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システム論序説(08)複雑性と進化の関係

1997年9月4日

システムを進化させるのは、複雑性の増大による複雑性の縮減である。この命題の意味を、物質システム、意味システム、社会システムの三つのレベルにおいて、確かめよう。

『システム論序説』の画像
このページは電子書籍『システム論序説』の一部です。

ルーマンは、ウェーバーやフーコーなどとは異なり、具体的な歴史研究はほとんど行っていない。ルーマンは、パーソンズの社会進化論の影響を受けて、社会システムの進化あるいは進歩についての考察も行っているが、抽象的で内実に乏しい。ルーマンの本領は理論の構築であって、歴史の分析ではない。社会システム研究者で、これと対照的なのは、ウォーラーステインである。ルーマンが、社会的現実が複雑だからという理由で、社会的複雑性の理論を構築したのとは対照的に、ウォーラーステインは、社会的現実が複雑だからという理由で、社会的複雑性の理論の構築を拒否した。

複雑な現象に対して十分なあるいはもっともらしい説明を構築し、ある理論に到達したと宣言することは、早すぎる囲い込みを科学の活動に強要するので、反生産的になりかねない。現実がより複雑であるほど、これはより真実になる傾向がある。そのような場合、理論的な勘を与えはするものの、それによって拘束されることのない眼鏡を使って、経験的な現実を探求する方がしばしばよいと私は信じている。これは、大規模かつ長期にわたる歴史的なシステムの説明の場合には特に顕著に当てはまる。そういう仕事をするために、私が世界システム理論の名称に長く抵抗し、その代わりに世界システム分析に携わっていると主張するのは、そのためである。[1]

ウォーラーステインが依拠するシステム理論は、プリゴジンの非平衡システム理論である。プリゴジンのシステム理論を自然科学以外の分野に応用することは、早すぎるというのだろうか。早すぎるという理由で、適応範囲を自然現象に限定する方がよほど「早すぎる囲い込みを科学の活動に強要する」ことになるのではないのか。本章のテーマは、システムの歴史に普遍的に適用可能な理論があるかどうかである。

ルーマンとウォーラーステインのもう一つの違いは、政治思想的なポジションである。ルーマンは、政治と学問の機能分化に忠実で、自分の政治的立場を明示することはないが、第三者的に見ると、保守主義に属するとみなすことができる。これに対して、ウォーラーステインは、リベラル、あるいはもっとはっきり言って、社会主義者で、著作においてもその思想的立場を打ち出している。

その点では、ルーマンのウォーラーステインに対する関係は、ドイツ国内におけるハーバマスとの関係に似ているが、ウォーラーステインは、ハーバマスのようにコミュニケーションの重要性を主張するということはない。ウォーラーステインは、戦争を全面否定して、何でも「話し合い」で解決しようと言う現代日本の平和主義的左翼とは異なり、現実主義者で、階級闘争はゲバルトで解決するしかないという考えである。

そうした考えは、マルクス以来、社会主義者の主流だったのだが、ウォーラーステインが従来の社会主義者と異なるのは、階級的な支配関係を一国内の資本家階級と労働者階級との関係のみならず、覇権国家と従属国家との服従関係、あるいは先進国と途上国との間の南北関係にまで見出し、国家間の戦争までも階級闘争として肯定的に見ていることだ。国内の階級関係が、しばしば垂直的なヒエラルヒーの関係でイメージされるのに対して、ウォーラーステインは、覇権国家と従属国家との服従関係を中核と周縁という地政学的なイメージでとらえている。

ルーマンも、「伝統的社会が高度の文化へと進歩していくと、それらはヒエラルヒー的に、あるいは中心/周縁という形で、あるいは大抵は二つの原理の結合によって差異化された[2]」という認識を持っていたが、階級闘争という問題意識は持っていなかった。ルーマンにとってシステムの差異化はシステムの進化であって、肯定されるべきものだったのだ。

本章では、以下、第一節でルーマンの進化理論を批判的に分析し、進化とは何かをシステム論的に考察する。第二節と第三節では、ウォーラーステインの世界システム分析を取り上げ、保守主義ともリベラリズムとも異なるリバタリアニズムが、つまり格差の固定でも格差の否定でもなく、市場原理に基づく格差の流動化がなぜシステムの進化にとって必要なのかをシステム論的に明らかにする。

1. 第一節 複雑性と進化の関係

現代(近代 modern)社会は人類文明の進化と進歩の帰結である。だがその際、何を基準にして進化や進歩を語るのか。ルーマンによれば、それは「社会の複雑性[3]」である。複雑性の増大が進歩であるという命題は、差し当り分業化(機能的差異化)などのシステムの差異化を考えれば、常識的に理解されうる。「しかし差異化は、複雑性の増大であるのみならず、それと同時に複雑性の縮減の新しい形式を可能ならしめる[4]」とルーマンは言う。それゆえ近代化ないし合理性の問題とは、「いかにして複雑性の縮減を通して理解可能な複雑性を増大することが可能であるか[5]」と定式化される。

この定式の意味するところは、複雑性概念のあいまいさのゆえに、おそらくルーマンが考えている以上に複雑である。我々としてはこの複雑性を縮減しなければならないのだが、縮減する前にあらかじめ複雑性を増大しておかなければならない。ルーマンを越えるステップは、視野を社会システムからシステム一般へと拡大するところにある。ルーマンは、「複雑性の縮減を通しての複雑性の増大[6]」の事例として次の三つを挙げている。

[一つは]トーマス・ホッブズの政治理論、すなわち社会と権利[Recht 正義]の政治的規約とそれに基づく文明の諸可能性の前提として、自由な暴力の使用を放棄することである。もう一つの事例は、ある言語における文構成の<主語-述語-構造>であり、その言語は、この<主語-述語-構造>を持った言明にある縮減を強制し、そしてまさにこのことを通して、ある主語についての可能な諸言明の増大を、それゆえ一般化を可能ならしめる。たんに語の選択のみならず、それを越えてさらに命題述定的に語られた言語シンボルの意義側面の文法的に強要された選択性が、はじめて言語シンボルの意味[Sinn]を、そのつど顕在化されうる意義[Bedeutung]以上に濃縮させる。もう一つの例を私は、無関心から区別された寛容の特殊な徴標を、自分の堅持する見解のゆえの他者の見解に対する開放性として解釈しようとするアクセル・ゲーリングの試みから取る。[7]

この三つの事例のうち、二番目の真理の複雑性については本節の第二項で、一番目と三番目の(暴力か寛容かの違いはあるが)権力の複雑性については第三項で検討することになる。しかしその前にもっと根本的なところで、物質システムにおける複雑性について考えなければならない。

ルーマンのシステム論の対象は、社会システムあるいはせいぜい心的システムといった意味システムであり、物理化学的/生物学的/サイバネティックス的システムは射程外にある。「エントロピーや均衡といったサイバネティクス的概念が、社会学的に有効な複雑性の概念を提供するかどうか、それと連関する数学的な情報理論が社会システムに引き継がれるか否か[ … ]は、未決定にしておいてよい[8]」と言うルーマンの問題関心は狭い。特に《複雑性の縮減による複雑性の増大》あるいは同じことなのだが、《複雑性の増大による複雑性の縮減》は物質システムと意味システムの両方に見られる現象であるから、両者がレヴェルを異にすることをわきまえた上で、両者の類似性と関係を明確にする必要がある。以下本節では項を

  1. 物質システムにおける複雑性の増大による複雑性の縮減の解釈
  2. 意味システムにおける複雑性の増大による複雑性の縮減の解釈
  3. 社会システムにおける複雑性の増大による複雑性の縮減の解釈

の三つに分けて、順次分析を進めていくことにする。

1.1. 第一項 物質システムにおける解釈

複雑性の対数表現がエントロピーである。エントロピーは、もともと1865年にクラウジウスによって、システムが受け取った熱量(J)÷ システムの絶対温度(K)、すなわち、微分形式で表すと、dS=dQ/T と定義された熱力学的概念である。熱が移動する時、必ずエントロピーは増大する(厳密に言えば、減少しない)。例えば熱湯と冷水を混ぜ合わせると、熱湯システム(A)は熱を与えるのでエントロピーは減少するが、冷水システム(B)は熱をもらうのでエントロピーは増大する。しかし全体として、エントロピーは必ず減少しない。これが熱力学の第2法則である。dS を A から B まで積分することは、

式26. 画像

と表現される。なお等号は可逆過程、不等号は不可逆過程の場合である。

Q は、圧力Pの気体をVからVへ膨張させる(V2>V1)仕事量と表現することができる。ゆえに、

式27. 画像

となる。式27に気体の状態方程式 PV=nRT、すなわち P=nRT/V を代入すると、

式28. 画像

となる。したがってエントロピーは、式28を T で割って、

式29. 画像

ということになる。分子数をMとすると、これは、分子量(n)にアボガドロ定数(NA=6.02…×1023)をかけた値、すなわち、M=nNA であるから、これを 式29に代入すると、

式30. 画像

ここで、式中の R/NA をボルツマン定数kで置き換えると、

式31. 画像

となるが、(V2/V1)M=W は、体積をV1からV2へと膨張させた時のM個の分子が存在しうる諸可能性、すなわち複雑性の増大を表わしており、エントロピーとはこれを真数とする自然対数である。S=klnW、これがルートビッヒ・ボルツマンの定義である。水に熱を加えると、クラウジウスの定義からしてエントロピーは増大するが、その時水分子の運動は乱雑となり、ある瞬間に水分子がどこに存在するのかという不確定性も増大する。歴史的にはクラウジウスの定義のほうが先なのだが、むしろボルツマンの統計力学的定義のほうが原理的であると考えたい。その方がエントロピーの概念を非熱学的分野に応用することができるからである。

熱力学の第二法則によれば、宇宙のエントロピー(複雑性)は増えることはあっても減ることはない。部分系のエントロピーが減少することはあるが、それは環境におけるさらに大きなエントロピーの増大によって可能となるのである。ところでシステムとは、選択を通して複雑性を縮減する機能のことであるから、システムが《自己を維持する=環境との境界を維持する》時、環境における複雑性の増大が手段となっているかどうかを問わなければならないのだが、これがまさに本節の課題であった。

物質系や生命系のシステムに関しては《複雑性の増大が複雑性を縮減する》ことの解釈は容易である。生物は、生命なる非平衡定常状態を維持するために、外部から得たエントロピーと非可逆的過程によって生じたエントロピーを外部に捨てなければならない(つまりネゲントロピーを摂取しなければならない)。物質システムについて例を挙げれば、室温を外界よりも低くするためには、クーラーの製造と運転が、つまり石油の燃焼によるさらに大きな量のエントロピーの生成が必要である。産業革命以降の人類文明の飛躍的発展は、一言で言えば石炭/石油などの化石エネルギーの消費によるエントロピーの縮小なのである。生物による複雑性の縮減を可能ならしめる複雑性の増大の起源を辿って行けば、太陽での核融合によるエネルギーの散逸に求めることができる。もっとも石油は生物以外の起源も考えられているし、地熱発電等を考えれば、地球もまた低エントロピー性を持つと言える。そこで人類の経済活動の第一次資源は太陽光線と地球の地下資源である、と考えてよい。

人類はこの第一次資源を加工して商品を作るのだが、電気・金属・金属製品と第二次・第三次 … 資源と進むにつれて、資源性価値(商品としての価値)は増大し、資源性(低エントロピー性)は減少する。但し単純に後者が前者になるわけではなく、「永久機関」が不可能である所以なのだが、《消費された資源性-生み出された資源性価値=無駄に生じたエントロピー》は、以下の図に示したとおり、資源性価値を生み出していく工程の進展に伴って累積的に増大する。

画像
「資源性+資源性価値」逓減の法則[9]

要するに熱力学的観点からすれば、生産も消費もエントロピーの増大(工程の廃棄物や人間の排出物の蓄積)によるエントロピーの減少(資源性価値の増大による商品の生産/商品の消費による人間システムの維持・発展)という点では同じなのである。このことは、消費によって“生産”された人間が、さらに人材なる資源として生産過程に投入されることからも納得がいく。

マルクスは既に次のような認識を示している。

労働者の消費には二種類ある。生産そのものにおいて、労働者は自分の労働を通じて生産手段を消費し、それを前貸しされた資本より高い価値を持った生産物に変換する。これは労働者の生産的消費の方である。それは同時に、労働力を購入した資本家による労働力の消費である。他方で労働者は、労働力の購入と引換えに支払われた賃金で生活手段を使用する。これは労働者の個人的消費である。[10]

だがマルクスは、この後すぐに「それゆえ労働者の生産的消費と個人的消費は全く異なる」と述べている。資本家のもとでの搾取的消費と労働者の本来の消費とを区別しようとする意図があったのだろうが、資本主義に対するマルクス主義的偏見を取り去って見れば、どちらも同じ《生産的消費=消費的生産》である。

資源性価値は、マルクス経済学の用語で言えば、使用価値から区別された、抽象的人間労働の反照的規定たる商品価値に相当する。オムレツは生卵よりも、玉子の成分に関してはエントロピーが大きいが、どちらが一般に使用価値が大きいかは不確定である。ただ確実なのは、オムレツのほうが生卵よりも人間労働による付加価値が大きいので、オムレツの材料の単価の総計よりも高い市場価格が付くであろうことである。オムレツや生卵が腐ればさらにエントロピーは増大するが、市場での価格はほぼゼロになる。要するに、商品の物理的エントロピーだけ見ていてもそれの市場での価格は分からないのであって、かくして我々には別のシステム・レベルでの複雑性概念が必要となる。

マルクスは価値形態論において、使用価値と使用価値の交換価値から価値の生成を説明するが、蓋し商品の価値は、《自分が売ろうとしている商品を買おうとしている他者が、私が買おうとしている商品を売ろうとしているか否か》というダブル・コンティンジェントな物々交換における相互行為の複雑性を、コミュニケーション・メディアとしての貨幣がいかに縮減するかに依存しているのである。だがこの社会システムにおける複雑性の縮減については、第三項で扱うべきである。

1.2. 第二項 意味システムにおける解釈

原始宇宙には、粒子と反粒子が同数ずつあったはずだが、CP 対称性の破れにより、物質は反物質を上回り、宇宙は《構造=かたち》を持つに至った。この《かたち=形相》を可能ならしめるのが《情報 In-formation》である[11]。宇宙の全てのシステムは、程度の差こそあれ不完全に(つまりそれぞれのパースペクティブから)宇宙全体を写し出すモナドであり、意味なきカオスに心的システムが恣意的に意味付与をするわけではない。物質システムが意味を持つだけであるのに対して、情報システムはそれを理解するという違いはあるが、このことは直ちに物心二元論を帰結せず、人間以外の動物・生物という中間形態があることから分かるように、あくまでも両システムはモナド的に連続している。

では物質システムと情報(意味)システムの違いはどこにあるのか。これから説明するように、意味システムもまた、エントロピーを増大させることによってネゲントロピーを産出する。しかし物質システムの場合とは異なって、システム/環境を物理的に区別することはできない。クーラーが、室外の温度を上昇させ、エントロピーを増大させることによって、室内の温度を下げ、エントロピーを縮小させる場合、縮減される複雑性(室内)と縮減する複雑性(室外)は物理的に領域を区別することができる。これに対して、例えば超越論的主観性という意味システムは、全宇宙を思惟の対象にすることができるという意味で、システムの物理的な外部を持たない。だが環境を持たないわけではない。世界は超越論的意識が意味規定するのとは他の様でありうる。この他の可能性としての環境を超越論的主観性が意識しうるという意味で、意味システムにおいては「システムの差異化とは、システムと環境の差異をシステム内部で反復することにほかならない[12]」。

したがって意味システムが、システムの外にある複雑性に働きかけてそれを縮減し、それとは別にシステムの内部にシステムそれ自身の複雑性を持つと想定するのは誤っている。そしてハーバマスはこの誤りを犯しているように見える。ハーバマスは、ルーマンとの論争で次のように言っている。

諸可能性の投企は、そのつど排除されたものとしてもまた象徴的に現在化されるのだが、一方では行為システムの複雑性を増大する。その限りでそれは世界の複雑性の縮減である。他方では意味的に同一化された諸可能性の増殖と共に選択への強制が生じる。その限りで当の投企は、《世界》の複雑性を増大させるのだが、その複雑性は取り除かれなければならない。[ … ]しかし同一の出来事を複雑性の縮減として、かつ同時に複雑性の増大として理解してよいのなら、複雑性縮減の概念は使えないものとなるだろう。[13]

見られる通りハーバマスは、内側の複雑性を増やせば外側の複雑性が減り、外側の複雑性を減らせば内側の複雑性が増えるといった類のかなりラフな議論をしている。そもそも世界の複雑性を縮減することがシステムの複雑性を増大させるなどということはありえない。ルーマンの用語法によれば、世界とはシステムと環境の総称概念であり[14]、「諸可能性の投企」は、「行為システムの複雑性を増大する」のではなくて、あくまでも世界の複雑性を増大するのであり、行為システムは複数の可能性のうちから一つを選ぶことによってその複雑性を縮減するのである。そしてシステムとは、縮減という選択作用の反照的規定態としての機能=関数であり、縮減された複雑性ではない。もしシステムをたんに複雑性を持った《物》だと考えるなら、そのようなシステム論は生物学的レヴェルを越えることはできないであろう。

本題に情報システム戻ろう。情報システムについては、シャノン以来多くの研究が成されている。英単語を例にとると、アルファベットは26文字あるので、四つの文字からなる単語 book は、264の可能性から選ばれてきた、つまり log2264 ビットのエントロピーを縮減したわけである。しばしば多様性の増大が情報量の増大と同一視されることがある[15]。しかし多様性/乱雑性は、潜在的な可能性としてはともかく、それ自体は《混沌=無知》であり、情報はむしろそれの《否定=ネゲントロピー》である。情報量はそれが否定する他の可能性が大きければ大きいほど大きいという意味で、《複雑性の増大による複雑性の縮減》は、情報化社会の進化/進歩の基準たりうるのである。

しかしここで従来の情報通信工学から意味システムとしての心的システム/社会システムを論じるためには、飛躍が必要である。今簡単に言及したシャノン流の情報理論が問題としているのは、言語システムそれ自身の複雑性であって、言語を理解するシステムの複雑性ではない。もし情報伝達を熱力学的にのみ考察するならば、《複雑性を縮減するための複雑性の増大》は、情報を伝達しようとする際の通信路における熱雑音の攪乱による通信内容の不確定性の増大程度にしか解釈されない[16]であろう。言語を言語たらしめているのは言語が持つ意味であり、そして今日の支配的な言語哲学によれば意味とは使用である。だから我々は、言語を使用するシステムについて考察しなければならない。

物質システムのエントロピー

式32. SklnP

と情報システムの持つネゲントロピー

式33. =-log2

とでは桁が違う。既に述べたように、物質システムのエントロピー(式32)は

式34. k=1.3806×10-16(エルグ/度)

なるボルツマン定数を掛けなければ後者と釣り合いが取れないほど数が大きい。この差異は、二つのシステムが別物であることを、したがって意味システムにエントロピー概念を導入することの不可能性を帰結しない。むしろその逆である。言語と言語が代表象する(represent)対象の間にある圧倒的な複雑性の落差が、意味システムの存立根拠なのである。《言語はそれが代表象する複雑な対象の多を統一する一として複雑性を縮減する》ということは、《言語は対象とは異なるシステムであり、したがって言語による代表象(述定)は他の様でもありうるのだが、この他の可能性を否定することによって言語は複雑性を縮減する》ということの言い替えである。

「意識 ― それは、そのつど事実的に体験された諸印象の合計ではなくて、諸印象の選択性である[17]」。意識を意識哲学的にではなくて、言語哲学的に規定しようとするならば、それは「体験された諸印象」が指示する意味の諸可能性のうちから選択しつつ(つまり他の可能性を環境へと排除しつつ)、諸個体定項を関数(Funktion)の等値な変項として同定し・関係付ける機能(Funktion)を持った関数システムであると定義できる。それゆえ他者・他の意識システムが存在しうるということは、私が選択するのとは他のように選択しうる不確定性の不確定性(あるいは可能性を可能ならしめる可能性)なのである。

この二重の不確定性の構造を、情報システムのコミュニケーション・メディアである真理を手掛りに考えてみよう。無意味なものは真でも偽でもない。有意味なものだけが真や偽でありうる。ルーマンによれば、意味とは「体験の顕在性[主語]をその体験とは他の諸可能性[述語]の超越と統合する体験処理の形式[18]」である。先ほど意味とは言語の使用であるとの語用論的理解を示しておいたが、使用とは言語を用いた体験の選択的処理(主語に対する述語の選択)のことだったわけである。その体験処理が真であるとは、その処理における選択が社会的に承認され、妥当であるということであり、人々は自分が真と見なした判断の社会的妥当性を求めてその必然性を主張する。さて必然性とはその反対が不可能である様相だが、この他性の否定は二つのレヴェルで理解しなければならない。

まず命題関数のレヴェルでは、体験の記号化あるいは同じことだが記号と記号の関係付けがこうであって他ではないことであり、間主観性のレヴェルでは、自分のこの関数化とは他の関数化を行う機能を持った意識システム(自分に異論を挟む他者)の否定であるということである。その際、いかなる認識の選択が必然的に真であるのか、したがっていかなる選択が承認をめぐる闘争において淘汰(select 選択)されるのかは不確定である。ここに二重の不確定性が、およびその不確定性の否定として、複雑性を縮減する複雑性の縮減という二重性があることになる。淘汰され排除された他の認識および他の認識システムが多ければ多いほど、真理の価値は増大する。人類の認識の進化における真理なるネゲントロピーは、論駁された謬説の累々たる屍の上に咲くあだ花であるという意味で、情報システムにおいても《複雑性の増大が複雑性を縮減する》と言えるのである。

『現象学的に根拠を問う』で提示した直方体モデルをここで再び取り上げてみよう。超越論的言語認識の直方体モデルは、以下の図に書いたように、超越論的/経験的(T/E)、主観/客観(S/O)、表現/内容、つまりシニフィアン/シニフィエ(A/I)という三つの区別の交差から構成された三次元体 TO・TA・TS・TI-EO・EA・ES・EI である。

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自我の言語的認識の超越論的直方体モデル[19]。T=Transzendental, E=Empirisch, S=Subjekt, O=Objekt, A=signifiAnt, E=signifIé の略である。

自我と他我が同一の対象を認識して意思疎通する時、以下の図のように、二つの直方体が、鏡に映ったように面対称に向かい合う。

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対象認識を媒介にした自我と他我のコミュニケーション

小さくEと添字してあるほうが自我(Ego)で、Aと添字してあるほうが他我(Alter Ego)である。長方形 ESE・TSE・TSA・ESA は、自我と他我のコミュニケーションを表しているが、自他の相互理解は無媒介に行われるわけではなくて、言語を媒介(コミュニケーション・メディア)にしている。言語はさらに対象を媒介にしていると考えられる。表現(A)は対象(O)を指示しつつその意味(I)を表す。しかし、以下の図に書き表したように、通常の言語的交換では、いちいち対象を指示したり、心的イメージを喚起したりすることなく、ダブル・コンティンジェントな複雑性が縮減されている。

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対象認識を媒介にしない自我と他我のコミュニケーション

自我と他我の言語的コミュニケーションにおいて、シニフィアンの実質は、音声の波動であれ、紙に書かれたインクのしみであれ、無限に多様な可能性(複雑性)を持っている(EAE≠EAA)。シニフィエの実質も、個人の心理に関することであり、同様である(EIE≠EIA)。その複雑性はの形式の普遍性によってある程度縮減されるが、TAE≠TAA,TIE≠TIAならば、社会生活に支障をきたすこともあるだろう。このように、コミュニケーションは相互のミスコミュニケーションの可能性によって脅かされているのだが、TSEとTSAは、上掲の「対象認識を媒介にしない自我と他我のコミュニケーション」の図に点線で書いたように、TSE-TAEの延長線とTSA-TAAの延長線の交点、TAGが、TSE-TIEの延長線とTSA-TIAの延長線の交点にTIGがある《かのように》、少なくともプラグマティックには問題なくコミュニケーションしているのである。“TAG”“TIG”の小さな添字Gは、「共通の gemein」という意味と「想定された gesetzt」という意味の両方を兼ねている。このG点を補うことによって、二つの一人称直方体(“私”の意識)から合成された六角柱から一つの一人称直方体(“我々”の意識)を作り出そうとする試みが、間主観的合意への努力である。

上掲の超越論的直方体モデル において、TO-TA,TI-TA の長さは、それぞれクワインが謂う所の指示の不可遡及性/翻訳の不確定性に相当する。その長さに比例する形で、TAE-TAA/TIE-TIA の長さは自他の言語システムの間のずれ(またはずれの可能性)を表している。その長さにさらに比例する形でTSE-TSAの長さは、以上の2階の反省規定である自他のミスコミュニケーション可能性の度合を表現している。以上の長さに反比例する形で、この三次元体の高さは超越論的間主観性の超越の度合を示している。このような比例/反比例の関係から、間主観性の直方体は、以下に示した四角錐の内部で動くことになる。

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超越論的間主観性の四角錐モデル

この四角錐の中にある三角形 TO・TS・EO・ESE0 は『カントの超越論的哲学』で図示した以下の超越論的自己意識の歴史を表す三角形に相当する。

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超越論的自己意識の歴史[20]

四角錐の底辺 ESE0・EAG0・ESA0・EIG0 は、経験的/超越論的の区別が失われた超越度数0の状態で、人類はこの言語以前的な原始的状態から出発して、認識とコミュニケーション能力の質と量を高めてきた。

上掲の四角錐モデルでは、ある一定の(例えば現在の)到達段階を小さな添字のnで表しておいた。こうした知のポテンツの昂まりの極限値として、四角錐の頂点 TO=TS∧TA=TI が考えられる。この物自体的極限状態は、自我/他我,主体/客体,表現/意味など、不確定性の原因となるあらゆる差異が消滅している神のようの知の高みである。闇が消滅して全てが光となった世界は、しかしながら、全てが闇である世界と少しも変わらない。これはエントロピーの逆説である。エントロピーを増大させて行ったあげくに熱死状態に到達したとたん、もはや熱の移動がなくなるのだから、その点で、宇宙のエントロピーが最大になった状態は、0の時の状態と似ている。我々の人間社会は、底辺と頂点という両極端の地平的中間にあって、頂点をイデーとしつつもそこに到達することはない。

進歩とは、複雑性の増大による複雑性の縮減であった。複雑性の縮減は、四角形 TSE・TAG・TSA・TIG の面積の減少によって、あるいは TO-TO の長さの減少によって表現されている。意味システムにおいては、選択を通してシステムそのものの複雑性を縮減するが、その際、選択されずに否定される他の可能性が環境として蓄積されていく。その環境における複雑性の増大をも表現するべく、自我/他我のラインでの切断面(赤色の長方形)と表現/意味のラインでの切断面(青色の長方形)に焦点を当てよう。

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四角錐モデルにおける二つの切断面

自我(SE)の方面から見たTAG~TIGの切断面は、

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言語記号の三角形

となる。この図における紫色の三角形と赤色の残余部分は、情報システムにおける複雑性の縮減(意味や翻訳の不確定性の減少)とそのために必要な複雑性の増大(否定される他の意味の可能性の蓄積)を表している。表現(AG)の方面から見たTSE~TSAの切断面は、

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間主観性の三角形

となる。この図における紫色の三角形と青色の残余部分は、社会システムにおける複雑性の縮減(ダブル・コンティンジェンシーの減少)とそのために必要な複雑性の増大(否定される他の行為の可能性の蓄積)を表している。

これまで、第一項で経済システムにおける貨幣、第二項で情報システムにおける真理というメディアについて若干の考察を行った。ルーマンはこれ以外にも権力(法),愛,芸術などの「象徴的に一般化されたコミュニケーション・メディア」を挙げている。意味システムとしての諸心的システムは、常にコミュニケーションに晒されている。

社会は(例えば個人からなどではなくて)専らコミュニケーションから成り立っている。コミュニケーションではないものはすべて社会システムの環境に属する。[21]

23年前のデビュー作では、ルーマンは「社会システムは、肉体と魂を備えた具体的人格からではなく、具体的行為から成り立っている[22]」というパーソンズ的見解を踏襲していたが、後にこれを批判して、社会システムの構成要素を行為ではなくてコミュニケーションに求めるようになった。1975年に書いた論文の中では、「社会(Gesellschaft)は、必ずしも客観的に存在するすべての行為を、ましてやすべての人間を包括する必要はない。それゆえより精確につぎのように言おう:社会(Gesellschaft)とは、すべての相互に到達可能なコミュニケーション行為を包括する社会システムである[23]」と述べられている。

不確定性を縮減するシステムと不確定性を縮減するシステムとの不確定的なコミュニケーションの関係を縮減する機能=関数が、社会システムである。では社会システムにおいては《複雑性の増大による複雑性の縮減》はどのように解釈されるのか、これが次の課題である。

1.3. 第三項 社会システムにおける解釈

「現代社会は複雑だ」と言えば、多くの人は首肯するであろう。但しめいめい勝手な解釈のもとで。ルーマンが《複雑性の増大による複雑性の縮減》を口にするときも、その内容は様々な解釈を許すので、可能な諸解釈の適否を逐一検討する作業が必要である。

(1) 機能分化としての複雑さ

社会の拡大・進歩と共に、かつての機能未分化な地縁/血縁の小共同体から、やがて政治・宗教・教育・学問・経済等の部分システムが分化し、家族システムは次第に機能を縮小していった。この差異化された社会システムにおいては、各システムは、限られた複雑性しか縮減しなくてよい。

各部分システムは、自分のシステム/環境の差異にのみ定位することによって、いわば全複雑性の一部分を請け負うが、全体システムは、これと共に自ずと再構成される。それで、部分システムは、全体システムの再生産に必要な多くの要件がどこか他で満たされているという前提によって、負担軽減を感じることができる。[24]

ルーマンはこれを《複雑性の増大による複雑性の縮減》の説明に用いている。機能的に差異化されればシステム全体は複雑になるが、部分システムは専門的に特定の機能さえ担えばよいのだから、それだけ「負担軽減を感じ」、全体として複雑性は縮減されやすくなる。本節の冒頭で、社会の進歩に伴う複雑性の増大の分かり易い例として「さしあたり」社会的分業化を挙げておいた。たしかに分かりやすい例である。しかし間違っている。

分業化が進めば常識的な意味で社会システムは「複雑」になるが、しかしエントロピーが増大するわけではない。第一章の冒頭で提案したターミノロジーに従うなら、分業化で増大するのは、複雑性ではなくて、複合性である。あるシステムが警察機能を果たしているかと思えば、娯楽提供を行ったり、はたまた学術研究機関と成ったりするあるいは成りうる、という無秩序・不確定性・乱雑を否定するという意味で、社会の分業化は、社会システムにとっても複雑性の縮減なのである。ここで縮減される複雑性は、社会の機能分化を通して否定されていく他の行為/体験可能性である。

(2) 手段の複数化

現代社会に見られる特徴である、科学技術の進歩による様々な可能的手段の増大も、そのまま社会システムにおけるエントロピーの上昇とするわけにはいかない。確かに例えば交通手段について言えば、文明の進展につれて、徒歩以外に方法を持たなかった時代から、家畜・蒸気・電気等を動力とした様々な手段に恵まれた時代へと移るにしたがって、ある地点へ到着するのにいかなる手段を用いるかについて人は選択を強いられるようになるであろう。最適の交通手段を選択して目的を効率よく達成するという複雑性の縮減を可能ならしめているのは、交通手段の複数化という複雑性の増大である、とひとは言いたくなる。

しかし可能的手段の総体は、行為者にとって《無秩序=縮減されるべき複雑性》としてではなく、《既に縮減された複雑性、目的によって規定され、分業化された秩序》として体験される。それゆえ、(1) の時と同様、手段が特殊化(専門化)するにしたがって、複雑性は、増大するよりもむしろ縮減する。

とはいえ、個人が自然に働きかける道具的手段性が問題となっているかぎり、それは社会システム論の対象ではない。ある行為者の手段選択の不確定性と別の行為者の手段選択の不確定性との不確定的な関係が、社会システムにおける複雑性であった。東京から大阪までの交通手段として新幹線を選ぶか飛行機を選ぶかという選択は、JRが選ばれるか航空会社が選ばれるかという選択(淘汰)であるが、JR/航空会社の方でも客を得るべく、速度・料金・サーヴィスなどの条件に関して複雑性の縮減(選択)を行う。もし一方で料金の高さのゆえに飛行機の客が減り、他方航空会社が収益の悪化を理由に料金を値上げすれば、客はさらに減ることになるという意味で、このコミュニケーション(選択と選択との選択)はダブル・コンティンジェントである。科学技術の発達は行為可能性を増大させ、そしてその可能性の質的多様化と量的増加が、現実性のレヴェルにおいては有限な個人をして専門分化・社会の分業化へと向かわせる。

(3) 暴力を否定するための暴力の肯定

本節の冒頭で紹介したように、ルーマンはホッブズの政治理論を《複雑性の増大による複雑性の縮減》の例として挙げている。もう一つの例である「寛容」については次の (4) で扱うことにしよう。ホッブズのパラドックスとは、(諸個人の恣意的な)暴力を否定するためには、それよりもさらに大きな(リバイアサン=国家の)暴力を肯定しなければならないというものであった。「暴力の否定」を「複雑性の縮減」、「暴力の肯定」を「複雑性の増大」と解釈すれば、ホッブズの命題は、形式的には我々の定式を満たしているように見えるが、実はそうではない。まず明らかなことは、“万人の万人に対する闘争”を帰結する、ホッブズ謂う所の自然状態においては、極めて不確定性が大きいということである。そこには「もし相手が私を攻撃するならば、私は相手を攻撃する。しかしその時相手は確実に私を攻撃するだろう。しかし(自分一人がばかをみるのではなかろうかというリスクをはらみつつ)、もし相手が私を攻撃しないならば、私は相手を攻撃しない、ということを相手が知っているならば、相手は私を攻撃しない … 」というダブル・コンティンジェンシーがある。そしてこの複雑性を縮減するコミュニケーション・メディアが、権力であり、組織化されれば国家である。

してみるとホッブズの国家論における複雑性の縮減は、精確に言えば、「暴力の否定」というよりも、「暴力をふるう行為の可能性の否定」であることになろう。国家は死刑を含むより大きな暴力をふるうことができるが、その行使は(不文法の場合を含めて)法によって規定されているために、恣意的不確定性は小さい。したがって国家の成立は、複雑性の増大ではなくて複雑性の縮減である。

(4) 民主制における寛容

もう一つの例は「寛容」であった。寛容は自分の複雑性の縮減とは違った、しばしば対立した縮減形式を自分のそれへと服従を強制することなく、多様性を容認することによって、縮減の複雑性を増大させる。その際寛容は無関心とは異なるので、アナーキーな無秩序をではなくて民主政という秩序をもたらすので、同時に複雑性の縮減でもあるというわけである。もちろん寛容も複雑性の縮減である以上は、寛容は不寛容に対してまで寛容なのではなく、《他者》を排除する。その点、(3) と (4) の力による制裁/寛容という対立は、現代政治の特徴である法のもとでの形式的な平等と価値観の実質的な多様化がそうであるように、実は楯の両面である。古代・中世における国王/臣民の人的関係へと固定化された《支配するもの/支配されるもの》という権力構造は、ちょうどエントロピーの法則にしたがって熱が平衡状態へ散逸してエントロピーが増大するように、近代における主権在民化・現代における大衆社会化にともなって水平化された。

もっとも権力は消滅したのではなく、むしろ不可視の遍在として民主主義社会という散逸構造を可能ならしめている。本節の (1) と (2) では、現代社会の特徴の一つである《差異化 Differenzierung》を挙げたが、(3) と (4) から帰結する水平化はもう一つの特徴である。水平化と差異化は一見反対の傾向に見えるが、実は均質的な機能分化というあり方で前者は後者の基礎となっている。すなわち水平化による複雑性の増大が差異化による複雑性の縮減を可能ならしめているのである。

最後に、本節の結論をまとめよう。複雑性の増大が複雑性の縮減を可能ならしめるのだが、複雑性の縮減は、より高次の複雑性の縮減を可能ならしめる複雑性の増大を可能ならしめる、というあり方で重層構造を成している。本節のまとめをかねて整理すれば次のようになる。

  1. 人間はまず、その新陳代謝を通して、複雑性(エントロピー)を増大させてこれを体外へと排出し、生命の維持という複雑性(エントロピー)の縮減を行なう。
  2. さらにこのことが人間に認識と行為の様々な可能性を与えるというあり方で複雑性を増大させるが、人間が生命システムとしてではなく、情報システムとして存立しうるのは、その複雑性を縮減することによってなのである。
  3. ところがある特定の縮減には、つねに《他のようにも縮減しうる》という可能性(他者)がある。ある複雑性の縮減と他の複雑性の縮減との間に成り立つダブル・コンティンジェンシーという複雑性の増大が、その複雑性を縮減する機能=関数である社会システムを可能ならしめる。

そしてこのような重層構造を持つ《複雑性の増大による複雑性の縮減》の量と質(規模と多様性)の拡大が、人類文明の進歩なのである。

2. 参照情報

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