9月 021997
 

本節では、シェーラーの現象学的倫理学の具体的内容を見ていく。彼の倫理学は、一口で言えばキリスト教倫理学であり、その中身はクリスチャン以外には余り興味あるものとは言えない。彼の才能は、倫理のポジではなくてネガの部分、価値的倒錯に対する生き生きとした現象学的記述の中に見られる。そこでシェーラーの実質的価値倫理学を搦手から攻略していくことにしよう。

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一般に価値的に劣った行為をし、価値的に劣った存在となる時、価値的転倒が生じた時、当人には二通りの反応が考えられる。一つは恥じ入る場合、もう一つは開き直る場合。我々はまず前者の1.羞恥心について、次に後者の2.ルサンチマンについて論じる。

1.羞恥心について

羞恥心は人間にのみ固有である。

人間の本質に身体が属しているがゆえにのみ、人間は恥をかかなければならない(müssen)ようになりうる;そしてこのような《身体》と身体から生じうる一切のものから本質的に独立なものとしてその人格存在を体験するがゆえにのみ、人間は恥をかくことができる(können)ようになることがありうるのである。

[Scheler: Über Scham und Schamgefühl,S.69]

もし神のような存在者であるならば、常に完全であるがゆえに恥をかくことは不必要である(nicht dürfen)。もし獣のような存在者であるならば、完全たろうとする理想がないがゆえに恥をかくことは不可能である(nicht können)。人間は神と獣の中間であるがゆえに羞恥心を持つのである。それは人間が知と無知との中間であるがゆえに「なぜ」の問いを立てうるのと同じことである。人間は有限な存在者であるがゆえに恥ずべき行為を行うが、その行為を恥ずべき行為として反省しうることは、人間が同時に超越論的存在でもあることを意味している。これは超越論的哲学の立場からの羞恥の特徴付けである。

もちろん羞恥の現象自体は多様である。特に性的羞恥心と道徳的羞恥心はとても同じ現象のようには見えない。しかしシェーラーの遺稿『羞恥と羞恥感情』は、未完に終わったとはいえ、肉体的性愛的羞恥心と精神的道徳的羞恥心との共通点を見出そうとしている。

まず性的羞恥心であるが、我々は自分の性器を露出すべきでないことを自明視しているが、考えてみるとこの現象は人間以外の動植物には見られない現象なのである。

植物は、一般的にその生殖器をあけすけに素朴に、その存在の絶頂点のように見せびらかすが、植物はこのことによってあたかも自分の現存在の意味を生殖に賭けているとでも言わんばかりである。

[Scheler: Über Scham und Schamgefühl,S.73]

これに対して動物は、生殖器を解剖学的にみて従属的な位置に持ち、人間にいたっては、衣服によって隠蔽しようとする。

シェーラーによれば、寒さなどから身を守るために服を着、その結果裸体であることに羞恥心を感じるようになったのではなくて -この説では、性器だけを隠している自然民族が説明できない-羞恥を感じる裸体の隠蔽の結果身体が脆弱になって、事後的に護身用に服が着られるようになった [Scheler: Über Scham und Schamgefühl,S.74f] とのことである。

ここからシェーラーは、いかにも現象学者らしく「客観的羞恥」 [Scheler: Über Scham und Schamgefühl,S.75] について語る。客観的羞恥としての生殖器は、バタイユの言葉を使うならば、《呪われた部分》である。それは嫌悪の対象である。

同じ嫌悪が性機能と排泄行為を同じ夜の中に遠ざける。生殖器官と排泄器官とは自ずから接近しており、また部分的に一体化しているので、両機能の結合も自然である。

[Bataille: Oeuvres Complètes 7,p.52]

《呪われた部分》は、嫌悪の対象であると同時に魅惑の対象でもあるという両義性を帯びる。それは羞恥一般に言えることで、例えば、万引きをした人が見つかって大いに恥じ入るとき、万引き自体は、つまり無償で欲しい商品が手にいれられること自体は魅力的であるが、そのような行為は普遍化不可能であるから、普遍性の光のもとに照らされたとき、嫌悪すべき対象となり、また恥ずかしさが生じてくるのである。我々は感性的存在者であるから、汚らわしいことにも魅力を感じるが、超越論的存在者でもあるから、理性の立場から反省して、恥じたり嫌悪したりすることができる。

シェーラーは、暗い無意識の衝動を概念と判断の明るみに出すことを羞恥が阻止する(超自我が抑圧する)と言う。「《自分が見られていることを知ること Sichgesehenwissen》は、それ自体ではまだ羞恥を条件付けない」 [Scheler: Über Scham und Schamgefühl,S.79] 。例えば画家のモデルとしての、医者の患者としての、浴場で召使にかしづかれる女主人としての裸婦は羞恥を感じないではないかというわけである。羞恥はむしろ《自己を振り返ることRückwendung auf ein Selbst》から生じる。愛する男に夢中になっている女性も、はたと《我に返ると》羞恥を感じるようになるとシェーラーは言う。

この振り返りとは、社会的意識が即自的な自我のあり方を対自化すると言えないだろうか。羞恥心とはプライヴェートな暗闇に公共性の光が当てられたときに起こる感情であるのだから。逆に言えば、公共的に許容された裸体は何ら羞恥心の対象ではない。先ほどの例の裸婦が羞恥を感じないのは、そこにおいては着服しないことが社会的に承認されているからである。もし浴場で裸婦が男に覗かれていることに気が付くならば、彼女が感じる感情は羞恥ではなくて怒りである。

それなのにシェーラーは、羞恥が「専ら社会的な感情 ein ausschließlich soziales Gefühl」ではなくて、社会的感情であるのと等根源的に「自己自身にとっての羞恥Scham vor sich selbst」であると主張し、自分の身体を見つめたり触ったりすることすら恥ずかしく思う少女を例に出している [Scheler: Über Scham und Schamgefühl,S.78] 。しかしそれは可能的他者の目を意識しなくてもであるのか。キリスト教的な《罪の文化》と日本的な《恥の文化》との相違は相対的である。我々に羞恥心を起こさせる周囲の世間の眼差しが内面化され、超越化されたとき、神の眼差しとなる。先に引用したように、シェーラーは価値に「個別相対的な妥当性」しか認めないはずなのだが、実際には価値の社会的相対化を拒否し、彼のパラダイムであるキリスト教倫理学で全ての価値現象の評価を行っているという印象を受ける。

シェーラーは、羞恥が人類に普遍的な現象であることを示すために、そして主観的な羞恥感情から客観的な羞恥を区別するために、次のような例を挙げている。ある部族の黒人女性は性器を隠蔽しないでも平気であるが、宣教師が無理やりスカートを履かせると(ちょうど文明人の女性がそれを脱がされた時のように)物陰に隠れ、恥ずかしがって周囲の視線から逃れようとしたとのことである。この実例は、シェーラーの意図に反して、「客観的羞恥」の存在を否定するのに役立っている。性器の隠蔽は、未開社会においては、近親相姦の禁止やトーテム動物のタブーなどと同じく、普遍的なのは禁止(規範)があるということであって、何が禁止されているのか、その“実質的”内味ではない。

もし既製の規範や価値を妥当なものとして受け入れるならば、恥の現象学はそのままエートスの学としての倫理学になる。羞恥心は、私が社会的通念に違反していることを教えてくれるが、その社会的通念が正当であるか否かを教えてくれない。「恥を知れ」という非難に対して「そう言う君こそ自分がやっていることが恥ずかしくないのかね」とやり返せば水掛け論である。倫理学で重要なのは、公共性の地平においてなお対立する複数の規範の止揚である。

2.ルサンチマンについて

次にルサンチマン(これは恥ずべきことに対して恥じない“恥の上塗り”なのだが)について。羞恥心とルサンチマンは、謙虚と高慢の対局関係にある。

高慢な者、それは絶えざる《見下し》によって頂点に立っているかのような錯覚に陥る人である。彼は自分の人格の実際上のどの堕落をもさらに一段下の下を見ることによって過剰補償しようとする。そこで高慢な者は、実際には堕落しているにもかかわらず、自分が上昇しているように見えるにちがいない。

[Scheler: Vom Umsturz der Werte,S.20]

これに対して謙虚な人は、理想が高いがゆえに上を仰ぎ見る。

ニーチェはキリスト教の謙虚の徳をルサンチマンの産物である奴隷の徳と考えた[n]が、シェーラーによればそれはむしろ「生まれながらの主人の徳」 [Scheler: Vom Umsturz der Werte,S.25] である。徳とは現状を否定しようとする努力の持つ犠牲の価値である。したがってすでに下にいる奴隷にとっては上に上昇しようとする自尊心が徳であり、すでに上にいる主人にとっては下へと遜ろうとする謙虚が徳となる。

[n] キリスト教は思惟の地平的相対性を利用している。ニーチェは「奴隷道徳[キリスト教]はその成立のためにいつもまずもって反対の世界=外的世界を必要とする」[Nietzsche: Zur Genealogie der Moral,1.Abhandlung, 10.Abschnitt] と言うが、この彼岸の想定が現世の価値地平を相対化するのである。

この観点からすれば当然シェーラーはカントのあのキリスト教的倫理学をも擁護してよさそうなのだが、しかしシェーラーによればカントの倫理学は、

  1. 結果の度外視
  2. 平等主義

という点でルサンチマンの産物、とのことである。心情倫理は実は実行力のない無能のルサンチマンであるというわけである [Scheler: Formalismus,S.135] 。このようなシェーラーのカント批判は、カントに対する無理解に基づいているという以前に、概念的な混乱に一因があるので、我々はまずルサンチマンとは何であるのか、その本質規定から手掛けなければならない。

「ルサンチマン形成にとって最も重要な出発点は、復讐衝動である」 [Scheler: Vom Umsturz der Werte,S.38] 。まず敵から何らかの攻撃を受けて恨みを持つ。しかしたんにある攻撃に対してすぐ反撃するならそれは復讐ではないし、恨みが残らないからルサンチマンも生じないので、一定期間反撃の衝動を抑制するということが第一の要件である [Scheler: Vom Umsturz der Werte,S.39] 。「復讐心に燃えて感情に狩り立てられて復讐する者、憎悪に満ちてはいるが、敵対者に損害を与えるか、彼に少なくとも“苦情”を言うか、あるいはせめて他人のところで彼を罵るものは[…]ルサンチマンに陥らない」 [Scheler: Vom Umsturz der Werte,S.41] 。

ある人から恩を受けた時、打って返すように返報すればいかにも恩着せがましく見えて失礼にあたるので、むしろ一定期間置いておもむろに答礼するほうが効果的であるように、復讐もしばらくしてからそれとなくやったほうが効果的であるが、その復讐ができない場合がある。復讐できるにも係わらず復讐しない場合は、相手に寛容を示したことになるのでルサンチマンは生じない(特権を行使しないことはそれ自体特権である)。復讐できない場合、特に無能であると侮辱されて復讐できないなら、無能であることの恨みはさらに深まる。

例えば、ある職場の若手の有能な課長が、自分の部下について同僚に「あいつはもう40才だというのにまだ係長だ」と言ったのがその部下の耳に入ったとしよう。その部下は復讐することはできない。なぜなら出世するためには、その課長の機嫌を害してはならないからである。彼は依然として《悪戯に対してもいやな顔一つせず gute Miene zum bösen Spiel》でなければならない。しかし思えば、このように復讐できない無能さが復讐したくなる原因であったわけである。二重に自分の無能を思い知らされた係長は、「出世だけが人生じゃねぇ」と赤ちょうちんでぼやくしかないだろう。彼は無能から有能になることによってではなくて、自分を無能たらしめている価値基準そのものの転倒によって自己を防御しようとする。これがルサンチマンである。

ルサンチマンとは《恨み Groll》であり、また無能に基づくがゆえに《嫉妬 Neid》でもあり、おのれを高めようとはしない《他人の不幸を喜ぶ気持ち Schadenfreude》である。今の係長の場合、恨みと嫉妬の対象は課長あるいはせいぜい自分の上司と限定されているが、無能や欠陥が甚だしい場合、当の対象は無限定的になる。不具者は周囲のなにげない振舞(視線を向けること・こそこそ話をすること・笑い等々)にひどく心を痛める。だがその一つ一つにいちいち復讐することはできない。恨みの対象は世界全体にまで広がり、そしてその相関者である自己にまで及ぶ。慢性化し欝積したルサンチマンは《陰険 Hämischkeit》となって性格的に固定化する。恨み→嫉妬→他人の不幸を喜ぶ気持ち→陰険、これが深まりいくルサンチマンの症状である。

ルサンチマンの人は、確かにシェーラーも言う通り、嫉妬の対象となる人に対して復讐できない。だがルサンチマンによる価値転倒は、その相手の価値を貶めるという点で一種の復讐になりうることは明らかである。ルサンチマンが自己防衛の機制であるとするならば、その本質はエゴイズムであると言える。価値W1とW2のうち、自分がW1ではなくW2を所有しているという理由で、あるいはW1<W2の方が自分にとって都合がよいから、W2を「先取 vorziehen」し、W1を「後置nachsetzen 」することがルサンチマンであると定義できる。

この定義から皮肉な見方をするならば、キリスト教はルサンチマンの産物だとするニーチェの糾弾自体が、ルサンチマンに基づくと言える。「ニーチェはキリストを嫉妬していた。それも気も狂わないばかりに嫉妬していた」[Gide: Dostoïevski,p.185] 。ニーチェはエゴイストであった。ニーチェ自身、「高貴なる魂は自己への畏敬を持つ」[Nietzsche: Also sprach Zarathustra,S.267] のだから、「エゴイズムは高貴なる魂の本質に属する」[Nietzsche: Also sprach Zarathustra,S.251] と語っていた。ニーチェが嫉んでいたものは、言うまでもなく、西洋の精神世界においてイエスが持っている支配的地位であった。ニーチェがイエスに取って代わりたいと思っていたことは、発狂後の彼が、多くの手紙に「十字架にかけられたる者」と署名したところからも見て取ることができる。

ルサンチマンの本質がエゴイズムであるという説は、シェーラーの主張しないところである。シェーラーは「あるものを、それが実現されるためにより多くの力・骨折り・労働等を要求するからと言って、価値あるものとみなすことはルサンチマンに基づくまったく典型的な価値錯誤である」 [Scheler: Formalismus,S.235] と言う。

シェーラーによれば、イソップ物語の狐が、葡萄が採れないから葡萄がすっぱいと価値を貶めてあきらめたことを典型的なルサンチマンである。しかし今の引用文に従うなら、その葡萄を獲得することは、狐の能力以上に「多くの力・骨折り・労働等を要求する」がゆえに「その葡萄はうまい/価値がある」と言うことがルサンチマンであることになるが、これはおかしい。シェーラーの定義は不十分なのであって、多くの力・骨折り・労働等を要求するがゆえに私にとって主観的な価値があるものを、私が所有しているときには「価値がある」と言い張り、私が所有していないときには「価値がない」と言い張ることがルサンチマンであると定義し直さなければならない。

シェーラーは『形式主義』の脚注で「経済学的な費用[犠牲価値]理論がルサンチマンにその起源を持っているかどうかはここでは保留しておく」と記しているが、それはルサンチマンと何の関係もない(し、実際この論点は後に論じられることはなかった)。ルサンチマンの本質はエゴイズムにある[r]のであって、低い価値を高い価値と取り違えることではないからである。

[r] 他者の利己主義を指摘してそれを批判することは、それ自体が(自分の利益につながるという点で)利己主義である。したがってルサンチマンが利己主義であるとすれば、キリスト教をルサンチマンとして批判するニーチェ自身も利己主義であるということになる。ニーチェはキリスト教に映っている自分の利己主義を批判しているのである。一般に他人の欠点が気になるのは、自分もその欠点を持っているからなのであって、例えば他人の功績の誇示に反感を持つ人に限って名誉欲が強いし、アベックを冷やかす人に限って恋人に飢えているものである。ゲーテは「人はやっと脱却したばかりの欠陥に対しては最も厳格である」と言ったが、それはその人の関心が、当の欠陥とその否定という《地平》に留まっているからである。

シェーラーはさらに「徳は、あるものを犠牲にしなければならないから、そしてその犠牲にしなければならない分だけ価値があるのであって、徳が何かをもたらすからではない」 [Kant: Kritik der praktischen Vernunft,S.278] という一文を引用して、カントの倫理学がルサンチマンであると 批判するが、これが誤解である。カントは理性的であることだけが取り柄の実行力のない小心の人だったから、ルサンチマンに基づいて結果に価値を認めなかったというよりも、結果を度外視してもなお義務遂行に価値があることを主張したかったわけで、彼がたんなる徳だけよりも徳福一致のほうが望ましいと考えていたことは確かなのである。犠牲に関しても、犠牲を払ってでも義務は守る必要があると言っているのであって、犠牲を払うから価値があると言っているのではない。

以上のルサンチマン理解の観点から、シェーラーのキリスト教擁護を検討しよう。

全く特徴的なことにキリスト教の言語は《人類への愛 Liebe zur Menschheit》というものを知らない。その根本概念は《隣人愛Nächstenliebe》である。

Scheler: Vom Umsturz der Werte,S.97]

この点キリスト教の《隣人愛》は、「人類」という量的・無差別的な集合体をルサンチマンに基づいて尊重するA.コントやJ.ベンサムなどの近代実証主義者が説く《愛》とは異なる。

近代の平等性理論一般は、[…]明らかにルサンチマンの成せるわざである。[…]純粋に合理的な理念としての“平等性”の理念は、決して意志・意欲・情緒を活性化しえない。より高次の価値を喜んで見ることのできないルサンチマンは、しかしながら“平等性”の要求にその本性を隠しているのだ!

[Scheler: Vom Umsturz der Werte,S.121]。

確かに所謂悪平等はルサンチマンの産物である。だが競争の条件の平等・機会均等は悪平等ではない。高い地位/身分にいる無能が、有能だが低い地位/身分にいる者と対等に“平等に”競争することを拒み、ルサンチマンによって実力よりも地位/身分の高低にこだわることだってある。平等な競争に勝ち抜いて主人の地位/身分を守ることが《主人=強者》の道徳というものである。これに対してキリスト教は主人に遜ることしか命じない。シェーラーに言わせれば、キリスト教が否定的なもの(弱者・病気・貧困)に同情を寄せること(愛・犠牲・救済)は、否定的なものの中に肯定的なものを見いだすことであって、肯定的なものの中に否定的なものを見いだすルサンチマンとは異なる [Scheler: Vom Umsturz der Werte,S.78] 。

この肯定的/否定的はいかなる価値基準に基づいているのか。もしキリスト教的な価値観を始めから肯定するならば、キリスト教がルサンチマンの産物ではなくて、その反対が価値的に転倒したエゴイズムであるというのは当然のことであろう。しかしいまやその前提を疑わなければならない。

先ほどの係長の例に戻ろう。この係長は出世が後れている無能で、したがってこれを正当化する価値観はルサンチマンの産物と見なされた。だがもしかするとこの係長は性格は善い人なのかもしれない。そして逆に若手の課長は、仕事は有能にやるが、人間的な魅力に欠けた心の冷たい人なのかもしれない。するとあの課長の悪口は係長の人気を妬んでなされた自己防衛であったのかもしれない。こうなるとどちらがルサンチマンなのか判らなくなってくるであろう。

有能/無能と人間性の豊かさ/貧しさのどちらが真正で、どちらが転倒した価値観であると誰がいかなる権利でもって認識するのか。価値の本質直観の明証性によってか。直観の明証性を引き合いに出すことは、正当化の断念の宣言に他ならない。

我々はルサンチマンを、価値W1とW2のうち、自分がという理由で、あるいは1<W2の方が自分にとって都合がよいからW2を先取し、W1を後置することと定義したが、その際たまたま「自分」がW1ではなくW2を所有していたというよりも、むしろW1<W2の価値観に基づいて意図的にそれを所有したということの方がよくある場合である。その場合「自分」はそれがルサンチマンであることを認めないであろう。「自分」はまさに十全的な“本質直観”によってそれを観取したと主張するに違いない。こうして自分の価値観を前提にして他を裁く高踏なルサンチマン論は、“神々の闘争”を直視して、自らの規範/価値の基礎付けへとその課題を変質させる。

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