9月 021997
 

本節では、現象学的還元・地平・キネステーゼ・身体性・間主観性という、現象学的かつ現代的なテーマを取り上げ、能動的構成主義を却けた受動的直観主義が孕む問題点を指摘し、現象学の射程と限界を見定めたい。

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6.超越論的主観性と超越論的経験

カントにおいては、超越論的認識とは対象にではなくむしろ対象の認識様式一般に携わる認識のことであった。これとほぼパラレルにフッサールは次のように言う。「学問論[Wissenschaftslehre od. Wissenschaft als Kritik]はただ端的に判断するのではなくて判断について判断する批判者の態度を採る」 [Husserl: Formale and transzendentale Logik,S.136] 。我々は第二節で形相的還元を遂行しつつノエマを考察したのであったが、今度は超越論的還元(狭義の現象学的還元)を通してノエマからノエシスへと反省の眼差しを向ける番である。

フッサールは「スイッチを切る ausschalten」 [Husserl: Ideen 1,S.63] という言い方をしているが、このメタファーに便乗して次のような情景を想像することができる。明かりがついている時、私は部屋の中の様々なものを見ることができる。それらはひょっとしたらレアールには実在しない幻想かもしれないが、その超越的存在定立を括弧に入れても、それでも私はそれらを形相的個別体として直観することができる。ところがスイッチが切られてあたりが真っ暗になり、形相的個別体は“無化”される。とはいえそれはたんに暗くなって見えなくなっただけで、私はデカルトのようにノエマ的相関者の存在を疑ったり、コギトを実体化したりするわけではないが、それまで真っ暗な部屋を眺めていた潜在的な私が《残余》として顕在的に意識されるようになる。

フッサールは、しかし後になって「現象学的“残余”という言い方や“世界のスイッチを切る”という言い方は避けたほうが望ましい」 [Husserl: Erste Philosophie 2,S.432] と述懐している。還元は態度変更であって破棄ではないからである。

そこで今度は映画のメタファーで考えてみよう。映画を熱中して見入っている時、私はスクリーンを二次元的な光の渦として眺めているわけではなく、さながらシナリオがフィクションではないかのように自然的態度において生きながら、感情移入的に登場人物と意識作用を共体験している。ところが上映が終わると、気のせいか灰色になったスクリーンがやけに小さく見えるようになり、替わってスクリーンの周辺や回りの観客のざわめきが意識に登場して来る。

超越論的還元とはこのような地と図のゲシュタルト的反転の体験なのである。地に対して図を際立たせる顕在的作用がコギトである。私は「思惟する cogito」中で生きているが、その「思惟 cogitatio」を「思惟された cogitatum」ものとして反省することが超越論的還元なのである。この反省という志向的体験は、ノエマがその体験と同じ体験流に属しているという点で内在的知覚であり、明証的である。

フッサールの超越論的還元は、カントの超越論的演繹のようにたんに自我=自我の同一律に辿り着くわけではなく、内容を持ったコギト、さらにはコギトを取り巻く経験作用・感情作用・意志作用の非顕在的な志向的体験(いわば、沈黙のコギト cogito tacite)をも含む豊饒な超越論的領野を剔抉する。『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』では、『イデーン』での還元の叙述が短絡に過ぎたとして、客観的科学から生活世界へ、さらに現象学的心理学を経て超越論的現象学へという迂路が採られているのはこのためである。

還元によって獲得されるのは、現象世界から切り離されて宙に浮いた空虚なエゴ・コギトではない。「現象学的エポケーは、我々(あるいは我:哲学するもの)に、もちろん必当然的な我在り[Ich bin]を伴ってではあるが、新しい無限な存在領域すなわち超越論的経験をあらわにする」 [Husserl: Cartesianische Meditationen,S.11] 。

かくして「デカルト的なエゴの発見と共に、基礎付けの新しい理念、つまり超越論的基礎付けの新しい理念が現れる」[ibid] 。「万一世界が存在しなくても、それは私の純粋な存在を破棄せずに、それどころかそれを前提するので、世界が超越的であるとするならば、この私の純粋な存在あるいは私の純粋な自我は超越論的である」 [Husserl: Cartesianische Meditationen,S.10] 。そしてこの超越的世界の認識という「構成の問題は全超越論的哲学を包摂する」[Husserl: Cartesianische Meditationen, S.24] ほどの本来的な問題なのである。が、この超越論的問題を理解するためには《地平》に論及しなければならない。

「地平とは予め下図を描かれた潜在性である」 [Husserl: Cartesianische Meditationen,S.82] 。例えば物体の隠れて見えない背面・背景的な「庭」[h]・未来予持などの顕在的知覚を取り囲む未規定的な、しかし顕在性と共に思念(mitmeinen)された剰余思念(Mehrmeinung)が地平である。

[h] 「庭 Hof」は、Wiliam James の「縁 fringe」に相当するが、要するに「地平」と同義である [Husserl: Logische Untersuchungen 2,S.207] 。

「どの意識にもあるこの自己を越えて思念すること[über-sich-hinaus-meinen]は、意識の本質的契機として考えられなければならない」 [Husserl: Cartesianische Meditationen, S.84] 。これまでの1~6の(そしてもちろん次の7の)部分から全体への超越は全てこの地平構造を持つと言える。つまり我々は、

  1. 内在的志向性の意識からノエマの核を突き抜けて対象極へと超越し(これは Transzendieren の全体課題で以下は各論)、
  2. 《イマ・ココ》の一点から時間空間の直観的全体を構成し、
  3. 直観的個別体にシュペチエス的意味契機を付与し、
  4. その理念的個別体から上位の種と類全体へと上昇し、
  5. 個別的単語からその複合である文全体の意味を理解し、
  6. 超越論的自我から超越論的経験の本質記述を行い、
  7. 自我の固有領域から他我の一般定立を通して間主観的世界が形成 され(次項7の主題)、
  8. 事実的全体に価値的意味を与える(次章の主題)。

これらの《超越行為 Transzendieren》において、出発点になる顕在的で確実な部分である自我の固有領域が、「第一次的世界 primordinale Welt」または「第一次領域 Primordinalsphäre」である [Husserl: Cartesianische Meditationen, S.134] 。フッサールは、この第一次的世界から一歩一歩超越的世界を構成していこうとする。

ある種の論者はこのようなステップ・バイ・ステップの小心翼翼とした認識の歩みに苛立ちを感じるかも知れない。曰く「瞬間的な今が与えられて、しかる後に時間的全体が想起と予期によって構成されるのではなく、時間性は既在しつつある現成化する到来として現存在の存在をいつもすでに貫いているのであり、まずインクのしみが与えられて、しかる後にその文字の意味が理解される、あるいはまず単語の意味を把握し、それから文全体の意味を理解するのではなくて、記号の意味はそのつどの指示全体性の文脈によっていつもすでに与えられているのであり、またまず宙に浮いた主観があって、しかる後にそれが外的な客観を認識するのではなくて、現存在はそのつどすでに世界内存在として道具的存在者に配慮的に気遣いつつ生活しているのであり、まず身体が物理的に現出し、しかる後に私のキネステーゼとの類比的統覚によってそこに感情移入的に他我が定立されるわけではなくて、他者はいつもすでに私とともに等根源的に与えられているのであり、まずフォアハンデンな裸の事実が与えるられて、しかる後に主観的な価値の色付けがなされるわけではなくて、事実はそのつどいつもすでに価値とともにトゥハンデンに与えるられているのであって」云々。

確かにそうには違いないのだが、一般論と個別的認識は同じではない。例えば事実と価値が不可分であるというテーゼを認めたとしても、個別的な価値判断が真か否かの基準をそのテーゼが与えてくれるわけではない。厳密学を志すものは蝸牛の歩みを恥じてはならないのである。

「地平」はギリシャ以来天文学的用語であったが、カントは これを理性の限界のメタファーとして用いる。「我々の認識のすべての可能的対象の総括は、見かけ上の地平を持つ平面として、つまり我々の認識の全範囲を包括するものとして我々に現れ、無制約的相対性の理性概念と呼ばれる。経験的にそこへ辿り着くことは不可能である」 [Kant: Kritik der reinen Vernunft, A.759=B.787] 。

地平に辿り着いたと思ったら再び我々の眼前には新たな地平が開けるのである。だがもし地球が平面でなくて球面であることが分かれば、地平に辿り着ける(合理論)か 否(経験論)かなる問いそのものが破棄される[ibid] 。

ここでカントの二律背反の解決を想い起こそう。カントによれば、定立と反定立は、その見かけ上の対立にもかかわらず両方とも誤っている。一般に「二つのお互いに対立する判断が一つの許されない条件[地平]を前提するならば、両者は、両者の抗争[Widerstreit]にもかかわらず - もっともこの抗争はいかなる 本来の矛盾[Widerspruch]でもないのだが - 共に不成立である」 [Kant: Kritik der reinen Vernunft, A.502f.=B.531] 。

p∧q と ¬(p∧q) は矛盾対当の関係にあり、一方が偽なら他方は真である。しかし p∧q と p∧¬q は反対対当の関係にあり、もし p が偽ならば q も ¬q も偽である。「世界は有限である」という定立と「世界は無限である」という反定立は矛盾対当ではなくて反対対当の関係にあり、「世界」でもって物自体が考えられているかぎり両者とも誤謬である。

なお、伝統的論理学では、A(全称肯定命題)と O(特称否定命題)、E (全称否定命題)と I(特称肯定命題)が矛盾対当にあると謂われるが、これは現代の記号論理学では、

AO: (∀x)Fx∧(∃x)¬Fx

EI: (∀x)¬Fx∧(∃x)Fx

と表現される(Fは任意の関数)。

AO に (1): (∃x)¬Fx ⇔ ¬(∀x)Fx

EI に (2): (∀x)¬Fx ⇔ ¬(∃x)Fx

という恒真式をそれぞれ代入すると、

AO′: (∀x)Fx∧¬(∀x)Fx

EI′: (∃x)Fx∧¬(∃x)Fx

と変形されるが、いずれも p∧¬p の形をとることがわかる。次に反対対当であるが、これは次の二つである:

AE: (∀x)Fx∧(∀x)¬Fx

IO: (∃x)Fx∧(∃x)¬Fx

これらは一見すると矛盾対当のようであるが、それぞれに (2) と (1) を代入すると:

AE′: (∀x)Fx∧¬(∃x)Fx

IO′: (∃x)Fx∧¬(∀x)Fx

そうではないことがわかる。いま AE の論議領界(universe of discourse)の諸個体「すべての x」を集合 p に帰属させ、連言の右項で否定されている「ある x」を集合 q に帰属させると、AE は (p∧q)∧(p∧¬q) となる。IO についても論議領界「ある x」を p、この x のうちで F である諸個体を q とすると同じことが言える。

話をカントに戻そう。カントは q か ¬q か(超越論的実在論か経験的観念論か)という《選択肢=否定関係》を生じせしめる、この p(物自体)なる地平そのものを否定し、自らの経験的実在論=超越論的観念論の地平を対置する。すなわち、超越論的理念を構成的原理から統制的原理へと転回し、独断論的合理論か懐疑論的経験論かという対立“地平”そのものを克服する。重要なのは、物自体(地平の彼方)を見ることではなく、なぜ物自体が見えないか(地平の地平性)を見ることなのである。

無知は学識ある学問的な無知であるか、それとも普通の無知であるかのいずれかである。[…]知識の限界についての根拠を洞察することなく、またそれに心を煩わすことなく無知である人は、普通の学問的でない仕方で無知なのである。そんな人は、自分が何も知らないということさえ知らないのである。というのは、盲人は、目が見えるようにならない限り暗さを表象できないように、我々は学問による以外には、自分の無知を決して考えることはできないからである。

[Kant: Logik,S.44]

謂う所の「学問」がカントの「批判」である。時間空間の無限性は、実はそれを把捉する我々の悟性行為の無限性なのである。カテゴリーつまり悟性の主観的形式や、あるいは時間空間という直観形式を認識の障害としてではなく、むしろ認識の(したがってまた認識される対象の)可能性の制約と見なすこと、これがカントのコペルニクス的転回であった。

地平は視界を遮ることによって視界を広げる。前カント哲学的な物自体の理解の地平では、もしも時間空間の直観形式なり、カテゴリーなりといった主観的な制約が無ければ、認識主観はもっとよく物自体を認識することができるはずなのだが、もし主観的な制約が無ければ、よく認識することができるどころかそもそも認識することが、したがって認識の対象が不可能になるのである。カントは認識の探求の究極的な目標となる無制約的な物自体を理念と名付けるが、そのような理念は地平超越的ではなく、むしろ本質的に地平的であり、地平から発現する、つまり理念は悟性が問いを立ててそれに答える学的探求行為の統制的原理として実在性を持つのである。

フッサールの地平論もカントのそれに類似している。

予料された表象によるたんなる解明とは対照的に、現実に進行する知覚によって、さらに詳しく規定されたり他様に規定されたりする充実がなされるが、と同時に新たな未決定の地平が生じる

[Husserl: Cartesianische Meditationen, S.83]

あらゆる経験は経験の地平を持っている。つまりあらゆる経験は現実的で確定的な知識の核、つまり直接に対象そのものを明確に規定する内容を持つが、しかしまた、あり方を規定したこのこの核、“実物がそこにある”という形で本来与えられる核を越えて、経験の地平を持つのである。[…]私のその時々の目的にとっては、実際に既に経験されたもので十分ということもあろうが、そう考える時、私はまさに“それで十分だ”という事態から“手を切っている”。というのも、私はどんな規定も最終的なものではなく、現実に経験されるものは同一物に関する可能的経験の地平を常に無限に持っていることを納得しうるからである。そしてこの無規定な地平は可能性の範囲として、さらなる規定の歩みを指示するものとして、あらかじめ認められているもので、現実の経験の中で初めてそのうちの特定の可能性が選び取られ、他の可能性を押し退けて実現されるのである。

[Husserl: Erfahrung und Urteil, S.33]

彼はサイコロを例に採る。「サイコロは見えない側面に関して多種多様に未決定であるが、それはサイコロとして、さらに特殊には色がありザラザラしていて等々としてあらかじめすでに統握されているが、その際、これらのどの規定もが常に特殊な点に関して未決定になっている」[ibid] 。もしサイコロをあらかじめサイコロとして統握しなければ、それが果たして立方体であろうかとか、1から6までの目がちゃんと付いているのだろうかなどといった問いは生じないであろう。問いは知と無知の中間で生じる。

顕在的知覚の側面が白色である場合「Und-so-weiter」 [Husserl: Erste Philosophie 2, S.151] の理念化によって裏も白色であると予期される。つまり 白色/非白色 という種についての選択肢が、色彩という高次の種の地平において生じるのである。なぜ色彩地平が問題になるかといえば、それは《サイコロは物体であり、物体には色があり、かつ色の付いた裏がある》ことが先行的に理解されているからである。

サイコロを手で回すというキネステーゼによってこれらの問いが直観によって充実されたとしても、そのことはさらに、果たしてこのサイコロは各目が1/6 の確率で出るように精確に造られているのであろうかとか、すべてのサイコロはこのように白色ですべすべしているのであろうかといったさらなる問いを生じさせるだけである。

かくして我々の探求は、ちょうど地平線を追い掛けるときのように無限に進む。フッサールにおいても事物の十全的な所与性はカントが謂う意味での理念、つまり「無限な統制的理念」 [Husserl: Cartesianische Meditationen, S.90] なのである。

カントは「純粋理性の理念の統制的使用について」と題した一節で、類と種が下位の種に対して論理的な「地平」になると記している [Kant: Kritik der reinen Vernunft, A.658=B.686] 。これが何を意味しているのか考えてみよう。

一般に全く同じ物は対立しないが、全く違う物も対立しない。例えば「白色」と「黒色」は対立するが、「白色」と「フッサール」とか「白色」と「1+1=2」は対立しない。両者は全く種/類が異なるからである。対立するためには種/類が同じでなければならないということは、逆に言えば“共通の種/類=地平”が対立を生じせしめるということである。そしてこの対立地平そのものは、さらに普遍的な種/類の中における他の種の地平との対立によって対自化される。例えば、「右か左か、それが問題である」とぼやいている人に、気をきかせたつもりで「お出口は右側の方が近うございます」と言ってやると、その人は自分が空間的な方角ではなく政治思想的な方向の対立地平で問いを立てていることにはたと気が付く。

そこで次のように定義しよう。「地平とは否定によって構成され、否定によって対自化される不確定性の領域である」と。不確定であるということはそれが可能な[選択肢=否定 関係]によって構成されていることであり、「私は今そうであるのとは他のように行為しうる Ich kann anders als ich tue」 [Husserl: Cartesianische Meditationen, S.82] ということである。その選択肢が何についての問いに対する可能的答えであるかは、その構成される種が包括的な類のもとにおいて他の種と対比されることによって知られるのである。これにはさらに反省的な《反復 Iteration》が可能である。顕在的コギト(部分)が潜在的不確定的地平(他の部分)について問いを立てることが、包括的類(全体)の対自化であるのだから、部分から全体への超越を反省する学たる超越論的哲学はまさに地平の哲学なのである。

7.個別的主観性と間主観性

他者認識もまた優れて地平的な問題である。私は他者の行為(例えば木を伐る行為)をある意味連関[=地平]で位置付け、それが動機 M によるのか ¬M によるのか(給料を貰うためなどの目的合理的な動機によるのか、それともそれ以外の気晴らしのためなどの価値合理的な動機等からなのか)という問いを立てる。もしもその行為を、木を伐る行為[=共通類=地平]として予め統握していなければ、このような動機[=その類の種別化]についての問いは生じなかったであろう。

他者認識の地平も否定(精神的動機の二つの可能性)によって構成され、否定(物理的に現出する行動とそれに結び付けられた精神的動機)によって対自化される不確定性の領域なのである。

他者は私に身体を介してしか現出しえない。他者という未規定的な潜在性の地平は顕在的な身体の知覚によって間接呈示される[a]。一般にこのテーゼは評判が悪いのだが、フッサールは次のように理由付ける。「もしも他者の固有本質的なものが直接的に接近できるなら、その固有本質的なものはたんに私の固有本質の契機となり、かくして他者自身と私自身は同じに成ってしまうであろう」 [Husserl: Cartesianische Meditationen, S.139] 。

[a] フッサールは「間接呈示 Appräsentation」を Mit-gegenwärtig-machen と言い替えている [Husserl: Cartesianische Meditationen, S.139] ので、「共現在化」と訳してもよいのかもしれない。

他者は他者であるためには私にとって超越でなければならないのだが、しかしその超越的超越はいかにして超越論的に超越されるのであろうか。「私の第一領域の内部であそこのあの物体[Körper;他者の身体(Leib)の物理的現出]と私の物体を結び付ける類似性のみが、前者を他者の身体として類比的に統握する動機付け[m]の基礎を与えることができるのである」 [Husserl: Cartesianische Meditationen, S.140] 。他者の間接呈示が「我々が同一化[Identifikation]の受動的総合と区別して連想[Assoziation]として特徴付ける受動的総合の原形式」 [Husserl: Cartesianische Meditationen,S.142] である「対化 Paarung」とされるのはこのためである。

[m] この「動機付け Motivation」は「因果連関 Kausalzusammenhang 」 との対比で使われている。「自然主義的 naturalistisch 態度」から「自然的 natural 態度」あるいは「人格主義的 personalistisch 態度」が 区別される『イデーン2』では、人間が身体に付着する精神としてではなく、身体を通しておのれを遂行する人格として統握されている [Husserl: Ideen 2,S.240] 。ここに解釈学に謂う所の「理解対説明」を読み取る人もいるであろう。しかし「理解は内在的認識で、自然の説明は超越的認識である」 [Husserl: Zur Phänomenologie der Intersubjektivität 1,S.465] などと言うのはいかがなものか。フッサールはさらに「それゆえ実際、現象学的解釈は形而上学的構成などでは決してない」 [Husserl: Cartesianische Meditationen, S.177] とか、他者の「主観性は経験の統覚において超越的に構成される統一性ではない」 [Husserl: Zur Phänomenologie der Intersubjektivität 1,S.464] などと言い出すが、もし内在的理解に留まるなら、他者認識はたんに私の疑似措定意識の域を出ないことになるであろう。いわゆる解釈学的循環の問題である。

フッサールは「連想は超越論的現象学的根本概念である」 [Husserl: Cartesianische Meditationen,S.114f] と主張するが、他者とはそれほどにも派生的なものだろうか。ちょうど超越論的客観が現象の背後に潜む基体ではなくて、かえって超越論的統覚の方に求められるべきであったように、他者も身体現出の背後に潜む基体ではなくて、《我々》の方に求められるべき基体ではないであろうか。自我から他我への超越も《内部から外部への超越》ではなくて、《部分から全体への超越》ではないであろうか。

もちろんフッサールもそれぐらいのことはよく心得ているのであって、だからこそ彼の間主観性の現象学は《他者の認識》のみならず《認識の他者性》をも問題にしうるのである。他者は一方で私にとって「精神物理的客体」ではあるが、「他方において、私は、他者を同時にこの世界に対する主観として、私自身が経験するのと同じこの世界を経験するものとして、そしてその際、私が世界とその中の他者を経験するものとしても私を経験するものとして経験する」 [Husserl: Cartesianische Meditationen,S.123] 。

私は他者と相互客体的であると同時に相互主観的でもある。同じ世界を間主観的(intersubjektiv)に、つまり諸主観の「間=下」(inter)に共有することを通して、世界は「誰に対してもそこにある Für-jedermann-da」ところの「客観的=間主観的な環境世界」 [Husserl: Zur Phänomenologie der Intersubjektivität 2,S.321] と成る。

超越論的還元によって得られる《第一次的世界=超越論的経験》は構成作用と(したがって自我の軸 Ichpol と)不可分であり、その意味でそこで超越論的超越によって超越されるべき超越的超越はたかだか内在的超越でしかないので、客観的超越の構成のためには他なるものの構成が必要になる。フッサールによれば「それ自体において最初の他なるもの(つまり最初の非我)は、他我である。他者が他なるものの新しい無限な領域、すなわちすべての他者と私自身が属している客観的自然と客観的世界一般が構成的に可能となる」 [Husserl: Cartesianische Meditationen,S.137] 。

他者はばらばらに存在するのではなくて、私をも含めて目的論的=予定調和説的に「自我共同体 Ich-Gemeinschaft」ないし「モナド共同体 Monadengemeinschaft」を成し[ibid] 、その結果単一的な自然が構成されるのである。

もっともフッサールは、これとは一見矛盾したことをも言っている:「共同体の形式で最初に構成されるもの、すべての他の間主観的な共同体性の基礎は、自然の共有性である」 [Husserl: Cartesianische Meditationen,S.149] 。「一つの共通な世界の構成が[…]感情移入的経験[他者認識]の可能性の条件である」 [Husserl: Zur Phänomenologie der Intersubjektivität 2,S.100] 。したがって自然は「数多くの自我モナドを調整するインデックス Index der Koordination einer Vielheit von Ich-monaden」 [Husserl: Zur Phänomenologie der Intersubjektivität 1,S.188] であると言うのだ。

最初に出会われる他なるものは他者であるが、他者は無媒介に構成されるわけではない。例えば(わざと自然構成とは関係なさそうな例を採るのだが)私は、相手が私の存在に気が付いたことに気が付いて(つまり相互に現出する物体を友人の身体として述定し)挨拶をし、相手はそれに挨拶して答える(つまり相互に先の“自然認識=身体構成”を承認し合う)場合、頭を下げるという物理的振舞を相互に挨拶として述定することによって感情的な共同体が形成ないし維持されるのである。

注意しなければならないことは相互承認されることのみならず相互承認自体が自然構成であるということである。自然が構成されないならば、他者どころか自我すら構成することができない。「独我論的主観は、たしかに客観的自然をおのれに対して持つことができようが、自然の一分肢としておのれ自身を統握することはできないであろう」 [Husserl: Ideen 2,S.90] 。だから最初に構成されるのは客観的自然であるが、その構成と同時に自我が出合うのは、自我を含めた他者であるとフッサールは主張したいのであろう。

感情移入は写像的像意識とは異なるとフッサールは言う。見たことのない山の写真を見せられた時、私はそれのアナロゴン(普段見ている山)から類比的にその写像の現物を想像するのだが、他者の感情を認識する時には、それのアナロゴンを自分の中に持つ必要はないというわけである。「なぜなら私は相手に怒りを感情移入している時に、私自身は全く怒っていないからである。それは私が怒りを空想したり怒りを単に想起している時に、私は怒っていないのと同様である」 [Husserl: Zur Phänomenologie der Intersubjektivität 1,S.188] 。

しかし、怒った経験のない人が他者の怒りを理解することができるであろうか。他者の怒りを理解することは、たんなる他者の怒りの模写でもなければ自分の怒りの他者への投射でもなく、他者の立場に身を置いて、その文脈での自己の怒りの経験を想起しつつその感情を追体験することに他ならない。

他者理解とは自己分裂的自己統一であって、フッサールの言葉で言えば「自我の二重化 Verdoppelung des Ich」[Husserl: Zur Phänomenologie der Intersubjektivität 1, S.263] なのである。他者の立場に立つ命題《もし私がそこにいるならば、そこからは私にはかくかくに見えるであろう Wäre ich dort,so würde ich von dort so aussehen》は、もし接続法第二式でなくて直接法で言明されれば矛盾した表現となる。私はもはや私でないか他者はもはや他者でないかのどちらかである。

フッサールは、感情移入が自己矛盾的でありながら可能である理由を次の事態に求める。「私はアプリオリにはこことあそこに同時にいることはできない。だがこことあそこは同等[gleich≠identisch]でありうる。私はここにいて、同等なまた多かれ少なか れたんに類似の私があそこにいることがありうる」 [Husserl: Zur Phänomenologie der Intersubjektivität 1,S.264] 。

このテーゼに関して:確かに例えば私は大阪にいると同時に東京にいることはできないが(但し論理的に不可能なのではなくて、物理的に不可能なだけであるが)、大阪と京都の府境をまたいで、私は大阪にいると同時に京都にいるということはできる。なぜ「私」は身体という複数の場所を持ったところに存在することができるのであろうか。このような問いは転倒している。というのも空間的な延長を持った身体という新陳代謝の情報システムの支配中枢が「私」なのだから。してみるともし「私」が社会組織という拡大身体の支配中枢であるならば、その存在範囲はさらに大きくなるであろう。東京店にいる店長の「私」が大阪店の店長を兼ねるなら、「私」は東京にいると同時に大阪にいることになるではないか。

もちろんこのような「拡大身体」なるものはメタファーに過ぎないという人もあろう。確かに「私」は部下の首を切る時、自分の身体を切る時のように、「我身のように」痛がりはしないであろう。しかしここから自他に明確な一線を引くことができない。「私」は自分の身体については確実な知識をもっているが、他者の身体についての知識は全て不確定で、前者の知識からの類推の域を出ないと言うことはできない。

因みに、自分の身体に関する圧倒的多くの情報は顕在的意識には上らない。しかしそのような無意識を知らなくても、私は「うまく」生活をすることができる。同様に「うまく」社会生活を送っていることができるかぎりでは、他者が「ほんとうは」どういう主観的動機で行為していたか(それはたいがい本人も知らない)はどうでもよいのである。本人をも含めた間主観的な言語的交通において承認されない意識は存在しないも同然なのである。

ここで現象学的身体論から言語ゲーム論へ直ちに移行せずに、フッサールの身体論の検討を続けよう。間主観的世界の構成は、身体による身体の構成であるから、フッサールにとって身体こそが間主観性の議論の出発点なのである。統握する身体として「身体を統握することは間主観性に特別な役割を演じる。間主観性においては、全ての対象が“客観的に”すなわち一つの客観的時間・一つの客観的空間・一つの客観的世界の事物として統握される」 [Husserl: Ideen 2,S.81] 。

この「一つの」は身体統握と統握身体の単一性に基づく。「全ての事物的経験において身体が機能する身体として(したがってたんなる事物としてではなく)ともに経験され、身体自身が事物として経験される時、それは経験された事物として/機能する身体として二重に統一的に経験される」 [Husserl: Zur Phänomenologie der Intersubjektivität 2,S.57] 。 例えば左手で右手を握る時、手は触れられる身体であると同時に触れる身体でもある。この二義性のゆえに身体は「客観的な主観性 die objektive Subjektivität」 [Husserl: Zur Phänomenologie der Intersubjektivität 2,S.65] である。

ここからフッサールは知覚の正常/異常を身体状態のそれに求める。 「だれであれ、もしも(正常な生理物理的な個人としての)正常な身体の主体であるなら、その人はこの身体の正常な生理物理的な《機能していること》において、そしてそれと平行して、正常な主観的な《機能していること》においてその人に真の世界を現出させる世界現象を持つようになる」 [Husserl: Zur Phänomenologie der Intersubjektivität 2,S.69] 。

知覚の正常/異常を対象と身体状態の関数値にすることは、知覚の正常性を心理主義的に相対化することにはならない。「真性な現象の体系は、心理物理的なある規制において共に構成される(mit-konstituiert)身体性に帰属する」 [Husserl: Zur Phänomenologie der Intersubjektivität 1,S.369] だけであるから、ノエシスとノエマの区別と『論理学研究』以来の客観主義は保持されているのである。ではその際「共に構成される」ノエシス的な正常/異常とは何であるのか。それは模写説的な意味での真理/誤謬、つまり対象との一致/不一致と単純に一致するわけではない。フッサールにとって「正常 Normal」とはたんに主観の数の問題であって、逆に「異常 Anomal」には「正常以下 Unternormal」のみならず、「正常以上 Übernormal」も含まれているのであるから、けっして「正常」に比べて価値的に劣っているわけではない [Husserl: Zur Phänomenologie der Intersubjektivität 1,S.379f] 。横軸に身体機能の優劣・縦軸に個体数を取る時、図5のような正規分布図が考えられる。

図5 中心としての正常と周縁としての異常[Source: Wikimedia Commons; Author: Mwtoews]

まさに数は力なのであって、多数を占める「正常者」は《上にして下》という両義性を帯びた「異常」を《周縁》として排除することによって《中心》としての秩序を得る。

人はここでフッサールの純哲学的な認識論の社会哲学的含蓄に注意すべきである。フッサールは身体の感覚活動を機能と名付け、「自我は機能的中心である Das Ich ist Funktionszentrum」と言う [Husserl: Zur Phänomenologie der Intersubjektivität 2,S.29] が、注目すべきことに、彼はさらにこの身体システムの機能概念を社会システムの機能概念にまで拡大しようとする。「機能を特徴付けるのは主体の実践的な規定、つまりある一つの目的、それも全社会的組織の包括的目的に奉仕するある特殊な目的の観点でのそれへの適合である」 [Husserl: Zur Phänomenologie der Intersubjektivität 2,S.181] 。

彼は差し当り家族成員の役割機能を例に挙げるが、有機体モデルで[役割=義務]を考えているようである。その場合「機能中心」は家長ということになるであろう。それにしても引用文中にある「全社会的組織の包括的目的」とは何のことだろうか。国家権力の自己保存のことであろうか。-フッサールの主題である間主観性は、身体なき(leiblos)純粋な諸主観の抽象的で対等な《我と汝》の関係ではなく、身体的に社会有機体に埋め込まれた機能的諸関係なのかもしれない。

フッサールの現象学は能動的構成主義を却けた受動的直観主義であった。拙著の最後で確認するように、真理の形態は同時に権力の形態でもある。《客観的に自存するイデア的真理の受動的観取》=《不可触な権力(中心)への盲目的跪拝》とそれと“共に構成される”少数者(周縁)の排除効果である目的論的・予定調和的・自ずからの秩序形成、「他のようにもありうる」という他者性の機能的縮減、これが現象学の帰趨である。

なるほど、ユダヤ人であるフッサールは、晩年ナチズムの迫害を受けたので、彼はファシズムの犠牲者であると言えるが、しかしファシズムに対する抵抗者であったとは言えない。それは彼の受動的直観の哲学には、権力の暴走を能動的・実践的に食い止めるような主体のあり方が欠落していたからである。そして能動的主体が欠落したこの現象学を継承した、フッサールのある弟子が、ナチズムに走ったことは周知の通りである。

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  5 コメント

  1. 統握 Auffassung/Erfassung という概念は厳密に定義するとしたらどういうことになるのでしょうか?
    ノエシス的な作用であることはなんとなく分かるのですが。

  2. Auffassung とは、実的成素をレエールに把捉する知覚作用のことです。

  3. 実的成素は英語またはドイツ語でどう表記されますか。
    また成素とは何を意味しますか教えてくだされば幸甚です。

  4. レアールとレエールの決定的な違いを教えてください。
    気になって眠れません。お願いします。

  5. レアールとレエールの違いは、認識対象と認識作用に対応していると考えてよいでしょう。レエール/イデエール(ドイツ語 reell/ideell)は、フランス語の“réel/idéel”をドイツ語化した形容詞で、フッサールの現象学では、レアール/イデアールと区別された特殊な意味を持ちます。すなわち、志向的体験において呈示される感覚与件とそれに意味付与する統握がレエールな成素(der reelle Bestand 実的成素)と呼ばれます。レエールな成素が志向的体験に内在しているの対して、レアール(実在的)な対象は、それを超越しています。私たちの志向的体験では、同一の対象が知覚において与えられたり、想起において与えられたりしますが、それらが同一の対象であるのは、イデアールな同一性があるからで、そのイデアールな対象の意識に内在する体験は、イデエールであると言われます。

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