9月 021997
 

現象学がブームになった時が二回ある。一回目と二回目ではどう異なるのか、なぜ今日に至るまで現象学は人気があるのか、本書は現象学のどのような側面に注目するのかなどについて述べよう。

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ブームの一回目はフッサールが『論理学研究』や『イデーン』を発表した頃で、シェーラーやハイデガーといった弟子達が集まった頃である。心理主義とも新カント学派とも異なる新しい哲学として、大いに注目を浴びた。だが、やがてハイデガーもシェーラーもフッサールの立場から離れていく。第二次世界大戦後は、≪現象学から実存主義へ≫がヨーロッパ大陸の哲学の趨勢となり、フッサールの影は薄くなる。

ところが60年代に入ると実存主義ははやらなくなる。フランスでは構造主義が台頭して、サルトルが「博物館の陳列物」になり、ドイツでも解釈学その他の科学論争が活発になり、大学のゼミではハイデガーの代わりにウィトゲンシュタインが読まれるという時代になる。ヨーロッパ哲学の輸入・翻訳・紹介を本業とする日本の「哲学」学者たちも、ややタイムラグはあったものの、この流れを受けて、サルトルからメルロポンティへ、あるいはハイデガーからフッサールへと研究対象を変えていった。

ポスト・ハイデガーのドイツは、ポスト・ヘーゲルのドイツの状況と良く似ている。ヘーゲルの形而上学が人気を失った後、哲学者の関心は存在論から認識論へ移り、一方でイギリス流の実証主義(心理主義)が流行し、他方でヘーゲルからカントへ回帰する動き(新カント学派)が見られた。ハイデガーの形而上学が人気を失った後、哲学者の関心は存在論から認識論へ移り、一方で英米系の論理実証主義あるいは分析哲学が流行し、他方でハイデガーからフッサールへ回帰する動きが見られた。思弁哲学に対する熱気が冷めると、人はより確実なものへと立ち返ろうとするものなのだ。

もちろんこのフッサール・ルネサンスの背後には、彼の晩年の膨大な遺稿を含む『フッセリアーナ』の刊行があったことは確かである。しかし実存主義流行の影響で哲学が文学や宗教に近づいていった反動として、厳密な学を志向したフッサールに再び注目が集まるのは自然な時代の流れである。日本のアカデミズムでも80年代にフッサール研究のブームはピークを迎え、巷では『○○の現象学』というタイトルの本(大半はフッサールとは関係ないのだが)があふれたりした。

フッサールの主著は、通常、前期では『論理学研究』、中期では『イデーン』、後期では『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』とされている。数多いフッサールの著作のうち、どれが一番面白いかというようなことは、個人の趣味の問題だが、私の趣味で言わせてもらうならば、『論理学研究』が一番である。昔、カントの哲学に飽きてきた頃、この本を読んで、「哲学にはこれほど豊かな問題領域があったのか」と大いに感銘を受けたことを記憶している。この本をきっかけにフッセリアーナを読み漁ったのだが、『論理学研究』ほど強い印象は受けなかった。

もっとも第二次フッサール・ブームで評価されているのは、後期の思想であって、『論理学研究』は軽視される傾向にある。だが当時世間でもてはやされた「生活世界」という概念は魅力的でもなければ、またフッサールで中心的な役割を果たしているわけでもない。フッサールは最後まで合理主義者であったし、超越論的哲学を放棄しなかった。それなのに研究者の多くは、フッサールの中に好んで直観主義的なものを読み取ろうとするのである。

もちろんフッサールを乗り越えていこうとする姿勢は重要であるし、本書もそういう姿勢を採っている。しかしそれは第二次フッサール・ブームの方向ではなくて、第一次の(本来の)方向でである。フッサールの超越論的現象学とシェーラーの超越論的倫理学という取り上げ方は、ポストモダンの時代には時代錯誤的に見えるかもしれないが、私の問題関心に沿ったものである。

『現象学的に根拠を問う』という本書の題名は、現象から出発しつつ、その現象を可能にしている根拠を問い詰めようとするデカルト以来の近代哲学の試みを示唆している。本書では特にフッサールが未着手のまま残した価値的現象の根拠を問うことに力を注ぎたい。

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