9月 041997
 

本章はこれまで、ルーマンが、機能システム論の目的論的解釈を拒否したために、価値や規範、さらには妥当性一般の問題を放棄せざるを得ないことを見てきた。この章を終えるにあたって、目的論に基づくシステム論はいかにして道徳的規範を基礎付けることができるのかを総括したい。

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1. 地平論または道徳的規範の形式的基礎付け

規範とは、特定の行為を選択(select)し、他の可能的行為を淘汰(select)する関数的=機能的(functional)な恒常性であり、規範の妥当性とは、かかる選択が間主観的に淘汰され無に帰すことがない、つまり選択が選択されている事態の謂いである。選択の選択は恣意的に成されるわけではなく、選択される自然の自然な nature(本性/性質)に依存している。

ところで思考も行為であるから、論理法則や言語規則や数学の定理もこの意味での規範であり、道徳規範は規範の一つに過ぎない。道徳規範に特徴的であること(他の規範に対する種差)は、それが他者の利益の尊重に係わるということである。だから「なぜ道徳的でなければならないのか Why be moral?」という問いは、なぜ私は、自分の利益を(あくまでも差し当ってはであるが)犠牲にしてまでも他者の利益を尊重しなければならないのか、という問いにパラフレーズされる。

もちろん道徳的葛藤が全て利己主義と利他主義の対立であるわけではない。「例えば、必ず磔に処せられることを知りつつ、村民のために暴虐な代官を暗殺しようとする場面では、他者の利害や功利性の追求という利他的動機が、[殺すな]という道徳の要求と衝突している」[大庭,他:道徳の理由,35頁]。しかし、もしも私が道徳的である必要がないのならば、つまりもし他の村民のために自分の生命を危険に晒さなくてもよいのならば、村民のために暴虐な代官を暗殺してもよいのか否かというさらなる問いは、現在のフランス王が禿げ頭か否かという問いが無意味であるのと同じ意味で無意味になる。したがって、利他ゆえの利己を制限する正当化が、道徳哲学にとって(すべてのとは言わないが)最も根本的な課題となる。

さて、“Why be moral?”という問いは、言語によって答えられることを予期している。道徳の地平は、言語が持つ本質的な制約、即ち普遍化可能性(universalizability)である。それゆえ“Why be moral?”の問いは、この問いを立てることによってあらかじめ解かれるべく方向付けられている。普遍化可能性のおかげで、“Why be moral?”が“Why should I be moral?”の省略なのか、“Why should we be moral?” の省略なのか、という本来重要であったはずの区別が重要でなくなってしまっているわけである。普遍化可能性は「私」をいかなる意識主体に対しても自分を指示するのに使うことを可能ならしめるので、「私」は容易に「我々」に転化されるからである。

普遍化とは、個別的指令の phrastic を、(1) 冠頭標準形が全称記号で始まり、(2) 述語記号が普遍的で、(3) 個体定項を全く含まない命題に書き替えた上で、それに命令 の neustic を付与する操作のことであるが、利他性を否定した利己主義の指令も、利己性を否定した利他主義の指令も、普遍化されると自己矛盾を犯すことになる。

取るに足らない額とはいえ、すきあらば脱税をやっている小市民も、憤然として大物政治家の脱税事件を非難するものだが、おのれの云為が言語の明るみに出されるやいなや、「脱税はしてもかまわない、かつしてはならない」という自己矛盾に苦しむことになろう。信者に主体性と利己心の放棄を説教しながら、そのことによって私腹を肥やす宗教家の場合などに見られるように、他者に極端な利他主義を説くことが、不当な利己主義の裏返しであることはよくあることである。普遍化を通して利他主義と利己主義の均衡がとれるとき、社会全体の、と同時に社会の各成員の利益が最大限保証されることは簡単に理解される。

“Why be moral?”は、しかしこのような常識的なことを尋ねているのではなかったはずである。この問いは、「密室での実害なき」[t] 反道徳的利己的行為をなぜしてはいけないのか、という [私] が抱く前言語的な疑問である。[私]とは、超越論的意識ではない個別的な経験的意識であるが[h]、他ではないこの自分を指すのに使われる・普遍的な概念ではない・本来言語によって表現できない概念である。無意識が他者であるように、[私]は「私」の他者である。言語が個別性を示すために作ったディヴァイスである「イマ・ココ」も、時空体のいかなるポイントをも指示しうるから却って最も普遍的である、という言い古された議論を想い起こすまでもなく、個別性は言語の外部にある。言語は自分の外部を語ることはできないが、自分の地平(限界)を内部から示すことができる。言語の限界が世界の限界である。言語以前の物自体は無意味であって、有意味性の諸可能性の総体としての世界の彼岸にある。

[t] 土屋貴志氏は、大庭氏が当初「密室での実害なき違反」を想定しておきながら、結論部において、それが人の間の解体や社会のアノミー化をもたらす他人の尊厳を踏みにじる生き方だとしたことを「フェアでない」と批判する[大庭,他:道徳の理由,32頁]。しかし大庭氏が問題にしていたのは「密室でかつ実害のない違反」ではなくて、「密室で自分ひとりだけでするがゆえに実害なき違反」逆に言えば、「密室でではなくて、公的な言説で語られ、普遍化されるならば大いに有害な違反」であったのだろう。例えば何十万人という利用者がいる鉄道で、私一人だけが誰にもわからないようにキセルをしても(私にとってのみならず、鉄道会社にも)実害はない。しかしもし多くの人が、あらゆるチャンスを利用してキセルを試みるならば、もはや実害なしとは言えない。にもかかわらず私は、先の指令の普遍化可能性のために、この有害な帰結を許容することにコミットせざるをえないのである。

[h]ここでエゴイズムに関係して、永井均氏の[私]論についてコメントしたい。

  1. 永井均氏が認めるように、氏の[私]論は、「私がいわんとすることを読者が理解したときには、すでに客観化の一段階が起こっている、という意味で、本来は伝達不可能なことがらである」[永井均:[魂]に対する態度,224頁]。したがって、[私]について本を書くこと自体が(不特定多数の読者が自分にとって自分が[私]であり、したがって[私]論に興味を持っていて、この本を買ってくれるであろうことを前提しているという点で)、すでに“頽落”である。永井均氏は同書のはしがきの中で、「私は「謝辞」という風習を好まない[…]私的な援助[…]に対して公共の場で「お礼」を言うのはどこか慎みを欠いた下品な振舞のように感じられる」[永井均:[魂]に対する態度,8頁]と書いているが、二冊もの本まで書いて「公共の場で」絶対的に私的な[私]について論じることも「どこか慎みを欠いた下品な振舞」だと感じないのであろうか。
  2. もし「私的」の意味が違うと氏が反論するならば、その反論もまた頽落の始まりである。著作の中で論じうる[私]、たまたま永井均であったりエリザベス2世であったりする・隣人を持たない[魂]とは、要するに近代哲学で謂う所の超越論的意識・意識一般であって、氏が当初考えていたはずのこの[私]ではない。
  3. 他の[私]ではないこの[私]は、永井均氏の経験的な記憶的連続体から不可分である。[私]が永井均氏から幽霊のように離脱して、「[私]はこの宇宙に存在しないことも可能であったはずだ」などと想像すること[永井均:[私]のメタフィジックス,88頁他]はナンセンスである。意識は、存在しないなら想像することもできないからである。意識は、システム論的に言って、物質界のエントロピーを増大させてはじめて自己組織化するネゲントロピーであるから、レアールな定在を持たないことは不可能である。もし永井均氏が[私]であることをやめて、その後に同じ記憶的連続体をある「私」が引き継ぐならば、デカルトの連続的創造説を援用するまでもなく、その「私」は [私] になる。[私]が永井均氏の記憶的連続体を捨てて、エリザベス2世に“乗り移る” という一見オカルト的な想像も、実は永井均氏にとって永井均氏が「私」であるように、エリザベス2世にとってはエリザベス2世が「私」であるという当然事の確認を別の表現にしたものに過ぎない。結局《私》は、言語の内部では隣人を持たない超越論的意識であるか、隣人を持つ経験的意識であるかのどちらかであって、[私]は言語の外部に求められなければならない。

世界とその外部とを区別する地平(Horizont)とシステムとその環境とを区別する境界(Grenze)は、区別されるべきである。前者が有意味/無意味の選択であるのに対して、後者は有意味性の地平において初め て可能となる真/偽の妥当性に関する選択である。道徳に話を限定する ならば、悪に対して善を選択する機能=関数が道徳的な人格システムであり、いかなる善/悪の区別が妥当であるかを選択する機能=関数がメ タ倫理学的な判断システムである。倫理的な無意味である狂気は、悪なのではなくて善悪の区別そのものの否定であり、地平の外部(善悪の彼岸)にある。法律的にも狂人は、悪しき犯罪者としては処罰されず、精神病院という《我々》の外部へと排除されるのである。

但し、非道徳的に行為すること自体は狂気ではないし、物理的な出来事として矛盾を含んでもいない。非道徳的な行為・他者からされたくはないけども、自分はやりたい行為・(普遍化によって人称的差異を抹殺して表現すると)すべきではないがする行為、ここに矛盾を認めないとき、およそ区別する能力(分別)を持たないとき、それは狂気と呼ばれる。フロイトも主張するように、無意識には矛盾律は適用されない。理性(道徳的言説)の光に照らされてはじめて矛盾があらわになり、“良心の呵責”が始まる。[私]は私の他者であるから、道徳規範を犯して非難される人は、部下の失敗の責任を負わされる上司に喩えられる。

理性とは、普遍的な意味(選択)の能力であるが、意味の示差性のゆえに区別の能力でもある。区別する能力(理性)は区別しない能力(狂気)から区別する能力を区別するが、区別しない能力は区別する能力から区別しない能力を区別しない。この非対称性が理性の狂気に対する優位の全てである。我々は有意味/無意味の区別を通して理性の地平を確 定した。これが道徳的規範の形式的基礎付けである。次にこの地平の内部で善/悪の区別について考察する。

2. 目的論または道徳的規範の実質的基礎付け

目的論は、行為者は常に目的志向的に行為すると主張する行為論 的な説明の理論ではない。我々行為者は、むしろ差し当りは、習慣・気分・感情で行為を選択することが多く、常に目的を意識しているわけではない。しかし選択の妥当性が怪しくなったとき、人は目的概念に訴えなければならなくなる。目的論的倫理学の理念は、厳密な学としての倫理学である。

道徳規範の基礎付けへとひとを動機付ける状況として、(1) 後悔と(2) 他者への説得の二つを考えることができる。後悔には規範に従わなかったゆえの後悔のみならず、規範に従ったゆえの後悔もあろう。後者の場合、たんに規範を変更するだけのこともあるかもしれないが、後悔の過去-現在関係は、現在-未来関係へと予持的に転化されることによって、規範への懐疑と基礎付けの必要性を生じさせる。時間とは他なるものへの変化であるから、後悔によって動機付けられた、現在遵守している規範の基礎付けとは、未来における「私」という可能的他者に対する説得である。

このように考えるならば、(1)の時間における可能的他者性の排除であれ、(2)の間主観性における可能的他者性の排除であれ、道徳規範の基礎付けへと人を動機付けるのは、「私」の行為企投が《他のようでもありうる》不確定性に晒された時であることがわかるであろう。可能的他者性が排除され、《他のようではありえない》必然性が得られたとき、規範は基礎付けられたことになる。後で明かになるように、基礎付けとは複雑性を縮減する複雑性の縮減なのである。

二階の複雑性の縮減は後で論じることにして、まず一階の複雑性の縮減から見て行くことにしたい。行為の妥当性に関する《他のようでもありうる》複雑性は、その行為が目的(欲求されている事態)に適合していることを示すことによって縮減される。もちろん我々は、最初に言ったように、伝統的な価値観や感情や規則とは意識されない規則(習慣)に従って行為決定することもある。しかしその妥当性が他性によって脅された時、やはり我々は目的に訴えざるをえないのである。

規範の基礎付けにあたって、価値から出発すべきか、当為から出発すべきかをめぐって倫理学上の立場が別れるのであるが、どちらも目的概念によって説明されるべき与件である。価値とは目的への適合性という関係概念であって、行為や事態が内在的に持つクォリティではない。するべき行為の目的はポジティヴな価値を持たなければならないと通常考えられているが、目的が価値を持つということは、その目的がより高次の目的への適合性を持っていることに他ならない。このような制約-被制約の系列を遡及して行け ば、それ自体において欲求されている(もちろん副次的に他の目的の手段であっても構わない)最終的諸目的(およびそれと相関する諸欲求)を見出すことになるであろう。これら最終的諸目的を整合的に最大限実現することが究極目的であると概念分析的に判断してよいであろう。

ところで、最終的諸目的を整合的に最大限実現するのはシステムであるから、システムの維持発展が究極目的であると結論付けることができる。この究極目的は、システム論的に定式化すれば、複雑性の増大による複雑性の縮減であり、これが全ての価値と当為の判定基準となる。

欲望を満たすことは、空白を満たすことに喩えられるが、空白を満たす(複雑性を縮減する)ためには、あらかじめ空白を作って(複雑性を増大させて)おかなければならない。自分の欲望に空白を感じない存在者は欲望を満たすこともできないから、そのような存在者は幸福でも不幸でもないであろう。しかるに我々非平衡システムは、無秩序へと向かう自然の流れに抗して秩序化を行わなければ存立することができない、というよりもこの秩序化機能そのものである。

ここでパラドキシカルなことは、究極目的には、したがって目的の総体には価値がないということである。「物質全体が重くないように、認識の全体は《真理》ではないであろう」[Simmel: Philosophie des Geldes, S.68] し、同様に、目的全体にも価値がないのだが、だからといって重さなるファイノメノンがないわけではないように、価値なるファイノメノンも存在しないわけではないのである。よりパラドキシカルではない表現をすれば、欲求を満たす物には価値はあるが、欲求そのもの(あるいは欲求を満たすことそれ自体)には価値はないのである。このことは価値の基礎付けに関して次のことを示している。即ち、現相レヴェルで我々が感じている価値の背後に《真の価値》《本当の善さ》があるわけではないということである。全ての欲望を消し去った所に、心の安らぎと真の幸福があるなどという説教に、我々はもはや耳を傾ける必要はない。欲望を否定するのも欲望であり、我々は欲望という道徳の質料を越えることはできない。

もっとも、もし直接的な欲望を全面的に肯定するだけならば、規範が文法的に不可能になってしまうと考える向きもあるかもしれない。当為は直接的所与性の超越を要求する。但しそれは欲望の超越ではなくて、欲望における超越である。「欲望を満たしてもよいのであろうか」という疑問が消滅しても、なお「どのように欲望を満たせば、欲望を満たすことがさらに可能となるのか」という未規定性の地平が残る。

以上の議論に対しては、すでに大庭氏から「複雑性概念のインフレ」という評を頂いているが、実際私の解釈ではどのような行為を行おうとも、それは複雑性の増大による複雑性の縮減であるから、これだけでは行為選択の基準にはならない。我々の究極目的は、人-間システムの維持発展であったから、するべき行為とは、その複雑性の増大による複雑性の縮減が、さらなる複雑性の増大による複雑性の縮減を可能ならしめるようなオートポイエーシスを持った行為でなければならない。悪しき行為は、システムの存立を危うくし、その悪しき行為をすること自体が不可能になる。

なお行為の様々な可能性という点で、善い行為しか存在しない世界よりも悪い行為も存在する世界のほうがより多くの複雑性を持つのだが、[善い行為を選ぶ=悪い行為を選ばない]ことは、その複雑性を縮減するがゆえに善いのである。もし始めから悪い行為の可能性がないのなら、「善い行為」は「善い」という価値を持たないであろう。増大させた上で縮減するという一見無駄な迂回を重ねること(ヘーゲル謂う所の、疎外とその克服を通しての教養のプロセス)が、分化と文明の全てなのである。

最後に、我々の目的論的倫理学が、功利主義(目的的倫理学)ではない、つまり超越論的であって経験的ではないことを付け加えておこう。感覚が錯覚しうるように欲求も錯覚しうる。もし当為命題の確実性を得ようとするのであれば、従来の功利主義がそうしたように、直接的な欲求の充足を所与の目的とみなしたうえで、それの手段を探すのではなくて、直接的所与性を越えてその根拠を問わなければならなくなる。そもそも「最大多数の最大幸福」という概念は無規定的であり、「幸福」なり「快楽」なりは欲求にとって派生的であって判断の理由にはなりえないのだから、この概念は選択の基準にならないし、正当化の根拠にもならない。欲求を満たした結果ではなく、欲求の志向内容へと目を転じるとき、快楽の数量的計算(それは技術的に不可能である)ではなくて、目的の概念的な推論への道が開かれるのである。

だがこれだけではまだ目的論的倫理学がなぜ超越論的であるかの説明にはなっていない。超越論的とはそもそも二階の反省規定であるから、この問題は次節で扱う二階の選択である淘汰の問題として残しておくことにしたい。

3. 淘汰論または道徳的規範の究極的基礎付け

淘汰を通して悪しき存在者は滅び、善き存在者は生き延びる。なぜならば善き存在者とは、定義的に生き延びうる存在者であるからだ。外在的原因によって、生存能力がない存在者がたまたま生き延びることもあるが、長期的に生き延びる例外は、統計学的に見て無視しうる数である。ニーチェが言うように、全ては権力への意志である。「生自身が権力への意志であるとするならば、生には権力の度合い以外には、価値を持つものは何もない」[Nietzsche: Wille zur Macht15] [w]。淘汰は、すべての存在者が生き延びようとすることによって、生き延びようとすることが生き延びるというオートポイエーシスを帰結する。つまり《妥当性のサバイバル》と《サバイバルの妥当性》の間に相互産出的な共犯関係があるのであって、「いかなる主張であれ、生き残ることがそれの妥当性だ」という主張の妥当性は、その妥当性を主張する存在者が生き残ることによって生き残るのである。

[w] この『力への意志』は、Peter Gast と Elisabeth Foster-Nietzsche が、ナチスに迎合するために、ニーチェの遺稿を改竄的に編集したものであって、ニーチェの思想を忠実に表している本ではないことをここで断っておかなければならない。

もし今、生き延びることを欲しない存在者が現れて、「なぜ淘汰され死に絶えることが悪なのか」と我々に反論したならば、彼を納得させるような論証をすることは極めて困難(恐らく不可能)であろう。しかし我々は、この「なぜ?なぜ?」としつこく迫り寄る反論者と真面目に議論して、その異論を論駁する必要はない。なぜならば仮定からしてそのような存在者は生き延びることを欲しないので、放っておけばその存在ごと消えてなくなるからである。

とはいえ、淘汰論は弱肉強食の熾烈な競争社会をイデーとして提示しているわけではない。「淘汰」の概念はもっとニュートラルなものである。もし弱者の互助的な集団主義が強者の「孤高な」個人主義を打ち負かすことに成功するならば、前者のほうが後者よりもより大きな競争力を持つと言わなければならない。また我々の淘汰論をナチズムの優生学的選民思想などと混同するべきでもない。ナチズムの進化論は第二次世界大戦という「生存競争」で淘汰されたのだから、今日の淘汰論がこれに範を仰ぐはずはないのである。

このように淘汰概念が内容空虚であるがゆえに、いかなる選択が選択されるかは、どのシステムにとっても不確定に留まる。一者が全てをではなくて、全てが全てを確定するがゆえに全ての要素にとって全てが不確定である。しかしどの要素もそれが要素である限り全てに関与する。

このように淘汰は不確定性の地平において成されるのであるが、これは妥当性に関する不可知論(基礎付けの放棄)を直ちには意味しない。まず我々は、一階の選択(目的論的判断)においてある程度の合理的な議論ができる。だが話し合いによる解決が破綻したとき、そこから先は力と力の勝負である。それでも、二階の選択(淘汰)は恣意的に成されるわけではなく、合目的的な秩序を持つ。選択を選択する規定契機が、自ずと然るべく自己組織化する超個体的権力秩序=《nature》であることの洞察が超越論的目的論である[o]。

[o] ここで謂う所の「自ずと然るべく云々」は、大庭氏がつとに嫌悪感を吐露しているスメラ倫理のことではない。私が念頭に置いているのは、例えば「腐った権力は、権力の本性から自ずと崩壊する」というような事態であって、もっと具体的にイラストレイトすれば、ヤミ献金を受け取る/受け取らないという選択肢の内から前者を選択する政党が、選挙なる選択を通して淘汰され、政権の座から降ろされるといったことがらである。大庭氏は「《権力》とは、もはや『アレが諸悪の根源なるケンリョクだ!」という仕方で指示しうるような、『アレさえ倒せば一切は … !』と扇動できるような、外的な単一の威力という形では問いがたい。《権力》は、死を強要するオカミの超越的な威力であるよりも、むしろ、各自の生を保証する内在的・相互的な影響力へと、いったん は微分された」[大庭健:権力とはどんな力か,6頁]と述べ、フーコーを台風の目とする現代の権力論に理解を示しながら、「いったんは微分された」が,場合によっては積分される[権力=我々を抑圧する諸悪の根源]という左翼的偏見から脱し切れずにいる。

超越論的哲学とは、認識の自己吟味を通して、対象の認識に先立って、つまりアプリオリに認識の可能性の制約(自然の合規則性=合目的性)を反省する学である。カントにおいてすでに目的論は統制的原理として立てられていた。もし自然が全くでたらめな無秩序であるとするならば、普遍的な能力を持った理性的存在者は生き延びることはできなかったであろう。そして超越論的観念論のテーゼから、もし《我々》が存在しないなら、意識の相関項である自然(超越論的客観)も存在しないということが帰結する。しかしまさに我々理性的存在者が存在するがゆえに、自然の合目的性は想定されうるのである。

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