9月 021997
 

フッサールが、経験主義的な心理主義とカント的な形式的規範主義を退けて“実質的アプリオリ”の新しい領域を見出したように、シェーラーは、かたや快楽主義/功利主義、かたやカント的な形式主義を退けて、実質的価値倫理学を樹立したと一般には言われる。しかしこれがカント批判として正当かどうかという前に、そもそもフッサールはこのようなパラレリテートを、つまり本質直観とパラレルな“価値直観”を認めえたかどうかが問題となる。

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フッサールは「認識へと向けられた表象しようとする努力 vorstellendes, auf Erkenntnis hin tendierendes Streben」である「知覚 Wahrnehmen」と「期待(享楽)へと向けられた評価しようとする努力 wertendes, auf Erwartung(Genießen)hin tendierendes Streben」である「値覚 Wertnehmen」(フッサールの造語)という二つの「何かをしようとする努力の志向 strebende Intention」の間にパラレリテートを認め [Husserl: Ideen 2,S.10] 、『論理学研究』における「論理学 Logik」の対応物としての純粋で形式的な「価値学/実践学 Axiologie/Praktik」の理念を打ち出している [Husserl: Vorlesungen über Ethik und Wertlehre,S.4] 。

たしかに価値学/実践学においても、「願望すること Wünschen」と「願望 Wunsch」、「決心すること Entschließen」と「決心 Entschluß」、「行為すること Handeln」と「行為 Handlung」が作用と内容の関係にあるが、それらは「感覚すること Empfinden」と「感覚 Empfindung」と同様、ノエシスとノエマ(この用語はギリシャ語の“思惟すること”と“思惟されたもの”から来ている)の関係にはなく、むしろノエマの中の区別である[n]。

[n] フッサールは、感性的感情は(感覚や欲求と同様)志向的体験ではなく、たんなる「描出内容 darstellende Inhalte」であるとしながらも、ブレンターノに倣って「気にいる/気にいらない Gefallen/Missfallen には志向性を認めているが、だからといって理論と実践を対等にしているわけではない。「ここでは二つの志向性が重なり合っている。基づける志向性は表象対象を、基づけられた志向性は感情対象を与える。前者は後者から切り離されるが、後者は前者から切り離されない」 [Husserl: Logische Untersuchungen 2,S.403] 。つまり「気に入っている」は「確信している」や「願っている」などと同じ志向的性質に過ぎないのである。

《思惟=客観化作用》は、感覚/感情/欲求を越えてそれらを対象化する。「この論理的理性の全き支配は否定できない」 [Husserl: Vorlesungen über Ethik und Wertlehre,S.59] 。してみると実質的アプリオリとしての価値が本質直観されるというよりも、価値の概念が、あるいは価値間の本質法則が直観されると言うべきであろう。フッサール謂う所の価値法則とは例えば、「価値 A1,A2 が価値W1,W2の派生的価値で、W1>W2 ならば A1>A2 である」とか、「W1<W2かつW2<W3であるならば、W1<W3である」といったものだが [Husserl: Vorlesungen über Ethik und Wertlehre,SS.90-101] 、これらは何に関しても 成り立つたんなる論理法則である。

ちなみに、ブレンターノは、

  1. Gut1+Gut2>Gut1
  2. Böse1+Böse2<Böse1

などの加算法則を挙げていて[Brentano: Vom Ursprung sittlicher Erkenntnis,S.24] [b] 、フッサールもこれを承認している [Husserl: Vorlesungen über Ethik und Wertlehre,SS.90-94] 。シェーラーは、このような公理は「算術的命題の価値事物への、いやそれどころかたんに記号それ自身への適用に過ぎない」 [Scheler: Formalismus,S.104] として、量的な価値の大小と質的な価値の高低を区別することを主張する。

[b] これらのブレンターノの公理は価値の正負(これは大小や高低からも区別される)に関してさえその妥当性が怪しい。なぜなら例えば、

  1. 「他人の成功」と「自尊心」は正の価値を持つが、両者が結合することによって「他人の成功に対する嫉妬心」という負の価値を持った全体が形成される。もっともそのような自らを高めようとしない括弧付きの“自尊心”は、はじめから正の価値を持たないとも考えられるであろう。だがそれなら、Gut+Böse>Böse という別の公理[Brentano,ibid;Husserl: Vorlesungen über Ethik und Wertlehre,S.93] に違反する。
  2. 「殺人」は負の価値を持つが、それが二つ合わさると「殺人の処刑」という正の価値を持つようになる。このように全体は部分のたんなる算術的総和ではない、ということは倫理学に固有のことではない。例えば、無色の銀イオン水に同じく無色のヨウ素イオン水を加えるとさらに無色になるのではなくて黄色のヨウ化銀が生じる等々。

ブレンターノやシェーラーは、全体価値が部分価値の総和以上(ないし以下)であるというテーゼに対して直観主義を唱えるであろうが、かかる直観主義的絶対主義は懐疑論的相対主義と表裏一体である。我々は部分から全体へ学的に超越しなければならない。

シェーラーは、学位論文(Dissertation)において「厳密に言えば、《倫理的知》などというものはない。知はそれ自体において決して倫理的でない。あるのはただ倫理的なものについての知である」 [Scheler: Frühe Schriften,S.92] と主張し、『形式主義』においても 新カント学派を批判しつつ「論理学は、それが《真理》という価値を扱わなければならないからといって、価値学として倫理学や美学と同格にすることはできない。なぜなら一般に真理は《価値》ではないのだから」 [Scheler: Formalismus, S.197] というように、主知主義的な観想の優位を説いている。

シェーラーは、後年知識社会学的研究に従事するに至って、プラグマティズムの相対的な正しさを認めつつ、「プラグマティズムのたんなる批判者がよくするように、このように[プラグマティズム的に]知に何のために[Wozu?]の問い[w]を立てることを拒否し、[ポワンカレのように]《知のための知 la science pour la science》を提唱することはできない」 [Scheler: Die Wissensform und die Gesellschaft,S.204] と説くようにはなる。

[w] シェーラーは、知をそれが何を目標としているかにしたがって、

  1. 支配知(Beherrschungswissen)
  2. 教養知(Bildungswissen)
  3. 救済知(Erlösungswissen)

に分類し、かつ三者の間には、この順に価値が高くなる「客観的序列 objektive Rangordnung」があると言う [Scheler: Die Wissensform und die Gesellschaft,S.205] 。このヒエラルヒーは、表5に図示しておいた生命(快楽)価値/精神価値/人格価値の階層に対応しているが、しかしまた知を技術的認識関心に基づく「経験的分析的科学」、相互主体的理解の認識関心に基づく「歴史的解釈科学」、解放的認識関心に基づく「批判的社会科学」に区分した現代ドイツの某社会哲学者の知の階層を彷彿させる[Jürgen Habermas: Technik und Wissenschaft als Ideologie,Frankfurt am Main,Suhrkamp 1968,SS.155-159] 。

とはいえ、シェーラーによれば、プラグマティズムはノエシスとノエマを混同している[p]。

自然的認識作用は、たんに精神が知へと動くことに過ぎない。[…]知自身は真でも偽でもなく、[…]明証的かそうでないか、対象の相在充実に関してさらに十全的か非十全的かである。真や偽であるのはむしろただ命題、すなわち我々の判断作用に内在するイデア的な意味相関者だけである。明証的で最大限十全的な知の対象の直観的相在と“一致している”時、命題は真であり、“背反する”時、偽である。

[Scheler: Vom Umsturz der Werte,S.222]

[p] これと相即的に、直接的直観的認識に関わる「錯誤 Täuschung」 と間接的認識、特に推論にその本来の領域を持つ「誤謬 Irrtum」が区別される。真理のこの区別に関してはさらに [Heidegger:Sein und Zeit,SS.32-34] を参照されたい。

要するに、プラグマティズムが適用できるのは、せいぜい認識作用までであり、認識内容が真か偽かを判定する基準にプラグマティズムを使うことはできないということである。シェーラーはまた、ノエマとしての真理までを人間学的=知識社会学的に相対化することを拒否する。何が善いかは、多数決では決まらないということである。

人間は、善い人から成り立っている場合に限って、正の人倫的価値を持つ。しかしながら、《人間の種族意識》によって突き動かされるような、すなわち、畜群本能に従うような人間が《善い》ということは決してない。《人間》は、その種族意識がそれに合わせて変化するために、そのことに一向に気が付くことができないのなら、この意識が人倫的価値の源泉である限り、いくらでも堕落する。測られるものに比例して収縮する物差しがいつも同じ大きさの目盛りを生じさせるように、《種族意識》という物差しはここ[人間学的相対主義的倫理学]でもまた測られるべきものに自分を常に合わせるので、《人間性》が実際どれだけ悪くなっても評価結果は同じままであろう。

[Scheler: Formalismus,S.276]

この引用に出てくる「畜群本能 Herdeninstinkt」はニーチェの言葉である[Nietzsche: Die fröhliche Wissenschaft, 116]。ニーチェが非難する畜群のように、堕落した人々が「良い」と判断するものは、等しく堕落している。そのような主観的基準に基づく倫理的判断は、「今・ここでは私にはかくかくであるように思われる」という思念の表明と同様、判断の名に値しない判断である。超越論的主体はかかる時間的有限性を《超越》して、普遍的意識に至らなければならないのだが、現象学者シェーラーはカントのように構成主義的にではなくて直観主義的に超越しようとする。

シェーラーによれば、ちょうど意味の担い手(言語的表現)や意味の主観的体験が動揺しても意味自体はシュペチエス的同一性を保持するように、価値の担い手(財 Güter)や価値の主観的体験が動揺しても、価値自体はシュペチエス的同一性を保持するとのことである [Scheler: Formalismus,SS.35-40] 。

なるほど例えば生命の価値は、その担い手(生物)は様々な種類があるが、皆等しく生命という価値を持ち、また個々の生物はやがて生命を失うであろうが、だからといって生命という価値自体は死なないという点で、当の価値自体はその担い手の動揺に係わらず自己同一性を保持する。だが反面、生物というこの担い手は、「生命価値」という述語以外に「細胞から構成され」「自己再生力があり」「呼吸によってエネルギーを作り」等の他の述語を持ち、また「生命価値」がなくても生物は生物であるという点で、担われる意味契機の動揺に係わらず自己同一性を保持する。価値は他の付随物が動揺しても自己同一性を保つというのは、まさに全ての独立的意味に関してあてはまる極めてトリヴィアルな主張である。

シェーラーは「《善い》の可能的担い手とその(たんなる担い手としての)共通のメルクマールを当の価値自身と見なす」 [Scheler: Formalismus,S.37] ことをパリサイ主義であるとして論難し、「価値は常にそれ自身直観的に与えられなければならない」[ibid] と主張する。たしかにこれは《自然主義的誤謬》を防ぐ意味で重要な論点であろう[h]。

[h] 「善は定義できない」というテーゼはプラトン以来であるが、先行のブレンターノや後続のハルトマンによっても、またイギリスのG.E.ムーアによっても主張された。この論点に関してムーアは『倫理学原理』の序論でブレンターノに言及し、シェーラーは『形式主義』の第二版序論でムーアに言及し、ハルトマンもシェーラーに言及 [Hartmann: Ethik,S.286] している。

だが、これだけでは「価値は価値である」というトートロジーの域を出ない。価値の自己同一性という純粋時間性が事象の差異性へと超越することが超越論的倫理学への路ではないのか。価値相対主義を論駁する上で重要なのは、担い手から切り離された価値の超感性的同一性ではなく、むしろ価値と担い手との関係の同一性ではないのか。

もちろんシェーラーは、価値と担い手との関係の解明・価値の適用基準の記述・価値判断の正当化(これら三つはすべて同じことである)について言及していないわけではなく、(1)持続性 (2)分割不可能性 (3)基づけ関係における独立性(4)満足の深さ(5)価値感得主体の非特定性をメルクマールとして挙げている [Scheler: Formalismus,S.107] 。だがハルトマンも指摘するように、「この基準の各々は、道徳的価値が生的価値よりも高いということを知るのに役立つ」だけであって「広大な価値のクラスの内部でのより繊細な高低の区別はこのような方法では分からない」[Hartmann: Ethik,S.280] 。

かくして「価値序列 Wertrangordnung」の作成が直観主義的倫理学にとって必要となるが、問題は価値の高低の決め方である。シェーラーによれば、価値の高低は「先取 Vorziehen と後置 Nachsetzen」という特殊な作用によって統握される。この先取/後置は《経験的先取/後置》である「選択 Wahl」から区別されなければならない。「すべての《選択》は、ある行為と他の行為との間で生じる。これに対して先取は何らかの財と価値に関しても生じる。」「先取は《財》から独立に価値それ自身の間にすでにある」 [Scheler: Formalismus,S.105] 。

だがこのように先取を現実の行為、《選択としての行為=行為としての選択》から切り離してしまうなら、結局またレアールな財を超越したイデア的価値の観想に戻ることにならないか。シェーラーの結論はこうである。「どの価値が《より高次の価値》であるかは、先取と後置の作用によってその都度新たに統握されるべきである。このためには論理的演繹では決して置換することができない直観的な《先取の明証》がある」 [Scheler: Formalismus,S.107] 。客観主義的直観主義は主観的“決断主義”を帰結することはここから明らかである。

価値を行為の合目的的意味連関によって定義することはできないであろうか。シェーラーは、「価値とは、事物と事物に向けられた人間の欲求との関係が言葉によって誤って客観化されたものである」と言うエーレンフェルスに対して、それならば「色もまた“誤って客観化された関係”になる」ではないかと批判する [Scheler, Frühe Schriften,S.97] 。「価値は関係の基礎と成りうるが、赤や青が関係でないのと同じく価値は関係ではない」 [Scheler: Formalismus,S.248f] 。

しかし赤や青が物体と視覚器官とのレアールな関係と人と人とのイデアールな関係との関係であるように、価値を関係と見なすことはできないであろうか。シェーラーは「~ にとっての価値」 (使用価値)と「それ自体における価値」とを区別するが、マルクスなどは後者をも人と人との関係に求める。《事物に付着した価値や色彩》とか《客観的に存立するイデア的な価値や色彩》などの想定は、《1+1=3》が誤謬であるのと同じ意味で誤謬であるわけではなく、むしろパラダイム内在的には必然的に真であるのだが、パラダイム超越的には物象化的錯認とされるのである[h]。

[h] 必然的な物象化的錯認と偶有的な錯誤の相違に関しては、[廣松渉:物象化論の構図, 129-139頁] 参照。

シェーラーも、普遍主義の立場を採りながらも、さすがに現代の哲学者だけあって倫理/倫理学のパラダイム相対性を認めようとする。

各時代の価値の形而上学は[…]絶対的ではあるが同時に個別相対的な妥当性しかもたない認識である。それは[1]古代の善世界絶対主義者が 思念したような実質的で歴史的に普遍妥当的な認識でもなければ(これは歴史主義者が正当にも決定的に破壊した)、[2]絶対的だが単に《形式的》な認識(カント)でもなければ、[3]相対主義的歴史主義が思念するようなたんに《事実的に》相対的で時代と集団ごとに専ら《主観的に》妥当するに過ぎない認識でもない。最後の歴史主義は、当の思念において歴史的認識と歴史的存在の絶対性を最高に素朴に前提してしまっているのだ。

[Scheler: Die Wissensform und die Gesellschaft,S.154]

[1]と[2]は、実質的/形式的という対立にも係わらず、というよりもその対立を通して抽象的普遍という同一の地平にある。そこでは実質的な愛・神の命令・完全性等々であれ形式的な定言命法であれ、ある単一の概念が超歴史的に普遍妥当であるとされる。歴史主義者はそのような普遍妥当性は疑わしいとして[3] のような不可知論に走ることになる。しかし、超歴史的妥当性を否定したからといって、歴史的妥当性まで否定するのは早計である。「歴史はわれわれにとって有限の制約の場であり、それと同時に超越の場でもある」[溝口宏平:歴史と歴史を越えるもの,328頁] 。シェーラーは、個別的相対的ではあっても、客観的で具体的な価値の存在を認めて、実質的価値倫理学=哲学的人間学=知識社会学を試みるのである。

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