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現象学的に根拠を問う(02)超越論的現象学の基礎的構図

1997年9月2日

『現象学的に根拠を問う』第一章第一節:数学基礎論でのフッサールの直観主義的立場、フッサールの超越論的現象学とカントの超越論的哲学との関係、フッサールによる志向性や時間空間の基礎的分析などを考察する。

『現象学的に根拠を問う』の画像
このページは電子書籍『現象学的に根拠を問う』の一部です。

フッサールは、最初から哲学を志向していたのではなかった。ライプチィヒ大学で天文学を学んだ後、ベルリン大学でヴァイアシュトラースやクロネッカーのもとで数学の研究を行い、「変分法」に関する数学論文で学位を取得した。教授資格論文は「数の概念について」で、これは『算術の哲学』の原型となった。そして、ブレンターノとの出会いをきっかけに、哲学を自分の一生の仕事としようと決意した。天文学から数学へ、数学基礎論から哲学へと、フッサールの関心は、より根源的かつ基礎的なものへと移っていった。絶えず根拠を問おうとする姿勢は、フッサールの生涯を通じて変わることはなかった。

今日、現象学に興味を持つ学者は、人文系に多いのだが、フッサールの研究の出発点が数学基礎論である以上、現象学の原点を探ろうとするなら、若きフッサールが置かれていた当時の数学界の論争状況を理解しておかなければならない。フッサールが最初の著作『算術の哲学』を書いていた頃、すなわち十九世紀の末から二十世紀の初頭にかけての時期は、数学基礎論がホットなテーマであった時代だった。クワインによれば、この時代に起きた数学基礎論をめぐる論争は、中世における普遍論争の再燃であった。

普遍者に関する中世の三つの主要な観点は、実在論[realism 実念論]、概念論[conceptualism]、唯名論[nominalism]と歴史家によって呼ばれている。二十世紀の数学の哲学を展望すると、本質的にこれと同じ三つの説が、論理主義[logicism]、直観主義[intuitionism]、形式主義[formalism]という新しい名前のもとで再び現われてくる。[1]

中世における普遍論争とは、普遍が実在するかどうかに関するスコラ哲学における論争で、アンセルムスなどの実在論者が、実在するのは普遍で、個物はその影にすぎないというプラトン的立場を採ったのに対して、ロスケリヌスなどの唯名論者は、実在するのは個物だけで、普遍は「音声の風 flatus vocis」にすぎないと言った。これに対して、アベラールは、普遍と個物の両方が実在するという概念論を提唱した。すなわち、普遍は概念として実在し、個物は概念によって認識されることで実在するというのだ。

二十世紀の数学基礎論をめぐる論争のきっかけを与えたのは、十九世紀に登場したカントールの集合論であった。中世のスコラ学者が普遍が実在するかどうかを議論したように、二十世紀の数学者たちは、無限の要素を持つ集合(無限集合)のような、人間の心が直観的に把握できない、そして後にパラドックスを帰結することが発見される抽象的概念の対象が実在するのかどうかをめぐって論争した。フレーゲやラッセルやホワイトヘッドはそうした対象が、人間の心とは独立に実在していると考えた。この立場は、実在論に相当するプラトン主義で、論理主義と呼ばれた。ラッセルとホワイトヘッドは、集合論のパラドックスをタイプ理論という対処療法で切り抜けようとした。

他方で、数学的概念を数学者の直観から切り離そうとしない概念論的な立場が、直観主義で、フッサールの師であるクロネッカーもこの立場だが、その代表はブラウワーである。直観主義では有限集合に関して「P であるか P でないかどちらかである(P ∨ ¬P)」という排中律の適用を許すが、無限集合に対しては許さない。例えば、「素数の個数は有限である」という命題が否定されたからといって、「素数の個数は無限である」という命題が証明されたことにはならないということである。あるいは、ブラウワーが好んだ、もっと有名な例を挙げると、円周率の十進法による表記で、7 が 10 個連続して現れることは、現在の有限な知識では確認されていないが、だからといって、絶対に現れることはないとは言えない。

π = 3.14159 … 7777777777 …

これもまた肯定も否定もできないのだから、排中律が適用できない。

フッサールは、当初、ブレンターノの影響で、心理主義的な直観主義の立場を採った。『算術の哲学』で、数えるという心的作用に自然数を基づけようとしたのだ。フッサールは、『論理学研究』の冒頭で心理主義の放棄を宣言し、その反動で、論理主義に近い立場をとったものの、プラトン主義者になることはなかった。フッサールは、70歳の時に公刊した『形式論理学と超越論的論理学』において、排中律が無条件に成り立つことに疑問を呈している[2]。そもそもブラウアーの直観主義自体が、フッサールの哲学の影響を受けており、フッサールは、自分で明言したことはないが、数学基礎論の分野では直観主義に属していたと言える。

形式主義は、ヒルベルトが主張した立場で、数学的概念の対象が客観的に実在しないとする点で、直観主義と同じだが、こちらはより唯名論的である。ヒルベルトによると、数学は公理と推論法則という一定のルールに基づいて記号を操作するゲームに過ぎず、有限集合においてさえ、記号の対象を直観的に把握する必要がない。点、線、平面と言う代わりに、テーブル、椅子、ビールジョッキと言ってもかまわないとまで言うのだ。この立場をとると、数学はたんなるトートロジーのシステムになってしまい、数学と現実との、そして人間の直観的理解との接点が失われてしまう。

私は、前著『カントの超越論的哲学』で、カントの超越論的哲学は、大陸の独断論的合理論と英国の懐疑論的経験論を足して二で割った折衷的な哲学ではなく、両者共通の大前提を否定した新しい哲学であったことを述べた。

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前カント哲学の地平。

中世の普遍論争における概念論は、通常、実在論(独断論的合理論)と唯名論(懐疑論的経験論)という両極端の折衷と理解されている。たしかに当時はそうだったかもしれない。しかし、概念論をカント的なパラダイムで位置付けるなら、そうとは言えなくなる。数学基礎論における直観主義も同じである。直観主義は、無限集合に排中律を適用することを認めない。ブラウワーは「全ての数学的種は有限か無限かのどちらかである[3]」とは考えなかった。カントもまた「世界は有限か無限かのどちらかである」といった二律背反の定立と反定立のどちらか一方が正しいとは考えなかった。カントが無制約的な物自体の認識を断念したように、直観主義者は無限集合に関する断言を回避した。数学基礎論において直観主義的な立場を採っていたフッサールは、この点でカントに近いと言える。

フッサールは、認識対象とも認識作用とも異なる認識内容という第三の領域に現象学の領域を見出した。ここで、認識対象、認識内容、認識作用のそれぞれに、物自体、現象、統覚を当てはめるなら、フッサールのスタンスは、物自体から区別された現象にターゲットを定めたカントの立場と類似する。フッサールにとっての認識対象は、カントの物自体とはまた異なるのだが、フッサールの超越論的現象学は、第三領域に着目するという点で、カントの超越論的哲学にかなり近い。

フッサールも実際そう考えていた。フッサールは、初期の『論理学研究』において既に「適当な保留条件を付けてのことだが」、「カントの説に親近感を持ち」、「主たる傾向においてはカントに共鳴して[4]」いたし、中期の『イデーン』以降、超越論的観念論の立場を採るに至ってはますますカント(ないし新カント学派)に近付いて行った。しかも「保留条件」を付けた所以のカントとの相違なるものが、「カントは認識を生理学的心理学的に主観化した」という恩師ブレンターノの誤解釈によるので、第三者的に見ればほとんど差がないように見える。

ではフッサールはカントの延長線上でたんにより詳細な議論を展開しただけかといえばそうでもない。両者は同じ超越論的哲学であっても、ある根本的なところで相違しているように思われる。フッサールによるカント批判としては、

  1. 心理主義 → 人間主義
  2. 現象学的還元の欠落
  3. 神秘的な物自体の想定
  4. 感性と悟性の二元論 → 直観の矮小化
  5. ノエシスとノエマの混同 → 作用一元論
  6. 構成主義 → 規範主義
  7. 自然科学主義的な関心の狭さ
  8. 間主観性の考察の欠如

などが挙げられる[5]。今言ったようにAは明らかに誤解であるし、BとCもカント批判として必ずしも妥当ではない。D~Fは、結局受動的直観を軽視した規範主義批判という論点に落ち着く。ここはカントとフッサールの重要な差がある。論点Gもこの問題圏に係わってくる。Hがカントの超越論的哲学の盲点となっているのはそのとおりである。いずれにせよフッサールのカント批判の是非を検討しようとすれば、フッサールの超越論的哲学そのものに立ち入らなければならないことは言うまでもない。

私は『カントの超越論的哲学』で超越論的哲学を部分的モメントが部分性を超越して全体性へと係わることの学的反省と特徴付けたが、このことはフッサールの超越論的哲学には特にあてはまる。彼が扱う部分と全体の関係は、

  1. 志向的諸契機と志向的全体
  2. 時間空間の直観的延長の諸断片とその全体
  3. 直観的個別体とその意味的懐胎
  4. 単一的意味と複合的意味
  5. 個物または下位の種とその上位の類
  6. 超越論的主観性と超越論的経験
  7. 個別的主観性と間主観性

であるが、これら相互がさらに部分-全体の(必ずしも入れ子式の単純な関係ではない)包摂関係を成している。第一節では1と2を、第二節では3と4と5を、第三節では6と7を扱うが、節分けは概ね、『カントの超越論的哲学』の感性論・分析論・弁証論の区分に合致する。

1. 第一節 超越論的現象学の基礎的構図

本節では、志向性と直観的延長(時間と空間)という現象学の基礎的構図について扱う。

1.1. 第一項 志向的諸契機と志向的全体

志向性の概念は、アリストテレスのディアノイア(思惟すること)/ディアノエートン(思惟されること)に関する議論[6]に端を発し、スコラ哲学のインテンチオ(intentio)論を経て、ブレンターノやフッサールに受け継がれた概念であった。志向的関係においては、志向すること(ノエシス)と志向されたこと(ノエマ)が両関係項として認知されるが、フッサールはたんに意識内在主義に留まることなく、意識超越的な対象への超越も考察した。そもそも、意識内在的な表象は、意識超越的な対象との区別によって概念的に可能になるのだから、これは当然のことである。かくして《志向的対象-志向的内容-志向作用》なる三項図式[7]が生じる次第であるが、彼の言う対象と内容の区別は、カントにおける物自体と現象の区別というよりも、むしろ現象の内部での区別である。カントの用語で強いて表現すれば、超越論的対象=X[8]と経験の関係に近い。

フッサールがカントと異なるのは、彼が対象に対する内容の独自性を認めようとしたことにある。例えば「浦島太郎」のような空想の表象のように、実在しないがゆえに対象ではないものの、それでも志向作用の客観であるような志向的内容が、意識の事実として存在する。『判断力批判』という例外があるにせよ、カントが空想をあまり重視しなかったのに対して、フッサールは次のように、パラドキシカルな表現で空想の重視を表明している。

“虚構”は、全ての形相的学問にとってそうなのだが、現象学にとって生命となる要素である。虚構は、そこから“永遠の真理”の認識がその栄養を得るところの源泉なのである。[9]

だがフッサールは、意識内在的な立場に留まることに満足せず、意識内容から意識対象への超越を試みる。もっともその時の対象とは、レアールな対象ではなくてイデアールな対象である。イデアールな対象(対象的意味)とは、ノエマの核の奥にあって、射映するノエマの諸固有性を担う「空虚なX[10]」であって、その十全的な所与性は「カント的な意味での理念[11]」と言うのだから、その限りではフッサールの「対象」も物自体的な性格を持つ。

次に志向的内容と志向作用の関係を見よう。まず志向的内容である「現象 Erscheinung」の内部で、「そこにおいて客観の現象が存立する体験 das Erlebnis,in dem das Erscheinen des Objektes besteht」と「現象する客観そのもの das erscheinende Objekt als solches」とが区別されなければならない[12]。前者は作用の記述的内容で、より頻繁には「実的成素」と呼ばれる志向的質料である。この変動する質料を同一的に統一するのが後者(志向的本質)で、前者と後者は部分と全体の関係にある。

志向的質料はさらに志向的性質から区別されなければならない。志向的性質とは、例えば「表象する」「判断する」「疑う」「願う」などの作用の様相のことである。これらの中で「表象する」は最も基礎的で、したがってまた全ての志向的質料の性質でもある。

他の全ての志向的本質が性質と質料の複合であるのに対して、表象の志向的本質は、たんなる質料、あるいはお望みとあらば、たんなる性質である。[…]それ自体において考察するならば、質料それ自体は“性質”即ち表象性質に他ならないことになろう。[13]

だから志向的本質の最高類は表象であって、知覚が最高類として他の全ての志向性を基づけるわけではない。単純表象は直観や同意によって充実されなくとも存立しうるが、知覚はそれが幻想でないためには信憑性質が付け加わらなければならず、したがって単純ではないからである。『論理学研究』での「表象」は『イデーン』では「根源信念 Urglaube/根源臆見 Urdoxa[14]」と呼ばれ、部分から全体への超越の出発点となっている[15]

最高類概念としての表象は様々に種別化されるが、志向的性質という点では様相上の諸変様が生じる。但しその際、ノエマ的な志向される対象/内容の様相とノエシス的な志向的性質の様相、例えば、

《確実であること》と《確信すること》、

《蓋然的であること》と《推測すること》、

《不確かであること》と《疑うこと》

は区別されなければならない[16]。カントは「判断の様相は判断の内容には何ももたらさず、[…]ただ思惟一般との関係におけるコプラ[命題の主辞と賓辞とをつなぐ繋辞]の価値にのみ係わる[17]」と言うが、フッサールは様相を“主観的な色付け”とは考えない。確実な存在を疑わしいと疑ったり、疑わしい存在を確実だと思念したりする場合があるから、ノエシスの様相とは別にノエマにも様相があると考えなければならない。もしも様相の「述語が実際にはただ関係付けるだけの反省の述語であるなら、それは専ら作用面への顕在的反省において、そしてそれとの関係においてのみ与えられることになろう。だが明らかに当の述語はそのような反省によって与えられるのではない。私たちは相関者の固有の事象を、まさにその相関者へと直接眼差しを向けつつ統握するのである[18]」。

ここにフッサールの直観主義とカントの規範主義との相違がよくでている。カントおよび新カント学派は「認識 Erkenntnis」は「認識する erkennen」という行為とみなし、論理学を、認識行為を統制する規範学と認識していた。だが、全ての erkennen は「何かを認識する erkennen etwas」ことであって、現象学はこの「何か etwas」の方を重視する。もとよりフッサールも「判断すること(根本的に特殊には、もちろん認識することとしての判断すること)はまた行為でもある[19]」、あるいは、認識行為という「創造によって獲得される諸統一性が規範である[20]」と言って、認識が行為であることを認めているが、最初の引用文中の「また auch」に注意しよう。認識は行為でもあるが、「また」意味の体験でもあるということだ。

フッサールは、志向性(Intention 意図)の動詞 intendieren が、ブレンターノにおいてそうであるように、理論的な「注意する aufmerken」と実践的な「目指す abzielen」との二義性を孕んでいることを指摘する。英語の“intention”にも、古くは、「専念する」という意味が「意図する」という意味とともにあった。両者の間には、前者が直観の「作用 Akt」によって「充実 erfüllen」されるのに対して、後者は目標実現の「行為 Akt」によって「達成 erzielen」されるという平行関係があるのだが、フッサールは、「ここでは[志向作用が問題となるとき]もちろん actus という根源的な語義をもはや考えてはならないのであって、活動の考えは完全に払拭されなければならない[21]」、さらには、「私たちは“活動性の神話 Mythologie der Tätigkeit”を斥け、“作用 Akt”を心的活動としてとしてではなく志向的体験として定義する[22]」と言っている。これは、たんなる心理主義批判という以上に、カント的な構成主義に対する批判と解釈できる。

実際、フッサールは「構成する konstruieren」という構成主義的な表現を避け、「おのずと構成される sich konstituieren」といった受動的な言い回しを用いていて、ここに後年の「受動的総合」の萌芽が見られる。ハイデガーも、現象学に謂う所の「現象(ファイノメノン)」をギリシャ語の語源にまで遡って「自己自身において自己を示すもの das Sich-an-ihm-selbst-zeigende」というように、認識主体の能動性を否定する定式化を行っている。このように、現象学においては、根源的な真理は能動的に構成されるのではなくて、すでにおのれほうからおのれを開示している真理が受動的に観取されるだけなのである[23]。ここに現象学の特徴と同時に問題点があるように思われる。

フッサールによる志向性の構造分析をまとめると以下のような図になる。

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論理学研究』における志向性の構造

これを表形式にまとめ、日本語に訳すと、以下のようになる。

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論理学研究』における志向性の構造の要約

この表では、イデアール(ideal)/レアール(real)の区別と対象/内容/作用の区別とから、大きく六つに領域が分かれている。この領域区分に基づいて、以下のように、フッサールの現象学を、意味の領域を認識内容に求める立場と位置付けることができる。

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フッサールの現象学の位置

この立場は、真理/意味を言語内在的に捉えようとする立場なのであるが、その領域は、『カントの超越論的哲学』で示した「超越論的哲学の四角形」において、どのように位置付けたらよいであろうか。

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カントの超越論的哲学の四角形[24]

以下のような位置付けでは、言語哲学的には不十分である。

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カントにおける媒介的第三者の位置[25]

説明の便宜上、ここで、フッサールの同時代人で、より詳細に言語の研究を行ったソシュールを取り上げてみよう。ソシュールは、シーニュの要素をシニフィアン/シニフィエ、形相/実質の区別を交差させて分析した[26]が、それを図解すると、以下のような四角形TA-EA-EI-TIになる。

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言語の四角形。言語の四角形。各頂点の文字のうち、T と E は、それぞれ超越論的(Transzendental)と経験的(Empirisch)、つまり、形相と実質に相当し、A と I は、それぞれシニフィアン(signifiAnt)とシニフィエ(signifIé)に相当する。

一方、「超越論的哲学の四角形」は、ソシュールの用語を用いれば、次のように表現される。

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超越論的哲学の四角形。S は主観(Subjekt)、O は客観(Objekt)を表す。

二つの四角形を交差させると、以下のような直方体のモデルができる。

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言語的認識の直方体モデル

この直方体を言語の四角形に垂直に眺めれば、この表 で区分した六つの領域が六つの頂点に一致していることに気が付く。その視点からすれば、言語の四角形は超越論的四角形の中間を横切る媒介的第三者(カントが謂う所の図式)の位置にあることがわかる。このことは、意識は言語を媒介にして事物を認識していることを意味している。また逆に超越論的哲学の四角形は、言語的四角形の中間を横切っている。このことは、意識による事物の認識を媒介にしてシニフィアンはシニフィエと結び付くことを意味している。

フッサールは、前期ウィトゲンシュタインと同様、《表現 Ausdruck》 と《表現されるもの Ausgedrücktes》の関係を、言語記号内部のシニフィアン/シニフィエの関係としてではなく、認識内容と認識対象の関係として理解してしまった。そしてここに彼等のイデア主義的誤謬の源泉がある。

1.2. 第二項 時間空間の直観的延長の諸断片とその全体

志向性の構造分析は、まずその直観的な基礎から始めなければならない。フッサールによれば,「直観形式(Anschauungsform)というのは根本的に誤った考えであり、カントにおいても致命的な謬見を含意していた[27]」。これはカントのノエシスとノエマの混同に対する批判のコロラリーである。

平面の知覚はなんら平面ではない。[…]そしてこの平面は四角形その他などであろうが、知覚は四角形その他ではない。[28]

要するに、差し当り直観形式の一つである空間に関して言えば、知覚すること(ノエシス)と知覚されたもの(ノエマ)は同じでないということである。知覚は延長(Ausdehnung)の契機を含んでいるが、それは知覚された空間が延長している(ausgedehnt)からであって、知覚自体はそうではない。フッサールにとって、空間は《直観の形式》ではなくて、《直観されたものの形式 Form des Angeschauten》なのである。

時間に関しても「感覚の継続と継続の感覚は同じではない[29]」として、ノエシスとノエマが区別されるのだが、ここではノエマだけでなくノエシスそのものが時間性を帯びている点に注目しなければならない。「時間的客観の知覚それ自体が時間性を持つこと、持続の知覚はそれ自体知覚の持続を前提していることは自明である[30]」。

私たちは、例えば音楽を、連続性をもったメロディーとして聞くことができる。だがもしも私が時間的でなくて時点的な存在者で、したがってそのつどの時点での各音を聞くだけかあるいは全ての音を一時点において聞くだけなら、私はメロディーを聞くことはできないはずである[31]。したがって、私たちは、時間軸における幾何学的な点のような存在者ではなく、ある程度厚みを持った時間的存在者であるということになる。

フッサールはここから「過去把持-未来予持 Retention-Protention」なる時間性の構造を摘出する[32]。これは想起や予期のような現在と連続しない過去や未来を現在に引き寄せる意識様式から区別されなければならない。時間構成に際して《過去把持-未来予持》には限界があって《想起-予期》に頼らなければないところは、人間の時間性の有限性である。超時間的な神ならぬ時間的存在者、人間には、時間は“過去-現在-未来”の相で開ける、という意味で人間の時間構成は人間の構成時間によって制約される。ノエシス的時間とノエマ的時間が違うからこそ、過去を含んだ現在(想起)や現在を含んだ過去(過去における予期)などの組合わせが可能なのである。

だが両者は全く違う時間なのだろうか。フッサールによれば、時間構成の流れは「構成されたものに従ってそう[流れと]呼ばれるのであるが、しかしそれは時間的に“客観的なもの”ではない。それは絶対的な主観性であって、“流れ”の比喩でもって特徴付けられるべきもの[一つの顕在的な点=今なる根源的点]から湧き出るもの等々のような絶対的固有性を持つ[33]」。

「時間とは何か」の問いに対してフッサールは「もしだれも私に問わなければ、私は時間を知っている。もし問う者に解き明かそうとすれば、私は知らない」という、アウグスティヌスのおなじみの言葉を引用している[34]が、結局「名前が無い[35]」と言って逃げてしまう。

ともあれ《絶対的主観性》を超時間的にではなくて、時間の流れで捉えているところは注目すべきである。「反省において、私たちはただ一つだけの[時間の]流れを見いだすが、その流れは多くの流れに分かれる。この多数性はしかしながら一つの流れについて語ることを許し、要求する統一性をもっているのである[36]」。

要するに、複数の時間があるのではなくて、一つの時間に複数の時間客観があるということだ。当然のことながらノエシス的時間とノエマ的時間は同じ一つの時間でなければならない。両者は、時間客観の単一性を構成することによって構成時間の単一性が構成される[37]という関係で統一される。フッサールはこの一なるものを「結合するある形式 eine verbindende Form[38]」と呼ぶが、カントならアプリオリな形式であるがゆえにひとつであると説明するところであろう。

フッサールは、空間認識自体が空間的であることを否定したが、ちょうど時間を認識するためには認識自体が時間的でなければならないように、空間を認識するためには認識自体が空間的でなければならない。そのため、フッサールも、意識の身体性、キネステーゼの理論を打ち出さなければならなくなる。『論理学研究』でイデア主義・論理主義の立場を採りながらも、フッサールがその後、例えば『事物と空間』などで身体感覚の詳細な分析に着手し始めたのはこのためである。

物体は三次元的であるはずだが、人間の視覚は二次元的であるので、物体はそのつど非十全的な射映を通してしか現出しない[39]。人間は有限な存在者であるから、空間は無媒介に最初から三次元として与えられず、触覚など他の身体感覚の補足によって初めて二次元から構成される。それはちょうど、時間も有限な人間には無媒介に一つの直観において四次元体としては描出されず、ただ過去把持/未来予持、記憶/予期等によって三次元から構成されるのと似ている。

もっともフッサールはカントのように「無限な神ではない有限な人間には…」式の議論はしない。「私たちにとっても神様にとっても視覚領域は[三次元の]空間ではないし、そのような領域の断片は[三次元の]物ではない[40]」。フッサールにとって時間空間は、直観形式ではなくて直観されたノエマの形式であるから、人間にとっても神にとっても同じ様に見えるというのだ。

超弦理論によれば時空体は10次元であるし、M理論によれば、11次元である。他方で、ホログラフィック原理によれば、私たちが3次元だと思っている宇宙は、事象の境界面における2次元の情報をホログラムのように投影したものにすぎない。もちろん、こうした物理学的な時空のモデルは、認識対象に関するもので、認識内容に関するものではないと反論することもできる。しかし、神が人間の意識内容を超越できるのだとするなら、神も人間と同じように空間を直観するとは言えないはずだ。この点では、カントの時空論の方がフッサールの時空論よりも無難である。

神の認識は措くとして、再び現象学的に人間の認識に話を戻そう。フッサールによれば、人間が空間を客観的に構成するためには、視覚と触覚だけでは不十分である。「そのためにはさらに新しい感覚が必要なのであって、ここに私たちは運動感覚(Bewegungsempfindung)を語ることになる。もちろんこの感覚は[時間感覚を含めた他の感覚と同様に]、生化する“統握”において描出する内容とは全く別の地位と機能を持つ。それは自らを描出することなく描出を可能にする[41]」。

この《運動感覚》がキネステーゼ(Kinästhese)である。例えば、球体という三次元体の認識を考えてみよう。

  1. イデアールには、それは円の任意の直径を軸に回転運動させてやることによって構成される[42]。だがこの三次元的構成は、円へとおのれを移し置き、“あたかも私がそこにいるかの如く als ob ich dort wäre” という疑似措定的意識において自らの回転運動のキネステーゼを想起によって現前化することを通して類比的に統握される。
  2. レアールには眼前の物体が球体かどうかは、その物体のまわりをぐるりと回るキネステーゼによって認識される。もし裏側にくぼみでも見つければ私の予期は幻滅されるし、そうでもなければ最初の空虚な予期は充実される。球体のまわりを回らずに、球体そのものを手で回しても操作としては同じである。さらにこの操作は最初に見た球体の輪郭の円を回転運動させることと等価であるので、結局1は2と同じなのである。

視覚空間が三次元的であることを認識するためには(想像の身体運動のそれをも含めた)キネステーゼが必要であることから、「空間を認識するためには認識自体が空間的でなければならない」という最初のテーゼが肯諾されえる。

カントは超越論的統覚の時間性を認めたものの、≪空間性=身体性≫までは認めていないので、この点がフッサールとの相違だとも考えられる。カントは二次元空間から三次元空間への超越を超越論的統覚による超越論的演繹に求めたのであるが、メルロー=ポンティが評するように、このような「超越論的自我 l’Ego transcendantal」の理説は、たしかに「上空飛行 survol[43]」ではある。

カントはしかし認識の身体性をまったく認めていないわけではない。ひとはここで『プロレゴーメナ』その他の論文[44]に頻出する有名な「右と左」の議論を想起すべきである。右手と(それが鏡に写ったものとしての)左手は「論弁的 diskursiv」には区別がつかないが、重ね合わせることはできない。右と左、さらには、上と下・ 前と後などの方向は身体感覚によって「直観的 intuitiv」に、つまり 主観的に理解されるしかないのであるが、私たちはこのような主観的な区別でもって客観的な空間を方向付けている点で、空間は身体図式にその母体を持っていると言える。

時間と空間はそれぞれ部分-全体の関係を持っている。私たちは断片から断片へと“把捉の総合”を続けて時空の直観的全体を構成する。では時間と空間はどういう部分-全体の関係にあるのだろうか。フッサール によれば、時間は空間を部分とする全体である。運動する各時点における空間的延長体の諸断片は、時間という非独立的部分を自分に引き付けることによって相互に関係し合う、つまり運動となりうる[45]

カントもまた、運動(変化)はむしろ持続する基体を前提するとして、この基体を“時間=純粋統覚”に求めたのであったが、『論理学研究』におけるフッサールは超越論的自我を立てようとしない(超越論的観念論への移行はナトルプの批判を受けてからである)。超越論的自我の問題は第三節の6で扱うことにしたい。

2. 参照情報

  1. Quine, Williard V. From a Logical Point of View: Nine Logico-Philosophical Essays. 1953. Harverd University Press. p. 14.
  2. Husserl, Edmund. Formale und transzendentale Logik: Versuch einer Kritik der logischen Vernunft. 1929. Husserliana, Edmund Husserl Gesammelte Werke, Bd. 17. Martinus Nijhoff. ed. Paul Janssen. §.77.
  3. Brouwer, Luitzen Egbertus Jan. “On the significance of the principle of excluded middle in mathematics, especially in function theory". 1923. From Frege to Gödel, A Source Book in Mathematical Logic, 1879-1931, Harvard University Press, Cambridge, MA, 1967. ed. van Heijenoort.
  4. Husserl, Edmund. Logische Untersuchungen. Erster Teil. Prolegomena zur reinen Logik. 1900. Husserliana, Edmund Husserl Gesammelte Werke, Bd. 18 . Martinus Nijhoff. ed. Elmar Holstein. p. 216-218.
  5. Kern, Iso. Husserl und Kant – Eine Untersuchung über Husserls Verhältnis zu Kant und zum Neukantianismus. 1964. Martinus Nijhoff. p. 55-113.
  6. Αριστοτέλης. Τὰ μετὰ τὰ φυσικά. アリストテレス. 『形而上学』 1959. 岩波書店. 出隆訳, 1021 a29-b3.
  7. これはカジミェシュ・トヴァルドフスキ以来流行した図式であった。Twardowski, Kasimir. Zur Lehre Vom Inhalt Und Gegenstand Der Vorstellungen: Eine Psychologische Untersuchung. Wien 1897. 語源的にも、「内容 Inhalt」は「中に保持 in-halten」されたもので、「対象 Gegenstand」は「向かい側に立つもの das Gegenüber-stehendes」である。
  8. Kant, Immanuel. Kritik der reinen Vernunft. Felix Meiner Verlag. 1967. A.109.
  9. Husserl, Edmund. Ideen zu einer reinen Phänomenologie und phänomenologischen Philosophie. Erstes Buch. “Allgemeine Einführung in die reine Phänomenologie". 1913. Husserliana, Edmund Husserl Gesammelte Werke, Bd. 3. Martinus Nijhoff. ed. Marly Biemel. p. 148.
  10. Husserl, Edmund. Ideen zu einer reinen Phänomenologie und phänomenologischen Philosophie. Erstes Buch. “Allgemeine Einführung in die reine Phänomenologie". 1913. Husserliana, Edmund Husserl Gesammelte Werke, Bd. 3. Martinus Nijhoff. ed. Marly Biemel. p. 303.
  11. Husserl, Edmund. Ideen zu einer reinen Phänomenologie und phänomenologischen Philosophie. Erstes Buch. “Allgemeine Einführung in die reine Phänomenologie". 1913. Husserliana, Edmund Husserl Gesammelte Werke, Bd. 3. Martinus Nijhoff. ed. Marly Biemel. p. 330.
  12. Husserl, Edmund. Logische Untersuchungen. Zweiter Teil. Untersuchungen zur Phänomenologie und Theorie der Erkenntnis. 1901. Husserliana, Edmund Husserl Gesammelte Werke, Bd. 19. Martinus Nijhoff. ed. Ursula Panzer. p. 359.
  13. Husserl, Edmund. Logische Untersuchungen. Zweiter Teil. Untersuchungen zur Phänomenologie und Theorie der Erkenntnis. 1901. Husserliana, Edmund Husserl Gesammelte Werke, Bd. 19. Martinus Nijhoff. ed. Ursula Panzer. p. 446.
  14. Husserl, Edmund. Ideen zu einer reinen Phänomenologie und phänomenologischen Philosophie. Erstes Buch. “Allgemeine Einführung in die reine Phänomenologie". 1913. Husserliana, Edmund Husserl Gesammelte Werke, Bd. 3. Martinus Nijhoff. ed. Marly Biemel. p. 241.
  15. フッサールは、「我々は、全質料に属するただ一つだけの客観化する性質[eine objektivierende Qualität]を見出す。一つ以上の客観化する性質が全体として見なされる唯一の質料に関係付けられることはありえない」と言っている(Husserl, Edmund. Logische Untersuchungen. Zweiter Teil. Untersuchungen zur Phänomenologie und Theorie der Erkenntnis. 1901. Husserliana, Edmund Husserl Gesammelte Werke, Bd. 19. Martinus Nijhoff. ed. Ursula Panzer. p. 517)。最も単純な表象/根源的信念は単位(Einheit)ではあるが、また統一性(Einheit)でもあるから、質料全体を志向する。それゆえ単純表象/根源的信念は、部分としての出発点ではなくて、全体としての出発点である。
  16. Husserl, Edmund. Ideen zu einer reinen Phänomenologie und phänomenologischen Philosophie. Erstes Buch. “Allgemeine Einführung in die reine Phänomenologie". 1913. Husserliana, Edmund Husserl Gesammelte Werke, Bd. 3. Martinus Nijhoff. ed. Marly Biemel. p. 239.
  17. Kant, Immanuel. Kritik der reinen Vernunft. Felix Meiner Verlag. 1967. A.74=B.100.
  18. Husserl, Edmund. Ideen zu einer reinen Phänomenologie und phänomenologischen Philosophie. Erstes Buch. “Allgemeine Einführung in die reine Phänomenologie". 1913. Husserliana, Edmund Husserl Gesammelte Werke, Bd. 3. Martinus Nijhoff. ed. Marly Biemel. p. 246.
  19. Husserl, Edmund. Formale und transzendentale Logik: Versuch einer Kritik der logischen Vernunft. 1929. Husserliana, Edmund Husserl Gesammelte Werke, Bd. 17. Martinus Nijhoff. ed. Paul Janssen.Husserl, Edmund. Formale und transzendentale Logik: Versuch einer Kritik der logischen Vernunft. 1929. Husserliana, Edmund Husserl Gesammelte Werke, Bd. 17. Martinus Nijhoff. ed. Paul Janssen. p. 176.
  20. Husserl, Edmund. Formale and transzendentale Logik. 1929. Husserliana, Edmund Husserl Gesammelte Werke, Bd. 17. Martinus Nijhoff. ed. Paul Janssen. p. 189.
  21. Husserl, Edmund. Logische Untersuchungen. Zweiter Teil. Untersuchungen zur Phänomenologie und Theorie der Erkenntnis. 1901. Husserliana, Edmund Husserl Gesammelte Werke, Bd. 19. Martinus Nijhoff. ed. Ursula Panzer. p. 393.
  22. Husserl, Edmund. Logische Untersuchungen. Zweiter Teil. Untersuchungen zur Phänomenologie und Theorie der Erkenntnis. 1901. Husserliana, Edmund Husserl Gesammelte Werke, Bd. 19. Martinus Nijhoff. ed. Ursula Panzer. p. 393.
  23. Heidegger, Martin. Sein und Zeit. 1927. Max Niemeyer Verlag. p. 28.
  24. 永井俊哉『カントの超越論的哲学』2014. 第一章冒頭.
  25. 永井俊哉『カントの超越論的哲学』2014. 第二章第二節第三項.
  26. 丸山圭三郎. 『ソシュールの思想』 1981. 岩波書店,p.127.
  27. Husserl, Edmund. Ding und Raum – Vorlesungen 1907. 1973. Husserliana, Edmund Husserl Gesammelte Werke, Bd. 16. Martinus Nijhoff. ed. Ulrich Claesges. p. 43.
  28. Husserl, Edmund. Ding und Raum – Vorlesungen 1907. 1973. Husserliana, Edmund Husserl Gesammelte Werke, Bd. 16. Martinus Nijhoff. ed. Ulrich Claesges. p. 17.
  29. Husserl, Edmund. Zur Phänomenologie des inneren Zeitbewusstseins 1893-1917. 1928. Husserliana, Edmund Husserl Gesammelte Werke, Bd. 10. Martinus Nijhoff. ed. Rudolf Boehm. p. 12.
  30. Husserl, Edmund. Zur Phänomenologie des inneren Zeitbewusstseins 1893-1917. 1928. Husserliana, Edmund Husserl Gesammelte Werke, Bd. 10. Martinus Nijhoff. ed. Rudolf Boehm. p. 22.
  31. Husserl, Edmund. Zur Phänomenologie des inneren Zeitbewusstseins 1893-1917. 1928. Husserliana, Edmund Husserl Gesammelte Werke, Bd. 10. Martinus Nijhoff. ed. Rudolf Boehm. p. 11.
  32. フッサールは、いかなる現在も未来において想起されうるという 意味で「未来予持 Protention」を持ち、実際に想起されることによって、その「予期の志向性 Erwartungsintention」は充実されると言う(Husserl, Edmund. Zur Phänomenologie des inneren Zeitbewusstseins 1893-1917. 1928. Husserliana, Edmund Husserl Gesammelte Werke, Bd. 10. Martinus Nijhoff. ed. Rudolf Boehm. p. 52f)。だがもしそうだとすれば、いかなる現在も過去において予期されえたという意味で過去把持を持つということになるのではないだろうか。いずれにせよ“過去把持-未来予持”は“想起-予期”とパラレルではない。
  33. Husserl, Edmund. Zur Phänomenologie des inneren Zeitbewusstseins 1893-1917. 1928. Husserliana, Edmund Husserl Gesammelte Werke, Bd. 10. Martinus Nijhoff. ed. Rudolf Boehm. p. 75.
  34. Husserl, Edmund. Zur Phänomenologie des inneren Zeitbewusstseins 1893-1917. 1928. Husserliana, Edmund Husserl Gesammelte Werke, Bd. 10. Martinus Nijhoff. ed. Rudolf Boehm. p. 3.
  35. Husserl, Edmund. Zur Phänomenologie des inneren Zeitbewusstseins 1893-1917. 1928. Husserliana, Edmund Husserl Gesammelte Werke, Bd. 10. Martinus Nijhoff. ed. Rudolf Boehm. p. 75.
  36. Husserl, Edmund. Zur Phänomenologie des inneren Zeitbewusstseins 1893-1917. 1928. Husserliana, Edmund Husserl Gesammelte Werke, Bd. 10. Martinus Nijhoff. ed. Rudolf Boehm. p. 76. 引用文中の「反省」とは過去把持の過去把持であるが、たんなる過去把持とは異なったメタレヴェルの超越論的反省である:「過去把持の過去把持[Retention von einer Retention]は、たんに間接的に過去把持されたものに関してだけでなく、第二階の過去把持において過去把持されたものに関しても志向性を持っている」(op. cit. p. 81)。
  37. Husserl, Edmund. Zur Phänomenologie des inneren Zeitbewusstseins 1893-1917. 1928. Husserliana, Edmund Husserl Gesammelte Werke, Bd. 10. Martinus Nijhoff. ed. Rudolf Boehm. p. 80.
  38. Husserl, Edmund. Zur Phänomenologie des inneren Zeitbewusstseins 1893-1917. 1928. Husserliana, Edmund Husserl Gesammelte Werke, Bd. 10. Martinus Nijhoff. ed. Rudolf Boehm. p. 76.
  39. Husserl, Edmund. Ding und Raum – Vorlesungen 1907. 1973. Husserliana, Edmund Husserl Gesammelte Werke, Bd. 16. Martinus Nijhoff. ed. Ulrich Claesges. p. 117.
  40. Husserl, Edmund. Ding und Raum – Vorlesungen 1907. 1973. Husserliana, Edmund Husserl Gesammelte Werke, Bd. 16. Martinus Nijhoff. ed. Ulrich Claesges. p. 117.
  41. Husserl, Edmund. Ding und Raum – Vorlesungen 1907. 1973. Husserliana, Edmund Husserl Gesammelte Werke, Bd. 16. Martinus Nijhoff. ed. Ulrich Claesges. p. 160-161.
  42. 幾何学的には三次元体は二次元体から構成されるが、我々にとっ ては前者のほうが後者よりも生活世界的に先与的である。「我々は空間においてはじめて平面を持つ。空間が構成されないところに平面はないし、全き物体が構成されないところに物体の投影図もない」(Husserl, Edmund. Ding und Raum – Vorlesungen 1907. 1973. Husserliana, Edmund Husserl Gesammelte Werke, Bd. 16. Martinus Nijhoff. ed. Ulrich Claesges. p. 205)。
  43. Merleau-Ponty, Maurice. Le visible et l’invisible, suivi de Notes de travail. 1964. Gallimard. ed. Claude Lefort. p. 169. p. 179 etc.
  44. Immanuel Kant. Prolegomena zu einer jeden künftigen Metaphysik, die als Wissenschaft wird auftreten können. 1783. Kant’s gesammelte Schriften (hrsg. von der königlich preussischen Akademie der Wissenschaften, Berlin) Abteilung 1, Band 4. p. 285-286;Kant, Immanuel. Abhandlungen nach 1781. Kant’s gesammelte Schriften (hrsg. von der königlich preussischen Akademie der Wissenschaften, Berlin) Abteilung 1, Band 8. p. 134-135 etc.
  45. Husserl, Edmund. Logische Untersuchungen. Zweiter Teil. Untersuchungen zur Phänomenologie und Theorie der Erkenntnis. 1901. Husserliana, Edmund Husserl Gesammelte Werke, Bd. 19. Martinus Nijhoff. ed. Ursula Panzer. p. 295-300.