9月 021997
 

倫理学という学問が求められるのは、私と他者の価値観が対立する時である。選択行為と行為選択の関係を論じながら、目的論的構成が、間違った選択を破壊するメカニズムを認識することで、主体的な価値と規範の決定の可能性と限界を画定しよう。

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破壊とは「伝承され、差し当っては必然的に使わなければならない諸概念をそこからそれらが汲み取られてきた源泉へと批判的に解体すること」[Heidegger:Die Grundprobleme der Phänomenologie,S.31]である。破壊は決して伝統を無に帰すといった消極的な意味を持つものではなく、「逆に伝統をその積極的な可能性において、同じことだがその限界において境界線を画定するはずである」[Heidegger: Sein und Zeit,S.22][h]。

[h] なお『存在と時間』の第二部は「存在時性(Temporalität)の問題性を手引きとする存在論の歴史の現象学的破壊の要綱」と題され、カントからデカルト/アリストテレスを経て古代ギリシャにまで至るはずであった。現行の『存在と時間』は第一部の第一編と第二編で終わっているが、そこでは現存在の存在の意味が時間性として解明されている。これは現象学的還元に相当する。すると存在時性から存在者一般の存在の意味を規定するはずであった 第一部 第三編 の「時間と存在」では現象学的構成が仕上げられる予定であった、と推測することができる。講義『現象学の根本問題』との関係については、『存在と時間』の注記 [S.440] 参照。

ここで破壊されるべき「伝承された概念」は、フッサールにおける地平であり、シェーラーにおける価値の階層であり、広く言って現象学者の言う本質直観/受動的総合である。我々は、直観的価値という現象から出発して、それを目的論的に制約から根拠へと還元し、究極目的をシステム論的に構成した。《上向》の次の仕事は、究極目的から再び直観的価値/規範へと《下降》し、その可能性と限界を画定することである。

現象学者は イデアールで即自的に存在する意味/価値の本質直観を説くが、超越論的哲学にとって重要なのは、そのような自己同一的な意味/価値の直観ではなくて、それがおのれとは異質的な意味/価値へと超越することの認識であるということはこれまでに繰り返してきた通りである。自分の知のシステムに矛盾を見出すこと、これと原理的に同じことだが、私と他者との間に判断の不一致が生じること、このことが超越論的反省=基礎付けを動機付けるのであった。

しかしそのような矛盾は、以前のカントの用語で言えば、可能的矛盾

Widerspruch:p∧¬p

ではなくて現実的対立

Widerstand:(s∧p)∧(s∧¬p)

でなければならない。ある可能的述語にその反対の述語があること、例えば「有罪である」に対して「有罪でない」があることは分析的に可能であり、そこに何の問題もない。「有罪でありかつ有罪でない」は矛盾であるから問題ではあるが、まだ可能的問題に過ぎないので、我々は「そのような矛盾が生じた時には、それを回避すべく知のシステムを修正しなければならない」と言って済ましていられる。我々には何も悩むところはない。

ところが、また太平洋戦争から例を採るが、現実に「東条英機は有罪でありかつ有罪ではない」という判断が帰結するや否や、つまりG.H.Q.の硬派は処刑を主張し、軟派は釈放を訴えるなら、我々はその解決に苦しむことになるであろう。有罪であるか否かは東条英機の戦前の行為から判断しなければならないのだが、そこでは価値述語の分析的論理的な自己同一的関係ではなくて、価値と事実の実質的総合的な関係が問題となる。

N.ハルトマンは、倫理学で重要なのは価値と反価値の矛盾関係では なくて価値と価値の対立関係であると言うが [Hartmann: Ethik,S.294]、これはもっともである。もし例えば正義に価値があるのなら、その否定概念たる不正義に価値がないということは分析的に真である。種における論理的対立ではなく、種と種との事実的対立が問題なのである。

ところがハルトマンの語法からすれば、正義は価値という類の一つの種であり、善のような純粋な価値語とは異なって価値的ならざる記述的内容(法律/規範にかなっている)を持ち、そしてこれが他の徳目との種差を成す。だから具体的状況における他種の価値との葛藤解決には、この記述的内容の分析が鍵鑰となる。ハルトマンは、愛と正義の葛藤を持ち出す [Hartmann,Ethik,S.296] が、その対立は価値的二項性と事実的二項性の交差によって、図15のような四項的分節を成す。

図15 一階の不確定性:述語の選択としての判断(T=事実、W=価値)

この対立において正義と不正義、寛容と不寛容はそれぞれ純粋な論理的関係で問題はない。これに対して正義と寛容は価値、不正義と不寛容は反価値という共通地平における二つの種である。一方の肯定は他方の否定になり(正義としての寛容や不正義としての不寛容の可能性は仮定によって排除される)、また二つとも否定することも不可能である(なぜなら何もしないことは寛容または不正義になるのだから)ため、両者はそれ自体(per se)には対立ではないが、場合によっては(per accidens)矛盾対立である。

次に縦の対立を見てみると、正義と不寛容は規範遵守の強要、不正義は規範不遵守の許容という共通地平上の価値的矛盾対立である。縦の対立の解決は横の対立を解決する《存在根拠 ratio essendi》であり、後者は前者の《認識根拠 ratio cognoscendi》である。

法律/規範の厳格な適用が善いか悪いかは、もちろんそのつどの状況 (行為連関=目的連関)による。法律/規範はしばしば成定されたときの合目的性を離れて自己目的化し、人間の目的を抑圧することがあるので、法律/規範遵守が常に善いわけではない。

G.H.Q.の硬派は世界平和 と正義(復讐による秩序の回復)を理由に戦犯の処刑を主張し、軟派は天皇を処罰せずにその「奸臣」だけを処罰するのはナンセンスだとして「寛容」を主張する。結局極東国際軍事裁判は東条英機以下23名のA級戦犯を処刑した。「勝てば官軍」なのであって、この“先取-後置”は日米間の権力闘争の帰結に過ぎない。天皇が処罰されなかったのは日本の共産主義化を防止しようとする米帝の対ソ牽制の政治的政策に他ならない。

価値選択における先取と後置は、したがって価値の階層は、人-間から離れたイデアールな存立ではなくて、むしろ人-間の権力闘争の構造そのものに他ならない。「私がある行為/価値を選択する」ことと 「私が他者と闘争する」ことという一見何の関係もないように見える二つの行為が、論理的に相互に反転する関係にあることを以下に示そう。

闘争とは二つの意識主体が、希少財の獲得をめぐって相互に他者を排除しようとする行為である。意識主体は、個人であっても集団であってもよい。また三つ以上の主体が闘争する場合もあるが(例えば、万人の万人に対する闘争 bellum omnium contra omnes)、その場合でも一つの主体から見れば「自分と敵」という二項対立を成している。なお闘争は目標が同じであるがゆえに生じるのであって、目的までが同じである必要はない。例えば部族Aは耕作のためにある土地を欲し、部族Bはその土地を祭式のために欲して闘争するというようなことがありうるからである。

船が沈没してAとBが一人しか乗れない木片をめぐって闘う場合を考えてみよう。二人の行為、つまり「A助かる」「B助かる」は「木片に乗って溺れずにすむ」という共通類の二つの種である。「A助かる」と「A溺れる」、「B助かる」と「B溺れる」は論理的な矛盾関係であって、一方の否定は他方の肯定につながる。これに対して「A助かる」と「B助かる」は、「正義」と「愛」がそうであったように、即自的には対立しないのだが、状況次第では対立関係、さらには矛盾関係にまで先鋭化する。かくしてAの関心は自分が生き延びることから相手を突き落とすことへと変化するわけだが、図16は、その対立状況を書いたものである。

図16 二階の不確定性:選択者の選択としての闘争

Aはもちろん《W∧T⇔¬W∧¬T》、Bは《¬W∧T⇔W∧¬T》という価値パースペクティヴに立っている。この四項図式における縦および横の対立は、いずれも人称的差異に基づくのだが、図15は図8と同じ四項図式であることは説明するまでもないであろう。

選択において選択肢が全く同じものなら選択する必要はないが、選択肢が全く違う地平にあるものならばそれもまた選択には成らない。闘争に関しても、全く同じ主体は対立しないが、全く違うことを目指している主体は対立しない、と言うことができる。闘争は共通目標という地平での矛盾として可能である。

そもそも矛盾は、二つの述語Pと¬Pが同一主語Sに帰属させられることによって生じるのであって、あるものがPでありまた別のものが¬Pであるということは矛盾ではない。この判断間の矛盾と主体間の闘争の関係性を明らかにするためにも、ヨーロッパ言語においては主体と主語が同一語であることを想起しなければならない。主体がある主語にある述語を帰属させることによって、その帰属行為が述語として主体に帰属する。そしてこのことは主体が(メタ文法的な)主語に服従する《The subject is subject to the subject》ということである。

一階の判断における選択(selection)が妥当性を持つかどうかは、 二階の選択者の淘汰(selection)によって決定される。もう一度太平洋戦争の例に戻ろう。日本の東条内閣が「連合軍」なる主語に対して、「打倒すべし」という述語を帰属させることによって「枢軸国側」という述語が帰属主体としての日本に帰属する。述語へと客体化された日本は、「太平洋戦争」という主語=地平において、「連合国側」と矛盾関係におかれる、つまり太平洋の覇権という希少財をめぐって連合国側と闘争状態に入る。権力秩序は連合国側を選択し、そしてこのように連合国側が選択されることが、東条英機等の処刑を選択することなのである。

ある状況である行為を選択することは、その行為システムによって選択されることである。私が合格した大学A,B,Cの中からA大学を選ぶ過程は、同時に相互に闘争状態にある受験生A,B,Cの中から私Aが選ばれる過程でもあり、その結果受験戦争は、システムの方から見れば行為の闘争でもあるわけである。選択行為=闘争行為=行為選択=行為闘争である。

休日に海に行こうか山に行こうか考えているという一見闘争とは関係のないのどかな状況を考えてみよう。その背後にはしかし顧客を引き寄せようとする観光業者の間の闘争がある。山に行こうとして民宿に予約をすることは同時に他の客と民宿を奪い合う闘争状態に入ることであり、予約が取れたということは私が選択されたということでもある。倫理学は「私は何をすべきか」の問いに答える学であるが、和辻哲郎が云うように、それはまた人-間の間主観的存在の理法についての学 でもある。個人的な行為の選択が等根源的に対他的な闘争でもあるという我々の結論は、倫理学のこの両義性をよく示していると言えるのではないだろうか。

認識が、意味の選択(真の先取 Vorziehen と偽の後置 Nachsetzen)ないし価値の選択(善の先取と悪の後置)であり、このような知のシステムにおける《選択すること》が人-間のシステムにおける《選択されること》=闘争であるとするならば、超越論的目的論とはかかる闘争の目的論的洞察であると言える。フッサールは認識の真/偽を人-間の身体知覚システムの正常/異常に求め、知覚における真理の開示を先述定的な生=Xによる受動的総合とみなし、シェーラーもまたレデイ・メイド の価値の階層を受動的に直観する立場に甘んじた。我々はこれら現象学者たちの物象化的錯視を退け、かのXを再び主体(システム)として捉え、カント以来の超越論的哲学の伝統を顕揚した。

一見主体(システム)の存在とは無関係に物自体的に自存するかのうに見える我々の直観的な価値や規範の妥当性は、実はシステムの維持発展という究極目的によって初めて可能になっているのであって、選択システムが淘汰されたときその妥当性を失う。このように主体的な価値と規範の決定の「可能性と限界を画定する」こと、これが、超越論的目的論的破壊であったわけである。

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