9月 021997
 

フッサールの超越論的現象学は、カントの超越論的哲学とは異なって、言語と意味についての考察が豊富である。本節では、フッサールの言語哲学を全体部分関係論の観点から分析し、ノエシス・ノエマの構造をより詳細に解明する。

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3.直観的個別体とその意味的懐胎

時間空間的延長の諸断片(Stücke)は相互に独立的な部分であるが、これと結び付いている抽象的意味的契機(Moment)は非独立的である [Husserl: Logische Untersuchungen 2,S.272] 。例えば「赤」は赤いものから、「運動」は運動しているものから分離することはできない。これに対して、赤いボールと青いボール、転がっているボールと静止しているボールは相互に独立的で、分離しうる。

但し「独立的部分が分離しうる」というのは、それが他の共存する諸部分との融合から、したがって意識の統一から分離しうるということではなくて[t]、それが共存する諸部分あるいはそれを取り巻く背景がどう変化しても同一性を保持しうる独立変数であることを意味している。このようにフッサールの全体-部分関係論は、具体的個物だけでなく意味的抽象体をも変項(ないし定項)とする関数化の理論として特徴付けることができる。

[t] これは不可能である。例えば我々は頭という独立的部分を胴体から分離して表象することができる。しかしその場合でも頭は周囲の背景と融合しており、厳密には分離されていることにはならない [Husserl: Logische Untersuchungen 2,S.241] 。

フッサールはまた「全体」を部分から独立の実体としてではなく、次のように機能的=関数的に定義する。

我々は全体を、統一的な基づけ[eine einheitliche Fundierung]によって、しかもさらなる内容上の援用なしにそれだけによって包摂されるような諸内容の総体として理解する。

[Husserl: Logische Untersuchungen 2,S.282]

「基づけ」はさらに次のように定義される。

もしも[ある部分]α そのものが、α を[他の部分]μと結合する包括的統一性においてのみ本質法則的に現実存在しうるなら、α そのものは μ による基づけを必要としていると言う。

[Husserl: Logische Untersuchungen 2,S.267]

この定義は、先の独立的/非独立的の区別の定義とそぐわないように見える。というのも直観的延長においては、 α は独立的部分であり、μ と一方向的にも相互的にも基づけの関係にないので、かくして直観においては全体-部分関係が成り立たなくなるからである。

だがひとはここで「本質法則的には wesensgesetzlich」という限定に注意するべきである。例えば眼前にある机の直観的全体の諸部分は、たんなる延長としては「それが共存する諸部分がどう変化しても同一性を保持しうる」のだが、例えば机の脚は、机という全体から切り離されると、つまり他の諸部分によって基づけられなければ、もはや机の脚ではなくてたんなる木材の断片になってしまう。机の脚は、その《本質》=意味 の法則からして、机の他の諸部分によって一定の配列で基づけられていなければならないのである。もし延長の断片の本質的法則を無視してよいなら、延長には何らのまとまり(全体性)もないであろう。

基づけの先の定義に続けてフッサールはさらに次のように言う。

それゆえα0とμ0が、先述の関係にある純粋な類αとμの、一つの全体において実現されたある個別事例であるならば、α0はμ0によって基づけられていることになる。[…]もちろんこの語法は[α0やμ0などの個物だけでなく]種それ自身にまで転用できる。

[Husserl: Logische Untersuchungen 2,S.267]

茶色の机という全体において、α0「机」はμ0「茶色」と必然的な基づけの関係にはない。机でない茶色もあれば茶色でない机もあるからである。だが個物「机」を類「延長」にまで、「茶色」を「色」にまで上昇させれば、「色と延長は 統一的直観において[必然的に]相互に基づけあっている」 [Husserl: Logische Untersuchungen 2,S.270] ので、机と茶色にもそれを認めなければならないであろう。

そうすれば基づけ関係は恣意的になるのではないのか。本来書斎にあるべき机が風呂場にあるというような珍奇な場合ですら、全体空間がそれより小さい部分空間を含むことが必然的であるがゆえに、両者は基づけの関係にあるということになるのではないのか。こうした疑問は拭えない。フッサールは、基づけ関係を拡張することによって、全現象を類-種のヒエラルヒーでもって包摂し、これの全体-部分関係を論じようとしていたわけだが、そのような包摂論は科学論的に見ても欠陥がある。この論点は『社会システム論の構図』の「支配としての包摂」で改めて主題的に取り上げることにしたい。

4.単一的意味と複合的意味

フッサールは、カントが[感性=アポステオリ]vs.[悟性=アプリオリ]の二元論に陥ったことを批判し、両者を類-種のヒエラルヒーで段階的につなげようとする。

カントの思惟においては、確かにカテゴリー的(論理的)機能が大きな役割を果たしている。だが彼はカテゴリー的領域に知覚と直観の概念を根本的に拡張することに成功しなかった。

[Husserl: Logische Untersuchungen 2,S.732]

フッサールにおいては「知覚する wahrnehmen」は「真として受け取る wahr-nehmen」といった広い意味に使われ、イデアールな意味をも対象とする。しかし「カントの思惟において」もカテゴリーだけでなく図式が、つまり感性と悟性の二元論ではなくて構想力が「大きな役割を果たしていた」のではないのか。分析的アプリオリでも総合的アポステリオリでもない総合的アプリオリが超越論的哲学の領域でなかったのか。フッサールに言わせれば、「カントにとってアプリオリな総合判断は、本質普遍性/必然性ではなくて、特種人間的な妥当性の必然性を表現している」 [Husserl: Erste Philosophie 1,S.403;Vgl. S.228,235,352,359,390] 。既に述べたように、カントが[心理主義=人間学主義]であるというフッサールの批判は誤解に基づく。

もし批判されるべきものがあるとすれば、それはノエシスとノエマの混同であろう。「カントはまさに、認識と認識対象性の相関の真の意味にまで到達していない」 [Husserl: Erste Philosophie 1, S.386] 。カントは「直観と直観されたもの、意識の様態としての現象の形式と現象する対象性の形式の明確な区別」 [Husserl: Erste Philosophie 1, S.387] を怠ったのである。確かにカントにとって、分析的アプリオリは純粋統覚の Ich=Ich の性質であり、総合的アプリオリは“図式を伴った悟性の振舞”の形式である。フッサールはこれらをノエシス的規範法則ではなくノエマ的命題の形式に求める。

フッサールは分析的アプリオリと総合的アプリオリをどのように区別するのであろうか。

分析的法則とは、無制約的に普遍的な(そして明示的にも含蓄的にも個物の実在を全く措定しない)命題であり、それは形式的概念しか含まず、もし原初的な概念へと立ち戻るならば、形式的カテゴリーしか含まない。

[Husserl: Logische Untersuchungen 2,SS.258-259]

実質的概念を導入して分析的法則を特種化しても必然性は保持されるので、総合的な純粋法則もアプリオリでありうる。

事物的にレアールな変化の非独立性[意味]を規定する因果法則のような種の法則や[…]たんなる性質・強度・延長・限界・関係形式等を規定する法則は、全体は部分なしには存在しえないというような純粋な分析的普遍性や、王・主人・父は 臣下・下僕・子がいなければ存在しないなどの分析的必然性と同列には置かれないであろう。

[Husserl: Logische Untersuchungen 2,SS.256-257]

だがフッサールが挙げている実例の分析性は、クワインの命題《いかなる独身者も結婚していない。 No bachelor is married.》の分析性が怪しいのと同じぐらい怪しい。そこで分析性を同一律=矛盾律の性質にまで後退させて、三者を(以前の例を使って)次のように整理することができる。延長に色があることは総合的アプリオリであり、この机に(茶色という)色があることは総合的アポステリオリである。これに対して、「もしこの机が延長であり、かつ延長が色を持つことが必然的であるならば、この机に色があることは必然的である」という推論の導出過程が分析的アプリオリである。

カントにおいてもアプリオリな判断は、純粋な認識(分析的アプリオリ)とは異なって「机」「茶色」などの経験的な定項を取ることができ、ただそれらに依存せずに真理値を取ることができる点でアポステリオリな判断とは異なるのであった。カントに実質的アプリオリが欠けているとは言えない。

もっともカントはフッサールのように類種階層の分析に手掛けているわけではない。フッサールは 類種階層論を全体部分関係論として超越論的哲学の主題とする。問題は何が全体/部分であるかである。

何人かの研究者は、形相的な類/種と形相的な特殊化[下位の種]との関係 を“部分”と“全体”の関係のもとに引き合いに出す。“全体”と“部分”はその際“含む”と“含まれる”の最広義の概念であって、形相的類種関係はその一つである。形相的個別体はそれゆえ、その上にある全普遍性を含意しており、その普遍性はさらに、常に高次が低次の中にという関係で段階的に含意の関係にある。

[Husserl: Ideen 1,S.31]

例えば「この茶色の机」なる形相的個別体(全体)に「机」「木製」「茶色」などの種(部分)が含まれており、さらに種「机」は「家具」「延長」などの類を含む。だが全体部分関係を逆に考えることもできよう。「家具」という類(全体)に「机」「椅子」「たんす」等の種(部分)が含まれ、種「机」に個物「この茶色の机」が部分として帰属するというように。フッサールは類種関係は集合関係ではないと断じる [Husserl: Ideen 1,S.30] のであるが、ここに彼の(自称)非プラトン主義を見ることができる。イデアールな存在者を個別体から切り離して論じることはできないというわけである。

フッサールは、シュペチエス的な理念を対象にする『論理学研究』での自分の立場がプラトン的実在論であるという論難に対して、対象はたんに「真の言明の主語 Subjekt einer wahren Aussage」にすぎないと言って答えている [Husserl: Ideen 1,S.47,Vgl.S.15] が、それならまさに主語の類/種に述語の個物を属させる言明が可能なはずである。類/種から個体への部分から全体への超越が個体の記述的同定的認識であるのに対して、個体から種/類への部分から全体への超越は形相的還元である。カント流に言えば、前者が前進的であるのに対して、後者は背進的である [Kant: Kritik der reinen Vernunft, A.411=B.438] 。

5.個物または下位の種とその上位の類

我々の全体部分関係論は意味論から統語論へと、すなわちフッサール謂う所の「純粋文法学」へと移行する。すでに『論理学研究』第二巻の冒頭で、論理の研究は言語の論究から始めなければならないと記されているが、フッサールは日常言語の分析に留まることなく、多義的で意味が動揺する経験的言語を突き抜けて、意味のイデア的本質を記述しようとする [Husserl: Logische Untersuchungen 2,S.19] 。では論理と言語はどう違うのか。論理法則が反意味を防止する、したがってアプリオリで分析的であるのに対して、文法法則は無意味を防止する、したがってアプリオリで総合的であるとのことである。

以下のように、反意味/無意味は無対象からも区別される。

無意味・反意味・無対象の区別
内容(ノエマ)作用(ノエシス)内容の欠如とその例
対象の実在告知・指示無対象「黄金の山」
意味内容意味充実作用反意味「丸い四角形」
意味自体意味付与作用無意味「アブラカタブラ」

さて、フッサールは、次のように言う。

カントは、この点において論理主義的合理主義の偏見のもとにあるのだが、たった一種類の真性な反意味、つまり形式的論理的矛盾=分析的反意味しか知らない。それゆえ彼は、どの真性な総合的アプリオリも、全ての分析的アプリオリと全く同様に否定において反意味を与え、またその意味のゆえにこそ純粋・絶対的に妥当することを洞察しなかった。

[Husserl: Erste Philosophie 1,S.403]

カントにおいては、分析的アプリオリでないものは(d.h.矛盾を犯している認識は)まして況んや総合的アプリオリではなく、端的に偽である。ところがフッサールに言わせれば、命題が反意味だからといって直ちにそれが無意味であるということにはならないのである。そもそもある命題が有意味でなければ、その命題が偽(反意味的)であるとさえ言えないであろう。真と偽という否定関係によって示される有意味性の地平の否定が無意味なのである。もっともカントも、(実在性という点で)真でも偽でもないが無意味ではない「感性と結び付かない構想力と悟性の自由な戯れ」の産物(芸術的虚構)の領域を認めていたのだが、フッサールの現象学のほうが自然科学主義的なカントの哲学よりも射程が広いことは首肯されえよう。

断片が合成されて直観的全体を構成するように、単一的意味が合成されて複合的意味を成す。但し意味の単一的/複合的は対象のそれのたんなる反映ではない。単一的意味の対象が複数の対象の断片から成り立っていたり、単一的な被定義項が複数の定義項から形成されていたりすることは大いにありうるからである。

このノエマの区別に応じてノエシスの方も単一光線的/多光線的あるいは単定立的/多定立的の区別が生じるのであるが、ちょうど原子命題と分子命題の区別がそうであるように、両者の区別は相対的である。たとえば「この机は茶色である」を多定立的に構成することもできれば、それを「この茶色の机」というように名辞化して単定立的に統握することもできるのである。要はこの相対性を逆に反省概念の定義に利用して、《n階における命題の多定立的構成を名辞化して単定立的に統握することが n+1 階の関数化である》と定式化すればよいのである[s]。

[s] これに関しては、[Husserl: Logische Untersuchungen 2,SS.515-519] を参照されたい。シュッツは、逆に日常の生活世界において出来事は単定立的に統握されるが、反省の眼差しでは 分析的-多定立的に構成されると言っている [Schütz, $1, Bd.1,S.82] 。このように逆の二種類があることは、個物-種-類の全体部分関係に逆の二種類があることに対応している。反省的思惟(形相的還元)は個物から種/類へと超越するのだが、個体認識という点ではそれは全体から部分を分析することであるので、全体の認識は多定立的になるが、イデアの認識という点では当の同じ超越は部分から全体への包括であるので、全体の認識は単定立的になるわけである。

意味の複合は(一般に言って部分の総合は)アプリオリで総合的な諸法則(意味の場合には意味カテゴリー・命題カテゴリー)によってなされる。「この木は緑である」は有意味かつ真であるが、「この黄金は緑である」は意味のカテゴリーに従っているので無意味ではないが、偽であるから、同じ意味のカテゴリー(この場合は名詞)に属する質料を自由に置換するというわけにはいかない。さらに命題カテゴリーを無視すると「この軽率なは緑である dises leichtsinnig ist grün.」というような無意味な Wortreihe が生じる [Husserl: Logische Untersuchungen 2,S.328] 。

だがこの命題を有意味に解釈する可能世界が無いわけではない。例えば黒板に緑のチョークで書かれた「軽率な leichtsinnig」なる単語を指差して「この軽率なは緑である」と言えば、その言明は有意味かつ真である。チョムスキーは「無色の緑色の観念が猛烈に眠る Colorless green ideas sleep furiously」を語の選択制限違反の無意味な文の例に挙げている[c]が、例えば「無色の」を「緑色の観念」が文字通りの意味ではなくて、エコロジスツの緑の思想の隠喩であることを示している形容詞と取れば、例文は、1970年にピークに達したエコロジー運動がその後急激に衰退していったことについてのメタフオリカルな表現であると有意味に解釈できる。

[c] [Chomsky, Aspects of the Theory of Syntax,p.149] チョムスキー自身次のように付け加えている。「選択規則を破る文章は、[…]もしも多少込み入っていても適切な文脈が与えられるならば、何らかの方法でメタファー的にあるいは仄めかしでしばしば解釈されうる」[ibid] 。

要するに、有意味か無意味かは意味/命題カテゴリーだけでなくて、 その都度の発話の文脈をも考慮にいれなければならない。しかし『論理学研究』におけるフッサールは、統語論から語用論へと探求を転換しない。彼の言語哲学の対象は「コミュニケーション的機能における表現」ではなくして「孤独な心的生活における表現」であるからである [Husserl: Logische Untersuchungen 2, SS.39-43] 。

もっともフッサールは後年にはその不十分さを認めて次のように言う。

ひとは、例えば状況依存的[okkasionell]な、とはいえ間主観的な真偽を持つ判断の広大な領域に気が付くべきである。その判断は明らかに、個人/共同体の日常の全生活が状況の類型的な同種性 に関係付けられており、その結果その状況に入るどの人も、それ自体においては正常な人間として状況に属する普遍的な状況地平を持つ、ということに基づく。この地平は後になってから説明されようが、しかしそれによって日常生活の環境一般が経験的世界と成るような構成する地平志向性は、反省する解釈よりも常に先行している。そしてこの志向性は状況依存的な判断の意味を、言葉それ自体においてそのつど表立って明確に言われまた言われうるものをいつも遥かに越え出て本質的に規定する。

[Husserl: Formale and transzendentale Logik,S.207]

かくして間主観性の地平が問題となる。

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