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システム論序説(03)他者認識と認識の不確定性

1997年9月4日

前節で、認識の地平的不確定性が他者存在の地平であると主張した。本節ではこの主張をより詳細に論じ、他者を認識しうるのは、認識は他の様でありうる時かつその時のみであることを示そう。

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このページは電子書籍『システム論序説』の一部です。

1. 第一項 他者の存在証明は可能か

他者は身体を通しての間接呈示によってのみ私に与えられるので、他者認識は不透明で不確定たらざるをえないというテーゼに対して、「そのような他者認識への懐疑は、近代哲学的な物心二元論・主客二元論に基づく独我論的構図から生じるのであって、我々は《反省以前的な生活世界的非理論知》あるいは《言語の社会性》あるいは《役割論的な関係の第一次性》に基づいて他者認識の不確定性を克服しなければならない」等々と反論したくなる人々[1]は、日本の思想界でも依然として多い。

この《間主観性=普遍性=確定性》という巷の常識に反して、認識の不確定性、したがって他者認識の不確定性は他者論にとってポジィティヴな意味を持つと主張したい。他者を認識できるという能力の《können》は同時に、認識は他のようでもありうるという可能性の《können》でもある。アリストテレスのデュナミスも「可能性」と「能力」の二義性を持つ。「不確定的」とは「必然的でも不可能でもなく可能的」ということであるが、アリストテレスによれば「可能的」とは「その反対が必ずしも偽ではない場合[2]」つまり「その反対でありうる場合」である。

以上の問題意識に基づいて、本節では次の命題の論証を試みる。

他者を認識しうるのは、認識が他の様でありうる時かつその時のみである。

Ich kann den Anderen erkennen, wenn und nur wenn ich kann anders als ich erkenne.

いま要素命題「認識が不確定である」をp、「他者を認識しうる」をqとすると、題目の命題の否定は、

式9. ¬(p⇔q)⇔ p∧¬q∨q∧¬p

であるから、この命題を背理法(あるいは否定導入)で証明するためには、右辺の p∧¬q と q∧¬p、すなわち、独我論的な不確定的認識と確定的な他者認識という想定をそれぞれ論駁し、選言消去によって矛盾を導出しなければならない。

なお、本書は不確定性に甘んじる有限な立場を採るが、これは数学基礎論的には直観主義の立場を採ることになるので、背理法を用いて有限性を証明しようとすることは自己矛盾的ではないのかと眉を顰める向きもあろう。現に本論証で ¬p∧¬q[確定的独我論]なる第四の選言肢を論駁しなくてもよいとすることは、我々の「直観」に反する。確定的独我論は、もしそのような立場があるとしたら論駁されえないであろう。しかしまた確定的独我論者は不確定的他者論に異論を唱えることはできない。不確定的他者論という他者と論争という不確定性の地平へと入り込むことは、確定的独我論にとって自己破壊的であるからだ。したがってここから、不確定的他者論にとって確定的独我論者は肯定も否定もできないという排中律を放棄せざるをえない帰結が生じて来る。

2. 第二項 不確定的独我論の検討

背理法で論駁するべき命題の前半は、p∧¬q、すなわち、独我論的な不確定的認識であるが、「独我論的」と言うときの「我」が多義的で、(1)経験的意識と(2)超越論的意識に下位区分される。超越論的意識は他我を含みえるので、ここで問題としなければならない独我論は(1)のレヴェルのそれであり、(2)は2で扱うことになるレヴェルである。

他我の経験的意識の存在を否定したからといって、自我の経験的意識がそのまま超越論的意識になるわけではない。現在の意識が過去の意識を反省して、「その時、SはPだと判断したが、実はSはPではない」という認識に到達するとき、同じ一つの意識の流れの中で過去の経験的意識と現在の超越論的意識を区別することができる。だが当の「過去の意識」は「現在において意識されている意識」であるから、現在の時間地平において独我論的自我も《他でありうる》ことになる。

もちろん現在の意識は過去の意識に対して優位を持つが、現在の意識もまたやがて過去の意識となり、未来の可能的現在の意識によって反省されたときその有限性を顕にする可能性がある。それゆえ過去の意識は、現在の意識に優位を与えることによってその優位を破棄する。つまり現在の意識は現在において現在あるのとは他の様にありうる可能性を自らの内に持つことになるのである。

かくして他者を一端排除した不確定的意識から出発して、可能的他者をその内部に見出すに至った。もっともこのように《私は他でありうる》から《私の他がありうる》を導出したとしても、そのような可能的他者は未だ現実的他者ではないのではないのか、という疑問が生じるであろう。

そこでわが不確定的独我論者は次のように問うことになる。私の認識は他の様であり「うる」けれども、その可能的な他の認識は、眼前に現出する現実的な、私の身体のキネステーゼと類比的に統握されうるあの物体と結び付いているのか否か。こう問う時、可能的他者とは、可能的諸認識が現実の諸身体行為の制約となり《うる》という意味で可能性の可能性ないし不確定性の不確定性となる。そしてこの洞察がとりもなおさず他者の存在証明となる。

もちろんここで不確定性の不確定性は“二重否定の法則”によって確定的=現実的になるなどと言っているわけではない。不確定性は肯定/ 否定という確定性の否定であるが、それ自体は否定性ではないからだ。

そもそも他者とは何なのか。それは物ではないから、物のように(例えば「黄金の山」という“可能的”概念の実在性を問うときのように)実在性を問うわけにはいかない。他者とは、認識されたものとしての物から区別された認識する作用であり、物を媒介にして、それの反照的規定として与えられる。他者はさしあたり私にとって精神物理的客体であるが、私と同じ世界を経験するものとしても経験される。簡単に言えば、他者認識とは統握する身体として身体を統握することである[3]

ところで物もまた私にとって他なるものであるがゆえにそれについての判断は不確定的であり、それについての他者の認識はさらに不確定的であるがゆえに、そもそも他者とは、初めから不確定性の不確定性、あるいは可能性の可能性なのである。

たとえ他者の認識が私の認識と同じであり、「私の他のように」ではないにしても、他者は依然として不確定的であることには変わりがない。ひょっとすると私は判断と他者理解の二つを誤ることによって、私と他者が同じであると誤解しているのかもしれないのである。他者とは可能性の可能性であるとしても、例えばサイコロを2回振って目の和が2となる確率が 1/6×1/6 という「可能性の可能性」であるからといって、「1の目が2回出る」事態が他者であることにはならない。この点誤解なきよう厳密に定義すれば、他者とは「可能性を可能ならしめる可能性」である(以下、この意味で「可能性の可能性」を用いる)。

このように他者を定義するならば、「可能的他者」に何も付け加えることなしにそれを現実的他者にすることができる。可能性の可能性である他者は、私にとって可能的なものの可能的なものであるがゆえに、私にとって可能性の可能性としての実在性を持つのである。他者なるものは果たして実在するのかと不確定的独我論者が問いを立てるとき、まさに(不確定的なものを不確定にしているのだから)そのように問いを立てることによってその問いは解かれるのである。かくして不確定的独我論の立場から出発しながら、独我論を克服した。

この独我論の克服、他我証明に関しては、フィヒテという先駆者がいる。フィヒテもまた主体を制限する客体の反照的規定から他者の存在を推論する。

主体は、自分の外なる存在者[他者]の産物Xの限界点から自分自身の産物Yの限界点に及ぶ領域の内部で、そこに存する諸可能性のうちから選択した。主体はこれらの可能性から、またこれら全てを自分が選べたであろう可能性としてその可能性を把握することを通して、自分の自由と自立性を構成する。[4]

そしてそこから、その自分の自由の外部からの「促し Aufforderung」である他の理性的存在者が「演繹」されるというわけである。フィヒテも自我が「有限な存在者」であることから演繹を始めるのであるが、(1)フィヒテが謂う所の有限性とは、選択可能性としての主体の自由が客体によって制限されているという意味であって、選択可能性そのものではなく、(2) したがって「他の様でもありうる」選択可能性と他者の存在が Wechselbegriff であることを彼は論ぜず、促しの合目的性から促す存在者の合目的性(理性があること)を推論する[5]に留まっている。(3)それゆえ他者を可能性の可能性として把握しているわけではない。以上の点で私の他者論はフィヒテのそれと異なる。

私の他者の存在証明に対しては、次のような批判や疑問が考えられる。

A.まず本節は、独我論的自我の認識が時間と共に変化する (したがって有限である)こと、自分の生活世界に自分の身体行為と似た身体行為が現出することなどを論点先取的に想定したが、かかる想定は経験的事実であって、論理必然性を持たないのではないのか。たしかにそうである。だがもしこの想定を否定すれば、他者認識の問題は解決されないというよりも、この問題そのものが消滅してしまうであろうことも明白である。問いは既知と未知の中間の不確定性の領域で生じる。不確定性の不確定性という他者の現事実的問題構成は、事後的なな問いに先立っていつもすでにその問いを貫いて構成しているのである。

B.次にその不確定性の不確定性に関してであるが、物ではなくて他者の心が認識の対象である場合、そのような二重性は生じないのではないのか、と反論するむきもあろう。例えば私が冗談を言い、相手の顔面に笑いとして認知されうる変化が生じる時、場合によってはある音声行為が生じる時、それはおかしくて笑ったのかもしれないし、追従笑いかもしれないし、嘲笑かもしれない。いずれにせよそのような不確定性に対して、その他者が実際にどう思念しているのかに関してのさらなる不確定性が私の認識の内部で生じるわけではない。ところが他者は、その私の(つまり他者にとっての他者の)認識に対してさらに認識を持つ。そこで《笑う》という一つの事態の《いかなる動機によって成され・どのように理解されるか》は、《どのように》の「本質 essentia」のレヴェルと《誰によって》の「現実存在 existentia」のレヴェルで二重に不確定性を持つことになる。この二重性は可能性によって可能ならしめられる可能性と可能性を可能ならしめる可能性という相補概念に基づく二重性であって、一重でも三重以上でもないのである。

なお、ルーマンは、コミュニケーションが情報・伝達・理解の三つの選択の総合であると分析している[6]が、情報は自他裏返しの理解であるから、選択は二重構造を持つに留まると考えるべきである。またコミュニケーションの当事者が三人以上の場合でも、「私」にとって「他者」が複数になるだけであって、二重性は保持される。

C.不確定性内部の本質/現実存在の区別とは別に、「意味付けの不確定性」と「存在の不確定性」とがさしあたり区別されうる。もちろん意味付けも、その作用のノエシス的側面においては、「意識する存在」(Bewußt-sein)でもあるから、両者はそれほど判然と区別されるわけではない。だがこと「存在の不確定性」一般を問題にするならば、話は別である。

私の言明は、笑いを誘う冗談として、あるいは顰蹙を買うたわごととして、あるいは … として解釈されうるが、その不確定性は意味付けの不確定性である。しかしそれとは別に「私はそのような言明をしないことも可能であった」という存在の不確定性がある。月は自転と公転が等しいので地球に対していつも同じ面を向けているが、太陽系の構造がそうなっていなかったとしても、それは理論的には可能なはずである。1945年に日本はアメリカ合衆国などの連合軍に敗れたが、歴史的事情の如何ではその反対でもありえたはずである等々、これらもまた《他のようでもありえた auch anders möglich sein》の形を取る。

なぜ世界の実情はこうであって、その反対ではないのか、とか、なぜ一般に存在者は存在し、むしろ無ではないのか、などのライプニッツの問い[7]は、ひとをして、自分と対等な他者ではなく、自他の有限な意識を超越した絶対者(神)の予定調和へと関心を向けさせるものである。だが不確定性は神のような確定性によってではなく、むしろ不確定性によって縮減される。ルーマンも言うように、「複雑性のみが複雑性を縮減しうる[8]」。

まずもって存在の不確定性が意味付けの不確定性から区別されうるか否かを検討しなければならない。「月は地球に対していつも同じ面を向けている」とか「1945年に日本はアメリカ合衆国などの連合軍に敗れた」などの命題は、はたして修正の効かないものなのであろうか。語「月」はひょっとすると火星を指示しているのかもしれない。また、「日本が連合軍に敗れた」というのはいかなる意味においてか。日本はこの敗戦により、農地改革・財閥解体等の社会の近代化・民主化を進め、これが今日の旧連合軍諸国に対する経済的優位をもたらしているのであるから、日本はむしろ「勝った」のだ、とする可能的解釈がないわけではない。そしてこのような意味の(あるいは同じことだが指示の)不確定性とは別に指示対象の不確定性があるわけではない。

意味の不確定性は存在の不確定性から切り離しえず、その逆も成り立つことは、超越論的観念論及びそれの言語哲学的変容である理論負荷性のテーゼから帰結することである。存在の不確定性は「他でありえた」と過去形で(したがって修正不可能で)あるのに対して、意味の不確定性は未来において「他でありうる」、と割り振ることはできないのであって、「他の様に生起しうる」とか「他の様に解釈できた」といった逆がありうるのである(そして何よりも、過去は修正不可能/未来は不確定という二元論が破棄されなければならない)。

意味は事実と同様、恣意的・規約主義的に替えることはできないのであって、今私が「語“月”は“火星”を意味する」と宣言したところで、これによって日本語の語法に変化が現れるわけではない。意味は《確定的に変えうる》のではなくて、《不確定的に変わりうる》のである。言葉の使い方に関しては、私は他者に従うのであるが、他者は私を含めたその他者の他者に従う。現在の用法は過去の用法にその模範を仰ぐのであるが、過去の用法が模範でありうるのはそれが現在において反復されているかぎりにおいてである。

不確定性の不確定性は、言語的交換のみならず経済的交換においても見られる。後で確認することであるが、物々交換においては、私が欲しているものを相手が持っているか否か、さらにその相手が、私が持っているものを欲しているか否かという二重の問いが生じる。この不確定性を縮減するのが、ルーマンの用語で言うなれば、貨幣というコミュニケーション・メディア(Kommunikationsmedien)であり、言語的交換におけるそれは真理(公的権力に支持された標準語の用法)である[9]

このように意味付けは、《確定的に誰かによってではないにしても、不確定的には誰かによって》なされるのであって、そのかぎりでそれは、偶然性に依存し(contingent)つつ、偶発性(contingency)として存立していると言える。先ほど「不確定性は不確定性によって縮減される」と言ったのはこの意味においてである。ここから「不確定性の不確定性」とパーソンズ/ルーマンが謂う所の「ダブル・コンティンジェンシー double contingency/doppelte Kontingenz」、すなわち、二重に他者に依存した偶然性/偶発性の関係が問題となって来るのだが、これは第二章の第一節で改めて取り上げることにしたい。

D.最後に最も根本的に、なぜそもそも他者の認識が不確定でなければならないのか、と問うひともいるであろう。たしかに「不確定性」は「他の様でありうること」だとしても、「他者を認識する」ことが不確定的であるとか、それどころか不確定性そのものであるとか言う必然性があるのであろうか。まさにこの問いが、次に検討する第二の選択肢なのである。

3. 第三項 確定的他者認識論の検討

確定的他者認識論とは何であるかを明らかにするためには、まず「確定的」の二義性(学問的確定性と前学問的確定性)を見分ける必要がある。後者の立場の確定的他者認識論者は、前学問的・非反省的態度において他者が疑う余地なく先与されている生活世界的事実を強調する[10]。なるほど、他者が存在することは疑いえない生活世界的事実であるが、我々が日々他者を誤解する/しうることもまた「疑いえない生活世界的事実」である。真に不確定的他者論に抵抗するのは前者のほうの確定的他者論であって、後者の前学問的確定性に基づく他者論は、前検討的にあらかじめ排除しておく。

今のこの論点に直接係わるのであるが、「他者認識」の二義性を確認することにしよう。独我論を否定するとき、他者認識に関して問われうる問いは、例えば、彼がはなぜ笑っているのか、などというある個別的な身体とある個別的な意識との結合についての問い(それはあらかじめ他者が存在することを前提している)ではなくて、そもそも他者なるものが存在するのか、という外的に現出する身体行為一般(「話す」「書く」等の言語行為をも含む)の根拠を意識に求めることができるか否かについての問いである。

しかしもし個別的な他者認識にことごとく失敗するならば、それは他者の存在一般を疑うのに十分な判定基準であるから、二つの他者認識は別々のものではありえない。それはちょうど、因果律を認めないなら個々の因果関係を同定することが無意味であるにしても、個々の因果関係を同定することにことごとく失敗するならば、それは因果律の存在一般を疑うに十分な判定基準であるのと類比的である。

そしてこのどちらの他者認識においても、他者を認識することは自己を認識することになる。個別的な他者認識の方から言えば、他者x氏を理解することとは、もし私がx氏の役割rを持ってx氏のいる状況sにいるならば、いかに振る舞うかについて、つまり固有名詞xを排除した関数 f (r,s) を認識することにほかならない。そして他者一般が 存在するか否かは、そのような関数関係が認識しうるか否かにかかっている。

かくして「他者の心」の問題は、自他の区別を破棄した意味付け一般の問題へと置換される。実際自分の行為がどう意味付けられるかの判断は、他者の行為をどのように意味付けるのかの判断と等しく根源的に不確定である。しかしそれはもはや不確定性の不確定性ではなく、確定的に縮減されるべきエッセンチアのレヴェルでの不確定性にすぎない。

このように確定的に他者を認識しようとすると、それはもはや他者認識ではなくなるというパラドックスが生じる。つまりここでの確定的他者認識論は、(1)の経験的なレヴェルでのそれではないのだが、超越論的なレヴェルでの独我論へと移行してしまうことになる。もし誰であれ、かくかくの状況では必然的にかくかくに振る舞うより他がないのならば、その振る舞う主体は私やあなたでなくてよいひと一般であり、そして判断主体は、まさにそう判断するより「他がない」がゆえに、唯一的独我論的なのである。

もちろん確定的他者認識論者には、経験的意識のレヴェルでの数多性を強調しつつ、超越論的位相においてはその間主観性が意識されるのだと主張することによって自らが独我論的であることを否定する路が残されている。超越論的間主観性論者は次のように主張する:客観的に実在するとは間主観的に妥当するということであるから、他者(より正確には社会)が 客観的に実在するか否かを問うことは本末転倒なのであって、むしろ人-間社会に妥当する(理論的/実践的)規範を自己反省することが超越論的反省である云々。

この超越論的反省によって得られる人間の類的自己意識は、やがては相対化されるであろう時代精神ではあるにしても、少なくともその時代においては最高の妥当性を持つのだから、そのかぎりでは超越論的意識の名に値しよう。最高の学知の総体は、しかしながら各人に平等に配分されているわけでなければ、一人の天才の頭脳に集結しているわけでもないのだが、反面人類の意識の総体を離れてあるわけではなく、複数の誰か(そして誰もがそれでありうる権利を持つ誰か)に分散しているはずであるから、超越論的意識とは、確定的には遍在も偏在もしないが、しかしそれゆえに不確定的には遍在しかつ偏在するところの集合表象であると表現できる。

複数の意識の選言の総体における真理の位置は、原子における電子の位置に喩えられる。電子は確率1から0までの範囲で濃淡の差を持ちつつ(偏在しつつ)、雲のように原子核のまわりに分散している(遍在している)。電子の位置を確定しようとすると、その速度(運動量)の不確定性が増大するが、同様に真理を特定の個人に帰属させようとすればするほど、その妥当性の不確定性は大きくなる。即ち

式10. Δ Individualität・Δ Gültigkeit ≧ h

の関係がある。社会の民主化(大衆化)とはこの疑似プランク定数hの増大に他ならない。

認識は不確定であり、意識はその不確定性を超越しようとするのだが、その超越すること自体が二階の不確定性を持つがゆえに、社会システムは不確定性の不確定性を持つことになる。この二重の不確定性を自己内反省することによって、自我は他我との相互反照的な不確定性の関係のうちに独我論的狭中から《超越》し、他者としての他者を《認識=構成》し、類的意識へと“超越論的に”高まりうるのである。-こうして確定的他者認識論は、他者認識論たろうとすることによって不確定的他者認識論へと移行せざるをえないことを洞察した。

以上、第二項と第三項の結果から、「他者を認識しうるのは、認識は他の様でありうる時かつその時のみである」という命題が帰結する。そして本節の最初に掲げたこの仮説を次のように肯定したい。他者の認識が不確定であることは、他者の認識にとってあらずもがなの克服されるべき障害なのではなくて、他者の存在にとって本質構成的な事態である。その意味で、他者の存在証明は、「証明」しようとしている段階で、不可能になっているというべきである。なぜなら、証明とは、こうであって他のようではないことを、つまり、他者が存在しないということを示すことであるからだ。他者の存在は、むしろ認識の不確定性を自己反省することで認識されるのだ。

4. 参照情報

  1. 「反省以前的な生活世界的非理論知」は、日本における現象学/解釈学の研究者の主流を、「言語の社会性」は、分析哲学系統の社会哲学者、とりわけ大庭健を、「役割論的な関係の第一次性」は廣松渉をそれぞれ念頭において書いたものである。廣松の「共同主観性」概念は、(本人は両者を同一視しているのだけれども)「間主観性」概念が本来持っていたゆるやかさを消し去った強い統合概念である。廣松は《我》の独我論を否定したが、反面、《我々》の独我論に陥ったというのが私の感想である。
  2. Αριστοτέλης. Τὰ μετὰ τὰ φυσικά. アリストテレス.『形而上学』岩波書店 (1959/12/5). 出隆訳.
    1019b.
  3. Husserl, Edmund. Cartesianische Meditationen und Pariser Vorträge. 1931. Husserliana, Edmund Husserl Gesammelte Werke, Bd. 1. Martinus Nijhoff. ed. S. Strasser. p.123; Husserl, Edmund. Ideen zur einer reinen Phänomenologie und phänomenologischen Philosophie. Zweites Buch. “Phänomenologische Untersuchungen zur Konstitution“. 1952. Husserliana, Edmund Husserl Gesammelte Werke, Bd. 4. Martinus Nijhoff. ed. Marly Biemel. p.81.
  4. Fichte, Johan Gottlieb. Grundlage des Naturrechts nach Principien der Wissenschaftslehre 1.Teil. 1797. Johann Gottlieb Fichte Gesamtausgabe Bd. 3. Bayerische Akademie der Wissenschaften. ed. Reinhard Lauth. p.42.
  5. Fichte, Johan Gottlieb. Grundlage des Naturrechts nach Principien der Wissenschaftslehre 1.Teil. 1797. Johann Gottlieb Fichte Gesamtausgabe Bd. 3. Bayerische Akademie der Wissenschaften. ed. Reinhard Lauth. p.36.
  6. Luhmann, Niklas. Soziale Systeme: Grundriß einer allgemeinen Theorie. 1984. Suhrkamp. p.203.
  7. Leibniz, Gottfried Wilhelm. Monadologie. 1714. Die Philosophischen Schriften von G.W. Leibniz, Bd. 6. Weidmannsche Buchhandlung. ed. Gerhardt. p.602.
  8. Luhmann, Niklas. Soziale Systeme: Grundriß einer allgemeinen Theorie. 1984. Suhrkamp. p.49.
  9. Luhmann, Niklas. Soziale Systeme: Grundriß einer allgemeinen Theorie. 1984. Suhrkamp. pp.220-223.
  10. Schütz, Alfred. Strukturen der Lebenswelt. 1979. Suhrkamp. ed. Thomas Luckmann, 1. pp.87-90.