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現象学的に根拠を問う(09)超越論的目的論的構成

1997年9月2日

『現象学的に根拠を問う』第三章第二節:私たちの究極目的は、個体内的にも個体間的にも一つではない。目的論的還元によって得られた究極的目的はどのように構成されるべきであるのか、欲望の合目的的連関に従いながら、徳福一致の社会を考える。

『現象学的に根拠を問う』の画像
このページは電子書籍『現象学的に根拠を問う』の一部です。

1. 第一項 ハイデガーと和辻による人間存在の構成

ハイデガーは、1927年のマールブルクでの講義『現象学の根本問題』で現象学的方法の三つ構成要素として還元・構成・破壊を挙げている。ハイデガーによれば「現象学的還元とは、存在者の極めて特定な把握からその存在者の存在の了解(その非隠蔽性のあり方への企投)へと現象学的視線を向け返すことである[1]」。もちろんこれはフッサールの現象学的還元とは大きく異なっているし、またフッサールの現象学的還元をカントの超越論的演繹に近付けて改作した私たちの目的論的還元ともまた異なる。そこで私たちとしては複数の還元概念を一つの根源的な概念にまで還元しなければならない。

フッサールはもともと、彼の若い時期の師であるワイヤーシュトラースやクローネッカーがその一翼を担っていた「算術への還元」の運動に倣って、数全体を自然数に《還元》して、そこから数全体を《構成》し、基礎付けようとする構成主義的な数学的基礎論を『算術の哲学』で展開していた[2]。もし後の『イデーン』で展開される所謂現象学的還元の母胎がここにあるとするならば、ハイデガーの 還元・構成・破壊 も等根源的に現象学的方法であると言えるであろうし、派生的なものから根源的なものへの還帰という我々の広い語の使い方もかならずしも没概念的な濫用でもないことになる。

ハイデガーによれば現象学的還元によって存在者から存在へと視線を向け戻すだけではまだ不十分であり、存在を自由な企投において捉えなければならない。「このように所与の存在者をその存在と存在の構造へと企投することを、私たちは現象学的構成と名付ける[3]」。現存在はさしあたりたいてい非本来的な(uneigentlich = 自己に係わらない) 世人として“世界”に頽落しているが、良心の呼び声は現存在の本来的自我を呼び開く。本来的自我へ向けておのれを投げる現存在の了解のあり方が企投に他ならない。

しかしそれにしても存在の光のうちへと脱我的に立ち出て、民族の歴史的運命の根源としての存在から呼びかけてくる“声なき声”に聴従し、“死への先駆的決意性”へとおのれを企投する私たちの特攻隊員は(あるいはナチスの突撃隊員は)、はたして良心の呼び声を正しく聞き取っているだろうか。意味と価値を正しく見定めるためには、私たちはむしろ《存在 Sein》を突き抜けて《主体 Subjekt》へと《存在者 Seiendes》を還元すべきではないだろうか。

本邦の和辻は、《存在者》を「表現」、《存在》を「人間存在」に置き替えて、ハイデガーの"還元・構成・破壊"という現象学的方法を自分の「人間の学としての倫理学」のための解釈学的方法へと批判的に改作しようとする。

主体的な人間の存在はただその表現において(すなわち現象において)のみ接近し得られるがゆえに、私たちはまず表現を捕え、その解釈によって存在を理解しなければならない。人間存在の表現はすでにその了解に充たされている。だからその了解の自覚によって理解が得られる。その理解の道は表現からして表現せられた人間の存在へ還って行くのである。それは人間存在への解釈学的還元と呼ばれてもよいであろう。[4]

そして逆に人間存在から表現へと視線を向け戻して、表現(現象)を人-間の実践的行為的連関の契機として自覚することが解釈学的構成である。

和辻によれば、「存在」の「存」は主体の時間的動的な自己把持を、「在」はその主体が空間的に(但し空間の"空" は仏教用語で"実"つまり実体に対する関係のこと)対他的実践的交渉の中にあること意味している。空と空との間、時と時との間、人と人との間の理法を解釈学的に理解することが倫-理学なのである。

和辻は人間存在を具体的には歴史性と風土性として《構成》するのだが、実はここに彼のハイデガー批判が込められている。

もちろんハイデッガーにおいても空間性が全然顔を出さないのではない。[…]しかしそれは時間性の強い照明のなかでほとんど影を失い去った。そこに自分はハイデッガーの仕事の限界を見たのである。空間性に即せざる時間性はいまだ真に時間性ではない。ハイデッガーがそこに留まったのは彼の Dasein があくまでも個人に過ぎなかったからである。彼は人間存在をただ人の存在として捕えた。それは人間存在の個人的・社会的なる二重構造から見れば、単に抽象的なる一面に過ぎぬ。そこで人間存在がその具体的なる二重性において把捉せられるとき、時間性は空間性と相即し来たるのである。ハイデッガーにおいて充分具体的に現れて来ない歴史性も、かくして初めてその真相を呈露する。とともに、その歴史性が風土性と相即せるものであることも明らかとなるのである。[5]

この歴史性と風土性の相即から国民的当為、すなわち国民が“当ニ為スベキ”行為が説かれるようになる。太平洋戦争における日本国民の世界史的使命を論じ、「日本の臣道」と題して説教を垂れた和辻にとって特攻隊はさぞ勇敢に見えたことであろう。ドイツ民族の生命圏の拡大も大東亜共栄圏の建設も五十歩百歩である。

戦後ハイデガーは教職を追放され、和辻も次のような「反省」を強いられるようになる。

太平洋戦争の敗北によって近代日本を担つてゐた世界史的地位は潰滅した。かゝる悲惨なる運命を招いたのは、理智に対する蔑視、偏狭なる狂信、それに基づく人倫への無理解、特に我国の任ふ世界史的意義に対する恐るべき誤解などのためである。私たちはこの苦い経験を無意義に終わらせてはならぬ。平和国家を建立し、文化的に新しい発展を企図すべき現在の境位に於て、何よりも先づ必要なのは、世界史の明かなる認識の下に私たちの国家や民族性や文化を反省することである。[6]

問題はその「反省」である。もし世界史の明かなる認識の下に私たちの国家や民族性や文化を哲学的に反省しようとするならば、その「反省」は 超越論的反省でなければならない。平和国家を建立し、文化的に新しい発展を企図すべきなら、今ここでもう一度カントの永遠平和論や歴史哲学が読み返されなければならないであろう。現象学者や解釈学者の直観主義的な価値判断/決断主義的な当為判断は挫折する。 実践の問題にも理性の光が当てられなければならない。

2. 第二項 カントにおける目的の国の構成

「通俗的な人倫の世間智から人倫の形而上学へ」さらには「人倫の形而上学から純粋実践理性の批判へ」[カントの『人倫の形而上学の基礎付け』の第二章と第三章の表題]と《還元》したカントは、どのように目的の国を《構成》したのであろうか。カントは倫理学を純粋実践理性の目的の体系と定義したが、その際、当為となる「同時に義務でもある目的」とは何であるか。

それは自分の完全性他人の幸福である。これをひっくり返して、一方で自分の幸福を、他方でそれ自体において他の人格の義務であるところのその他人の完全性を目的とすることはできない。[7]

なぜなら、自分の幸福は全ての人が自然と傾向性にしたがって求めるものだから義務には成りえず、また他人の完全性を自分の義務とすると、その人は意志の他律に陥って完全ではなくなるので、これも義務とは成りえないからである。この二つの目的はただ以下の図のような相互主体的関係において間接的にその実現が期待できるだけである。

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カントの徳論における徳福一致

この図を説明すると、自分の道徳的完全性は結果として他人の幸福に資するが、幸福は完全性の物質的条件である(衣食足りて礼節を知る)ので、私の完全性は他者の完全性に間接的に貢献することになる。そして同じ論理で、他者の完全性から自分の幸福を期待することができる。

幸福を要求する権利と完全性の義務の法的関係も同じように以下の図のようになる。

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カントの法論における権利と義務の関係

カントはもちろん結果を重視しなかったわけだが、法的秩序はこの図に書いたように相互依存的である。もし社会のメンバーが相互に義務を遂行するならば、社会全体の徳福一致が期待できる。以下の図はカントが究極目的と考える理性の自己実現である。

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社会システムにおける道徳と幸福の関係

徳福一致は、経済システムに関して言えば、私の労働が他者の欲望に向けられることによって他者の労働は私の欲望に向けられるということである。ヘーゲルも認識していたように、個人は労働を通じて普遍性の高みへと自己形成することができる。

個人の労働は、自分の欲望を満たすためだけではなく、他者固有の欲望をも満たしている。個人は他者の労働を通してのみ自分の欲望を満足させることができる。個別者が、その個別的な労働において、無意識のうちにすでに普遍的労働を成し遂げているように、普遍的労働の場合でも、これを自分の意識的な対象として成し遂げている。[8]

もし労働が、たんに欲望を満たすために一時的に耐えなければならない苦痛であるだけでなくて、同時に相互に精神的・社会的・普遍的欲望を満たす活動性でもあるとするならば、そのシステムはさらに完全である。

3. 第三項 欲求実現の間主観的構成

私たちは前節で目的論的還元を行った。私たちの欲望は一見無限に多様であるように見えるが、現象からその根拠へと遡るなら、欲求は少数の類型へと整理・構成することができる。アメリカの社会心理学者マズローは、以下に図示したように、欲求を生理的(Physiological)欲求、安全(Safety)欲求、帰属と愛情(Love/belonging)の欲求、尊敬(Esteem)欲求、自己実現(Self-actualization)欲求に分類してこの順に階層を成す、つまりある次元までの欲求が充足されるとより高次の欲求の充足へと関心が上昇して行くと主張する[9]

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マズローの欲求のピラミッド[10]

欲求と目的は作用と内容の関係にあるので、(3)と(5)は、前の節で指摘した「他者帰属」と「自己実現」の目的に対応している。(4)は自己実現欲求に算入される。(1)と(2)はシェーラーの言う快楽価値と生命価値の区別に対応しているが、要するに身体という有機体システムを維持しようとする欲求である。この欲求も個体レヴェルと社会レヴェルに分けて分類するならば、以下のようになる。

表の画像
欲求の分類

欲求は必ずしもそれがもたらす帰結を目的としているわけではない。例えば空腹を満たすことはその個体の生を再生産する帰結を生むが、それとは別にその行為は味覚の快を伴っているし、またその快を享受しようとすることによって合目的的に生が促進される。同じような例を挙げれば、性欲を満たすことは超個体的な生を再生産する帰結を生むが、それとは別にその行為は独特の快を伴っているし、またその快を享受しようとすることによって合目的的に生が促進される。

快楽価値と生命価値は必然的な結合関係にはないから、とりわけ人間においては、快楽価値が生命価値から遊離して自己目的化する。それは健康にとっては却って有害な嗜好品や、生殖を目的としない快楽のための快楽、以前引用したシェーラーの言い回しを用いれば、「“しずくをなめる”年老いた酒飲みやエロチックな領域でのこれに類した現象が実例を示しているところである」。

そういう作用の自己目的化は他者帰属や自己実現などの精神的目的にも見られる。これらは本来、肉体的(material 物質的)な目的の充足(労働)の仕方を通して示される精神作用の形式で、以下の図に書いたような体系的連関において合目的的に充足される。

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社会システムにおける欲望の相互充足関係

しかし社交会などの種々の懇親会(他者帰属)・ コンクールなどの種々の競技大会(自己実現)に見られるように、それらは労働という本来的な全体連関から分離して自己目的化されうる。狩猟や戦争といった生の合目的的活動からスポーツ(sport=ふざけ・娯楽)や冒険のための旅行が、収穫のための宗教的儀礼から お祭りや音楽や芸術が、自然認識の探求からパズルやクイズなどの娯楽が生じてくる。これらの《遊戯 Spiel》は、派生的であるからといって価値がないわけではなく、その追求はむしろその純粋さにおいて目的合理的行為でありうる。

私たちが前節から持ち越した問題は、自己実現と他者帰属をどのように調和させるかであった。両者は理念型であって、どちらか一つしか持たない人はまずいない。大概の人はある集団を自己同一して、その集団の成員と《他者帰属》し、その集団の《自己実現》を自分の自己実現とする。これは巧妙な調和のさせかたである[11]が、この両立が愛郷心・愛校心・愛社心・ 愛国心と進んで行くと本節で問題にしたファシズムにまで先鋭化する。全体を物象化するファシズムは、たんに帝国侵略を受ける集団外部の諸目的のみならず、帝国臣民の諸目的までを抑圧するようになる。それゆえ自己実現は個人レヴェルで考えなければならない。他者帰属的自己実現という安直なアマルガムの路線を走ることなく、コスモポリタンな立場から自他の目的の体系を構成し、その構成を通して自己を実現するというのがカントの理念であった。自分の特殊性は、かえって自分とは異なる他者の特殊性を前提しており、自他の特殊性の相互承認という形で他者帰属と両立しうる[12]。特殊性と一般性は、《具体的普遍=人倫》において止揚されるのである。

4. 参照情報

  1. Heidegger, Martin. Die Grundprobleme der Phänomenologie. Marburger Vorlesung Sommersemester 1927. Gesamtausgabe Bd. 24. Vittorio Klostermann. ed. Friedrich-Wilhelm von Herrmann. p. 29.
  2. Roger Schmit. Husserls Philosophie der Mathemathik. Bouvier Verlag Herbert Grundmann. 1981. p. 24.この反対の立場がフレーゲやラッセルの論理主義であるが、論理主義的な《還元》が成り立たないことについては、内井惣七氏の論考(神野慧一郎編『現代哲学のフロンティア』勁草書房. 1990年. p. 237-247)参照。
  3. Heidegger, Martin. Die Grundprobleme der Phänomenologie. Marburger Vorlesung Sommersemester 1927. Gesamtausgabe Bd. 24. Vittorio Klostermann. ed. Friedrich-Wilhelm von Herrmann. p. 29f.
  4. 和辻哲郎『人間の学としての倫理学』 1934. 岩波全書 19. 岩波書店, 259頁.
  5. 和辻哲郎『風土―人間学的考察』 1979. 岩波書店, 3頁以下.
  6. 和辻哲郎「人倫の世界史的反省序説」 1946. 『思想』昭和21年度3・4月合併号. 岩波書店,1頁.
  7. Kant, Immanuel. Die Metaphysik der Sitten. 1797. Kant’s gesammelte Schriften (hrsg. von der koniglich preussischen Akademie der Wissenschaften, Berlin) Abteilung 1, Band 6. p. 385.
  8. Hegel, Georg Wilhelm Friedrich. Phänomenologie des Geistes. 1807. Felix Meiner Verlag. ed. Johannes Hoffmeister. p. 257.
  9. Maslow, Abraham H. Motivation and Personality. 3rd Edition. ed. Robert Frager, James Fadiman, Cynthia McReynolds, and Ruth Cox. New York: Longman, 1987.
  10. Pyramid showing Maslow’s hierarchy of needs” by FireflySixtySeven. Licensed under CC-BY-SA.
  11. とはいえ、個人の自己実現=個性と集団の自己実現=個性は一般に両立しない。集団が明確な個性を持つためには、その成員は没個性的で画一的でなければならないからである。もちろん構成員がそれぞれ個性を持っていることがその集団の個性ということもありうる。しかしその個性は、他の集団においては構成員が個性を持たないことを前提しているのだから、普遍化することはできない。
  12. この点、政治学的には、ファシズムに対して「国家の多元理論 pluralistic theory of the state」が擁護されてもよいはずである。但し多元的な集団は地縁的ではなく機能的な単位でなければならない。