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現象学的に根拠を問う(01)現象学の視点

1997年9月2日

『現象学的に根拠を問う』導入節:現象学はどのような立場の哲学なのか。フッサールの時代、実証主義、唯物論、新カント学派など、様々な哲学の潮流が存在したが、現象学は他の哲学とどう異なるのか。フッサールの着眼点を確認しながら、本書の課題を設定する。

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このページは電子書籍『現象学的に根拠を問う』の一部です。

今、あなたは美術館で絵画を鑑賞し、その美しさに感銘を受けているとしよう。その時あなたが美しいと感じているものは何だろうか。あなたが見ている対象は画布に塗りつけられた絵具の広がりであるが、白い絵の具の正体は酸化チタンで、赤い絵の具の正体はセレン化カドミウムであるなどの科学的知識は、絵画の鑑賞には役に立たない。あなたは絵具を見ているのでもなければ、その色を見ているのでもない。絵の具の色によって表現されている、たんなる物質以上のものを見ているのである。

もちろん、それは絵画を形作っている物理的対象に依存していることは確かである。だが、それは物理的対象によって一義的に決められるものでもない。例えば、以下の絵は、ウサギとして見ることもできれば、アヒルとして見ることもできる。同じ物理的対象を見ているにもかかわらず、違ったものを見るということは、それは客観的実在としての物理的対象以上のものを見ているということである。こうした、意識に立ち現れる、物理的対象以上のものが、現象学者が問題とする現象なのである。

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ジャストローが描いたウサギ-アヒルの両義図形[1]

科学者の中には、謂う所の現象なるものは、脳が勝手に作り上げた幻想であり、大脳生理学が進歩を遂げれば、その正体が科学的に解明されるに違いないと考える人もいるだろう。たしかに、fMRI を使って脳をスキャンすれば、あなたが絵画を見て「美しい」と感じている時に、脳内で特定の血流動態反応が起きていることを確認することができるかもしれない。しかし、脳血流動態自体が美しいわけではなく、あなたが美しいと感じているものは、それとは別に存在しており、両者の間には、せいぜい対応関係しか存在しない。

このことをはっきりさせるために、哲学者たちは、認識における対象と内容と作用とを区別している。対象と内容が異なるがゆえに、同じ絵という対象に対して、ウサギあるいはアヒルという別の内容が知覚されうるのであり、また、内容と作用が異なるがゆえに、知覚された内容としての現象を心理学的ないしは生理学的な作用と同一視することができないのである。認識する作用と認識される内容は概念的に異なる。フッサールの現象学が注目するのは、科学者たちや従来の哲学者たちが軽視してきた、対象でも作用でもない内容という第三の領域である。

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認識における対象と内容と作用との区別

現象学(Phänomenologie)という呼称を最初に用いたのは、フッサールではない。ドイツの科学者、ランベルトは、真理についての学問から区別された仮象についての学問という意味で、十八世紀にこの言葉を使ったことがあった[2]。実証主義者にとって、仮象は誤謬と同じで、何の価値もないが、文学者や芸術家など、フィクションを作ることを仕事としている人にとって、仮象は重要な意味を持っているし、今日現象学に興味を持つ人は、これらの分野に興味を持つ人が多い。

フッサールが、「志向性 Intentionalität」という概念とともに「現象学」という言葉を使うようになったのは、恩師であるブレンターノの影響である。ブレンターノは心理学者で、彼にとって、現象学というのは記述的心理学と同じような意味だった[3]。フッサールは、1891年にブレンターノの影響下で『算術の哲学』第一巻を刊行したものの、ブレンターノ的な心理主義を放棄したため、第二巻の出版を断念した。しかし、フッサールは完全な客観主義者になることはなかったし、その意味では、ブレンターノの影響はその後も残ったと言える。

いずれにせよ、フッサールが目指したのは心理学ではなくて哲学であったから、第三領域としての現象を記述することに甘んじることはなかった。哲学は、古代ギリシャの時代より、アルケー(始原)を問い求める学問であり、フッサールも現象の基づけを試みようとした。フッサールは、『算術の哲学』で、数えるという心的作用に自然数を基づけようとし、そうした心理主義を放棄した後も、現象学的還元(超越論的還元)により、現象を形相や超越論的な自我へと還元しようとした。本書のタイトル『現象学的に根拠を問う』もフッサールの現象学的還元を念頭に置いて付けたタイトルである。

本書では、フッサールとともに、フッサールの高弟であったシェーラーを取り上げる。フッサールが、認識作用の規範性を重視したカントの哲学を批判し、直観的な認識内容を重視したのと同じように、シェーラーは、行為の形式的規範を重視したカントの倫理学を批判し、実質的価値内容に対する直観を重視する倫理学を提唱した。フッサールは、シェーラーをハイデガーとともに、現象学を人間学化しているとして批判したが、フッサールが価値についてあまり語っていないので、本書では現象学を倫理学に応用する試みとして、シェーラーの倫理学を取り上げ、批判的に検討する。

結論を大雑把にまとめるなら、私たちの概念的理解の根底には直観的理解があるというのが現象学の基本的主張であるが、この認識によって、認識一般を基礎付けることはできても、その認識が真であることは基礎付けられない。この点において、フッサールの現象学的還元は、現象の基礎付けとして不十分であり、シェーラーの現象学的倫理学も、同様に、価値判断が真であることの基礎付けにはなっていない。フッサールの現象学的還元を批判的に継承し、理論的ならびに実践的命題の究極的基礎付けを行うこと、これが本書の課題である。

参照情報

  1. Joseph Jastrow. The mind’s eye. 1899. Popular Science Monthly, 54. p. 312.
  2. Lambert, Johann Heinrich. Neues Organon, oder, Gedanken über die Erforschung und Bezeichnung des Wahren und dessen Unterscheidung vom Irrtum und Schein. 1764. Akademie-Verlag.
  3. Brentano, Franz. Psychologie vom empirischen Standpunkt. 1874. Duncker & Humblot.