9月 021997
 

前著でカントの超越論的哲学を取り上げたので、本書では、まずカントの超越論的哲学とフッサールの超越論的現象学の異動を確認するところから始め、フッサールの現象学の基礎的構図であるノエシス・ノエマの構造を、全体部分関係論の視点から解釈しよう。

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フッサールの超越論的現象学がカントの超越論的哲学の影響を受けていたことは、明白である。フッサールは、初期の『論理学研究』において既に「適当な保留条件を付けてのことだが」「カントの説に親近感を持ち」、「主たる傾向においてはカントに共鳴して」[Husserl: Logische Untersuchungen 1,SS.216-218] いたし、中期の『イデーン』以降、超越論的観念論の立場を採るに至ってはますますカント(ないし新カント学派)に近付いて行った。しかも「保留条件」を付けた所以のカントとの相違なるものが、「カントは認識を生理学的心理学的に主観化した」という恩師ブレンターノの誤解釈によるので、第三者的に見ればほとんど差がないように見える。

ではフッサールはカントの延長線上でたんにより詳細な議論を展開しただけかといえばそうでもない。両者は同じ超越論的哲学であっても、ある根本的なところで相違しているように思われる。フッサールによるカント批判としては、

  1. 心理主義 → 人間主義
  2. 現象学的還元の欠落
  3. 神秘的な物自体の想定
  4. 感性と悟性の二元論 → 直観の矮小化
  5. ノエシスとノエマの混同 → 作用一元論
  6. 構成主義 → 規範主義
  7. 自然科学主義的な関心の狭さ
  8. 間主観性の考察の欠如

などが挙げられる[k]。今言ったようにAは明らかに誤解であるし、BとCもカント批判として必ずしも妥当ではない。D~Fは、結局受動的直観を軽視した規範主義批判という論点に落ち着く。ここはカントとフッサールの決定的な差だと思われる。論点Gもこの問題圏に係わってくる。Hに関しては『カントの超越論的哲学』で述べたとおりである。いずれにせよフッサールのカント批判の是非を検討しようとすれば、フッサールの超越論的哲学そのものに立ち入らなければならないことは言うまでもない。

[k] フッサールのカント批判に関しては、ケルンの著作[Kern: Husserl und Kant,SS.55-113]を参照されたい。

我々は『カントの超越論的哲学』で超越論的哲学を部分的モメントが部分性を超越して全体性へと係わることの学的反省と特徴付けたが、このことはフッサールの超越論的哲学には特にあてはまる。彼が扱う部分と全体の関係は、

  1. 志向的諸契機と志向的全体
  2. 時間空間の直観的延長の諸断片とその全体
  3. 直観的個別体とその意味的懐胎
  4. 単一的意味と複合的意味
  5. 個物または下位の種とその上位の類
  6. 超越論的主観性と超越論的経験
  7. 個別的主観性と間主観性

であるが、これら相互がさらに部分-全体の(必ずしも入れ子式の単純な関係ではない)包摂関係を成している。本節では1と2を、第二節では3と4と5を、第三節では6と7を扱うが、節分けは概ね、前著『カントの超越論的哲学』の感性論・分析論・弁証論の区分に合致する。

1.志向的諸契機と志向的全体

志向性の概念は、アリストテレス[a]あたりに端を発し、スコラ哲学を経てブレンターノやフッサールに受け継がれた概念であった。志向的関係においては、志向することと志向されたことが両関係項として摘出されるが、フッサールはたんに意識内在主義に留まることなく、意識超越的な対象へと超越しようとする。かくして志向的対象-志向的内容-志向作用なる三項図式[t]が生じる次第であるが、彼の言う対象と内容の区別は、カントにおける物自体と現象の区別というよりもむしろ現象の内部での区別である。カントの用語で強いて表現すれば、超越論的対象と感性的多様の関係に近いのかもしれない。

[a] アリストテレスの『形而上学』[1021 a29-b3] に既に思惟(ディアノイア)と思惟されたもの(ディアノエトーン)の対比が見られる。

[t] これはカジミェシュ・トヴァルドフスキ [Twardowski: Zur Lehre vom Inhalt und Gegenstand der Vorstellungen] 以来流行した図式であった。語源的にも、「内容 Inhalt」は「中に保持 in-halten」されたもの、「対象 Gegenstand」は「向かい側に立つもの das Gegenüber-stehendes」である。

ともあれフッサールがカントと異なるのは、彼が対象に対する内容の独自性を認めようとしたことにある。例えば「浦島太郎」のような空想の表象のように、実在しないがゆえに対象ではないが、それでも志向作用の客観であるような志向的内容が、意識の事実として存在する。空想はカントが真面目に扱わなかった主題であるが、フッサールは次のように、パラドキシカルな表現で空想の重視を表明している。

“虚構”は、全ての形相的学問にとってそうなのだが、現象学にとって生命となる要素である。虚構は、そこから“永遠の真理”の認識がその栄養を得るところの源泉なのである。

[Husserl: Ideen 1,S.148]

だがフッサールは、意識内在的な立場に留まることに満足せず、意識内容から意識対象への超越を試みる。もっともその時の対象とは、レアールな対象ではなくてイデアールな対象である。イデアールな対象(対象的意味)とは、ノエマの核の奥にあって、射映するノエマの諸固有性を担う「空虚なX」 [Husserl: Ideen 1,S.303] であって、その十全的な所与性は「カント的な意味での理念」 [Husserl: Ideen 1,S.330] と言うのだから、その限りではフッサールの「対象」も物自体的な性格を持つ。

次に志向的内容と志向作用の関係であるが、まず志向的内容である「現象 Erscheinung」の内部で、「そこにおいて客観の現象が存立する体験 das Erlebnis,in dem das Erscheinen des Objektes besteht」 と「現象する客観そのもの das erscheinende Objekt als solches」とが区別されなければならない [Husserl: Logische Untersuchungen 2,S.359] 。前者は作用の記述的内容で、より頻繁には「実的成素」と呼ばれる志向的質料である。この変動する質料を同一的に統一するのが後者(志向的本質)で、前者と後者は部分と全体の関係にある。

志向的質料はさらに志向的性質から区別されなければならない。志向的性質とは、例えば「表象する」「判断する」「疑う」「願う」などの作用の様相のことである。これらの中で「表象する」は最も基礎的で、したがってまた全ての志向的質料の性質でもある。

他の全ての志向的本質が性質と質料の複合であるのに対して、表象の志向的本質は、たんなる質料、あるいはお望みとあらば、たんなる性質である。[…]それ自体において考察するならば、質料それ自体は“性質”即ち表象性質に他ならないことになろう。

[Husserl: Logische Untersuchungen 2,S.446]

だから志向的本質の最高類は表象であって、知覚が最高類として他の全ての志向性を基づけるわけではない。単純表象は直観や同意によって充実されなくとも存立しうるが、知覚はそれが幻想でないためには信憑性質が付け加わらなければならず、したがって単純ではないからである。『論理学研究』での「表象」は『イデーン』では「根源信念 Urglaube/根源臆見 Urdoxa」 [Husserl: Ideen 1,S.241] と呼ばれ、部分から全体への超越の出発点となっている[e]。

[e] 「我々は、全質料に属するただ一つだけの客観化する性質[eine objektivierende Qualität]を見出す。一つ以上の客観化する性質が全体として見なされる唯一の質料に関係付けられることはありえない」 [Husserl: Logische Untersuchungen 2,S.517] 。最も単純な表象/根源的信念は単位(Einheit)ではあるが、また統一性(Einheit)でもあるから、質料全体を志向する。それゆえ単純表象/根源的信念は、部分としての出発点ではなくて、全体としての出発点である。

最高類概念としての表象は様々に種別化されるが、志向的性質という点では様相上の諸変様が生じる。但しその際、ノエマ的な志向される対象/内容の様相とノエシス的な志向的性質の様相、例えば、

《確実であること》と《確信すること》、

《蓋然的であること》と《推測すること》、

《不確かであること》と《疑うこと》

は区別されなければならない [Husserl: Ideen 1, S.239] 。カントは「判断の様相は判断の内容には何ももたらさず、[…]ただ思惟一般との関係におけるコプラの価値にのみ係わる」[Kant: Kritik der reinen Vernunft, A.74=B.100] と言うが、フッサールは様相を“主観的な色付け”とは考えない。確実な存在を疑わしいと疑ったり、疑わしい存在を確実だと思念したりする場合があるから、ノエシスの様相とは別にノエマにも様相があると考えなければならない。もしも様相の「述語が実際にはただ関係付けるだけの反省の述語であるなら、それは専ら作用面への顕在的反省において、そしてそれとの関係においてのみ与えられることになろう。だが明らかに当の述語はそのような反省によって与えられるのではない。我々は相関者の固有の事象を、まさにその相関者へと直接眼差しを向けつつ統握するのである」 [Husserl: Ideen 1,S.246] 。

ここにフッサールの直観主義とカントの規範主義との相違がよくでている。カントおよび新カント学派は「認識 Erkenntnis」は「認識する erkennen」という行為とみなすのだが、全ての erkennen は「何かについて認識する erkennen etwas」ことであって、現象学はこの etwas の方を重視する[a]。新カント学派によれば、論理学は認識行為を統制する規範学で、「Xをすべし」という規範命題は「XはYであって、かつYは善い」という《イデア的事実=価値》の認識を前提している。真理/意味の本質をどこに認めるかによって表1のような布置関係が生じる。

表1 フッサール現象学の位置
 認識対象/内容認識作用
idealフッサール・現象学派カント・新カント学派
real素朴実在論・唯物論心理主義・人間学主義

[a] もとよりフッサールも認識が行為であることを認めている:「判断すること(根本的に特殊には、もちろん認識することとしての判断すること)はまた行為でもある」 [Husserl: Formale and transzendentale Logik,S.176] 。認識行為という「創造によって獲得される諸統一性が規範である」 [Husserl: Formale and transzendentale Logik, S.189] 。最初の引用文中の「また auch」に注意。認識は行為でもあるが、「また」意味の体験でもある。

フッサールは、志向性(Intention 意図)の動詞 intendieren が、 ブレンターノにおいてそうであるように、理論的な「注意する aufmerken」と実践的な「目指す abzielen」との二義性を孕んでいることを指摘する。両者の間には、前者が直観の「作用 Akt」によって「充実 erfüllen」されるのに対して、後者は目標実現の「行為 Akt」によって「達成 erzielen」されるというパラレリテートがあるのだが、フッサールによれば「ここでは[志向作用が問題となるとき]もちろん actusという根源的な語義をもはや考えてはならないのであって、活動の考えは完全に払拭されなければならない」 [Husserl: Logische Untersuchungen 2,S.393] 。「我々は“活動性の神話 Mythologie der Tätigkeit”を斥け、“作用 Akt”を心的活動としてとしてではなく志向的体験として定義する」[ibid] 。

ハイデガーは現象学に謂う所の「現象(ファイノメノン)」をギリシャ語の語源にまで遡って「自己自身において自己を示すもの das Sich-an-ihm-selbst-zeigende」と定式化している[k]が、現象学においては、根源的な真理は能動的捏造的に構成されるのではなくて、すでにおのれほうからおのれを開示している真理が受動的に観取されるだけなのである [Heidegger: Sein und Zeit,S.28] 。ここに現象学の特徴と同時に問題点があるように思われる。

[k] フッサールは「能動的に構成する konstruieren」とは言わずに、 「おのずと構成される sich konstituieren」なる言い回しを用いているが、ここに後年の「受動的総合」の萌芽が見られる。後者は日常のドイツ語では単に「成立する」ぐらいの意味であって、彼自身「明らかになる sich beurkunden」 [Husserl: Ding und Raum,S.8] で置き替えている。

フッサールによる志向性の構造分析をまとめると以下のような図になる。

図1 『論理学研究』における志向性の構造[この図を拡大表示する

この図を表にまとめると以下のようになる。

表2 『論理学研究』における志向性の構造
level意識超越的意識内在的
3項図式対象内容
(本質/全体)
内容
(質料/部分)
作用
idealSinnGedankeideell.Begriffsignitiv.Akt
相関性AusgedrücktesAusdruckVermeintesVermeinen
realGegenstandWahrnehmungreell.Bestandintuitiv.Akt
相関性ErscheinendesErscheinungAufgefastesAuffassen

この表2では、イデアール/レアールの区別と対象/内容/作用の区別とから、大きく六つに領域が分かれている。表1では、認識対象か認識作用かという二者択一を示したが、この領域区分に基づいて、以下の表3に示したように、フッサールの現象学を、意味の領域を認識内容に求める立場と位置付けることができる。

第三の超越論的立場の位置
認識対象認識内容認識作用
idealプラトン
プラトン主義者
フッサール
現象学者
カント
新カント学派
real素朴実在論的唯物論経験論・現象主義心理主義・人間主義

現象学の立場は、真理/意味を言語内在的に捉えようとする立場なのであるが、第三領域は、『カントの超越論的哲学』で示した超越論的哲学の四角形において、どのように位置付けたらよいであろうか。図8のような位置付けでは、言語哲学的には不十分である。

説明の便宜上、ここで、フッサールの同時代人で、より詳細に言語の研究を行ったソシュールを取り上げてみよう。ソシュールは、シーニュの要素をシニフィアン/シニフィエ、形式/実質の区別を交差させて分析した[丸山圭三郎:ソシュールの思想,127]が、それを図解すると、以下のような四角形TA-EA-EI-TIになる。

図2 言語の四角形。各頂点の文字のうち、T と E は、それぞれ超越論的(transzendental)と経験的(empirisch)、つまり、形式と内容に相当し、A と I は、それぞれシニフィアン(signifiant)とシニフィエ(signifié)に相当する。

一方、『カントの超越論的哲学』で提示した「超越論的哲学の四角形」は、ソシュールの用語を用いれば、次のように表現される。

図3 超越論的哲学の四角形。S は主観(Subjekt)、O は客観(Objekt)を表す。

二つの四角形を交差させると、図3のような超越論的直方体ができる。

図4 言語的認識の直方体モデル

この直方体を言語の四角形に垂直に眺めれば、表2で区分した六つの領域が六つの頂点に一致していることに気が付く。その視点からすれば、言語の四角形は超越論的四角形の中間をよぎる媒介的第三者(カントが謂う所の図式)の位置にあることがわかる。このことは、意識は言語を媒介にして事物を認識していることを意味している。また逆に超越論的四角形は、言語的四角形の中間をよぎっている。このことは、意識による事物の認識を媒介にしてシニフィアンはシニフィエと結び付くことを意味している。

フッサールは、前期ウィトゲンシュタインと同様、《表現 Ausdruck》 と《表現されるもの Ausgedrücktes》の関係を、言語記号内部のシニフィアン/シニフィエの関係としてではなく、認識内容と認識対象の関係として理解してしまった。そしてここに彼等のイデア主義的誤謬の源泉がある。

2.時間空間の直観的延長の諸断片とその全体

志向性の構造分析は、まずその直観的な基礎から始めなければならない。フッサールによれば,「直観形式(Anschauungsform)というのは根本的に誤った考えであり、カントにおいても致命的な謬見を含意していた」 [Husserl: Ding und Raum,S.43] 。これはカントのノエシスとノエマの混同に対する批判のコロラリーである。「平面の知覚はなんら平面ではない。[…]そしてこの平面は四角形その他などであろうが、知覚は四角形その他ではない」 [Husserl: Ding und Raum,S.17] 。

要するに-ここでは差し当り空間に関してであるが-知覚すること(ノエシス)と知覚されたもの(ノエマ)は同じでないということである。知覚は延長(Ausdehnung)の契機を含んでいるが、それは知覚された空間が延長している(ausgedehnt)からであって、知覚自体はそうではない。フッサールにとって、空間は《直観の形式》ではなくて、《直観されたものの形式 Form des Angeschauten》なのである。

時間に関しても「感覚の継続と継続の感覚は同じではない」 [Husserl: Zur Phänomenologie des inneren Zeitbewusstseins,S.12] として、ノエシスとノエマが区別されるのだが、ここではノエマだけでなくノエシスそのものが時間性を帯びている点に注目しなければならない。「時間的客観の知覚それ自体が時間性を持つこと、持続の知覚はそれ自体知覚の持続を前提していることは自明である」 [Husserl: Zur Phänomenologie des inneren Zeitbewusstseins,S.22] 。

我々は例えば音楽を、連続性をもったメロディーとして聞くことができる。だがもしも私が時間的でなくて瞬間的な存在者で、したがってそのつど瞬間的な各音を聞くだけかあるいは全ての音を一瞬に聞くだけなら、私はメロディーを聞くことはできないはずである [Husserl: Zur Phänomenologie des inneren Zeitbewusstseins,S.11] 。

フッサールはここから「過去把持-未来予持 Retention-Protention」なる時間性の構造を摘出する[z]。これは想起や予期のような現在と連続しない過去や未来を現在に引き寄せる意識様式から区別されなければならない。時間構成に際して前者には限界があって後者に頼らなければないところは、人間の時間性の有限性である。超時間的な神ならぬ時間的存在者人間には、時間は“過去-現在-未来”の相で開ける、という意味で人間の時間構成は人間の構成時間によって制約される。ノエシス的時間とノエマ的時間が違うからこそ、過去を含んだ現在(想起)や現在を含んだ過去(過去における予期)などの組合わせが可能なのである。

[z] フッサールは、いかなる現在も未来において想起されうるという 意味で「未来予持 Protention」を持ち、実際に想起されることによって、その「予期の志向性 Erwartungsintention」は充実されると言う [Husserl: Zur Phänomenologie des inneren Zeitbewusstseins,S.52f.] 。だがもしそうだとすれば、いかなる現在も過去において予期されえたという意味で過去把持を持つということになるのではないだろうか。いずれにせよ“過去把持-未来予持”は“想起-予期”とパラレルではない。

だが両者は全く違う時間なのだろうか。時間構成の流れは「構成されたものに従ってそう[流れと]呼ばれるのであるが、しかしそれは時間的に“客観的なもの”ではない。それは絶対的な主観性であって、“流れ”の比喩でもって特徴付けられるべきもの[一つの顕在的な点=今なる根源的点]から湧き出るもの等々のような絶対的固有性を持つ」 [Husserl: Zur Phänomenologie des inneren Zeitbewusstseins,S.75] 。

「時間とは何か」の問いに対してフッサールは「もしだれも私に問わなければを私は知っている。もし問う者に解き明かそうとすれば、私は知らない」という、おなじみのアウグスティヌスの言葉を引用している [Husserl: Zur Phänomenologie des inneren Zeitbewusstseins,S.3] が、結局「名前が無い」 [Husserl: Zur Phänomenologie des inneren Zeitbewusstseins,S.75] と言って逃げてしまう。

ともあれ《絶対的主観性》を超時間的にではなくて、時間の流れで捉えているところは注目すべきである。「反省[r]において、我々はただ一つだけの[時間の]流れを見いだすが、その流れは多くの流れに分かれる。この多数性はしかしながら一つの流れについて語ることを許し、要求する統一性をもっているのである」 [Husserl: Zur Phänomenologie des inneren Zeitbewusstseins,S.76] 。

[r] この「反省」とは過去把持の過去把持であるが、たんなる過去把 持とは異なったメタレヴェルの超越論的反省である:「過去把持の過去把持[Retention von einer Retention]は、たんに間接的に過去把持されたものに関してだけでなく、第二階の過去把持において過去把持されたものに関しても志向性を持っている」 [Husserl: Zur Phänomenologie des inneren Zeitbewusstseins,S.81] 。

要するに、複数の時間があるのではなくて一つの時間に複数の時間客観があるということだ。当然のことながらノエシス的時間とノエマ的時間は同じ一つの時間でなければならない。両者は、時間客観の単一性を構成することによって構成時間の単一性が構成される [Husserl: Zur Phänomenologie des inneren Zeitbewusstseins,S.80] という関係で統一される。フッサールはこの一なるものを「結合するある形式 eine verbindende Form」 [Husserl: Zur Phänomenologie des inneren Zeitbewusstseins,S.76] と呼ぶが、カントならアプリオリな形式であるがゆえにひとつであると説明するところであろう。

フッサールは、空間認識自体が空間的であることを否定したが、ちょうど時間を認識するためには認識自体が時間的でなければならないように、空間を認識するためには認識自体が空間的でなければならない。そのため、フッサールも、意識の身体性、キネステーゼの理論を打ち出さなければならなくなる。『論理学研究』でイデア主義・論理主義の立場を採りながらも、フッサールがその後、例えば『事物と空間』などで身体感覚の詳細な分析に着手し始めたのはこのためである。

物体は三次元的であるはずだが、人間の視覚は二次元的であるので、物体はそのつど非十全的な射映を通してしか現出しない [Husserl: Ding und Raum,S.117] 。人間は有限な存在者であるから、空間は無媒介に最初から三次元として与えられず、触覚など他の身体感覚の補足によって初めて二次元から構成される。それはちょうど、時間も有限な人間には無媒介に一つの直観において四次元体としては描出されず、ただ過去把持/未来予持、記憶/予期等によって三次元から構成されるのと似ている。

もっともフッサールはカントのように「無限な神ではない有限な人間には」式の議論はしない。「我々にとっても神様にとっても視覚領域は[三次元の]空間ではないし、そのような領域の断片は[三次元の]物ではない」[ibid] 。フッサールにとって時間空間は、直観形式ではなくて直観されたノエマの形式であるから、人間にとっても神にとっても同じ様に見えるわけである。

フッサールによれば、空間を客観的に構成するためには視覚と触覚だけでは不十分である。「そのためにはさらに新しい感覚が必要なのであって、ここに我々は運動感覚(Bewegungsempfindung)を語ることになる。もちろんこの感覚は[時間感覚を含めた他の感覚と同様に]、生化する“統握”において描出する内容とは全く別の地位と機能を持つ。それは自らを描出することなく描出を可能にする」 [Husserl: Ding und Raum,SS.160-161] 。

この《運動感覚》がキネステーゼ(Kinästhese)である。例えば、球体という三次元体の認識を考えてみよう。

  1. イデアールには、それは円の任意の直径を軸に回転運動させてやることによって構成される[g]。だがこの三次元的構成は、円へとおのれを移し置き、“あたかも私がそこにいるかの如く als ob ich dort wäre” という疑似措定的意識において自らの回転運動のキネステーゼを想起によって現前化することを通して類比的に統握される。
  2. レアールには眼前の物体が球体かどうかは、その物体のまわりをぐるりと回るキネステーゼによって認識される。もし裏側にくぼみでも見つければ私の予期は幻滅されるし、そうでもなければ最初の空虚な予期は充実される。球体のまわりを回らずに、球体そのものを手で回しても操作としては同じである。さらにこの操作は最初に見た球体の輪郭の円を回転運動させることと等価であるので、結局1は2と同じなのである。

視覚空間が三次元的であることを認識するためには(想像の身体運動のそれをも含めた)キネステーゼが必要であることから、「空間を認識するためには認識自体が空間的でなければならない」という最初のテーゼが肯諾されえる。

[g] 幾何学的には、三次元体は二次元体から構成されるが、我々にとっては前者のほうが後者よりも生活世界的に先与的である。「我々は空間においてはじめて平面を持つ。空間が構成されないところに平面はないし、全き物体が構成されないところに物体の投影図もない」 [Husserl: Ding und Raum,S.205] 。

カントは超越論的統覚の時間性を認めたものの、空間性=身体性までは認めていないので、この点がフッサールとの相違だとも考えられる。カントは二次元空間から三次元空間への超越を超越論的統覚による超越論的演繹に求めたのであるが、メルロ=ポンティが評するように、このような「超越論的自我 l’Ego transcendantal」の理説は確かに「上空飛行 survol」[Merleau-Ponty, Le visible et l’invisible,p.169,p.179 etc] ではある。

カントはしかし認識の身体性をまったく認めていないわけではない。ひとはここで『プロレゴーメナ』その他の論文 [Kant: Prolegomena zur einer jeden künftigen Metaphysik,SS.285-286;Kant, Abhandlungen nach 1781,SS.134-135 etc.] に頻出する有名な「右と左」の議論を想起すべきである。右手と(それが鏡に写ったものとしての)左手は「論弁的 diskursiv」には区別がつかないが、重ね合わせることはできない。右と左、さらには、上と下・ 前と後などの方向は身体感覚によって「直観的 intuitiv」に、つまり 主観的に理解されるしかないのであるが、我々はこのような主観的な区別でもって客観的な空間を方向付けている点で、空間は身体図式にその母体を持っていると言える。

時間と空間はそれぞれ部分-全体の関係を持っている。我々は断片から断片へと“把捉の総合”を続けて時空の直観的全体を構成する。では時間と空間はどういう部分-全体の関係にあるのだろうか。フッサール によれば、時間は空間を部分とする全体である。運動する各時点における空間的延長体の諸断片は、時間という非独立的部分を自分に引き付けることによって相互に関係し合う、つまり運動となりうる [Husserl: Logische Untersuchungen 2,SS.295-300] 。

カントもまた、運動(変化)はむしろ持続する基体を前提するとして、この基体を“時間=純粋統覚”に求めた[i]のであったが、『論理学研究』におけるフッサールは超越論的自我を立てようとしない(超越論的観念論への移行はナトルプの批判を受けてからである)。超越論的自我の問題は6まで先送りにしておきたい。

[i] フッサールも『イデーン』で同様のことを主張している。各コギトは成立したり消滅したりするが、純粋な主観はそうではない。すなわち各コギトは変化するが、変化すること自体は変化しない [Husserl: Ideen 2,S.103] 。さもなくばAがBに変化した時、「変化した」自体が「変化しない」に変化して、かくしてAはBに変化したことにはならなくなってしまう。

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  9 コメント

  1. 志向的本質と志向的質料の違いがよく分からないのですが。変動する「質料」を同一的に統一する「本質」が、「部分と全体の関係にある」とは具体的にはどういう状況を考えればよいのでしょうか?

  2. 類は種を外延的に包括しているということです。

  3. なるほど。しかし、実的成素(reeller bestand)が、レアールなレベル(表2)というのはどういうことなのでしょうか。たしかフッサールはrealとreellは区別されるのですよね。あと、表2の「相関性」とは何でしょうか。・・・素朴な質問ですみません。

  4. レアールとレエール、イデアールとイデエールは、ノエマとノエシスの関係にあります。相関性とは能動と受動の相関関係のことです。

  5. 有難うございます。・・・というか先の私の投稿はBestandが大文字になってなかったり、ダメダメでした。出直してきます。

  6. Bestantを辞書で引くと「存立」と出てきます。
    ということは実的成素はactual state of beingで良いのでしょうか?

  7. 英語でどう訳されているかは知らないので、Ideas: General Introduction to Pure Phenomenology でも読んで、調べてください。ネットで調べると、“real make-up of the intentional experiences”などという表現で説明されているようです。

    ドイツ語の“Bestand”の動詞は、“bestehen”で、「… から構成される」という意味と「固執する」という意味があります。前者の意味を強調すると「成素」(日常言語的には「在庫」)という意味になるし、後者の意味を強調すると「存立」という意味になります。フッサールの場合、志向的体験が感覚与件と統握から構成されているという意味で、「成素」と訳されます。

  8. 永井先生はノエシス・ノエマ構制によってイデア性とレアール性をそれぞれ二重化さていると理解してよいでしょうか。
    そうなると志向的統握は四重化されることになりますね。
    愚見ながら申し奉り候。

  9. 統握やノエシスは、作用全体を意味する広い概念ではありません。作用と内容が、イデアールとレアールで四重化されるというのならわかりますが、このページを読んでいただければわかるように、現象学の区分はもっと複雑です。

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