9月 051997
 

結婚は交換であり、コミュニケーションであるが、結婚のコミュニケーション・メディアは資本の犠牲であり、愛は、ルーマンがそう取り違えたように、コミュニケーション・メディアではなくて、資本の犠牲によって伝達される形相である。

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時代や文化圏を問わず、結婚はコミュニケーションであると言えるが、前近代社会における贈与婚と近代社会における当事者どうしの恋愛結婚とでは形態が異なるので、さしあたり分けて考察してみたい。

まず前近代社会における《女と女の交換》としての結婚であるが、多くの人は、これに関しては、レヴィ=ストロースの研究を真っ先に思い浮かべるであろう。レヴィ=ストロースは、『親族の基本構造』で、未開社会の婚姻制度を交換のシステムとして把握したことで知られている。

結婚の目的が子供の生産だけであるとするならば、異性のパートナーは自分の兄弟姉妹や子供でもかまわないはずである。それなのに近親相姦は未開社会においては殺人と同じぐらい、ないしそれ以上に厳しくかつ普遍的に禁止されているのはなぜなのかというのが彼の問題提起である。

結論だけを私流の言い方で言えば、近親相姦を容認することは、殺人を容認することと同様、社会秩序を否定し、エントロピーを増大させるから、厳しく禁止されるのである。近親相姦が行われる動物的状態から、それを禁止する人間社会への移行は、自然から文化への移行である。

即ち、その形態が何であれ、とにかく規則が存在しているという事実が、近親婚禁止の本質そのものなのである。というのも、自然が結婚関係を偶然性と恣意性に委ねる以上、文化としては、秩序のないところに、どんな性質のものであれ、なんらかの秩序を導入せざるをえないからである。文化の第一の役割は、集団が集団として存在することを保証することであり、したがって他の全ての領域でと同様に、この領域[結婚]でも、偶然の代わりに組織を置くことである。

文化とは分化であって、禁止と許可の差異を作り出すことである。自然は連続的なエントロピーであり、文化は非連続的なネゲントロピーである。文化が自然の連続性に断絶(差異としての意味)を与えることは、自然と文化の連続性自体に断絶を与えることになるので、文化の存在そのものである。レヴィ=ストロースの主張はそう解釈することができる。

近親婚禁止の規則は同時に外婚(他集団との女性と女性の交換)を促進するのだから、それは文化の規則であるのみならず、社会を社会たらしめている社会化(交換)の規則でもある。外婚制は、人類の歴史とともに始まる市場経済成立以前の、物質的利益を直接の目的としない純粋なコミュニケーションの形態である。

かつてレヴィ=ストロースは女性をまるで商品のように交換の対象にしていると批判されたことがあったが、むしろ女性の交換のほうが経済的な商品の交換に先立つ互酬性の原型である。経済的交換においては、交換されるものが何らかの点で異なっていることが必要であるが、《社会的交換=社会化の交換》においてはそうではない。このことは、後者においては、交換されるものではなく、交換自体に意義があることを示している。

レヴィ=ストロースはこの点に関して、次のような分かり易い例を挙げている。南フランスのあるレストランでは、テーブルを取り囲む客たちの前に、食事と一緒にグラスとグラス一杯分のワインが入った小瓶が置かれる。客は隣に座っている客のグラスに自分のワインを注ぐ。すると注いでもらった客は、さらに隣の客のグラスに自分のワインを注ぐ。こうしてひと回りすると、各自が自分で自分のグラスに注いだときと全く同じ状態になる。「経済的観点からすれば、誰も何も得をしていないし損もしていない。しかし交換の中に交換される物以上のものがあるのだ」[Levi-Strauss: Les structures élémentaires de la parente, p.69] 。

この交換を通して、見ず知らずの赤の他人どうしだった客たちの間に、かなり親密な関係が出来上がる。この和気あいあいとした雰囲気の中で、一人だけ黙々と自分のワインを飲むことはタブーである。そしてインセスト・タブーも同じようにタブーというわけである。

自分の娘を他人に贈与する代わりに、他人の娘を自分の息子のために戴くという女性と女性の交換は、社会秩序の維持に必要なのであって、多くの未開社会では近親相姦(トーテム内婚)は死刑をもって処罰されるが、それは近代国家において、国家権力を転覆させようとする試みが、社会秩序の破壊というかどで死刑をもって処罰されるのと同じことである。もっとも未開人たちはそのような合理的な理由で処罰を正当化しているわけではなく、タブーはあくまでもタブーだから罰せられる。それゆえここには、当事者の意識と構造論的全体的効果との間にギャップがあることになる。

交換はコミュニケーションの地平的共通性を前提とし、かつそれを再生産する。しかしそれは交換の機能の全てではない。経済的交換の目的は、自己の所有物の多様化であり、情報交換の目的は認識の多様化であるように、結婚は遺伝子の組み合わせの多様化を目的とする。目的といっても、これまた未開社会の当事者には全く意識されない目的ではあるが、反省的/客観的には目的と言ってよい。

少なくとも現代の人間は、遺伝学的な知識がない人であっても、「近親婚を行えば血が濃くなる」などという直観的な理解で、近親婚に優生学的な問題があることを知っている。しかし、近親婚は、異形接合体では潜在的であった劣性形質が発現する同形接合体を産み出しやすいので、劣弱な子供を作り出す確率を高くし、共同体の存立を危機に陥れるにちがいないという推測は、外婚制においてのみ有効性を持つに過ぎない。近親婚に徹した社会は、かえって優生学的に安定した社会なのである。

今、実験的にある夫婦(遺伝子型:Aa)の集団を取り出し、その子孫に近親婚をさせ続けたとしてみよう。まずその夫婦が産む子供の遺伝子型別の可能的比率は、AA:Aa:aa=1:2:1となる。さらに社会保障制度が発達していない多くの未開社会においてそうであるように、劣性遺伝子(a)の同形接合の結果である劣弱な子供(aa)は、成人して子供を作る前に死亡するかあるいは一生子供を作らないと仮定する(優性遺伝病もあることはあるが、症状の軽いものが多い)。すると孫の可能的比率は、残りの子供が相互に等しい確率で交雑するとして、AA:Aa:aa=4:4:1となり、劣性遺伝子が遺伝子プールに占める割合は、第二世代から第三世代にかけて大きく減少する。それゆえこの内婚社会は、最初のうちこそ動揺するものの、やがて劣性遺伝子を淘汰し、優性遺伝子の同形接合のみが生じる安定した遺伝を繰り返すだけとなる(突然変異によって有害遺伝子が発生した場合も同じプロセスを反復する)。

このように徹底した近親婚はかえって遺伝形質の安定をもたらす。だが「安定している」ということは逆に言えば発展性がないということである。遺伝子の交換は遺伝形質の点で社会の構成員の多様性をもたらし、そして多様性は変化(進歩)を可能にし、環境変化への適応力を高める。もし同じことの繰り返しでよいならば、女の交換どころか有性生殖すら必要はないはずである。

実際、原始的段階の生物はかつて無性生殖によって単純再生産を繰り返していた。生物が無性生殖から有性生殖へと進化したとき、統制経済から市場経済へ移行した時と同じように自由競争の原理が導入された。競争力のある「有能な」雄は、若くて健康な、あるいは場合によって「美しい」雌に近付こうとする。膨大な数の精子がライバルに打ち勝って卵子に到着しようとする。その結果比較的優秀な生殖質の間での豊かな組み合わせの諸可能性が生じてくる。もし個体の個性化が共同体の分業化につながるとしたら、それは複雑性の増大による複雑性の縮減である。

プラトンの『饗宴』のなかで、アリストパネスは、男と女は昔アンドロギュノスとして一体になっていたが、神によって二つに分断され、そのためにお互いかつての自分の片割れを恋い求めて一体になろうとするのだと主張している[プラトン:饗宴,189c-193e]。彼の説は、無性生殖から有性生殖への移行を説明しているものとして理解できる。弁証法を理解しない者のみが、なぜわざわざ分裂という否定的迂路を経て再統一がなされなければならないのかを理解することができない。有性生殖は自然が作り出した贅沢である。そして《近親相姦の否定=外婚制》は、人間の文化一般がそうであるように、贅沢であり、バタイユが謂う所の「富の蕩尽 la consumation des richesses」である。

バタイユによれば、外婚制とは、その気になればいつでも楽しむことができるはずの自分の《トーテム=クラン》内の女の性的使用を断念するという贅沢な富の破壊を、トーテム間で誇示し合うポトラッチなのである。後で説明するように、近代社会の恋愛結婚もまたポトラッチである。ポトラッチとは、富の蕩尽の交換による威信の誇示であって、相互に自分の財産である奴隷を殺し合うアメリカ北西部のインディアンから同盟国への援助と軍拡競争に国家財政を浪費する米ソの冷戦[b]に至るまで、ポトラッチは人類社会に広く見られる現象である。

[b] バタイユが『呪われた部分』の第5章で、ソ連の産業化やアメリヵのマーシャル計画について論じているのは、ポトラッチ論としてであると思う.

バタイユ曰く「レヴィ=ストロースが、女のポトラッチとエロティシズムの構造との間の関係をほとんど強調しなかったということは、おそらく極めて残念なことであろう」[Bataille: L’histoire de l’érotisme, p.39] 。バタイユにとって、エロティシズムとは「規則の違反によって特徴付けられる領域」[Bataille: L’histoire de l’érotisme, p.108] であり、非日常的な侵犯の快楽である。

供犠における殺人が原則的に禁止でさえあるように、結婚での性的行為は原則的に禁止の対象であった。[…]結婚とは[よそのクランには女の処女を与えるなという禁止に対する]違反である。

[Bataille: L’histoire de l’érotisme, p.108]

日常(褻)の世界では殺人は禁止されているが、供犠という非日常(晴れ)の儀式においてはその禁止が破られる。同様に、女性を犯すことは通常では禁止されているが、結婚という儀式においてはその規律が破棄される。弁証法を理解しない者のみが、なぜわざわざ禁止を作っておいてからそれを破るなどという回りくどいことをするのかが理解できない。

否定的な媒介性が人間の文化を自然から分け隔てているのに対して、動物は自然に無媒介に埋没している。バタイユも言うように、「動物性とは、無媒介性[l’immédiateté]または内在性[l’immanence]である」[Bataille: Théorie de la religion, p.291] 。「全ての動物は、水の中に水があるように、世界の中に存在する」[Bataille: Théorie de la religion, p.292] 。人間は、自分の労働の産物のみを直接消費するのではなく、そして自分が得た認識のみを無批判に保持するのではなくて、交換を媒介としつつ自分の所有物を対自的に再構成する。そして媒介という回りくどい労苦がおのれの所有物の価値を際立たせる。

かつて冊封を受けた周辺国から朝貢された珍品は中国の皇帝を大いに喜ばせた。そのお返しとして皇帝から使節団にそれを上回る賜品が与えられ、差額は、皇帝の威光を高めるという形で支払われた。つまり、朝貢貿易は、中国皇帝の威光を高めるための特殊な、経済的であると同時に象徴的な交換であり、献上品は貴重だから遠方からわざわざ送られてくるのではなくて、わざわざ遠方から送られてくるから貴重なのである。

結婚に関しても、もし女ならば誰とでも、例えばすぐ近くにいる自分の娘と性交できるならば、その価値はかなり低いものとなるであろうと推測される。遠くのよそのクランから贈られてくるから値打ちがあるのである。

レヴィ=ストロースの研究は前近代社会に限られているが、結婚が交換であることは近代社会でも当てはまる。違いは、近代社会では、

  1. 親が子供を交換するのではなくて、当事者が直接契りを交わす
  2. したがって開かれた結婚市場のもとで、個人が自分の好みでパートナーを探す恋愛結婚が標準となる
  3. その結果、各個人に市場価値が付く

ところにある。未開社会の交叉従兄弟婚や前近代社会の政略結婚では、本人の好みは無視されるか、あるいは少なくとも二次的な機能しか果たしていなかった。本人の欲望が前面に出て、異なった階級間の結婚が可能になったとき、つまり自由競争が可能になったとき、価値のヒエラルヒーは、解体するどころか、装いを新たにますます精緻なものとなっていく。

個体再生産労働としての結婚から区別された恋愛の概念は、中世の宮廷文学に最初に現れたと言われている。しかし当時の恋愛は既婚の貴婦人と騎士との結婚には至らない恋であった。中世の封建的経済体制が崩壊し、近代的な市場経済が登場したのと時を同じくして、恋愛結婚という配偶者選択の“一般競争入札制度”が誕生したことは意義深い。古代日本では普通に見られた近親婚や、つい最近までむしろノーマルであったお見合い結婚などの取り決め婚(arranged marriage)から、戦後ようやく普及し始めた恋愛結婚(love-match)への移行は、日本における近代化と市場経済普及のプロセスに他ならない。

恋愛結婚はいかなる意味で交換であるのか。交換とは、一般的に言って、自由を相互に放棄することによって新しいより大きな自由を獲得する《複雑性の縮減による複雑性の増大》である。商品交換においては、私はある特定の商品を得るために自分のある所有物を放棄する。情報交換においては、私は自分が持つ情報の独占権を放棄して、代わりに新たな情報を獲得する。そして結婚において、私は性愛の可能的自由一般を放棄し、その代わりに特定の、しかし現実的な性愛の対象を得る。

交換が成り立つためには、自分が失う自由と相手が失う自由の、あるいは同じことだが、自分が得る自由と相手が得る自由の価値が同じでなければならない。その価値をいかにして測定するかという問題は後に回すことにして、ここでは交換としての結婚におけるメディアと形相の違いについて説明したい。

経済的交換におけるメディアは貨幣であり、形相は価値であった。認識的交換におけるメディアは言語であり、形相は真理であった。婚姻的交換における形相は愛情ではあるが、この交換のメディアは、あるときには言語行為であったり、あるときは貨幣の消費であったり、それ以外であったりする。このことは結婚において相互に愛情を伝え合うために犠牲にしなければならない価値(資本)の種類が複合的であるということである。交換としての結婚、あるいはもっと一般的に言って、交換としての恋愛のメディアは、後で説明する抽象的で象徴的な意味での《贈り物》である。

現在の結婚市場では、望ましい結婚をするためにはいかなる資本が必要であるのか。また結婚自体はいかなる資本となるのか。ブルデュによれば、前の節で取り上げた経済資本と文化資本以外に「社会関係資本 le capital social」という種類の資本がある。「社会関係資本には、日常用語で“つきあい=コネ les relations”と呼ばれているような直観的な観念を当てはめることができる」[Bourdieu: Questions de Sociologie, p.55] 。

経済資本の蓄積には職業的能力が、文化資本の蓄積には知的能力が、社会関係資本の蓄積には道徳的能力が必要である。但し道徳と言っても、それは倫理学的概念ではなくて社会学的概念であり、本当に純粋に善良な人なのかどうかということはここでは問題ではない。「きさくでいい人だ」という評判、家庭や職場での円満な人間関係、顔の広さ、世間での知名度、これらを獲得する能力が問題なのである。経済資本の大きさは資産の金額によって計算されるし、文化資本の大きさは履歴書に記載される「輝かしい経歴」やら資格やら賞やらの数によって認知することができるが、社会関係資本は、例えば交換された名刺の数、送られてくる年賀状やお歳暮の数、葬式の参列者の数などによって数量的に測定できる。

三つの資本は差し当り独立した種類であるから、一種類の資本だけ持つということもできる。例えば低学歴ではあるが、悪徳商法で巨利を得た成金は経済的資本だけ持っている。貧しい庵で思索に耽る孤高の哲学者は文化資本だけ持っている。金も学歴もないが、地域社会で幅広い人間関係を持っているおばさんは社会関係資本だけ持っている。

これらはしかし、例外的なケースであって、通常持つ人は三つとも持つし、持たない人は三つとも持たない。なぜならば、三つの資本は相互に変換することができるからである。学資の形で経済資本は文化資本の形成のために投下されるし、文化資本である高学歴は高給与を約束するので、新たな経済資本の蓄積に貢献する。ゴルフなどのつきあいには金がかかるが、そのような経済資本の消費は社会関係資本の維持/増大をもたらし、そしてその社会関係資本が、ゴルフ・プレイ後の商談での新しいビジネスチャンスの入手、つまり新しい経済資本の獲得に役立つ。立派な肩書きという文化資本を持っていれば、上流階級の社交パーティーで社会関係資本を築くことができる。日本のような情実社会では、大学教員になるためには学問的業績よりもコネのほうが重要であるが、これなどは、社会関係資本が文化資本に転化される好例として挙げることができる。

ブルデュが分類する三つの資本に、さらに身体資本を付け加えることができる。身体は、すべての個人が最初に所有し、かつすべての資本のもといとなる資本であるが、それでいて、全てのひとに平等かつ等価に与えられているわけではない。健康であることという基本的なところから始まって、重労働に耐える体力、異性を惹き付ける容姿の良さと若々しさ、人々に好感を与える行儀の良い振舞、高貴な生まれであることを周囲にそれとなく知らせる優雅な身のこなし方など、いずれも全ての人が持っているわけではなく、それゆえに差異が利潤を産み出す、富の名に値する資本である。

一般に、体力・若さ[t]・容姿の美しさといった身体資本は、職業生活に入ると、経済資本・文化資本・社会関係資本の増加に反比例する形で減少していく。機械が減価償却しつつ製品を生み出していくように、我々は自分の身体資本を磨滅させながら他の資本を増殖させていくと考えてもよいであろう。

[t] 「時は金なり」と言われるように、時間も資本であるが、もし人間が不死であるならば、時間は資本ではない。だから時間は「若さ」という身体資本の中に入れておく。

ブルデュが身体資本を他の三つの資本に付け加えなかったのは、身体が重要ではないからではなくて、むしろ逆にあまりにも重要で根源的・ 基本的すぎるからであろう。実際ブルデュほど身体的パーフォーマンス(身体的ヘクシス l’hexis corporelle)を重視した社会学者は稀であると言っていいぐらいである。ブルデュのキーワードの一つに《ハビトゥス habitus》があるが、これはラテン語で「習慣・態度・外観・服装」の意味の名詞であると同時に、「保つ・維持する・所有する・知得する・認識する」の意味の habere の完了分詞でもある。

スコラ学はハビトゥスの名に所有物あるいは資本といったような意味をも持たせていた。そして実際ハビトゥスは一つの資本であるが、身体化されているので、一見すると生得的であるかのように見える。

[Bourdieu: Questions de Sociologie, p.134]

しかし実は生得的ではなく、そこには個人の歴史と社会の歴史が刻み込まれている。ブルデュは階級的差異をハビトゥスの次元にまで求める。これも日本人にはあまりぴんとこない話なのだが、ヨーロッパでは、階級/階層の相違や教養の有無が、服装や話し方から動作振舞、さらには場合によっては体格の違いにまで現れている。

さて、結婚するためには、身体資本・文化資本・経済資本・社会関係資本の全てが必要であるかないしはあれば有利に働く。例えば、日本の女性が結婚相手を求めるときの条件である(と言われている)三高について考えてみよう。最初の「背が高い」は身体資本への欲望である。もしたんなる恋愛であれば「ハンサムでスタイルが良くて若々しくて …」といった条件だけをクリアしていればよいのかもしれない。しかし結婚となると、さらに「収入が高い」という経済資本、その条件としての「学歴が高い」という文化資本が要求される。そして当然のことながら、結婚相手を探すには「御縁」が、つまり社会関係資本が必要である。三高の中には入っていないが、「人柄の良さ」や「つきあいやすさ」も重要な条件であるが、これも社会関係資本(ないしその能力)の中に入れることができる。

男性が女性を選ぶときも、「容姿の良さ」や「自分との性格的な相性」という身体資本/社会関係資本の条件が「収入の高さ」や「学歴の高さ」という経済資本/文化資本の条件よりたぶん優先されるであろうほかは、変わるところはない。結婚には、まさに全ての種類の資本が必要なのである。

先に「結婚において相互に愛情を伝え合うために犠牲にしなければならない価値(資本)の種類が複合的である」ことを述べたが、ここで改めて、四つの資本の犠牲がいかにして愛情を伝達するのかを考察してみたい。いま美しくて教養もあり、気立てのよい社長令嬢がいたとする。そのような四つの資本を持ち合わせた高資本の女性がこの世に存在すること自体は少しも驚きではないし、私は何の感動も覚えない。しかしもし彼女がたいした資本を持たない私との結婚を承諾したとするならば、私は大いに驚き、感動するのではないであろうか。結婚によって私は性愛的その他の自由を奪われるが、私が犠牲にする自由の価値よりも相手が犠牲にする自由の価値の方がずっと大きい。私は結婚というポトラッチでおおよそ彼女に勝つべくもないのであって、その差異が感動や負い目となる。

高資本の女性に対する可能的求婚者の数は膨大であり、《他の男でもありえた》不確定性は高く、私を選ぶという複雑性の縮減が生み出すネゲントロピーもそれだけ大きい。分母の数が大きければ大きいほど、分子の1である私の価値も大きいのである。もし妻が浮気をすれば、分子が2になり価値は半減する。いや半減以下になるだろう。妻は婚姻上の規則を破るというコストを払ってまでも他の男と交際しようとしたのだから、私と浮気の相手は不等価である。

なお婚姻関係に限らず、愛情関係一般に関して、社会関係資本を増殖させるためには、四つの資本の対他者的な犠牲が必要であると言える。(1)男性が恋人に高価なプレゼントを買って経済資本を消費したり、(2)女性が自分の身体資本を恋人に捧げたりするなどの資本の犠牲が、形相である愛情を伝達するコミュニケーション・メディアになっていることを理解するのはたやすい。(3)A嬢が彼女の友達であるB氏・C氏・D氏との交際を止めて、意中のE氏に独占を許すとき、A嬢は、ある社会関係資本を犠牲にすることによって他の社会関係資本の増加を狙っていることになる。(4)最後に文化資本に関しては、社会的なプレスティージの高い肩書き/経歴の持ち主が、そうでない者と交際すること自体がすでに犠牲であると言える。「朱に交われば赤くなる」と言われるように、どのような相手と交際するかによって自分の値打ちが決まるものである。したがって高い文化資本の所有者は低い文化資本の所有者とは交際したがらない。恋愛に限らず、すべての社交において、自分より高い文化資本の持ち主との間に社会関係資本を築こうとするならば、その格差を埋めるだけのほかの資本が必要である。

本節の主題は「交換としての結婚」であった。結婚はコミュニケーションであるが、結婚のコミュニケーション・メディア(交換の媒介的第三者)は資本の犠牲であり、愛は、ルーマンがそう取り違えたように、コミュニケーション・メディアではなくて、資本の犠牲によって伝達される形相である[l]。資本の犠牲というエントロピーの増大によって、愛のメッセージという情報(ネゲントロピー)が伝達されるのだ。自分の愛情を表現するための資本の犠牲を抽象的・象徴的な意味で《贈り物》と名付けたい。

[l] ルーマンは、愛をメディアとし、形相を感情と考えていた。その結果、「メディアの愛自身は感情ではなくて、コミュニケーション・コードである」[Luhmann: Liebe als Passion, S.23] ことになるが、これは「愛 Liebe」の普通の語法に反するのではないだろうか。

結婚を含めて、性愛のコミュニケーション・メディアは贈り物であって、貨幣が商品の価値を表示する媒体であるように、贈り物は愛情の大きさを表示する媒体である。ただし、我々は愛を表現するために贈与するのであって、贈与するだけの資本があるから、自ずと求愛者があまた自分に寄って来るのだと自惚れるなら、それは物象化的錯視である。現代人の多くはこのような資本の物神崇拝に囚われているのだが。

結婚するためには四つの資本が必要であるが、結婚自体も四つの資本となる。結婚が、配偶者およびその親族とのネットワークを作り出す点で社会関係資本であることは明らかである。夫婦が財産を共有するならば、双方にとって結婚は経済資本である。夫婦が子供を作れば、それは自分たちの分身である身体資本を生産したことになる。子供は夫婦の知的水準の影響を受けるから、子供にとって家庭は学校に次ぐ重要な教育の場であり、自分の文化資本を築いていく上で元手となる文化資本である。老後に子供からの仕送りを期待しているとしたならば、子供を育てることは一種の経済的投資だし、教育ママが子供を自分の夫同様に立身出世させることを自らの誇りにしようとしたり、議員が自分の票田を継がせるために二世議員を育てようとしたりしているならば、それは世代を越えた文化資本の蓄積を狙っていることになる。いずれにせよ、家庭を作ることは、《資本の投下→ 生産労働 → 所得 → 消費と蓄財 → 貯蓄のさらなる投資》という人類社会のコミュニケーション全体を貫く流通プロセスの一局面であることは間違いない。

投資に先立って配偶者を探すとき、できるだけ大きな利潤を上げるために、両性ともなるべく高資本の所有者と結婚しようとする。もし男女がほぼ同数の社会でこの命題が妥当し、かつモノガミー(一夫一婦制)が守られているならば、低資本の所有者は低資本の配偶者としか結婚できないことになる。高資本のカップルのもとで産まれた子供は、そうでない子供よりも、生まれた段階ですでに、自ら高資本を蓄積して行く上で有利な条件にある。

今日近代社会では「高貴な生まれ」や「由緒正しい血筋」が利益を産むことは稀になった。しかし形式的不平等が解消されても実質的不平等は残っている。日本の上流階級で産まれた子供が、バングラデシュの貧農で産まれた子供よりも、高い資本へのアクセスを持っていることは誰もが否定しないであろう。まさに差異は差異を自己原因的に拡大再生産していくのである。もちろん、幼少時代に苦境にあった者ほど成人して大成するということはあるかもしれない。教育環境に多様性はあってもいいわけで、同じような家庭で同じような子供を作る必要はない。ロールズのような環境決定論に基づく正義論を採るわけではないが、しかし出発点における平等性を確保する点で、義務教育や相続税は正当化される根拠を持っているのである。

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  One Response

  1. 昔なら間引かれるか、見世物小屋に売り飛ばされてたかもしれない
    こういう人達がネット時代になり堂々と自己アピールできるとは現代は大変良い時代なのかもしれません。下の少女は韓国人らしいですが米国に里子にでも出されたんでしょうか?
    一番下の男性はエンターテイナーだそうです。
    http://www.youtube.com/watch?v=JNio5aIYzkE&feature=related
    http://www.onesize.info/prof/kasuya/

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