9月 021997
 

シェーラーはキリスト教的に精神的価値と肉体的価値とを分けたうえで、前者が後者に下降したことに気が付くことを羞恥、この下降を下降と認めない転倒の転倒をルサンチマンとした。これに対して私は、前節で、羞恥をある価値パラダイム内部での違反の意識、ルサンチマンを対立する価値パラダイムの相互誹謗として捉え返した。本節では、シェーラーのこの直観主義的な価値のヒエラルヒーを目的論的に再構築したい。

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シェーラーの哲学においては、価値倫理学・哲学的人間学・知識社会学の三者は一体であり、以下の表に示したごとく、価値のヒエラルヒーが同時に人間構造のヒエラルヒーであり、また社会類型のヒエラルヒーでもあるという対応が見られる。

表5 シェーラーにおける価値のヒエラルヒー
価値能力共同体
人格価値(聖/邪)精神人格共同体(教会など)
精神価値(真善美/偽悪醜)知能文化共同体(大学など)
生命価値(健康/病気)本能/習慣共同社会(Gemeinschaft)
快楽価値(快/不快)感情衝迫利益社会(Gesellschaft)

以下このヒエラルヒーを逐一検討していく。

1.感情衝迫

まず「感情衝迫 Gefühlsdrang」という心的なものの最下位の段階から始めよう。感情衝迫は、最下位の生物である植物にすでに見られる。「対象なき[objektlos]快と不快が、それ[植物]の唯一の二つの状態性である」 [Scheler: Die Stellung des Menschen im Kosmos,S.13] 。植物には感覚、即ち一つの中枢への器官/運動状態の還帰的通報(Rückmeldung)とこの通報による運動の変容可能性が欠けている。「それゆえに生命が本質的に《権力への意志》ではなく、生殖と死への衝迫がすべての生物の原衝迫であることを植物が最も明確に示している」 [Scheler: Die Stellung des Menschen im Kosmos,S.14] 。

《権力システム Machtsystem》がないところには《感覚のシステム System vom Empfindungen》も欠けている。この意味で植物の感情衝迫は「忘我的 ekstatisch」 [Scheler: Die Stellung des Menschen im Kosmos,S.15] である。だが感覚を持たない忘我的な植物になぜ快と不快という二つの状態性があるのか。

シェーラーは、感情を

  1. 感性的感情または《感覚感情》
  2. 状態としての身体感情と機能としての生命感情
  3. 純粋に心的な感情(自我感情)
  4. 精神的感情(人格性感情)

の四つに分け [Scheler: Formalismus,S.334] 、これらが「我々の全人間的な実存の構造に対応している」[ibid] と言う。段階の順番からしてⅠの「カール・シュトゥンプフが謂う所」の《感覚感情》は 感情衝迫ということになるが、これは矛盾である。

そこで我々としては「対象のない objektlos」という限定を重視して、感情衝迫をハイデガーの謂う「情状性 Befindlichkeit」[Heidegger: Sein und Zeit,SS.134-140] に引き付けて理解することにしよう。情状性はあれが快いとかこれが不快であるとかいうような存在的な意識ではなくて、現存在の被投性を存在論的に開示する根本機構である(もちろん人間以外の存在者は情状性を存在論的に対自化することはないのだが)。シェーラーにおいても以下に確認するように、ばらばらな快/不快は人間存在や生命一般にとって決して根本を成すエレメントではないのである。

2.本能

心的なものの第二段階は「本能 Instinkt」である。本能的行為は

  1. 「意味にかなった sinngemäß」つまり自他の生に対して「目的にかなった teleoklin」
  2. 固定的で恒常的なリズムに従って、
  3. 類型的に繰り返される状況に反応し、個体にではなくて種の生にとって有意義であり、
  4. 試行の回数とは無関係である

ことをメルクマールとする [Scheler: Die Stellung des Menschen im Kosmos,S.18f] 。

Ⅰに対して、シェーラーは「人間の所謂《衝動的》行為は、全体的に見て(例えば麻薬常用癖のように)まったく無意味でありうるという点で、本能行為の正反対である」 [Scheler: Die Stellung des Menschen im Kosmos,S.20] と言うが、もし走性なども本能の内に入るならば、本能行為もまた「飛んで火に入る夏の虫」などに見られるように、生にとって反目的的(無意味)な行為に成りうるのではないのかと疑問を持つ向きもあろう。確かにシェーラーが主張するほどに衝動行為と本能行為は区別されえないのだが、Ⅲにある通り、本能は、全体的統計的に種全体にとって合目的的であればそれで有意味ということになるのである。

シェーラーは、一方で「本能行動は、前-知識と行為との不可分の統一を表している。[…]それゆえ本能においては[…]《生得的表象》を語ることは無意味である」 [Scheler: Die Stellung des Menschen im Kosmos,S.21f] と言いながら、他方「動物が表象し、感覚することができるものは生得的本能と環境構造との関係によってアプリオリに支配され規定されている」 [Scheler: Die Stellung des Menschen im Kosmos,S.19] とも言っている。これは矛盾しているように見えるが、シェーラーは要するに、本能以上の能力を持たない動物も表象を持つが、表象を表象として対自化することができないと言おうとしていたのであろう。

表象は否定によって媒介されなければ成立しない。植物は忘我的であるがゆえに、その生の運動が外界によって抵抗を受けても、その情報(感覚)を還帰的通報によって「表象として自分の前に立てる als Vorstellung vorstellen」ことができない。逆に言えば感覚表象とは、抵抗というレアールな否定の意識なのである。「実在的存在とは、対象存在すなわち全ての知的作用において同一な相在の相関者ではなく、むしろいかなる種類の意欲・注意においても同一である根源的自発性に対する抵抗存在である」 [Scheler: Die Wissensform und die Gesellschaft,S.363] 。

本能は求心系神経路から来る特定の感覚表象に対して特定の指令情報を遠心系神経路に送り込む。その際刺激に対する反応は本能によって先天的一義的に決まっており、したがってVをするべきかVをするべきでないかが当の個体によって問われない。つまり表象Vは、¬Vというイデアールな否定によって媒介されていないので、選択の自由(超越)の余地が全くないのである。

動物は聞いたり見たりする。しかし聞いたり見たりしていることを知ってはいない。動物の魂は機能し、生きている。だが動物は心理学者や生理学者ではありえないのだ!

[Scheler: Die Stellung des Menschen im Kosmos,S.34f]

対象意識が自己意識成立のモメントであることは、超越論的哲学の基本的テーゼであった。

シェーラーと同時代のジンメルは、常識を逆転させて次のように主張している。

究極的根本的には、たぶん実在性は、それが我々に成す抵抗を通して我々の意識に入って来るのではなく、抵抗感覚や阻止感情と結び付いた表象が、客観的に実在的な、我々とは独立に我々の外部にある表象と呼ばれているのであろう。それゆえ事物は、価値あるがゆえに獲得が困難なのではなく、それを獲得しようとする我々の欲求を阻止するような事物を我々は価値あるものと呼ぶのだ。

[Simmel: Philosophie des Geldes,S.13]

シェーラーが聞いたら「ルサンチマン的倒錯だ!」と批判したことであろうが、ジンメルのこの《抵抗=実在》説、あるいは《希少性=価値》説は、システム/環境の差異化論として理解できる。システムとはシステムと環境の区別であり、環境とはシステムにとっての選択の不確定性である。自分の意のままになる確定性に対して我々は客観的対象性を感じない。自分の意志を妨げる不透明性に接して、初めて我々は世界の客観性を認識するのである。

3.習慣と知能

第三段階の心的形式は習慣、すなわち「連合・再生・条件反射の事実の総体」 [Scheler: Die Stellung des Menschen im Kosmos,S.22] であり、第四段階のそれは知能である。注意しなければならないのは、この習慣や知能は感情衝迫や習慣という全体的生の分解の産物であって、より下位の単純な能力の複合ではないということである。2 のⅡに謂う所の「固定的で恒常的なリズム」とは生命の非機械的本性のことで、シェーラーに言わせれば、本能は(無条件)反射の単なる組合わせではないし、学習(習慣)は条件反射の単なる組合わせではない。「それゆえ心的発展の根本的経過は、創造的分解であって連合や(ブントが謂う)《総合》ではない。」[Scheler: Die Stellung des Menschen im Kosmos,S.21] 。

概ね純粋な連合はおそらく思考の上位の決定因子が欠落した全く特定の現象、例えば観念奔逸[Ideenflucht]の状態の場合における語の外的音響連合においてのみ見出されよう。こうした結合の仕方は発生的に基本的なものでは全くないのであって、心的な表象経過はむしろ老年期に至って初めて(衝動生の勢力の減退と分化の低下の結果として)連合型への接近の度を強めると言えるほどである。高年齢に見られる書法や描写や画法や語法の変化はこれを証拠立てており、 それら全てはますます累加的・非統合的性格を帯びてくる(つまり連合諸法則はほぼ老衰的精神薄弱に対して妥当する)。これと平行して、感覚は老年期において“純粋”感覚の刺激比例的な性格に近付く。身体的有機体が生の流れとともに相対的な機械組織をますます産出していき、死におよんで全面的にそのようなものへと沈下するのと全く同様に、我々の心的生も諸表象と諸行動様式の純粋に習慣適合的な結合をますます産出する。つまり人間は老年期に至って、いっそう習慣の奴隷となる。

この生のホーリズムは、シェーラーの哲学にとって基本的なものである。本能的行為にせよ、習慣的行為にせよ、あるいは知能的行為にせよ、行為とは「行いにおいてこの[目標である]事態を実現することの体験、すなわち全てのそこに属する客観的な因果的経過ならびに行為の結果から全く独立した一つの現象的統一体としてあるこの特殊な体験統一体である」 [Scheler: Formalismus,S.142] 。

例えば帽子をかぶろうとする時、私はかぶることを意欲するのであって、かぶる運動を意欲しているわけではない[w]。行為においては、物理的な経過である身体の運動や、それに付帯している感情 やさらにそれに付帯している快楽が目指されているわけではないし、またそのようなものの機械的な合成から行為が成り立っているわけではない。「それゆえ行為意欲の源泉は、第一次的には感情状態ではなく(ちょうど感情状態が意欲の目標ではないように)、実践的客体や純粋意欲に対する《事象》の体験された抵抗である」 [Scheler: Formalismus,S.151] 。そしてこの抵抗の克服が衝動活動の目標となる。

[w] フッサールはこれとパラレルに「私は色の感覚を見ているのではなくて色の着いた事物を見ているのだ」 [Husserl: Logische Untersuchungen 2,S.387] と言う。シェーラーやフッサールのこれらのテーゼは「示されうることは語ることができない」 [Wittgenstein: Tractatus, 4.1212] というウィトゲンシュタインの命題を想い起こさせる。もっともフッサールもシェーラーもこのような自然的態度を放棄して現象学的還元に走るのだが。フッサールはシェーラーの当の主張とは反対に「意欲することを意欲する」 [Husserl: Vorlesungen über Ethik und Wertlehre,S.125] ことについて語る。この反復は、必ずしも無意味ではない。例えば異性を欲するが、異性を欲することを女々しいこととして欲しない場合があるからである。「知覚を見る」とかさらに「知覚を見ない」などといったこともある哲学的な態度ではありうることである。

「感性的感情状態の経過は、既に衝動活動に依存している」 [Scheler: Formalismus,S.170] 派生的なものに過ぎない。感性的感情、なかんずく快楽は行為の結果であって、決して動機ではない。「ひとは《差し当り》財を目指しているのであって、財における快を目指しているのではない」 [Scheler: Formalismus,S.251] 。快を 目標とする時には、《自然的態度》とは違った《不自然な態度 eine künstliche Einstellung》が必要である。

純粋に快に向けられた生の態度は、個人の生についても民族の生についてもまぎれもない老年期現象を表しているのであって、それは“しずくをなめる”年老いた酒飲みやエロチックな領域でのこれに類した現象が実例を示しているところである。[…]それゆえ《快楽原理》は、感覚主義の同族たる快楽主義者が考えるように 根源的なものではなく、連合的知性が進んだあげくの成りの果てである。

 [Scheler: Die Stellung des Menschen im Kosmos,S.27]

バラバラなセンスデーター、バラバラな快楽、そしてそれを結合してカオスに形式を与える矛盾律の能力としての論理的悟性-これはシェーラーをはじめ総じて現象学者が退ける構図であった。

ヒュームの自然は存在するためにカントの悟性を必要としたし、ホッブスの人間は前者と同様に自然な経験に戻るつもりなら、カントの実践理性を必要とした。

 [Scheler: Formalismus,S.85]

現象学者は現象の中にイデアールな秩序を見いだそうとする。シェーラーに言わせれば、カントの「自律 Autonomie」は理性による「理律 Logotomie」という点で、「人格の他律 Heteronomie der Person」である [Scheler: Formalismus,S.382] 。ここから明らかなように、シェーラーは人格と論理的主語を区別して [Scheler: Formalismus,S.382]、 「人格の存在をその行いから理解しようとする[…]所謂一種の《行為主義的》な人格の理解」 [Scheler: Formalismus,S.383] を、つまりカント的な人格の理解を拒否する。そこでシェーラーの人格は、フッサール謂う所の潜在的な生の地平をも含むコギトに相当すると考えられる。

人格の行為は統一的な体験である。物理的な身体行動・感情状態・抽象的な快・表象としての目的は事後的な反省によって派生する契機に過ぎない。

努力する意識から表象する意識への《後退》の現象において、努力において与えられる目標内容を表象する統握において初めて目的意識が生じる。

 [Scheler: Formalismus,S.60]

努力する人格は作用の中で生きていてそれを反省しない。彼にとって行為とは、まさに Handeln であって Handlung ではない。緊張して危険な仕事をしている時には、怪我をしてもそれに気が付かないものだが、「企画とその実現過程に完全に埋没していることが、大胆な行動家に特有な態度である」 [Scheler: Formalismus,S.79] 。 「“偉人”論の著者は決して偉人ではなく、常にもっぱらその傍観者であった」 [Scheler: Formalismus,S.81] 。偉人は過去ないし他人の Können(正確には das Gekonnte)に対する意識を喜ぶのではなくて、自分の今のKönnen の意識を喜ぶのである。それは「できる行為に対する快楽 eine Lust am Tun dessen,was wir können」ではなくて「行為できるという快楽] eine Lust am Können dieses Tuns」である[g]。しかしシェーラーは生に内在するだけの人ではなかった。

[g] この「できること das Können」と「できたこと das Gekonnte」の区別から、シェーラーは「権力 Macht」と「暴力 Gewalt」を区別する。「何らかの点で最も多く《権力》を持っている人とは、他の存在者に対して自分の意志を押し通すのに最も少ない暴力しか必要しない人である」 [Scheler: Formalismus,S.241] 。では暴力を使う必要のない従順な召使の所有者は、反抗的な国民を暴力で鎮圧しなければならない国王よりも権力があるというのだろうか。

4.精神

知能は賢いチンパンジーにすでに見られるので、宇宙における人間の特殊地位を示すものではない。ところが人間は、知能をも含めたこれまでの全ての心的能力を超越することができる。ここに至って人間と動物との相違を単なる程度上のもの以上にする新たな原理が登場する。ギリシャ人はかつてこれを「理性」と名付けたが、シェーラーはさらに包括的な(つまり単に思惟だけでなく、直観・意志・情緒をも含む)「精神」をその名称に選ぶ。

それゆえ《精神的》存在者は もはや衝動と 環境世界に拘束されず、《環境世界》から自由であり、[…]《世界開放的》である。そのような存在者は《世界》を持ち、さらに彼にも根源的に与えられた、彼の環境-動物はそれをただ持っているだけで、そこに忘我的に没入している-の《抵抗》と反応の中心を《対象》にまで高めることができ、この対象のありかたを原理的に自分で統握することができるのである。

精神とは「理念化の作用 Akt der Ideierung」 [Scheler: Die Stellung des Menschen im Kosmos,S.40] であり、この理念化としての「昇華 Sublimierung」こそが、フッサールが謂う現象学的超越論的還元に他ならない [Scheler: Die Stellung des Menschen im Kosmos,S.42] 。

これまでシェーラーは生哲学的な観点から、人間の習慣的行為や知能的行為を、有機的統一性を持った動物の本能的行為の老衰的末期的な堕落形態として、そしてその限界概念を“観念奔逸”として見なしてきた。ところが精神という新たな原理に定位するや否や、動物と人間の地位の間に逆転が生じて来る。

動物は自分の環境に忘我的に埋没して生きており、ちょうどかたつむりが自分の家を持ち運ぶように、どこへ行こうともその環境を構造として持ち運ぶ。《環境世界》をこのように固有の仕方で遠ざけ・距離をとり[h]、《世界》ないし世界の象徴にすること、人間には可能なこのことを動物はすることができないのである。[…]突然ここに、それからあそこへと飛び移る猿は、言わば純粋に刹那的な忘我状態[in lauter punktuellen Ekstasen]にある(人間で言えば病的な観念奔逸)。

 [Scheler: Die Stellung des Menschen im Kosmos,S.34-5]

[h] ハイデガーは、Entfernen が Ent-fernen=Nähern でもある( 日本語で言えば 「遠ざける」=「遠さを避ける」,「距離」=「離ヲ距ツ」でもある )ことを指摘し、「現存在の存在様式としての Entfernung」を たんなる「間隔 Abstand」から区別している [Heidegger: Sein und Zeit,S.105] 。認識の身体性を説くフッサールも、「自我の極 Ich-pol」がその「関係点 Beziehungspunkt」の一つである Entfernung とそうではない Abstand を区別している [Husserl: Ding und Raum,S.229f] 。このように生の現事実性を直視する現象学者にとって、オプティミスティックに対象化や客観化を語るシェーラーの“超越論的哲学”はさぞナイーブに見えたことであろう。

人間は「Xは私の右側にある」という客観的な言明を語ることができる。もし「Xは右側にある」と言ったら、それは主観的な言明である。なぜならある他人にとってXは左側にあるということがありうるからである。しかるに人間は方向の特殊性を対象化された自己存在の特殊性に置換することができるのである。「自分の環境と自分の全心的物理的存在と両者の因果的関係を対象化することができることから、人間の一連の特殊性が理解できる」 [Scheler: Die Stellung des Menschen im Kosmos,S.36] 。してみると人間の宇宙における特殊地位は、人間が宇宙において特殊地位を持たないことを認識している点にあるということになる。これは逆説的である。

人間が科学で、宇宙における自分の偶然的位置[特殊地位]、自分自身と自分の全物的心的装置を、さながら他の事物と厳密な因果関係にある他の事物であるかのようにつねに包括的に考慮に入れることを学び、かくして次第に世界の像[ハイデガーを想起せよ!]自身を獲得する術を心得るようになることは人間の科学の偉大なところである。

しかしその偉大な科学が教えるところによれば、人間は少しも偉大ではない。他の動物とは違って理性的と自負する近代人がその能力を最大限発見した結果得た科学の結論は、人間は他の動物と同様DNA戦略の一環たるタンパク質に過ぎないということであった。人間は有能になることによって無能となったのである。

このパラドックスは、フッサール謂う所の「人間的主観性のパラドックス:世界に対する主観存在であると同時に世界の中での客観存在であること」 [Husserl: Die Krisis,S.182] から来ている。すなわち経験的人間は特殊地位を持たないが、持たないと認識する超越論的な精神はその超越のゆえに特殊地位を持つのである。もちろん人間の超越は時間的に相対的であるが、かかる時間的相対性(変化)を認識しうることは、超越論的な精神が時間性としての超越であることを示している。

シェーラーは一方では「全ての非現象学的な経験、例えばレアールな事物の自然な知覚は原理的にその直観的な内容を《超越している》」 [Scheler: Formalismus,S.70] と言うが、この《超越する Transzendieren》は、我々の言葉で言えば超越的超越 である。これに対して「人間は自分自身と自分の生と全ての生を超越する事物である。人間の本質的な核は[…]まさにかの運動、自己を超越するというかの精神的作用なのである」 [Scheler: Formalismus,S.293] と言う時の《超越する》は我々の言葉で言えば超越論的超越である。

感情衝迫を時間としての超越本能・習慣・知能を時間的多様における超越とするならば、本節でこれまでフォローして来たシェーラーの《哲学的人間学=超越論的倫理学》に「超越論的哲学の定式3

(1)時間としての超越が

(2)時間からの超越を

(3)時間的多様において超越しつつ

(4)時間的多様から超越する

があてはまることは容易に見て取れよう。物象化的錯視である直観主義と超越論的哲学との間の子である現象学を目的論的に改作することが次章の我々の課題である。

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