopia, p.149] 。

ノージックは、この最小国家よりさらに規模の小さい「超最小国家 the ultraminimal state」を提案する。

超最小国家とは、即時的な自己防衛に必要な武力を除く全ての武力の行使を独占し、個人的な(ないし代行人を通しての)悪事への報復や補償の取り立てを禁止する。[これだけならば最小国家と変わらないが]しかし超最小国家は保護・強要のサーヴィスを、その保護・強要政策を買ってくれる人に対してのみ与える。武力行使の独占体との契約に金を出さない人は保護されない。

[Nozick: Anarchy, State and Utopia, p.26]

つまり、国家は税金を収めてくれる国民のみを保護すればよいというわけである。

こうした超最小国家が、最小国家より望ましいかどうかを議論する前に、納税者だけに夜警サーヴィスを与えることがはたして可能かどうかを考えてみなければならない。

今、敵国が軍事的侵略を開始しようとしているとする。この時夜警国家は納税者のためにだけ防衛サーヴィスを行うわけにはいかない。仮に非納税者だけが住む貧民窟があったとしても、そのスラム一角を敵軍に占拠を許すならば、高額納税者が買い上げることができる国土の範囲を狭めることになる。

では国内の治安維持はどうか。もし税金が納められない下層民が法の保護の外におかれるならば、彼等は、権利を失った代わりに、国家に服従する義務からも解除される。かくして「全ての武力の行使を独占」するとした前提が崩れる。治外法権的な貧民たちは生活の資を得るべく、アナーキーな盗賊集団と化すだろうが、そうすると治安を維持するという当初の目的がかえって果たせないことになる。超最小国家はもはや国家ではないし、個人の権利を守るというノージックの趣旨にも反する。

このように、税額に応じて国家の保護・強要サーヴィスを受けることが事実上不可能である以上、均等な税額負担による最小国家がセカンドベストということになる。そこでノージック批判の矛先は、累進課税制度に向けられる。特に福祉国家では、低額所得者ほど国家から社会保障などの大きなサーヴィスを受けるのに、高額所得者のほうが税額どころか税率まで高いというのは不公平だ、というわけである。

なぜ、映画を見ることを好む(したがってチケット購入のためにより多くの金を稼がなければならない)人には、貧乏人を救済することが強制的に要求されるというのに、日没を見て楽しむ(それゆえに余計なお金を稼ぐ必要のない)人は、そうではないのか。

[Nozick: Anarchy, State and Utopia, p.149]

この(やや素朴な)問いに対して、マルクス主義者ならば、資本家は労働者を搾取しているのだから、所得の再分配は当然だ、と答えるであろう。マルクス・エンゲルス曰く、「ブルジョワ社会では、働く者は何も儲けないし、儲けている者は働かない」[MEGA1, Bd.10.S.618] 。

だがノージックにとって、このような搾取理論は間違っている。資本家は労働者からただで、あるいは強盗のように不法に富を奪っているわけではない。資本家はリスクを冒し、相当な労力で投資活動をしているのだから、経営も立派な労働であり、したがってその労働の結果合法的に入手した利潤は純粋に彼のものであり、他人に譲渡しなければならない義務はない。

新しい会社を創設することはリスキーである。新しい企業家的才能は容易には見つけられないし、多くは将来の需要や資源の有効性の見積、不可視の障害物、チャンス等々に依存している。専門的な投資制度やベンチャー資本の利払い人などが発達してきて、これらのリスクを冒すことを一手に引き受ける。そのような、投資をしたり、新しいベンチャー事業を後援したり、自ら行ったりするリスクを冒したくない人もいる。資本主義社会はこれらのリスクを受け持つことを他の活動から分離することを認めている。[…]リスクを冒したくない人々は、しばしばリスクを冒して利益を上げた人から報酬をもらう資格があると感じる。それでいてこの同じ人々は、リスクを冒して失敗した人の損失を分かち持って救済してやる責務を感じない。

[Nozick: Anarchy, State and Utopia, p.255-256]

労働者は企業から絞り取った税金が自分等の福祉に使用されることを当然のように考えている。それでいて、1995/96年の日本でそうだったように、バブルの崩壊で投資に失敗し、 不良債権を抱えて倒産した金融機関の再建に公的資金を導入すると聞くと、彼等は怒りの声を上げるものだ。高利子=高リスクの原則から自己責任を求める人は、同時に成功した場合の収益は当人の合法的所有であることを認めることになる。

マルクス本人も、ノージックのような資本家擁護論をすでに予想していた。『剰余価値学説史』第三部で、マルクスは、資本家の投資・経営労働、すなわち「搾取と結び付いた労働(これは一人の支配人に任されることもできる)は、当然の事ながら、賃金労働者の労働と同様に生産物の価値に入る労働であって、そのことは、奴隷制のもとでは奴隷監督者の労働も、労働者自身の労働と同様に支払を受けなければならないのと全く同様である」[Marx: Theorien über den Mehrwert, 3 Teil, S.618] ことを認めつつ、「利潤を監督労働の賃金として労賃に帰着させるこの弁護論」に対して次のように批判する。

もちろんこの愚論と戯言には、そのあらゆる矛盾を抜きにして相手になることはできない。例えば産業利潤は、利子に対してであれ、地代に対してであれ、逆に上がり下がりする。ところが、労働の監督、すなわち資本家が現実に行う一定量の労働は、そんなことには関係がないし、労賃の低落にも関係がない。[…]資本家が行う労働は、彼の支払う労賃が少なかろうと多かろうと、労働者たちの受ける支払が高かろうと低かろうと絶対に同じままである。[…]労働者は、賃金が高ければより激しく労働するのに対して、資本家の労働は確定した要素であって、それは彼が管理するべき労働量によって質的にも量的にも確定されており、この量に対する賃金によって定められているのではない。

[Marx: Theorien über den Mehrwert, 3 Teil, S.487]

このマルクスの反論は理解できない。本当に《資本家=経営者》の労働の量は、《利子や労賃や地代の低落=利潤の増大》と関係がないのか。高利子で融資を受け、高い賃金で労働者を雇い、高い地代を払って事業を始めることなら誰にでもたやすくできる(そこから先はさぞ苦労するだろうが)。生産の質を落とすことなく諸経費を削減するには、多くの情報を集める努力と経営者としての創意工夫が必要である。資本家や経営者も、賃金労働者と同様に、収入を増やすためには労働量を増大させなければならない。

もちろん、資本家ないし経営者が賃金労働者と同じ地平で労働するのは、自由競争によって市場メカニズムが作動しているかぎりにおいてである。生産の集中と資本の集中によって市場が寡占化されるとき、資本家は労働者を搾取する体制を作り上げたことになる。リバタリアニズムはまさにこうした寡占市場の打破を主眼としているのだが、逆に言えば、フェアな競争が行われているかぎり、累進課税制度は根拠を失うことになる。

マルクス主義的な搾取理論を放棄しても、なお累進課税制度や社会保障制度を正当化する道は残されている。自由競争に勝って豊かになった者はたまたま成功しただけであり、自慢するほどのことはない。自由競争に敗れて貧しい生活を余儀なくされている者は、たまたま失敗しただけであり、卑下するには及ばない。どちらに転ぶかは偶然による。いま、一生遊んでも使い切れないぐらいの財産を持った富豪になる確率が1/2、破産し、浮浪者となって一家全員が飢え死にする確率が1/2で、そのどちらになるかは“無知のヴェール”によって隠されて判らない社会Xと、ほどほどの財産でほどほどの生活が送れる確率が1の社会Yとのどちらの社会に生きたいかと問われれば、よほど勇気と野心のある人以外は、Yの方を選ぶであろう(保険の論理)。だから、自分が社会の成功者で資産家であるということを確認した上で、貧富の格差の是正を拒否することは、実は偽装されたエゴイズムであり、不道徳的である。これがロールズの主張である。

収入と富の現存する[不公平な]分配は、言うなれば、自然の資産、即ち天賦の才能と能力の先天的分配が、社会的環境とか事故と幸運などの気紛れな偶発性とかによって、開発されたりされなかったり、その使用が時期に恵まれたり恵まれなかったりしながら蓄積された結果である。

[Rawls, A Theory of Justice, p.72]

人間は、それによって自分の能力を育成しようと努力することができる優れた性格[勤勉さ]によって評価されるという主張も同様に問題的である。なぜなら、その性格は、たいがいは運のよい家族や社会状況に依存しているのだが、そうしたことは自分の功績として要求することはできないからである。

[Rawls, A Theory of Justice, p.104]

貧富の差の原因を個人の怠惰や勤勉さにではなく、本人の責任ではない社会環境に求めるところに、福祉国家のイデオローグあるいは20世紀的社会権の擁護者たるロールズの面目がある。ノージックは、弱者が強者にぶら下がるのは非道徳的だと主張するし、ロールズは強者が弱者を蹴落とすのは非道徳的だと主張する。《強者の道徳》か《弱者の道徳》かの分かれ目は、個人の自由と責任を認めるか否かにある。

ロールズに対して、ノージックは、「もし決定論が正しいのならば、いかなる人間も、いかなる行為も本源的な価値を持たないであろう」[Nozick: Philosophical Explanations, p.317]と言って、人間の自律性と自由の余地を認めない環境決定論は、人格の自律性と自由を理念とするロールズの倫理学の高邁な精神と矛盾すると批判する。

ロールズの理論が仮定し、前提する、貶られた人間像は、それが到達し、具体化しようとしている人間の尊厳という見解と調和しうるのかどうかは疑わしい。

[Nozick: Anarchy, State and Utopia, p.214]

自由意思がないのならば、富者が貧者に財産を分け与えるという行為も、決定論的に必然であるがゆえに、何の道徳的価値もないことになる。ロールズは、メタ倫理学が主流であった英米で規範倫理学を復活させたとして賞賛されているが、これでは道徳の正当化どころか道徳の存在さえ否認してしまうことにならないか。これはロールズの痛いところを突いた批判であるが、揚げ足取りだけでは説得力がない。ノージックは、自分自身の自由論をどのように展開するのか。

以前、私は次のように書いた。

一般に自由という概念には、英米系の(1)反因果的予測不可能性→偶然性という意味とドイツ系の(2)超感性的本質洞察性→必然性という意味があって二義的だが、カントはもちろん(2)の意味で使っている。超越論的超越は最終的に時間的多様から超越するのだが、これは(2)の意味での自由なのである。両者は「frei ~か ら離れた」という共通概念から出発しながら全く逆の帰結をもたらしている。もしも (1)の意味で自由を理解するならば、《自由とは道徳法則 に束縛されていることなり》というカントのテーゼや《自由とは必然性の洞察なり》というヘーゲルのテーゼは理解できないであろう。

そしてノージックも、アメリカの哲学者らしく、(2)の自由概念を理解しない。彼は、道徳法則であれ人倫性であれ、何かに束縛されるならば自由ではないと考えている。

自由であるためには、我々は、我々を束縛するものを持ってはいけない。自由な存在者とは、まさに釘付けにされていない存在者だ。[…]カントによれば、束縛しない法則とは、我々が自らに与える法則であり、自然(nature)から借りてこられた法則ではなくて、理性によって、我々自身の本性(nature)によって立法された法則である。[…]カントはまた、自律的存在者は、道徳法則によって自己自身を導くことを選び、道徳法則に対する畏敬の念からのみ行為するのであって、他の動機からの他のいかなる選択も、我々をその動機に受動的に服従させ、他律的にしてしまうと主張した。もし我々の本性を反照し、内包しているからというならば、そのことが我々を束縛することはありえないだろうか。いずれにせよ、他の動機からでも同様に自律的に行為することはできないであろうか。

[Nozick: Philosophical Explanations, p.354-355] 。

たぶん好き勝手に振る舞うことができる状態ならば、ノージックも自由と名付けることに同意するであろう。しかしもし全ての人が好き勝手に振る舞いだすならば、だれも好き勝手に振る舞うことができなくなる。その際、外的な利害調整の小細工をやらなくても、おのれの内面に反省の眼差しを振り向けるならば、人間は本質的に社会的存在なのだから、混乱の解決を見出すことができる。すなわち道徳法則の理性的な遵守である。理性は普遍的であるから、理性的存在者は、複数であっても、理性的に振る舞うかぎり、相互に「好き勝手に振る舞うことができる」。だが、自由の本質は「好き勝手に振る舞うことができる」ことにあるのではなくて、「好き勝手に振る舞うことができる」根拠を自覚しているという自己意識性・自己選択性にある。理性的存在者は自己原因的であるがゆえに、自由である。自分で自分を縛ることは不可能であるから、理性が理性を束縛するということはありえない。

意識システムの自己選択性は、自由概念のみならず、意識の自己同一性をも説明する。意識の自己同一性は、身体の同一性・身体の持続的所有・身体の労働による獲得物の所有権を基礎付ける、政治哲学的にも重要な概念であって、ノージックの哲学上の主著『哲学的説明』も「自我の同一性」という章から始まっている。やや迂遠に見えるかもしれないが、ここでいったん政治哲学的考察から離れて、もっと基本的な哲学的問題を考察した上でまた元に戻りたい。

彼が取り上げる問題は、“私”は誰なのかという普段問われない問題である。しかしノージックは、次のようなSF的なケースで我々にこの問題を考えさせようとする [Nozick: Philosophical Explanations, p.40] 。

問題A いま、私の脳の半分が、私の身体から複製された(したがって私にそっくりな)クローン人間に移植され、私の過去の記憶を引き継いで意識活動を営む。一方半脳を失った私もそのまま生き続けるとする。この時、二人のうちどちらが私なのか。

ノージックは、“私”とは、過去の私と外延的にも内包的にも十分かつ最も近接している記憶連続体であると考えて、この立場を「最近接連続体理論 the closest continuer theory」と名付ける。彼によれば、問題のケースでは、クローン人間ではなくて、もとの身体の人間の方が、量的に連続性が大きいから、“私”である。

だがなぜ“私”は複数存在してはいけないのか。SF的なケースで考えなくとも、“私”が複数存在していると言いたくなる事例が実際にある。人間の脳には、右脳と左脳があり、両者は脳梁と呼ばれる太い線維の束を介して情報のやりとりをしている。この脳梁を、難治性のてんかんを治療するために切断すると、右脳が支配している左手と左脳が支配している右手が、まるで別の人格の手のように葛藤した動きを示すことがある。この場合、同じ身体の中に、二つの“私”がいると言うことはできないのか。問題Aのケースでも、身体を異にした瞬間から、二つの意識は空間的パースペクティヴを異にするがゆえに、異なった知覚を持ち、過去を共有するだけの別人格となるが、そのどちらも“私”である。次の問題は私が作ったものである。

問題B 私の脳が、全て新しいクローン人間に移植され、一方脳を取り除かれた私の古い体には、タブラ・ラサのクローン脳が取りつけられる。手術終了後、テープのダビングをするときのように、私の脳波が、過去の記憶とともに、タブラ・ラサの脳にコピーされたとしよう。二つの意識のうち、どちらが私なのか。

ノージックの最近接連続体理論はどのような答えを与えるだろうか。元の体のほうが受け継いでいる部分が量的には大きいが、脳の直接的連続性を重視すれば、クローン人間のほうが“私”だということになる。だが問題Bは何も人を悩ませない。両方とも“私”なのだから。

ノージックの最近接連続体理論は、意識を事物のように対象的に扱っているところに特徴がある。実際彼は、事物一般の同一性から自我の同一性を考えようとする。

我々は、自分は、もしいるとして、いかなる人間であろうかという問いに、同一性の一般的な図式、最近接連続体の図式を我々自身に適用することによって答える。その一般的な図式は、複雑性と流動性にもかかわらず、我々を強いて分類し、同定することを可能にする世界の一般的特徴によって引き出される。

[Nozick: Philosophical Explanations, p.60]

量子力学が教えるところによると、物質には自己同一性はない。同一性がない世界に、同一化作用としての意識が、敢えて自らの同一性を投射している。世界の同一性の反照的規定が自我の同一性であって、ノージックのように、世界の同一性一般を対象レヴェルの自我に適用するのは本末転倒である。ノージックは自我の同一性の問題を提起する前に、次のような「テーセウスの船」の問題を我々に提示する [Nozick: Philosophical Explanations, p.33] 。

問題C 船のどの部分を新しい部品と取り替えても、元の船であることには代わりがない。ある長い期間にわたって、部品の交換をしているうちに、全ての部品が新しいものに入れ替わった。それでも形は全く同じであるならば、それは元の船のままであると言えるか。

この問いに対しては、イエスと答えることができる。「テーセウスの船」は「ノイラートの船」と似ている。物質的存在としての人間は、普段の新陳代謝の結果、一定期間後に全ての身体を形成する物質が入れ替わるが、それでも身体は自己同一性を保つ。会社は、100年もしないう ちに、社長から平社員に至るまで全てメンバーが入れ替わるが、それでも会社は自己同一性を保つ。テーセウスの船もまたしかりである。

問題Cには続きがある。

問題D 問題Cの船の部品交換に際して、古い部品を捨てずに残しておいて、全ての部品が整った段階で、それらで元の船と全く同じ形の船を造った場合、これと新部品でできている船とどちらが元の船か。

これは難問である。こんな難しい問題をAより前に出すノージックは、やはり本末の順番を間違っている。反面、こんなスコラ的問題になぜ頭を悩ませなければならないのかと思う人もいるであろう。だが所有権の問題が入ってくると、どうでもよいとは言えなくなってくる。

問題E 日本のある企業が、古くなったハイテク機器を解体して、ある業者にその部品を台湾でスクラップするように依頼する。ところがこのハイテク機器の部品は、北朝鮮に密輸入され、対日ミサイル基地の部品に使われたとしよう。この時日本側は、部品の所有権を主張してその返還を要求することができるであろうか。

この問題はDとよく似ているが、もはやどうでもいい問題ではない。このように、事物の自己同一性が我々の問題となるのは、意識の同一性のコロラリーである所有権の同一性に関してのみなのである。そして事物そのものには自己同一性はない。

所有権は、意識・身体・身体労働の自己同一性によって正当化される。ロック以来の考えは、ひとは自分の労働をあるものに加えることによってそれの所有者になるというものであった。

それはたぶん、人は自分の労働力を所有していて、以前知られていなかった物をも、自分が所有していた物が浸透することによって所有するようになるからであろう。

[Nozick: Anarchy, State and Utopia, p.174]

だがこれだけでは不十分である。

もし私が一缶のトマトジュースを所有していて、それを海の中に零し、その結果そのジュースの分子が[…]海中に均等に混ざるなら、それによって私はその海を所有するようになるだろうか。それとも自分のトマトジュースを愚かにも浪費しただけであろうか。おそらくむしろ、所有の観念とは、ある物に労働を加えることがそれを改善し、価値を増大させるということである。そして誰でも、自分がその価値を作り出した物を所有する権利がある。

[Nozick: Anarchy, State and Utopia, p.175]

占有と所有は同じではないので、自分の身体もしくはその所有物の物理的接触は、所有権の根拠にならない。自己同一的な意識の自己原因的な労働が、所有権を産み出すのである。

以上を要約すると、個人は自ら選択する存在者であるがゆえに自由な存在者であり、自己原因的な労働によって価値を生産し、その所有権を主張する。ロールズの《弱者の道徳》は他律的であって、道徳的価値や所有権の不可侵性を否定している。しかしまたノージックの《強者の道徳》も我々の通常の価値観に反している。

直観レヴェルでの価値の二律背反を止揚するためには、ここでも目的論的還元が必要である。目的と言っても、社会を支配階級と被支配階級に分けて、そのどちらに利益を与えるかということが問題なのではなくて、共通の合意可能な目的から、二つの直観的道徳を破-壊することが必要なのである。

定立(弱者の道徳)
近代社会における支配階級とは、前近代社会に見られるような伝統によって権威付けされた世襲特権階級ではなくて、合理的に選抜された高学歴・ 高技能・高資質のエリート達である。エリートを エリートとして優遇しない、適材適所でない社会 は全体の生産性が低いゆえに、たとえ富を平等に 再分配したとしても、一人当りの所得の絶対量は 小さい。《嫉妬》は大衆にとって戦略的に不利なのであって、むしろエリートをエリートとして利用することによって大衆に奉仕させる方が大衆の利益になる。
反定立(強者の道徳)
累進課税制度や社会保障制度など、所得の再分配 による貧富の格差の是正が行われなかった場合、 一方で資産の累積的蓄積、他方で貧困の悪循環により貧富の格差は増大し続け、市場の縮小と寡占化により経済は停滞するので、支配階級も真に豊かにはならない。自由競争は有名無実化し、エリートは固定化され、社会の寄生虫と化す。強者は もはや強者ではなく、革命の勃発によって自分の不利益と弱体ぶりを最終的に理解する。

定立も反定立も、自由競争の否定という点で同一の地平内にある。だから自由主義は、弱者の道徳にも強者の道徳にも、左の平等主義にも右の保守主義にも反対するのである。

人あって、自由競争は、弱者にもまわりまわって物質的利益をもたらすとしても、劣等感という精神的苦痛をもたらすのではないかと反論するかもしれない。生まれながらの平等という自由競争が前提する理念が現実と乖離している以上、《全ては君の努力次第だ》と業績主義を吹聴することは近代主義者の詐欺行為であるというわけである。

しかし「自分は無能だ。いくら努力しても社会から評価されない」とぼやく人は、自分を評価してくれる社会を探す努力をしたのかどうか自問すべきである。ある既成の価値序列のもとで自由競争するだけでなく、自分の長所が活かせる価値序列を作り出す自由競争が行われなければならない。だから《努力によって全ての価値は作り出される》というテーゼは二重の意味を持っている。低学歴者・身体障害者・定年後の老人など、ともすれば社会の底辺に置かれがちな人々も、《本人の努力次第で》自分の世界の主人公となることができる。

そのような自己満足は、麻薬を吸って得られる一時的な幻想と同じだと嘲る人は、全ての価値観が多かれ少なかれそうした性質のものであることを自覚しなければならない。自由競争は一部の人に劣等感を感じさせる犠牲を払って他の一部の人に優越を感じさせる体制を作るとよく言われる。パラドキシカルではあるが、自由主義のこの欠点を克服するために必要なのは、やはり自由主義なのである。

ノージックもまたメタレヴェルの自由主義を掲げる。彼は、個人の権利を最大限尊重する最小国家という彼のユートピアを全世界に押しつけようとはしなかった。

ユートピアとは、複数のユートピアのための枠組であり[Utopia is a framework for utopias]、そこでは人々が、理想的社会で自分自身が善き生活と思うものを自発的に追求し、実現を試みるべく自由に結束できるが、誰も自分のユートピア観を他人に押しつけることができないような場である。[…]ユートピアはメタユートピアであって、そこでユートピア的実験が許される環境、自由に自分のことができる環境、もしもより特殊なユートピア観を安定して実現しようとするならば、最初に大いに実現されなければならない環境である。

[Nozick: Anarchy, State and Utopia, p.312]

だからノージックは、ロールズが喜びそうな社会民主主義社会や『アナーキー・国家・ユートピア』執筆当時まだ強固に存在していた共産主義ブロックが「ユートピア的実験」として存在することを非難したりはしない。これは寛容の精神というよりも、かえって彼の自由主義の徹底である。寛容の精神は、概して他の価値観を内側から理解していないのだが、しかしいかなる価値観も内側からだけではその限界を理解できない。「我々は限界の外に立つことによって、はじめて限界を語り、限界が何であるかを理解することができる」[Nozick: Philosophical Explanations, p.154] 。

自由主義が自由主義の限界を語ろうとするとき、自由主義は自由主義を否定する自由をも認めるのかというパラドックスが生じる。それは、私たちには自由を放棄して奴隷になる自由があるのかという古来論ぜられてきた問題と同じである。確かにそのような自己否定は理論的には不合理ではあるが、実践的には有効な戦略である。蓋し、自由主義は、非自由主義という他者性に脅かされることによって、かえって自己を維持することができる。実際、日本には自由主義を批判する社会主義者がたくさんいるが、北朝鮮というすぐ近くに存在する反面教師のおかげで、彼らが日本の有権者の過半数によって支持されることはない。この点で、日本の自由主義者は、北朝鮮に感謝しなければならないのかもしれない。

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