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システム論序説(05)ルーマンのシステム理論の問題点

1997年9月4日

今日社会システム論を論じる上で、ニクラス・ルーマンは避けて通ることはできない。本章ではまず、主著『社会システム論』を中心に、ルーマンのシステム論を検討しつつ、妥当性と規範についての問題を提起する。

『システム論序説』の画像
このページは電子書籍『システム論序説』の一部です。

自然科学におけるシステム理論のパイオニアがフォン・ベルタランフィであるとするならば、社会科学におけるシステム理論のパイオニアは、パーソンズである。この二人は一年違いで生まれた同時代人で、自然科学と社会科学におけるシステム理論の原型を形成した第一世代の人たちと評することができる。パーソンズの影響を受けた学者は多数いるが、なかでも最も有名な継承者は、ルーマンである。

かつてパーソンズは、米国でも日本でも、戦後最も代表的な社会学者と目されていた。1960年代に「社会システム理論」と言えば、それはパーソンズの理論のことであった。しかし、今日「社会システム理論」と言えば、それはたいていの場合、ルーマンの理論を指す。それぐらいルーマンの影響力は日本の社会学界では大きくなった。だから、システム論を論じる時、ルーマンの存在を無視することはできない。

もっとも、ルーマンの著作は、パーソンズの著作と同様、抽象的で、難解である。だから、一般人がルーマンの著作を読むことは稀であり、業界内での高い評価とは裏腹に、一般人の間ではその名はあまり知られていないし、評価されているとも言い難い。もちろん、自然科学もまた抽象的で難解であるが、それでも、社会システム理論とは異なり、世間から高い評価を受けているのは、人々が、たとえその理論がわからなくても、自然科学が技術の改善を通じて、人類に貢献していると実感しているからである。

マルクスやケインズの理論が、学者の世界を越えて、一般の人々にまで大きな影響を与えたのは(良い影響だったかどうかという話は措くとして)、それがたんなる理論ではなくて、革命や経済政策という実践にまで結びついていたからだ。パーソンズやルーマンの社会システム理論が、何らかの社会問題の解決に役立っただろうか。理論は理論のまま終わってはならないのであって、システム論もまた、倫理や社会変革の問題にまで踏み込まなければならない。

本章では、こうした問題意識から、第一節でまず、ルーマンの社会システム理論全般の批評と問題点の指摘を行った後、第二節で、超越論的目的論という本シリーズのテーマに従ったシステム理論の転換を図り、第三節で、道徳をいかにして基礎付けるかという倫理学的な問題をシステム論的な観点から考えることにしたい。

1. 第一節 ルーマンのシステム理論の問題点

ルーマンの社会システム理論の主要テーマは、1984年の主著『社会システム』を境に「複雑性の縮減」から「オートポイエーシス」に変わった。これを「オートポイエティック・ターン」と呼んで、何か重要なパラダイム転換が行われたかのように評する人もいる。しかし、後で述べるように、私はオートポイエーシスにそれほどの重要性を認めていない。本節では、第一項で、前期の主要テーマである複雑性の縮減を、第二項で、社会システムにとって重要な複雑性であるダブル・コンティンジェンシーを、第三項で、後期の主要テーマであるオートポイエーシスを取り上げ、批判的に分析したい。

1.1. 第一項 複雑性の縮減

ルーマンが謂う所の《複雑性》が《不確定性》を含意していることは、第一章の冒頭で既に確認したところである。フォン・ベルタランフィは、複雑性とシステムとを安易に同一視していたが、それでは、システムと環境の区別がつかなくなる。ルーマンは、システムの機能を複雑性の縮減に求め、これによってシステムと環境との違い、さらにはシステムと構造との違いを説明しようとした。

構造とは、諸要素が一定の関係で結び付けられているところの秩序であり、他方「システムは限界を持っている。これがシステム概念を構造概念から区別する[1]」。限界がシステムと環境を区別すると同時に、システムと構造とを区別するというのだ。

それなら、環境の方から見て、限界の向こうにあるシステムは、システムである環境にとっての環境なのか。そうではない。例えば、我々心的システムは我々の外部たる非心的な環境を認識することができるが、その逆は成り立たないことから明らかなように、「システムと環境の差異はシステムの内部で反復[2]」されるが、環境の内部でその差異が反復されるわけではないから非対称的である。

環境は、システムによって、そしてシステムとの相関においてのみ、その統一性を得る。環境は環境のほうで、越えることのできる限界(Grenze)によってではなく、開かれた地平(Horizont)によって限界付けられる。それゆえ環境自体はシステムではない。[3]

もちろん、心的システムに対する他の心的システムのように、あるシステムが他のシステムに対して環境になるということはありうる。しかし「ひとは、あるシステムの環境とこのシステムの環境における諸システムを区別しなければならない[4]」のである。

諸要素が一定の関係で結び付けられてある可能的構造/事態が形成されるが、その数を複雑性と呼ぶのであった。「あるシステムにおいて、またはそのシステムの環境としてのあるシステムにとって合成されなければならない要素の数の増大に伴って、要素間の関係付けがもはやそれ以上は不可能となる限界にひとはただちに突き当る[5]」。かくして有限なシステムは複数の可能的諸事態の中から選択をしなければならない、つまり、複雑性を縮減しなければならない。

もっとも、私たちが複雑性を縮減しなければならないのは、たんに可能的諸事態の数が大きすぎるからではない。我々にもっとシリアスに選択を強いるのは、矛盾する関係にある選択肢だが、その数はたったの二つである。同一主語に対する矛盾する二つの述語のうち一つを選ばなければならないのは、数量的技術的理由によるのではなくて、論理的理由による。こう書いたところ、ある読者から、ルーマンにはバイナリ・コードに関する議論があるという指摘をいただいた。しかし、コードという形で示される二項は、「または」という選言の関係にあり、矛盾を帰結する「かつ」という連言の関係にはない。ルーマンが、矛盾の解消としての複雑性の縮減という点を見逃しているのは、彼が初めから《妥当性=超越論的主体性》の問題を放棄しているからではないのか。

今の問題提起が本節の主題であるルーマン批判に係わってくるのだが、結論を急がずに、もう少しルーマンの祖述を続けることにしよう。複雑性とは不確定性であり、システムに選択圧をかける。諸事態(諸選択肢)A1,A2,… An のうち、A1 を選ぶとき、A1を選んで、A2,…An という他の可能性を排除することがシステムの機能で、排除された他の可能性が選ばれうるという可能的事態がそのシステムの環境ということになる。システムが複雑性を縮減する一方、縮減されない複雑性が環境として残る以上、両者の間には、複雑性の落差がある。この落差が、システムと環境を区別する限界を形成する。

このように《環境》概念はあくまでも選択機能によって理解しなければならないのであって、空間的な内/外の区別に基づけられてはならない。もちろん、国家システムのような場合は、国境の内/外でもってシステムと環境を区別する境界を象徴することができるが、意味システムのような抽象度の高いシステムの場合、空間的な内/外の区別に基づいてシステムと環境を区別することはできない。

空間の限界という分かり易いイメージは、それが限界を越えて点対点の相関を示唆するかぎりで、想像力を誤りに導く。家屋の途切れる所で庭が始まるというわけである。この場合、限界はその時々の確定されたものとして表象される。他の事象との近さもしくは遠さの関係を秩序付けている。これに対して意味の限界は、空間の限界もまた意味の限界をもちろん象徴できるが、複雑性の落差を秩序付ける。意味の限界はシステムと環境を異なる複雑性の可能性領域として切り離す。[6]

心的システムの場合、我々は「環境」なる語で以って、身体とその外部などを連想しがちである。しかし身体的な内部と外部、自己と非自己も、主要組織適合抗原(MHC抗原)と呼ばれる遺伝子情報に基づく免疫システムの選択機能による区別なのである。ルーマンによれば、社会システムにおいて免疫システムとして役立つのは法システムである。法は可能的衝突を先取りして作られる[7]。法システムの環境は、違法な世界、あるいはその法が適応されない他の地域ということになる。

選択されなかった事態としての環境、すなわち「反対の意味は、ただ潜在的に共与されたもの、不在に現前するものとしてのみあるにすぎない[8]」。これに対して選択された事態は意味として顕在化する、というよりも、顕在性/潜在性の差異の生成、選択すること自体が意味だと言ったほうが真実に近い。現象学が教えるように、体験は、その直接的顕在性とは別に、潜在的な未規定性の地平において自己を越えて他の可能性を指示している。この体験の指示過剰としての複雑性を縮減する形式、主語である体験に述語を帰属させること、それ《とは als》異なるあるものをそれと同じもの《として als》措定することの形式が意味である。

選択された可能性は、顕在性とは他であるがゆえに《他でありうる》という可能性であり、したがって他でありうる可能性の選択自体が《他のようにも選択しうる》という可能性である。そしてここから生じるパラドックスは、可能性を減らす機能である選択が、他のようにも減らしうるという可能性を増やしていること、即ち複雑性の縮減は同時に複雑性の増大であるということである。これが何を意味しているのかは後に(第三章の第一節で)詳しく検討することにする。

ハーバマスなどは、システムを生活世界に対立する社会システムとして捉え、個人の意識や生をシステムとは考えていないようだが、それではシステムの概念が狭くなり過ぎる。社会だけでなく、個人の意識(ルーマンが謂う所の心的システム)も、そしてこれは意味システムとは言い難いが、物質や有機体だってシステム(物理学の用語では系)である。

意味を構成するシステムには社会システムと同様に心的システムも含まれる。心的システム(誰のであろうとも!)は、それが体験と行為の意味的連関の統一体として同定されるかぎり、意味を構成するシステムである。[9]

ルーマンにとって、個人は社会システムの要素ではなく、社会システムの環境にすぎないのだが、社会システムが個人の選択を離れて存在することはないのだから、心的システムが行う選択と社会システムは関連付けて考えなければならない。つまり心的システムが複雑性を縮減することによって増大させる複雑性を社会システムが縮減するのである。社会システムについてはおいおい論じることにして、まず心的システムのレヴェルから意味と選択の関係を考えてみよう。意味という「体験処理の形式 [10]」は、人間のシステムの場合、心的システムであれ社会システムであれ、典型的には言語を通して行われる。

言語システムもまた選択機能に尽きている。我々は文字を並べて、単語を作り、単語を並べて、文を作る。英語の文を作る時、アルファベット26文字に空白1を加えた27の可能性(引用符等他の記号については考えないことにする)の中から一つを選んでいることになる。つまりn文字分の文を作った時、形式的には 27n-1 の他の可能性を排除しているわけだ。

さて複雑性の度合いは、エントロピーで、即ち、

式24. SK logeW

というように対数で表現される。Wは可能な数の総計。なお情報理論では定数は1で、底は2であるが、本質的な違いではない。フェヒナーの法則によると、動物の感覚は刺激の大きさそのものよりもその対数を感じるのだが、複雑性の感覚についても同じことが言えるわけである。n文字分の文のエントロピーは、単純に計算すれば、nlog227≒4.7n ビットであるが、実際にはもっと小さい。アルファベットは同じ確率で使われるわけではなくて、e,t,aは使用頻度が高いし、z,q,jのそれは低い。qの後には必ずuが続くという規則もある。単語を並べる時も同様である。

情報エントロピーのビット単位は、しかし熱力学的エントロピーに約10-16のボルツマン定数をかけなければ釣り合いが取れないほど小さい。例えば(これは表現とその指示対象とのギャップの例解ではないのだが)、1ミクロン角の計算機の記憶素子には100万ビットの情報量が記憶されるのに対して、それが持つ熱力学的エントロピーは100億ビットにもなるというありさまである。ここで情報/物質、あるいは内的主観/外的客観なる二分法を持ち出すつもりはないが、情報システムが環境に対して大きな複雑性の落差を持っていることは銘記すべきことである。このことは平たく言えば、情報(言語)は、その指示対象を常に大幅に単純化して《represent 代表=表象》しているということである。

代表象するためには単純化しなければならないことは、次のような地図のパラドックスで理解されえる。言うまでもなく有用な地図とは、現実の地理を精確に描写している地図でなければならない。しかしもし《有用さ=精確さ》の極限を求めて行くならば、理想的な地図とは現実の地理そのものであり、地図はかえって不要ということになってしまう。《地図=情報》は、現実と同じであると同時に同じであってはならない。

シュレーディンガーが指摘したように[11]、生命はエントロピー増大則に逆らってネゲントロピーを食べて自らの有機体的秩序を維持している(これは、高エントロピーな排泄物を体外に出すことで生命を維持していると言っているのと同じことである)。人間そして人間の社会という自己組織システムは、さらに情報というネゲントロピーを食べて生きている。システム/環境間の複雑性の落差を帰結しているのは、こうしたエントロピーを縮小するシステムの選択機能である。

システムを《要素をまとめる総体性》という実体概念からではなく、《複雑性の縮減》という機能概念から定義するルーマンの試みは十分支持できる。しかるに日本のシステム論者の河本は、複雑性の落差でシステムと環境を区別するルーマンに対して懐疑的である。河本は次のようにルーマンを批判する。

システムの作動によって、複雑性が縮限[ママ]されるかどうかは、作動の結果の問題であって、複雑性の縮限という機能がシステムの作動をあらかじめ方向付けたりはしない。

システムは産出的作動をつうじて、自己の境界を形成する。だが構成素の選択によってシステムが複雑性を増大させてしまうことはいくらでもある。心的システムの作動において、分裂性の妄想が形成される場合、常人には見えないような人物が見えたり、恒常的な呼びかけの声が聞こえたりする。心的システムはそのような構成素を産出するよう作動し続けており、そのことによって環境の複雑性は増大し、自己自身の複雑性も増大する。また社会システムに人為的な壁(ベルリンの壁)を導入すれば、環境の複雑性は増大し、システムそのものの複雑性も増大する。このことを一般的に言い直せば、多様な可能な選択肢の中から一つの選択をすることが、次の選択肢を大幅に増大させてしまうことがいくらでもあるのである。

複雑性の縮限は、確率的頻度の高いシステムの作動の全般的な特徴ではあるが、システムの作動の原理ではない。オートポイエーシス・システムは反復的作動の継続を原理とするのであり、それによって初めて自己と環境を区分する。それ故オートポイエーシスは、構造に対して機能を優先するシステム論ではなく、静止した関係に対して動き続けること、つまり作動を優先したシステム論であることが分かる。[12]

河本は、複雑性の縮減が新たな複雑性を増大させることがルーマンの主張の一つであることを理解しないのであろうか。そもそもシステムに複雑性の縮減よりさらに根源的な作動なるものがあるのだろうか。河本のシステム論は、ドゥルーズの影響を受けた「第三世代」を自称するオートポイエーシス論である。「オートポイエーシスは、構造に対して機能を優先するシステム論ではなく、静止した関係に対して動き続けること、つまり作動を優先したシステム論である[13]」。

だが複雑性の縮減は選択することであり、それ自体作動(operation)である。それにしても静止的に対する「ダイナミックな」とか「生き生きした」など、読者の共感を得やすい、しかし内容空虚なキャッチフレーズは、河本がつとに嫌悪感を示す「思想のアイドル用語[14]」ではないだろうか。

「多様な可能な選択肢の中から一つの選択をすることが、次の選択肢を大幅に増大させてしまう」例として河本が挙げる二つの例を考えてみよう。

一つは「分裂性の妄想が形成される場合、常人には見えないような人物が見えたり、恒常的な呼びかけの声が聞こえたりする」場合であるが、これは確かに複雑性の増大である。だから河本の認識とは反対に、「システムは産出的作動をつうじて、自己の境界を形成する」とは言えない。むしろ心的システムは崩壊に向かっているのだ。いうまでもなく、分裂症などの精神病の患者がいなければ、常人は常人とは言えない。したがって常人が、異常例を通して自らの正常性を認識するとき、それは複雑性の増大による複雑性の縮減である。

もう一つの例は、ベルリンの壁であるが、これは複雑性の増大なき複雑性の縮減である。もしベルリン市民が、二つの政治体制を選択肢として与えられ、そのうちのどちらかを一つを選ぶなら、それは複雑性の増大による複雑性の縮減である。もちろん、ドイツ連邦共和国とドイツ民主共和国の二つが、ドイツ統一の候補となることを選択し、相互に競合するならば、これは複雑性の増大であり、ドイツ連邦共和国が選択されれば、それは複雑性の縮減である。これは、『現象学的に根拠を問う』の第三章第三節で述べた「選択することは選択することが選択されることである」という事態の一例でもある。

システム理論は、とかく秩序優先の保守的な思想と思われがちだが、システム内部での競争を否定することはない。システムを全体部分関係で定義したフォン・ベルタランフィですら、そのことを強調している。

「システム」という言葉は「全体」や「統一性」を意味する。だから、全体に対して、部分間の競争という概念が導入されることは逆説的に見える。しかし、実際には、これらの矛盾しているように見える命題は、ともにシステムの本質に属することがなのだ。どの全体も、その要素の競争に基づいており、「諸部分の戦い」(ルー)[*]を前提にしている。後者は、有機体や社会的統一においてと同様に、単純な物理化学的なシステムにおいても見られる組織化の一般的な原理であり、究極的には、現実が呈示する対立物の一致[coincidentia oppositorum]の表現である。[15]

[*]引用文中の「諸部分の戦い」というのは、発生学者のルーによる『有機体における諸部分の戦い』[16]のことで、「対立物の一致」とは、中世の哲学者クザーヌスの言葉である。

それゆえ、システム論を支持することは、政治思想としての全体主義を支持することを帰結しない。個人主義、民主主義、市場経済を肯定することとシステム論を肯定することは何ら矛盾しない。プリゴジンが、散逸構造論で示した如く、熱力学的な開放システムでは、平衡から遠く離れた不安定なカオスが秩序を自己組織化することがある。個人が、利己心に基づいてバラバラに行動しているにもかかわらず、否それゆえに、資源を最適配分する市場経済の秩序を作るといったことが可能なのだ。市場原理に基づく秩序の自己組織化に「神の見えざる手」といった神秘的な説明原理は不要である。

ルーマンは、複雑性の増大を、複数の可能的機能の競争、対立としてではなく、機能分化による共存としてみなしている。このことは、選択の妥当性を問題化しない先ほど指摘したルーマンのモノローギッシュ(独話的な)な傾向に一致する。彼は「社会システムは拒否のコミュニケーションを通して矛盾を産出する[17]」と述べるに留まり、不確定性、即ち《他のようでありうる》ことをシステム間の競争、あるいは闘争として理解していないように思われる。もとより、ルーマンは、当の闘争(選択の選択)というプロブレマーティクをパーソンズにならってダブル・コンティンジェンシー(doppelte Kontingenz)の問題として取り上げているので、次の項では、この問題を扱うことにしよう。

1.2. 第二項 ダブル・コンティンジェンシー

ダブル・コンティンジェンシーの問題とは、「自我が自分の行為を他我に依存して選び、同時に他我は自分の行為を自我に依存して選ばなければならないとき、社会秩序は一般にいかにして可能であるか[18]」という問題で、パーソンズが指摘した[19]ホッブズ問題の本質である。「ダブル・コンティンジェンシー」は、日本では「二重の偶発性」と訳されているが、コンティンジェンシー(contingency)は、コンタクトと同語源で、「接触する tangere」というラテン語に由来し、他のファクターに依存するがゆえの偶発性という意味があるので、詳しく訳すなら、「二重に他者に依存するがゆえの偶発性」といったところだ。

パーソンズの用語なので、まずはパーソンズのテキストからダブル・コンティンジェンシーについての説明を引用しよう。

相互作用には、ダブル・コンティンジェンシーが内在している。一方で自我の満足は、彼[他我]が可能な選択肢から選ぶことに依存している。しかし、逆に、他我の反応は自我の選択に依存するであろうし、補完的に他我の側の選択からも帰結するだろう。このダブル・コンティンジェンシーのゆえに、文化的パターンを先取りするコミュニケーションは、特定の状況(それは自我と他我にとって決して同一ではない)の特殊性の一般化と両者によって遵守される《協定》によってのみ確かになりうる意味の安定性なしには存在しえない。[20]

ホッブズ以来、自然状態における「万人の万人に対する闘争 bellum omnium contra omnes[21]」は社会契約によって解消されるとされてきた。しかし、問題はそのような社会契約がいかにして成立するかである。パーソンズのように個人間の《協定 conventions》を、何の説明もなく持ち出すことは、論点先取となる。

では、パーソンズからこの用語を受け継ぎ、それを有名にしたルーマンは、ダブル・コンティンジェンシーの問題をどう解決するのか。

自我は他者を、他我として経験する。しかし自我は、パースペクティブのこの非同一性と同時に、両方の側でのこの経験の同一性をも経験する。それによって状況は、両方の側にとって不確定で、不安定で、耐え難いものとなる。この経験のうちで、両者のパースペクティブが収斂する。それによって、この否定性を否定することへの関心、規定への関心を仮定することが可能になる。[22]

要するに、ダブル・コンティンジェンシーは自己触媒的に自己解決するというのだ。しかし、ゲーム理論によれば、ダブル・コンティンジェントな状況下では、自他が社会契約の合意に達することはナッシュ均衡ではない。このことをゲーム理論の著名な実例である囚人のジレンマで確かめよう。共犯者である二人の囚人が別室に隔離され、もし二人とも黙秘するなら、懲役一年となり、相手が黙秘しているのに一方が自白すれば、自白した方が釈放となり、黙秘している方が懲役三年となり、二人とも自白すれば二人とも懲役二年となるという条件を突きつけられる。これは、二人とも刑が相手の選択に依存しているという意味で、ダブル・コンティンジェントな関係であるということができる。この時、懲役一年の方が懲役二年よりも良いにもかかわらず、囚人たちはそれを実現できない。なぜなら相手がどのような選択をするかがわからないからだ。相手がどちらの選択をするにせよ、黙秘するよりも自白した方が自分の刑期は短くなる。だから、自白することがナッシュ均衡解となる。

このように、二人の囚人の間に「協定」がないから(あるいは、あったとしてもそれが信じられないから)、二人とも自白することでより重い刑を受けてしまう。このように、ダブル・コンティンジェンシーは、ダブル・コンティンジェントな関係のまま双方のパースペクティブが自ずと収斂するという形で自己解決することはない。もちろん、ルーマンは、ダブル・コンティンジェンシーの問題の解決が容易ではなく、それどころかありそうにないことだということは認識している。

[…]社会的遭遇におけるダブル・コンティンジェンシーの経験によって、共通の基盤を見いだしコンタクトを継続しうるということ自体が、きわめてありそうになくなる。この発見と継続もまた、今日多くの人々が考えているように、交渉を通して生じうるのではない。それが生じうるのは照応する仮定を、コミュニケーション・プロセスそのもののなかで回帰的に確証することを通してのみである。[23]

コミュニケーションの自己回帰的な確証の試行錯誤を続ける中で、自他の予期のギャップが調整され、共通の基盤が確立されるというのだ。その意味で、「コミュニケーションがなければ、社会システムもありえない[24]」と言える。しかし、社会システムはいかにして可能なのかというホッブズ問題では、社会システムの要素であるコミュニケーションはいかにして成立するかが問題なのであって、コミュニケーションが成立していると前提することは、論点先取になる。囚人のジレンマでも、囚人同士でコミュニケーションできないから、二人にとって最も望ましい結果をもたらすことができないのである。もちろん、たとえ囚人たちが相互に会話することが許されても、相手に裏切られて十年の刑に服するリスクを依然として持つから、たんなる言語的なコミュニケーション以上の社会的交換が要求される。

ルーマンは、社会化(Sozialisation)を「心的システムとそれによって制御される人間の身体の振舞とを相互浸透を通して形成する過程[25]」として特徴付けるが、ダブル・コンティンジェンシーは心的システム(自我)と心的システム(他我)との関係、相互作用(Interaktion)に関するもので、心的システムと社会システムの関係、つまり相互浸透(Interpenetration)、あるいは後のオートポイエーシス論で謂う所の構造的カップリング(struktuelle Kopplung)の問題ではない。前者のホッブズ問題を後者のホッブズ問題が解決した後の問題にすり替えているところに、ルーマンの議論の飛躍と欺瞞がある。結局のところ、パーソンズもルーマンも、社会システムが存在するから社会システムが存在するという論点先取的な議論の域を出ておらず、どのようにしてダブル・コンティンジェンシーの問題が解決されるのかという根本的な問いに答えていない。

では、自然状態における「万人の万人に対する闘争」からいかにして社会システムは生成するのか。これに対する私の答えは、対称性の自発的破れによるコミュニケーション・メディアの生成である。これは物理学の用語だが、物理学的な知識がなくても、この概念は理解できる。丸いテーブルの中心に垂直に立てられた鉛筆というよく使われる比喩で説明しよう。鉛筆が理想的な正六角柱なら、それはテーブルの回転に対する対称性を持つ。直立している鉛筆は、回転対称性を持つが、ポテンシャル・エネルギーが大きく、不安定である。ちょっとした揺れで自発的に(偶然に)ある方向に倒れ、ポテンシャル・エネルギーが小さく、安定しているけれども、回転対称性が破れた状態になる。これが対称性の自発的破れである。

素粒子物理学では、真空は対称性が自発的に破れたポテンシャルの低い基底状態と解釈されるのだが、ここでは社会学的に考えよう。万人が万人とダブル・コンティンジェントな闘争をしている自然状態では、どの個人と個人との間にも対称性があると想定されている。しかし、実際には、ある個人は他の個人よりも少し腕力があるとか、少し知恵が働くとか、わずかな差異があり、その結果、ある個人が他の個人に勝つということが起きる。そして勝った個人が負けた個人を部下として服従させると、この二人は、他の一人の個人に対して有利に戦うことができる。強者は弱者を服従させることでますます強くなる。このような対称性の破れは、一人の覇者が戦国時代を終わらせる時に実際に見られる。いったん倒れかけた鉛筆は、加速度的に倒れるものだが、権力者による統一事業も加速度的に進むものだ。

万人の万人に対する闘争は、対称性がある一方で不安定であり、これに対して権力者が統治する社会は、対称性が破れることで、安定しており、内乱のポテンシャルは低い。再び囚人のジレンマの例に戻ると、二人の共犯者には、多数の子分を従えた親分がいるとしよう。二人は、逮捕されても黙秘するように親分から命じられており、命令に背けば、命が狙われることを理解しているとしよう。この場合、命令に反して釈放されても、親分が放った刺客に殺されるというもっと望ましくない結果になるので、二人は黙秘せざるを得なくなる。親分がいなくても、二人が「協定」を結んでいれば、約束を破られた方が出所後破った方に復讐することができると思うかもしれない。しかし、もし二人の間に完全な対称性が成り立つのなら、復讐が成功するとは限らず、返り討ちに遭う可能性も同程度あることになる。だから、ダブル・コンティンジェンシーという社会的複雑性を縮減するには、対称性を破る媒介的第三者が必要なのである。

媒介的第三者が必要なのは、罪と罰といった法的交換に限らない。経済的な交換においても、貨幣という媒介的第三者が必要である。貨幣を使わない物々交換では、私が望む商品を相手が持っているかどうかという不確定性と私が持っている商品を相手が望んでいるかどうかという不確定性があり、このダブル・コンティンジェンシーを解消しなければ、物々交換は成立しない。ジェヴォンズの表現を借りるなら、物々交換が成り立つためには、欲望の「二重の偶然的な一致 a double coincidence」が必要であり、これはめったに起きないことであるがゆえに、「交換媒体 a medium of exchange」と呼ばれる共通の商品、すなわち貨幣が必要になる[26]

貨幣の生成を対称性の自発的破れで説明しよう。どの商品も特定の人の欲望の対象にしかならず、その点ではすべての商品に対称性があると言える。しかし、ある商品は他のどの商品よりもより多くの人の欲望の対象になるという小さな差異があると、その商品を直接には欲望しない人までが、交換手段として欲望するようになる。より多くの人が欲望することで、その商品はさらに多くの人の欲望の対象となる。歴史的には、金や銀といった貴金属が、対称性の自発的破れの結果、そうした貨幣商品としての安定した地位を獲得するようになった。

貨幣商品の時代を経て、現代は信用貨幣の時代になっている。信用貨幣は、高資本の所有者が媒介となって発行している。狭義の信用貨幣は、政治的な高資本を背景として発行されている。企業が発行している社債やクーポンの類も、経済的な資本を担保にして発行されている貨幣のようなものだ。ゲームのポイントは、文化資本を担保にしていると言うことができる。法的交換の時と同様に、経済的交換においても、高資本所有者が媒介者となることで、ダブル・コンティンジェンシーの問題が解決する。

パーソンズやルーマンも、こうした交換媒体の役割を認識していた。パーソンズは「社会的相互作用の一般化された象徴的媒体 generalized symbolic media of social interaction[27]」と呼び、ルーマンは、それを受け継ぎ、「象徴的に一般化されたコミュニケーション・メディア symbolisch generalisierte Kommunikationsmedien」と呼んでいた。

パーソンズは、「交換媒体」に「象徴的」という形容詞を付けているが、これは、信用貨幣には、直接的な消費の欲望の対象となるような、第一義的な有用性は存在せず、それを象徴として代表象しているからというのが理由である[28]。ルーマンのテキストから引用すると、それは通常とは異なるシニフィアン/シニフィエ関係の「統一体形成の媒体[29]」ということだ。

パーソンズは、象徴的交換媒体にも AGIL 図式を応用する。A(Adaptation 適応)の象徴的交換媒体は貨幣、G(Goal attainment 目標達成)の象徴的交換媒体は権力、I(Integration 統合)の象徴的交換媒体は影響、L(Latency 潜在)の象徴的交換媒体は価値コミットメントである。しかし、どのような意味で、権力や影響や価値コミットメントが、貨幣と同様に、交換媒体、価値尺度、価値貯蔵手段となるのか不明瞭である。

パーソンズは、交換媒体としての貨幣の機能を一般化させた最初の学者というわけではなかった。ジンメルは、1900年の著作『貨幣の哲学』において、交換概念を社会的相互作用一般にまで拡張し、貨幣の役割を考えた。

とはいえ、相互作用は、会話も、愛も(憎しみで報いられる場合ですら)、遊びも、見つめ合いも、すべて交換とみなすことができる。相互作用においては、人は自分自身が持たない物を与え、交換においては、持っている物のみを与えるという相違があるようにも見えるが、そうではない。なぜなら、まず、人が相互作用において行使するのはただ自分のエネルギー、すなわち自分の中身を捧げることでしかありえず、逆に、交換は、他者が以前持っていた対象をめぐってではなくて、他者が以前持っていなかった自分の感情の反映をめぐって行われるからであり、交換することの意味は、交換前よりも交換後の方が価値の合計は増加しているというところにあるわけだが、このことは、各人は自分自身が持っている以上の物を他者に与えるということであるからだ。[30]

例えば、相互に愛を告白しあうという相互作用において、告白することで、自分が持っていた愛の感情が減るわけではない。しかし、経済的な交換では、新しい商品ないし貨幣を手に入れるために、自分が持っていた貨幣ないし商品を手放さなければならない。この点に違いがあるように見えるけれども、相互に満足度が増えるという点では、同じである。ジンメルは、愛が受け入れられた場合も、ふられた場合も同様に扱っているが、ふられた場合は、交換が成立しなかった場合と同じだから、除外するべきだろう。ジンメルの哲学は、生の哲学(Lebensphilosophie)の一つとして知られている。交換を哲学的に考察する時も、実体主義的で、機能主義的ではない。

ジンメル以外にも、ミード[31]やバーク[32]などが、言語的交換とコミュニケーションの類似性に着目したが、ルーマンに影響を与えたのは、パーソンズである。

ルーマンは、次のような観点から、パーソンズのダブル・コンティンジェンシー論と象徴的交換媒体論を批判的に継承しようとする[33]

  1. パーソンズでは、コンティンジェンシーがたんに依存性(Abhängigkeit)としてしか把握されておらず、必然性と不可能性を否定する様態、“他のようでもありうる存在 Auch-anders-möglich-Sein”を表す不確定性として理解されていない。
  2. パーソンズでは、メディアが交換関係にのみ限定されていたが、コミュニケーションは不確定性を前提にしているのだから、ダブル・コンティンジェンシー問題で必要となるのは、たんなる交換媒体ではなくて、コミュニケーション・メディアでなければいけない。
  3. コードとメッセージ、抽象的な社会的意味了解と具体的な欲望の対象の交換は区別されなければならない。コードは、肯定/否定、所有/非所有、真理/非真理、合法/違法、美/醜といった二項対立から成り立ち、それ自体はいかなる値も持たない。
  4. パーソンズは、システムが進化に伴ってサブシステムに分化するので、象徴的交換メディアによるサブシステム間の接続が必要と考えたが、コミュニケーション・メディアは、進化論や一般システム理論からは独立に論じられるべきである。

ルーマンによれば、メディアとは、ダブル・コンティンジェンシーに代表されるような「ありそうにないこと Unwahrscheinliches」を「ありそうなこと Wahrscheinliches」へと変換する媒体で、「言語 Sprache」と「流布メディア Verbreitungsmedien」と「象徴的に一般化されたコミュニケーション・メディア」の三種類に分類できる。言語は、コミュニケーションの理解を知覚可能な物の範囲を超えて広げる基本的なメディアである。流布メディアは、印刷や放送など、言語によるコミュニケーション・プロセスの範囲を拡張するメディアである。言語や流布メディアは、たんに情報の伝達を可能にするだけで、コミュニケーションの成功までを保証しない。成功させるには、象徴的に一般化されたコミュニケーション・メディアが必要である。

ルーマンは、象徴的に一般化されたコミュニケーション・メディアの例として次のようなものを挙げている。

重要な例は、真理、愛、所有/貨幣、権力/法で、これ以外にも、かつては、宗教的信念や芸術、現在ではおそらく文明によって標準化された「基本的価値」がそうである。[34]

ルーマンは、これらの象徴的に一般化されたコミュニケーション・メディアを、自我/他我(Ego/Alter)と行為/体験(Handeln/Erleben)の区別に基づいて、以下のように四種類に分類し、位置付けている。

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ルーマンによる四つの象徴的に一般化されたコミュニケーション・メディアの分類[35]

この表にあるように、真理と価値序列は、他我の体験から自我の体験への接続を媒介する象徴的に一般化されたコミュニケーション・メディアであり、愛は、他我の体験から自我の行為への接続を媒介する象徴的に一般化されたコミュニケーション・メディアであり、財産、貨幣、芸術は、他我の行為から自我の体験への接続を媒介する象徴的に一般化されたコミュニケーション・メディアであり、権力と法は、他我の行為から自我の行為への接続を媒介する象徴的に一般化されたコミュニケーション・メディアであるというわけだ。

ルーマンは、体験においては、選択プロセスが環境に帰属し、行為においては、選択プロセスが行為するシステムに帰属しているというように、体験と行為を区別するのだが、自我または他我のどちらか一方ないし両者が選択を行わないならば、ダブル・コンティンジェンシーの問題は起きないのではないのか。ダブル・コンティンジェントな自我と他我の相互選択の接続が問題となるのは、政治や法の領域に限られるのか。

私は、真理の認識も価値序列の決定も商品や財産の購入も芸術の鑑賞もすべて自我と他我の選択行為から成り立っていると考える。真理の認識は、一見すると受動的に体験しているだけのように見えるが、実は認識主体の能動的な選択に大きく依存していることは、カント以来広く認知されている。自我も他我もともに選択を行っており、また、コミュニケーションにおいては、自我も他我は、反転する関係にあるのだから、自我/他我と行為/体験の区別に基づいて、象徴的に一般化されたコミュニケーション・メディアを分類することは受け入れることができない。

また、ルーマンの目録では、真理が他の象徴的に一般化されたコミュニケーション・メディアと一緒に列挙されているが、もしも言語を象徴的に一般化されたコミュニケーション・メディアよりも基礎的なメディアとして別格に扱うのであるならば、真理も別格扱いにするべきではないだろうか。私たちは、「…は良い」、「…は愛らしい」、「…は役に立つ」、「…は美しい」、「…は合法的である」といった判断に対して、「「…は良い」は正しい」、「「…は愛らしい」は正しい」、「「…は役に立つ」は正しい」、「「…は美しい」は正しい」、「「…は合法的である」は正しい」というように、なんらその内容を変えることなく真理の述語を加えることができる。このことは、真理が、それ自体で価値を持つとしても、他の価値を表す述語に対して、メタレベルにある述語であることを示している。

もっとも、真であるためには、それ以前に有意味でなければならない。だから、基礎から遡って分類するならば、次のように、有意味/無意味、真/偽、価値/無価値の区分を位置づけることができる。

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メディアの分類

有意味性と真理は、コミュニケーションの基礎を成す、その基礎の上で、価値の交換が、コミュニケーション・メディアによってなされる。文化システムにおけるコミュニケーション・メディアは言語であり、経済システムにおけるコミュニケーション・メディアは貨幣であり、法システムにおけるコミュニケーション・メディアは刑罰である。

コミュニケーション・メディアの各論は、次著の『社会システム論の構図』で詳述することにして、ここでは、コミュニケーション・メディアごとの違いよりもむしろ共通性を強調したい。本項の結論をまとめるなら、対称性の自発的破れによって、資本蓄積のポジティブ・フィードバックが作動し、高資本所有者が媒介的第三者となって、ダブル・コンティンジェントな社会的複雑性が縮減される。もっともコミュニケーション・メディアあるからといって、社会的複雑性が完全に縮減されるということはない。それは、貨幣が存在するからといって、市場経済に不確定性がなくなることはないことから明らかである。

社会システムは、存続し続けるために、安定的な現状維持とイノベーション、環境適応と変化適応という二律背反的な要求を満たさなければならない。だから、望ましい社会は、《秩序なき過剰な自由》である無政府状態と《自由なき過剰な秩序》である独裁統制社会の中間に位置し、それは市場原理に基づく経済、民主主義な選挙が行われる政治、自由な創作が認められる文化という形で、現在の先進国で実現されている。自由と秩序が両立する社会システムは、プリゴジンが言う意味での自己組織化する非平衡システムであり、そこでは、ダブル・コンティンジェンシーは、ある程度縮減されなければならないが、完全に縮減されてもいけないのである。

1.3. 第三項 オートポイエーシス

河本は、1995年の著作[36]で、フォン・ベルタランンフィの一般システム理論がモデルとしたホメオスタシス(恒常性維持)に基づく動的平衡系を第一世代システム、プリゴジンの散逸構造の理論がモデルとした自己組織化する動的非平衡システムを第二世代システムと名付け、マトゥラーナ、バレーラ、ルーマンたちがシステム理論のモデルとしたオートポイエーシスの機構を第三世代システムと位置付けている。だが、オートポイエーシスは、システム論にパラダイム転換をもたらすほど重要な発見なのだろうか。

その問いに答える前に、まずはオートポイエーシスとは何かの確認から始めよう。チリの生物学者、マトゥラーナとバレーラは、「循環的組織化[37]」という表現を生命システムの統一体を特徴づける用語として使っていたが、もっとフォーマルな用語で表現しようということになり、「自ら」という意味のギリシャ語「アウト αὐτo」と「創造」という意味のギリシャ語「ポイエーシス ποίησις」から「オートポイエーシス autopoiesis」という用語を合成した。そして生命システムとしてのオートポイエーシス・マシーンを以下のように定義している。

オートポイエーシス・マシーンとは、以下のような構成要素を生産(変換、破壊)する過程のネットワークとして組織される(ある統一体として定められる)。すなわち、その構成要素は(ⅰ)それらの相互作用と変換とを通じて、それらを生産する過程(関係)のネットワークを持続的に再生成し実現し、(ⅱ)オートポイエーシス・マシーンを、空間内で具体的な統一体として構成するが、その空間内で、構成要素は、そのマシーンをそのようなネットワークとして実現する位相的な領域を特定することによって存在する。[38]

この箇所だけを読んでも、よくわからないが、マトゥラーナとバレーラは、オートポイエーシスの「分子による具体化[39]」として、細胞を例に挙げ、「一つの細胞がオートポイエティックなシステムであることは、その生活環において、ことさら言うまでもないぐらいに明白である[40]」と言う。生活環(life cycle)とは、前の世代の細胞から次の世代の細胞までの核相のサイクルで、減数分裂による生殖がサイクルに入るとオートポイエーシスとは厳密には言い難くなるが、体細胞分裂による自己再生産は、オートポイエーシスと言うことができる。

もっとも、マトゥラーナとバレーラは、細胞のオートポイエーシスが体細胞分裂に尽きるとは考えていなかった。彼らは、細胞において位相的な領域を特定する過程として、「タンパク質の合成、酵素作用、選択的透過性[41]」が挙げており、RNA が DNA 上の塩基配列からタンパク質を合成したり、細胞が DNA 上の損傷を酵素作用で修復したり、細胞膜の選択的透過性によって細胞内の特定物質の濃度を維持するといったこともオートポイエーシスとみなしていることがわかる。

細胞のようなオートポイエティック・マシーンは、自分自身を再生産することで、環境から区別された自己という単位を自ら設定しているということができる。オートポイエティック・マシーンの対極にあるのが、アロポイエティック・マシーンで、自動車は自分自身を産出することはないし、故障が起きたからといって自分で直すことはしない。これと同じことなら、カントが時計を例にとって言っていた[42]が、それだけでなく、自動車とその環境の境界は、観察者が外的に設定しなければならないという意味で、他律的に生産されたシステムであるということができる。

以上を要するに、細胞の自己分裂、自己成長、自己修復、自己維持、自己設定が細胞のオートポイエーシスということだ。では、細胞という「ことさら言うまでもないぐらいに明白 trivially apparent」な例以外に、オートポイエーシスの実例はあるのか。ルーマンによれば、細胞に加え、神経システムや免疫システムがオートポイエティックなシステムである[43]。だが、長岡も指摘する通り[44]、これは誤解である。バレーラによると、「免疫システムは、境界を位相学的な意味で決定していない[45]」がゆえに、そして、マトゥラーナによると、神経システムは、以下の理由により、閉鎖システムではあっても、オートポイエティックなシステムではない。

いろいろな閉鎖システムがある。それらはすべて、それらに可能な構造的な諸状態を作り出す。例えば神経システムは一つの閉鎖システムである。しかし、神経システムはオートポイエティックではない。いかなる意味で、それは閉鎖システムであるのか。それは、諸活動の変化する諸関係のネットワークであり、活動の関係のどの変化も、そのネットワークにおける活動の他の諸変化につながる。しかし、神経システムはオートポイエティックでない。「オートポイエーシス」という概念は、非常に明確に生産の意味において定義されている。[46]

再帰的な閉じ(recursive closure)があっても、自己自身を生産しないシステムは、せいぜい自律性(autonomy オートノミー)しか持たないというのである。ニューロンは細胞だから、個体の誕生後すぐに細胞分裂を停止するとはいえ、オートポイエティックであるが、ニューロンが相互作用するネットワークとしての神経システムは、自分自身を生産していないから、オートポイエティックではないというのだ。たしかに、神経システムが神経システムを自己再生産するということはない。人間が生殖により、他の人間を生産することはできるが、減数分裂はオートポイエーシスとは言えないし、何よりも神経システムの自己再生産ではない。

マトゥラーナは、神経システムは閉鎖システムにすぎないと言うが、もちろんこれは熱力学的な意味での閉鎖システムではない。熱力学的には、オートノミー・システムはもとより、オートポイエティック・システムもまた閉鎖システムではない。ネゲントロピーを食べる、すなわち低エントロピー資源を取り入れ、高エントロピーな老廃物を捨てなければ、細胞は、自己再生産どころか、生きていくことすら不可能である。それゆえ、「オートポイエティック・マシーンにはインプットもアプトプットもない[47]」という命題は、熱力学的には正しくない。

では、オートポイエーシスやオートノミーにおける、再帰的な閉じとは何か。バレーラは、ある会議での質問で、再帰的な閉じとは、数学やコンピュータ科学における演算子に関する閉じと同じであると答えている[48]。数学的な例を一つ挙げると、整数は、加法、減法、乗法に関して閉じているが、乗法に関しては閉じていない。すなわち、整数どうしを足したり引いたり掛けたりしても、整数しか産出されないが、整数を整数で割ると整数以外の数が産み出される。体細胞分裂は、突然変異でも起きない限り、自分と同じものしか作らないので、再帰的な閉じがあると言える。

では、オートポイエーシスとは言えないオートノミーにおける再帰的な閉じとはどのようなものなのか。マトゥラーナは、ハトの網膜に行った実験で、光の外的な物理的刺激と神経システムの活動に対応を見出すことができなかった[49]ことから、神経システムのオートノミーを発見した。このことは、私たちの認識が、外界の忠実な模写ではないことを意味している。実際、神経システムは、知覚と幻覚を区別することは直接にはできない。

ルーマンや「オートポイエーシス・システムの論理は、神経システムをモデルにして組み立てられている[50]」と言う河本は、オートノミーをオートポイエーシスを取り違えているのだが、もしも、オートポイエーシスが本来の意味で理解されていたなら、この言葉がバズワード(意味不明だが、かっこよいからという理由でもてはやされている流行語)として流通することはなかっただろう。実際、生物学の分野でオートポイエーシス理論が影響力を持つことはなかった。細胞に関しては、「ことさら言うまでもないぐらいに明白」なことにすぎないのだから当然である。長岡は「もしもルーマンがオートポイエーシスを「誤解」していたのであるとすれば、ルーマンの全理論は腐った支柱によって支えられているということを意味しよう[51]」と言うが、本来の定義に固執することにあまり意味はない。

一般的に言って、用語をどう定義するかは、学者の自由である。学問において重要なことは、用語をどう定義するかではなくて、定義された用語で何を語るかである。マトゥラーナとバレーラは、生物学者らしく、空間的な境界を持つシステムの自己再生産に話を限定したが、境界が空間的であることが本質的ではないと考えているのなら、それを持たない意味システムによる情報の自己再生産に対してオートポイエーシスという用語を使うことも許されるだろう。そう認めた上で、オートノミーを含めた広い意味でのオートポイエーシス(以下、たんにオートポイエーシスと記す)は、それほど斬新なテーマなのかと問いたい。

哲学では、オートポイエーシス理論に近い認識論は、十八世紀に既にカントによって打ち立てられていた。カントによれば、認識とは物自体をそのまま受動的に模写することではなくて、むしろ超越論的統覚が能動的に超越論的客体を構成することである。カントにおける自己反省する超越論的主観は、認識のオートポイエーシスであると言うことができる。カントは『純粋理性批判』で、アプリオリな総合判断を基礎付けると同時に、理性の限界を示した。このことは、オートポイエティックな知の内的整合性と限界を同時に示したということでもある。

このことは、カントの哲学が、オートポイエティックに閉じていると同時に、開いているということでもある。ルーマンもオートポイエーシスの両義性を、次のように弁証法的に表現している。

閉じたシステムはただ開かれたシステムとしてのみ可能である。自己指示[Selbstreferenz]は他者指示[Fremdreferenz]と 結びついて初めて立ち現れる。[52]

カントは、超越論的弁証論において、理性的認識の不確定性を示した。不確定性とは、《他のようでもありうる》ことであるから、《不確定性の超越論的反省》は自己指示的であると同時に他者指示的である。『カントの超越論的哲学』で述べたように、超越論的哲学とは、主体としての Subjekt が主語(基体)としての Subjekt からそれとは異質な述語(現象=客象 Objekt)へと超越することを通して客体 Objekt から超越することであった。主体は現象から端的に超越してしまうわけではない。主体は超越しようとすることによって誤謬を犯し、その有限性を顕にする。即ち意識主体は超越することによって超越できなくなるのだが、また超越できないがゆえに超越しようとする。この超越可能性と超越不可能性の可能性の自己反省が超越論的意識である。

不確定性の超越論的自己反省は、本書第一章第二節で確認した通り、間主観性の認識を帰結する。「反-省 Re-flexion」は、語源的には後ろへと立ち戻ることを含意しているのだが、「反省の“後ろへと”関係付けることは、ここでは厳密な意味で関係付ける自我への関係付けではなくて、他ではあるが等しいものへの関係付けである[53]」。カントの哲学には、間主観性の議論が欠けていた。つまり世界に一つしかない超越論的主観を自称するオートポイエティック・システムは実際には複数あり、そうしたシステム間の関係が問題にされなかったのだ。

マトゥラーナとバレーラは、オートポイエティック・システム間の相互作用を問題と認識していた。彼らによると、オートポイエティック・システムは、カップリングをすることで相互作用をしている。「二つ以上の統一体の行為が、それぞれ相手の行為の関数となるようなときには常に[54]」統一体はカップリングをしていると定義される。他方で、オートポイエティック・システムどうし直接にではなくて、媒体を通してカップリングを行い、相互作用をする時、そのカップリングは「構造的カップリング[55]」と呼ばれる。

しかし、それなら、二つのオートポイエティック・マシーンがカップリングを行う時、一方が他方の関数かつ変数になるのだから、それは「オートポイエティック・マシーンにはインプットもアプトプットもない[56]」という命題と矛盾する。インプットもアウトプットもないシステムが、どうやって相互作用をするというのか。そこで、バレーラは、インプットやアウトプットがあっても、それはシステムのあり方を決定しないというように柔軟な解釈を提示するようになった[57]が、それなら、オートポイエティック・マシーンは、プリゴジンが謂う所の散逸構造と大して変わらないということになる。

ルーマンの社会システム理論では、心的システムと社会システムという意味システムはともにオートポイエティック・システムで、心的システムは言語を媒介として社会システムと構造的にカップリングしている[58]。社会システムの要素は、コミュニケーションであり、心的システムは、言語を媒介にして、コミュニケーションに参加できる。それにもかかわらず、ルーマンは以下のように、まるで心的システムがコミュニケーションできないかのような印象を与える主張をしている。

人間はコミュニケーションすることができないし、人間の脳ですらコミュニケーションすることができないし、意識ですらコミュニケーションすることができない。コミュニケーションだけがコミュニケーションすることができる。[59]

ルーマンの社会システム理論では、このように、社会システムのオートポイエーシスが強調される。ルーマンが、ダブル・コンティンジェンシーからどのようにコミュニケーション/社会システムが生成するかという問いを避け、「社会システムが存在するから、社会システムが存在する」というトートロジー的な議論に終始していることを指摘したが、ルーマンは、そのトートロジーをオートポイエーシスと称して、居直っているように見える。既存の社会システムを前提にし、その妥当性を疑おうとはしないルーマンの保守主義は、あまりにも官僚的で、視野が狭い。

ルーマンは行政官出身であるからなのか、かなり官僚的なタイプの学者である。官僚たちは、既存の法システムの妥当性を根源的に問うといった超越論的な問いを発しない。彼らは、そうした過剰な負担を免除され、自分たちの管轄の範囲内で、与えられルールに従って、課題に司々で対応する。官僚たちの頭を支配しているのは「ルールはルールだ」というオートポイエティックなトートロジーである。また、ルールとして明文化されていない事案に関しては先例が重視される。新しいアイデアを提案しても、官僚は「前例がない」と言って断る。官僚たちが前例を踏襲することで、慣習が慣習を自己維持し続けるというオートポイエーシスが自己目的に作動し続けるのだが、こうした官僚的なシステムのあり方は、本当に望ましいのだろうか。

オートポイエーシスに居直る不合理さを示す例を一つ示そう。日本国憲法の第89条には「この憲法は、国の最高法規である」旨が書いてある。憲法が憲法に言及しているのだから、これは自己言及だが、それ以上に自己正当化でもある。もしも「憲法は最高法規であって誰もこれは否定できない。なぜならば、最高の法規である憲法にそう書いてあるからだ」と主張するなら、それは循環論証であり、正当性のオートポイエーシスである。一般的に言って、権力は、その権力を用いることで、自分自身を維持するが、そうしたオートポイエーシスの循環は、内側から止めることができないように見えるが、外側からなら止めることができる。

私は、前項で、対称性の自発的破れ、ポジティブ・フィードバックによる格差の拡大、コミュニケーション・メディアによるダブル・コンティンジェンシーの解決について論じた。このうち、ポジティブ・フィードバックによる資本の増殖は、オートポイエーシスと表現することが可能かもしれない。しかし、高資本とそれに基づくコミュニケーション・メディアの社会的複雑性の縮減は、永遠不滅ということはない。オートポイエーシスの閉じた円環を超越した力によって、消滅することがある。生物学は、これを淘汰と呼ぶ。

マトゥラーナとバレーラが謂う所の神経システムのオートノミーは、養老孟司が謂う所の「バカの壁[60]」と同じである。「三つ子の魂百まで」とはよく言ったもので、人間の脳は、知りたいことしか受け付けないので、信念が信念を回帰的に補強する信念のオートポイエーシスが作動し、他人が本人にとって不都合な事実を示しても、その人の信念が揺らぐことはない。だから、「話せばわかる」は大嘘ということになる。「馬鹿は死ななきゃ治らない」という俗語にあるとおり、「バカの壁」の弊害を取り除くのは「死の壁」である。

もしも人間の脳が、さらには身体全体がいつでもゼロベースで変更可能なら、人間の個体は、種の保存という観点からすれば死ぬ必要がない。原初の無性生殖から有性生殖が生まれたのは、生命が変幻自在ではなく、オートポイエティックな硬直性が変化適応を妨げていたからだ。生命が生き続けるには、環境適応と変化適応という二律背反的な課題を解決しなければならない。それゆえ、生命は、有性生殖によって多様な個体を作り、変化適応の要件を満たし、淘汰により環境適応の要件を満たそうとするのである。

生物学者が淘汰と呼んでいる現象を経済学者は市場原理と呼ぶ。市場原理という言葉は、ふつう経済にしか使わないが、前項で、経済的交換も、法的交換も、文化的交換も同じコミュニケーションの構造を持つことを示したので、市場原理はあらゆる社会システムに適用できる原理と考えてほしい。生物学的な淘汰や、身体資本を交換する家族システムにも当てはまるものとしよう。このように広い意味で市場原理を解釈するなら、何が真理かは市場原理で決まるということができる。社会システムも含めた広い意味での生命システムは、自分自身の生存を究極目的としており、すべての真理は、この究極目的によって意味づけられている。それならば、市場原理に基づくサバイバルによって、真理は判定されることになる。

ルーマンは、市場原理にすべてを委ねるかどうかという問題以前に、目的論的な議論を拒否している。マトゥラーナとバレーラも、生命システムを理解する上で、目的論やテレオノミー(意識を持たない存在者に対する準目的論的な説明原理)は不要だと言っている[61]。オートポイエーシス理論は、プロセスの円環モデルを提示しているのだから、目的論やテレオノミーといった直線モデルを拒否するのは当然である。たしかに、生命システムは究極的には「生きるために生きている」という円環的なメカニズムで作動しているのだが、生き続けるためには何をするべきかは自明ではないから、知能を持った生命システムが目的論的な説明原理を放棄することはできない。目的意識もなく、オートポイエティックに複雑性を縮減しているルーマンの官僚的なシステム理論に、社会システムを抜本的に改革する視座を与えるべく、次節では、システム理論の目的論的な改作を試みる。

2. 参照情報

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  47. Maturana, Humberto, and Francisco Varela. Autopoiesis and Cognition: The Realization of the Living. Boston Studies in the Philosophy and History of Science, Vol. 42. Springer Science & Business Media. 1st edition 1973, 2nd 1980. p. 81. フォン・ノイマンは、自己複製するロボットとして、オートマトン(automaton)を構想したが、これは、インプットとアウトプットを持つという点で、オートポイエティック・システムとは異なる。
  48. Simon, Fritz B. Lebende Systeme: Wirklichkeitskonstruktionen in der Systemischen Therapie. Frankfurt am Main: Suhrkamp Verlag, 1997. S. 142-143.
  49. Maturana, Humberto R. “Eine biologische Theorie der relativistischen Farbkodierung in der Primatenretina.” In Erkennen: Die Organisation und Verkörperung von Wirklichkeit, Wissenschaftstheorie Wissenschaft und Philosophie. Vieweg+Teubner Verlag, 1985. pp. 88–137.
  50. 河本英夫. 『オートポイエーシス―第三世代システム』. 青土社, 1995. p. 153.
  51. 長岡克行. 『ルーマン/社会の理論の革命』. 東京: 勁草書房, 2006. p. 130.
  52. Luhmann, Niklas. Die Wirtschaft der Gesellschaft. 1988. Suhrkamp. p.15.
  53. Luhmann, Niklas. Soziologische Aufklärung Bd.1. Aufsätze zur Theorie sozialer Systeme. 1970. VS Verlag für Sozialwissenschaften. p.99.
  54. Maturana, Humberto, and Francisco Varela. Autopoiesis and Cognition: The Realization of the Living. Boston Studies in the Philosophy and History of Science, Vol. 42. Springer Science & Business Media. 1st edition 1973, 2nd 1980. p. 136.
  55. Maturana, Humberto, and Francisco Varela. Autopoiesis and Cognition: The Realization of the Living. Boston Studies in the Philosophy and History of Science, Vol. 42. Springer Science & Business Media. 1st edition 1973, 2nd 1980. p. xx-xxi.
  56. Maturana, Humberto, and Francisco Varela. Autopoiesis and Cognition: The Realization of the Living. Boston Studies in the Philosophy and History of Science, Vol. 42. Springer Science & Business Media. 1st edition 1973, 2nd 1980. p. 81.
  57. Varela, Francisco J. Principles of Biological Autonomy. Appleton & Lange, 1979.
  58. Luhmann, Niklas. Erkenntnis als Konstruktion. Benteli, 1988. p. 48.
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  60. 養老孟司. 『バカの壁』. 東京: 新潮社, 2003.
  61. Maturana, Humberto, and Francisco Varela. Autopoiesis and Cognition: The Realization of the Living. Boston Studies in the Philosophy and History of Science, Vol. 42. Springer Science & Business Media. 1st edition 1973, 2nd 1980. p. 85.