9月 021997
 

第三章では、現象学的還元・構成・破壊の手法を倫理学・価値哲学の分野に応用し、これを目的論的還元・構成・破壊と称して、規範と価値の基礎付けを行うことにしたい。本節では、目的論的還元により、価値と規範の根拠が現象学的に問われる。

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事象と意味/事象と価値の特定の述定関係は、我々に先与的・超越的に、さながら事象そのものの性質であるかのように現出する。そのために現象学者は、《実質的アプリオリ》としての事象本質の受動的直観に自足する。しかしだからといって(差し当り価値に関して言えば、メタ倫理学を批判する解釈学者が主張するように)事実から価値は切り離されず、両者は一体であるとは言えない。例えば眼前に生起したある行為は、私にとって「美しい・素晴らしい・称賛に値する」という価値感情と一体となっているとする。この即自的な段階においては、私にとって「私にとって」が意識されていない。

ところがいまそこにある他者が現れ、その行為を指示しつつ「醜い・くだらない・罵倒に値する」というような述定を行ったとする。もし事実と価値が一対一対応の関数関係にあるとするならば、価値が異なることは事実が異なることを意味するので、彼は異なった対象を指示していることになる。もしもそうだとすれば、一般に(つまり価値のみならず意味に関しても)妥当性要求の争いは同一主語に矛盾した述語を帰属させることによって生じるのだから、私は彼と論争する必要はないはずである。しかしいまの場合、私は自分の述定に根拠を与えてそれを正当化しつつ、なぜ君はあの美しい・素晴らしい・称賛に値する行為に「醜い・くだらない・罵倒に値する」などというような述定を行うのかと問い質すのではないだろうか。

もちろん指示対象に相違を見出して争いを回避することもあるであろう。例えば私はその行為の美しい動機を讃めたのに対して、後から来た彼はその行為の結果だけを見てけなした場合とか、同じ行為を主語にしている場合でも、私は封建的な家庭に育ったが、彼はリベラルな雰囲気の家庭に育ったというように(判断者の心的状態をも含めた)指示“対象”を振り分ける時には争いは生じない。では常にこのような振り分けが可能かと言えば、そうではなく、相互に譲り合わない和解不可能な争いが世の中にあることは否定できない。そしてこのことは事実即価値ではないことを示している。パラダイムの相対性の自覚が直観主義者をしておのれの規範の超越論的基礎付けを動機付けるのである。

倫理学の創始者アリストテレスは、いま言った意味での直観主義者であったと思われる。彼は、実体主義的な価値観に基づいて徳目の記述を行う点でシェーラーやハルトマンなどの現象学的ないし現相論的な実質的価値倫理学の祖でもあったように思われる。そこでまず手始めにアリストテレスの倫理学を検討してみよう。

人生経験豊かな大人アリストテレスは、哲学的には実体主義的であったにもかかわらず、徳の相対性をよく心得ており、例えば「勇敢」という徳が「無謀」という悪徳と表裏一体であることを見抜いている。だが徳の価値はあくまでも客観において完結すると考える彼は、両者の差を事象の事実的相違によって区別しようとする。すなわち「勇敢」は、中庸の徳として「無謀」と「憶病」という過超と不足の中間に位置する、と考えられるのである。

それゆえ“徳”は、その実体に即して言えば、またその本質を言い表す定義に即して言えば“中庸”であるが、しかしその最善性とか“善さ”とかに即して言うならば、それはかえって“頂極”に他ならないのである。

[アリストテレス:ニコマコス倫理学, 1107a]

アリストテレスの三項図式は、図解すると図6のようになる。

図6 中庸の徳またはアリストテレスの三項図式

この図において、無謀と憶病という両極端は、なるほど「いかなるものも恐れず、いかなるものにも向かって進んで行く」人は無謀であり、「あらゆるものを逃避し、あらゆるものを恐怖して何事にも耐えない」人は憶病である、というように事実的に区別されようが、果たして同様に勇敢が両者の《事実的》中間であると言えるだろうか。ここでアリストテレスの価値客観主義は行き詰まるように見える。勇敢の具体的規定という段取りになると、彼は「然るべき事柄を、然るべき目的のために、然るべき仕方で、然るべき時に」「事柄の値するところに応じて、理(ことわり)の命ずるであろうような仕方で」という空虚な条件しか与えることができないのである [アリストテレス:ニコマコス倫理学, 1115b] 。

事実と価値の乖離をより明確に暴露するためには、事実的に同一の行為が勇敢とも無謀とも取れるような例を示せばよい。アリストテレスによれば、「優れた意味において勇敢な人と言うべきは、うるわしき死について、またおよそたちまちのうちに死を招来する如き事柄について恐れるところのない人に他ならない。こうした事態の最たるものは、だが戦いにおけるそれであろう」[アリストテレス:ニコマコス倫理学, 1115a] とのことであるので、特攻隊を例にとって考えてみよう。

特攻隊に志願して敵国艦隊に体当りするという行為は、戦中の帝国臣民にとっては勇敢に見えようが、今の我々にとっては無謀としか思えない。この相違を、現代の日本人は戦中の日本人よりも身の危険が少ないので、勇敢な行為が相対的に無謀に見える、というように程度の差として説明するには無理がある。そこには普通我々が《観点の相違》と呼んでいるものがある。問題はこの事象の中に見出すことのできない相違を何に帰属させるかである。

さてある特攻隊員は命が惜しくなり、(うまく行けばの話だが)隊を離れて中立国に亡命したとしよう。帝国臣民はこれを憶病な、破廉恥極まりない国賊的行為として罵倒するに違いないが、そうは考えない今の我々は彼の行為をなんと形容したらよいであろうか。アリストテレスの三項図式に従うならば、高く評価する以上は彼の行為を勇敢と呼ばなければならないのだが、これは-もし当人がそれを“ファシズムへの挑戦”と称して開き直るならともかくとして-言葉の意味に反する。かくして我々は、無謀でも勇敢でもない憶病でもない「慎重」という第四項を必要とするようになる[h]。

[h] このようなアリストテレスの中庸の徳に対する批判としては、[Hartmann: Ethik, SS.562-584] を参照。

この第四項を加えることによって、アリストテレスの三項図式(図6)は下の図7のように修正される。図7の四項図式においては、左と右の事実の相違と上と下の価値の相違が完全に区別されている点に注意したい。その構造は、図8の一般図式において明確となる。

図7 事実と価値の峻別または四項図式
図8 四項図式の論理形式(T=事実、W=価値)

直観主義者の価値の地平は、(1) の図式で言えば《勇敢(T∧W)か憶病(¬T∧¬W)か》あるいは《慎重(¬T∧W)か無謀(T∧¬W)か》というような←→で示された二項図式によって表現されているのであって、そこでは事実の相違(Tと¬T)が、そのまま価値の相違(Wと¬W)になっている。

この点アリストテレスの三項図式は、素朴な直観主義者の二項図式から批判的四項図式への過渡的段階であったと言うことができよう。いやそれどころか彼の徳目の叙述の中には、三項図式の不十分さに気が付いていたのではないのかと思われる個所すら見出されるのである。

我々は、名誉心の強い人を名誉を希求するにあたって希求すべきものを越えて希求してはならないところから希求するものとして非難し[T∧¬W]、また名誉心のない人を美しい行為によって名誉を与えられることさえ望まないものとして非難する[¬T∧¬W]。そしてある時は、我々は名誉心の強い人を男らしい、美しい行為を好む人として称賛し[T∧W]、ある時は、名誉心のない人を身の程を弁えた節度ある人として称賛する[¬T∧W]。

[アリストテレス:ニコマコス倫理学, 1125b]

アリストテレスは、結局この場合中庸は無名称である言って逃げてしまうのだが、彼の当面した問題は、図9の一番上にある四項図式によって最もよく理解されうる。図9では、アリストテレスが列挙しているこれ以外の中庸の徳目の三項図式をも我々の四項図式に変換しておいた。なおこの図では、新たに加えられた第四項には*が付けられている。中庸が無名称であるとされる場合でもアリストテレスの叙述から推し量った。

図9 三項図式から四項図式への移行

このような徳目/価値の四項分節に接して我々は当惑する。価値客観主義=価値実体主義の立場に立つ限り、(1)同一事象に対立する価値が述定されたり(T ⇒ W∧¬W)、(2)相互背反的な事象が「善い」の基準になったりする(W ⇒ T∧¬T)不合理が生じるからである。この矛盾を回避するには、

(1) (T∧Z1⇒W)∧(T∧Z2⇒¬W)

(2) (W∧Z1⇒T)∧(W∧Z2⇒¬T)

という振り分けが必要なのだが、この変項ZはTを手段とする目的で、WはTに内存する実体概念ではなくてTとZの関係概念であると我々は主張したい。もしこのZで主観的な心的状態が理解されるならば、それは「蓼食う虫も好き好き」という不可知論的主観主義が帰結するであろう。これに対して我々は、客観的当為を客観的目的によって定義するので、逆に客観的目的から客観的当為を導出することができる。

しかしある目的を客観的と称するためには、その目的を根源的で間主観的に承認された目的によって正当化しなければならない。かくして目的論的還元が始まる。我々は自然的態度における価値の超越的実在措定を括弧に入れて、価値の根拠(目的)を問い遡らなければならない。

しかしその前に、我々の目的論的還元とフッサールの現象学的還元との関係について言及しなければならない。目的意志的行為が一種の志向性を持つことはフッサールも認めるところである。「未来へと向けられた意志は創造的な志向[schöpferische Intention]であり、実行行為において“充実”される」 [Husserl: Vorlesungen über Ethik und Wertlehre,S.109] 。そしてこの未来完了形の実行行為は(ドイツ語の文法用語を用いるなら、接続法第二式のたんなる願望文とは異なった)接続法第一式の《かくあれ Es werde …!》なる事態へと向けられた志向性の実的成素である。

ただ意志の志向性は「時間区間 Zeitstrecke」を持つという点で知覚の志向性とは異なる。もちろん「知覚作用-知覚対象Wahrnehmen-Wahrgenommenes」の志向性においても、後者で超越的対象が考えられているならば、両者の間には時間的な差延があることになろうが、内在的意識の領域に留まるなら、意識作用(ノエシス)と意識内容(ノエマ)は同時である [Husserl: Zur Phänomenologie des inneren Zeitbewusstseins,S.109f] 。

カントも言うように知覚としての相互作用は同時なのである。だがもし内在的意識を超越して《本質洞察》へと係わろうとするならば、アリストテレスが言うように、認識は「まさにそれであったところのもの」(ト・ティ・エーン・エイナイ)を志向しなければならない。なぜならば、「本質とは、そうであったところのもの」(Wesen ist was gewesen ist)であるからだ。

目的意志的行為は一種の志向性を持つのだが、逆に志向性もその本質的構造において目的論的なのである。志向性の現象学は超越論的哲学を帰結するのだが、第一巻で結論したように超越論的哲学とは目的論に他ならない。したがって《現象学的還元=超越論的還元=目的論的還元》であることが肯首されるであろう。

目的論的還元の第一段階は形相的還元である。価値の個別的直観から本質が観取され、領域的形相学の立場から個体-種-類へと類的普遍化が遂行される。そして最高価値類の総体からそれのノエシス的相関者への視線の転化が第二段階の、というよりも狭義の目的論的還元である超越論的還元になる。フッサールはさらに第三段階の現象学的還元とでも言うべき「間主観的還元」 [Husserl: Zur Phänomenologie der Intersubjektivität 1.S.447] を考案する。

カントが言うように、各人格は他の人格を、一方ではたんに手段として、だが他方では同時に目的としても扱う。たんに目的の体系が間主観的に承認されるだけでなく、間主観性自体が目的の体系として定義される。だがこれは構成と破壊で論じることにしたい。還元のモデルとして図10のようなものが考えられる。

図10 超越論的目的論的還元のモデル

図10の意味するところをもう一度特攻隊の例で考えてみよう。Cが神風特攻隊員に成って体当りをすることであるとするならば、Dは鬼畜米英艦隊に損害を与えて自国に勝利をもたらすこと、Bは特攻隊員に成るための一連の手段行為ということになる。行為Bに定位した時、Bは一方で動機Aを原因として因果的に成立してはいるものの、他方でAを目的Cとして未来に向けている。この意味で未来完了的な目的は過去完了的な「まさにそれであったところのもの」でもある。このA=Cと相即してA-Bの「AだからBをした」とB-Cの「CをするためにBをすべし」は折り返しになっている。B-Cの可能的行為規則が現実のものとなるかどうか、つまり行為BがCを実現しうるかどうか自然的社会的法則にかかっている。

AからDは、たんなる時間的な因果系列として見られるならばその分節の仕方は相対的であり、特攻隊志願の動機Aの目的を直接Dにまで求めて短縮することもできれば、さらに細かく「特攻隊の訓練を受け、別離の酒を交わし、戦闘機に乗り込み、レイテ島沖に向かって出発し、天皇陛下万歳と叫びながら…」というように分節することもできる。だがこのことはB,C,Dが意志の志向性における作用・内容・対象の区別を無意味にするわけではない。分節は、単定立的/多定立的の区別の時と同様、主体の実践的関心に基づく。

形相的還元を遂行するにあたって目的概念の二義性を指摘しなければならない。目的は普通目的-手段系列において、手段より時間的に後続する事象とされているが、このような目的概念を「目標的目的」と名付け、これとは別に手段的行為をその実現「形態」(カント流に言えば図式/範型)とし、それから時間的に分離できない(つまりフッサール流に言えば当の断片の非独立的契機である)「理念的目的」から区別することにする。

目標的目的Dを実現しなかった場合、例えば特攻隊によくあることだが、体当りし損なって海中に没した場合でも、なおCは独立の目的でありうる、つまり還元されるべき価値が有ると考えられる。Cはたんに目標的目的Dの手段であるだけでなく、理念的目的Eの実現形態でもある。CはDにとって善いだけでなくてEとしても善い。我々は先に価値を目的と事象との関係概念であるとしたが、二種類の目的に対応して価値も二種類に分けられる。

価値はたんに《とって-系列 Für-Reihe》上だけではなくて、《として-系列 Als-Reihe》上にも還元しなければならない。それは「勇敢な行為」「天皇への忠誠の証示」などの高次の(ただし構造的に“高次の”であって価値的に“高次”というわけではない)種概念へ包摂されることによってその根拠が遡られる。もしたんに《とって-系列》上にだけ還元するならば、「受験勉強は良い学歴のために、良い学歴は良い就職のために、良い就職は良い結婚と蓄財のために、そしてこれは子育てと老後のために、…だがそうこうしているうちに我々は死ぬ」というニヒリスティクな帰結が生じる。だがカントが洞察したように、このような《とって-系列》上への還元によって得られるのは最終目的であっても究極目的ではないのである。

行為の《産出すること das Erzeugen》の価値と《産出されたもの das Erzeugte》の価値の区別は、ノエシスとノエマの区別ではなくて、Handeln(行為すること)と Handlung(行為)の区別に基づく。また、Handeln とHandlung は、身体行為とその行為の産物の関係にあるのでもない。身体自体が新陳代謝という行為の産物であるし、身体の外部である道具も身体の機能を果たすので、普通の意味での身体は還元にとって本質的ではない。Handeln と Handlung は、作用と内容という機能的な区別である。

Handeln という作用は、メタレヴェルのノエシス-ノエマ関係においてはノエマとして名辞化され、個物-種-類の階層を上昇して行く。種E(勇敢な行為)はD(特攻隊の任務を果たすこと)だけでなく、例えば「弱いものいじめに抗議する」をも包摂するであろう。特攻隊を評価しない我々が前者を無謀と呼び後者を勇敢と呼ぶのは、後者が産出する結果が前者のそれとは異なって我々のシステムの存立に《とって良い》からであって、両者が理念的目的である種Eに包摂される点では(つまり Handlung から区別された Handeln としては)、共通である。価値だけでなく当為もまた還元される。「自分は特攻隊に志願すべきだ」という個別的指令は「帝國臣民ハ國體護持ノ義務ヲ負フ」一般的規則に包摂されるが、しかしその行為規則もまたその当為の根拠をシステムの維持という目的に還元されるのである。

種-類の階層[f]はフッサールが謂う所の実質的アプリオリであって、実質的であるがゆえにその頂点は複数でありうる。例えばFは「自己実現」とか「忠誠」とか「冒険」とかで、それ以上還元されないであろう。だが超越論的エゴ・コギトはその複数性を統一しうる。この統一性=単一性こそがGの究極目的であり、その定義からしてただ一つだけである。ノエマの総体からノエシスの総体へのこの超越論的目的論的還元によって獲得された単一性のゆえに、対立する価値パラダイムは和解の可能性を得るのである。

[f] 規則の包摂関係が類種関係ではないことは、後に確認するが、ここではフッサールの形相的還元モデルにしたがっておく。

しかしその単一性は空虚な単一性であってはならず、多様な目的の体系の統一を通しての反照的規定である《具体的普遍=超越論的統覚》でなければならない。もちろんFの最高次の理念的諸目的が何であるかは、その都度の価値経験の還元の積み重ねによって修正/確証されるわけだが、ここである程度内容上の考察をしておく必要があるであろう。図6から図8での価値の四項図式における対立する価値地平を還元してみると、ニーチェの用語で言えば、そこには左上と右下の組合わせによって示される「主人の徳」と右上と左下の組合わせによって示される「奴隷の徳」が対立していることに気が付く。

「主人の徳」は、憶病に対して勇敢を、卑屈に対して自尊を、無感覚に対して活発を、吝嗇に対して寛厚を、小心に対して豪華を、腑抜けに対して厳粛を、機嫌取りに対して孤高を、卑下に対して真実を、道化に対して真面目を先取する。これに対して「奴隷の徳」は、無謀に対して慎重を、傲慢に対して謙虚を、放埒に対して節制を、放漫に対して倹約を、派手に対して質素を、短気に対して温和を、無愛想に対して親愛を、虚飾に対して正直を、野暮に対して機知を先取する。我々としては、前者の目的を「自己実現」、後者の目的を「他者帰属」と命名しておこう。

自己実現とは他者を蹴落としてエゴを顕示せんとする行為であり、そこにおいては他者の苦痛が自分の喜びであり、その喜びとは生の高揚である。他者帰属とはエゴを滅して他者との平和な情緒的関係に埋没しようとする行為であり、そこにおいては他者の喜びが自分の喜びであり、その喜びは生の安定である。

私たち社会の中で生きるものは、いつもこの二つの目的の間で揺れるものである。一方で、目立ちたい、注目を浴びたいと思いながらも、他方、孤立し、村八分になることを恐れている。多数派の中に身を置けば、安心感は得られるが、同時に自分の存在感を失ってしまう。しかし出る杭は打たれるのである。

それにしても一見多様な精神的目的をこの二つに還元することはいかがなものかと思う人もいるであろう。私たちは決して最初からこのような目的を対自的に意識しているわけではない。例えばあるフランス通の人は自国の日本文化を軽蔑し、フランス文化そのものに価値を見出し、フランス文化に精通することに生き甲斐を感じているとしよう。ところが、その人がフランスに留学してフランス人に囲まれるや否や、突然「日本の心」だの「東洋の禅の精神」だのといったそれまでに口にしたこともないようなことを口にしたくなる衝動を感じたとしたならば、それは彼がそれまでにフランス文化に認めていた超越的価値の妥当性をエポケーして、その根拠を問い遡って反省することを彼に動機付けさせるようになる。すると彼は、彼の職場にはイギリス通やドイツ通のライバルはいても、フランス通は誰もおらず、したがって、自分はフランス通であることにアイデンティティを感じていたと悟るに至る。こうしてフランス文化への愛好は、自己実現という理念的目的の偶然的な実現形態に過ぎないということになる。

多様な精神的目的も対他性の形式においては特殊性と一般性の二つのカテゴリーに分類されるのである。ではこの差し当っては和解不可能な二つの目的はいかにして無矛盾的に構成されるのであろうか。このように問う時、《演繹》の問題は《構成》の問題へと移行する。

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  2 コメント

  1. 価値の現象は「als~」ということなのでしょうか。
    存在論は価値に迫れるでしょうか?何か違うような気がします。
    価値が「ある」の「ある」は高度の「ある」なのかというのが罠なのでしょうか。

  2. ハイデガーなどがやっている存在論的な《als》の議論と、ここでの《とって-系列 Fur-Reihe》と《として-系列 Als-Reihe》の話は直接関係はありません。

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