9月 051997
 

復讐は苦痛の交換であり、一種のコミュニケーションである。本節は、マルクスの『資本論』の価値形態論・剰余価値学説等を範に仰ぎつつ、交換としての復讐から公的刑罰、さらには国家権力を導出する《復讐の経済学》を試みる。

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感情的コミュニケーションにおいて、愛情という形相は自分の資本を犠牲にするというポジティヴな贈り物をメディアとして伝達されたが、愛情の反対である憎しみは他人の資本を犠牲にするというネガティヴな贈り物をメディアとして伝達される。後者の相互的なコミュニケーションが復讐である。復讐から私的な性格を除けば、公的権力を権力たらしめている刑罰となる。権力とは、味方に対してはポジティヴな贈与を行いつつ、敵に対してはネガティヴな贈与を行うことによって、人々を意のままに操ろうとする力のことである。

本書は《抑圧する権力》から《訓育する権力》への史的発展を一つのテーマとするが、後者の側面は後に回して、まず前者の側面から扱いたい。本節のテーマは処罰の経済学的分析である。フーコーも認識していたように、「現代社会においては、処罰制度は身体についての一種の《経済学 economie politique》の中に位置付けをし直さなければならない」[Foucault: Surveiller et Punir, p.30] のである。以下、本節では、狭義の経済的交換をモデルとしつつ、復讐の経済学を

  1. 物々交換の段階での復讐のコミュニケーション
  2. 貨幣の出現による私的復讐から公的刑罰への転換
  3. 苦痛貨幣の権力資本への転化とその物象化的転倒

の三つの項に分けて順次考察していきたい。

1. 物々交換の段階での復讐のコミュニケーション

(1)今Aの隣人BがAに嘘をついてAに一定の損害を与えたとする。もしAがカント主義者であるならば、「汝の行為の格率を、汝の意志によって普遍的自然法則とならしめようとするかのように行為せよ」と命じて、Bを咎めるであろう。もしAが「共感の倫理」を信奉しているならば、AはBに「人の身になって考えろ」と立場の交換を説くであろう[s]。

[s]『道徳感情論』におけるアダムス・スミスの共感の倫理学は、『諸国民の富』における利己主義の肯定と矛盾するのではないかと指摘する人がしはしば見うけられるが、利己心を感じない人は他者の利己心にも共感できないのだから、二つの著作の間に矛盾はない。『諸国民の富』は商品の経済的交換を扱い、『道徳感情論』は立場の倫理的交換を扱っている。それゆえスミスの仕事は、全体として、交換論という視点からの市民社会分析であったと解釈することができる。

ところがBは通一遍の謝罪でその場を凌ぎ、その後もなに食わぬ顔で嘘八百を飛び散らしてAに迷惑をかけているとしよう。ここに至ってAは立場の交換を合理的に《口で語る》のではなくて、《体で示す》という暴力的措置、即ち復讐に踏み切る。BはAから飛行機の嘘の出発時間を教えられ、予約便に乗り遅れ、ために重要な商談を潰すことになる。Bは激怒するが、Aは涼しい顔で笑っている。エゴイストBは自問する。なぜAはこのような自分の利益とならないことをしたのか。そしてBは過去を振り返って、それが報復行為であることにはたと気が付く。するとBのAに対する激怒は、そのまま自己に対する叱咤と成って跳ね返って来る。このように復讐は《自己を他者へと置き移すsich-in-den-Anderen-versetzen》共感の思惟の運動を相手に強制的・暴力的に行わせる。

復讐が倫理学的にみて合理的でないのは、復讐する者は、自分が非難する行為を、まさにそれをすべきでないと考えるがゆえにしようとする点にある。一方復讐された方は自分がされたくないと思う行為をかつてしたという裏返しの矛盾に悩まされる。しかし非合理な矛盾と非合理な矛盾との非合理性の交換可能性というメタレヴェルの合理性を措定したという意味で、復讐する方が復讐される方よりも合理性の優位を持つ。これが即ち復讐の正義である。だがもしもBがAの行為を復讐としてではなく、非合理な加害行為として誤認するならば、AはBにさらに復讐するという悪循環が生じる。このように復讐には、相手や第三者に復讐を復讐として認めてもらえるかどうかというリスクが付きまとう。

(2)このリスクは、復讐行為が加害行為と類似しなくなるとき増大する。復讐は、必ずしも(1)の例のような《目には目を・歯には歯を》式の同害報復の形(これを復讐の第一段階と呼ぶことにする)をとるわけではないし、またそれが不可能な場合もある。例えば若い女性Aが中年男性の上司Bにセクハラされたとき、AがBに“同害報復”をしても、セクハラおやじは喜ぶだけだ。これほど極端でなくても、例えばBの財産が極端にAのそれよりも大きい場合には、同じ「嘘を教えられたことによる10万円の損失」であってもそれが与える苦痛はAとBでは異なるといった困難が同害報復にはある。同害報復を刑罰の原理にしたカントも、これらのことに気が付いていた [Kant: Metaphysik der Sitten, S.160; S.196] 。

かくして《同種の行為》ではなくて《同量の苦痛の付与》で復讐するということになる。先ほど復讐は非合理的であると言ったが、この復讐の第二段階においては、非合理性はさらに大きくなる。若い女性Aは、セクハラをした中年男性Bに対して、女友達と一緒にBの容姿の悪さを聞こえるような声で噂し合ってBに精神的苦痛を与えるという復讐をすることができる。ここに至ってはもはや《セクハラ》と《悪口》との間には内容的連関もなく、両者はただ抽象的な苦痛という点で共通点を持つに過ぎず、そしてこの抽象的苦痛という貨幣=メディア(この段階ではまだ公的に制度化されていない)を媒介にして復讐交換が成されている。

段階(2)において復讐としての交換は経済的交換に一歩近付く。経済的交換においては同じものと同じもの、例えば20エレのリンネルと20エレのリンネルを交換してもナンセンスなのであって、20エレのリンネルは一着の上着という異なったものと等置されて初めてその相対的価値を表す [Marx: Das Kapital (1883), S.80] 。部下の女性にセクハラを強いる中年男性の上司は、悪口という彼女の別種の行為による仕返しを通じて彼女の苦痛の量を知らされるという次第である。しかしまた全く違うものも交換できない。交換は差異性を含んだ同一性の地平において生起することはすでに確認した。復讐やその反対である贈与などの社会的交換においては、経済的交換の場合とは異なって、交換行為は《Aが嘘をつく》と《Bが嘘をつく》のような人称的差異性を持つだけで有意味になる。お中元に贈った一着の上着が、近所をまわりまわって自分のところに今度はお歳暮として贈り戻ってきたとしても、もしそれで近所との親善関係が保たれるならば、経済学的には無意味であっても社会学的には有意味である(クラ交換を想起せよ)。この相違は、経済的交換が本来商品の生産と消費という人と物の関係を目的としているのに対して、社会的交換は直接人と人の関係をめざしているところにある。

我々が考察する復讐の第二段階においては異質な行為が交換されるので、経済的交換のときと同様、その交換比率が問題となる。もし復讐し過ぎるならば周りから顰蹙を買うであろうし、また復讐し返されるかもしれない。もし復讐し足りないのなら、自分が感じていた苦痛が過小評価されかねない。商品の価値が抽象的人間労働の労働時間によって測定されるとするならば、加害/復讐の度合いは何によって測定されるのか。抽象的人間苦痛の持続時間によってか。この主題は次節で扱うことにしよう。ただここでは、復讐のこの非合理な形態においてはこのアポリアと並んで、復讐が復讐として認識されにくいという最初に指摘したアポリアがあることを再確認したい。部下の女性から屈辱的な仕返しをされた例の中年男性は、イソップの「すっぱい葡萄」よろしく、彼女の容姿の短所を口汚く罵るかもしれない。容姿の悪さについての悪口は男性よりも女性のほうがこたえるにちがいない。非合理な復讐は合理的な復讐によって復讐されるのだ。

(3)ではセクハラを強いられた彼女Aは、どのようにしてむくつけき上司Bに復讐したらよいのか。ここで彼女はそもそもセクハラとは何かを問わなければならない。セクシュアル・ハラスメントとは上司がその権力的差異から来る地位的特権を行使して異性の部下に性的交際を強いることであるが、この権力の行使はその本来の目的を逸脱しているので、その逸脱を逆手にとって相手を攻撃すればよい。Bの上司にセクハラの事実を伝えること、このことほどBにとって弱みを突いた、因果応報を痛感させる復讐はない。

この復讐の第三段階を根拠-帰結型と名付けよう。この根拠-帰結型の復讐が、目的の全体連関を見ることなしに内容を捨象した抽象的苦痛を交換するだけの第二段階の復讐に比べて合理性を持つことは首肯されえるはずである。そして第一段階の復讐が持っていた合理性も、第三段階の復讐の合理性から包括的に説明されるようになる。Bが嘘をついたことに対して、嘘をつく同害報復をAのみならず全ての人がするならば、それはもはや嘘ではなくなり、ただ言葉の使い方の変化をもたらすだけである。もしもBの言葉の使い方がAと異なるだけならばBに罪はないし、Aの行為は復讐ではなくなる。しかしもしもBが自分の利益のために本来とは異なる言葉の使い方をしている(つまり嘘をついている)ならば、Aの行為はBにとって復讐となる。ここでもまた嘘をつくことがなぜ悪いのかの根拠を問い遡る目的論的還元の必要がある。本稿の結論を見通して言うならば、第二段階の非合理な、つまり合目的的連関から抽象された権力の自己目的化と物神崇拝を阻止する道はこの第三段階にあるのである。

根拠-帰結型の復讐は、苦痛の量ではなくて質を問題とする。我々は最初に「復讐は《自己を他者へと置き移す》共感の思惟の運動を相手に強制的に行わせる」と言ったが、感性的段階に留まる《共感の倫理学》の限界はそのまま第一段階の復讐の限界であった。カントは既に「自分がされたくないことを他人にするな」という通俗的格率を定言命法の第二範式と混同してはならないことを注釈している [Kant: Grundlegung zur Metaphysik der Sitten, S.53] が、私的感情の応酬としての復讐は、いまや《目的の国》の公共の光の下に照らし出されなければならないのである。もっともカントが謂う所の目的の国は、依然として具体性を欠く概念(単に人格を相互尊重する社会)であったから、我々の「復讐の経済学」の論述は、イギリス流の共感の倫理学からカントの定言命法を経てヘーゲルの法哲学(さらにはマルクスの価値形態論)へと至る思想史の歩みを追遂行しなければならない。

2. 貨幣の出現による私的復讐から公的刑罰への転換

ヘーゲルによれば、報復の同一性は、

侵害の特殊な性状における同等性ではなくて、それの即自的に存在するところの性状における、つまり侵害の価値に従った同等性である。[…]応酬の外的特殊的な形態の面から見てのみ、窃盗・強盗などとそして罰金刑・禁錮刑などとは全く不同等なものである。だがそれらの犯罪と刑罰との価値に従えば、つまりそれらの犯罪と刑罰が権利の侵害であるという両者の普遍的属性に従えば、両者は比較しうるものである。[…]犯罪を止揚することは[…]さしあたりまず復讐(Rache)であり、それが報復(Wiedervergeltung)である限りにおいて内容から言って公正である。だが形式から言えば、復讐は一つの主観的意志の行為で[不正で]ある。

復讐の形式を取って犯罪に立ち向かう権利は、即自的な権利に過ぎず、法律の形式においては、即ち、この権利を現実なものにすることにおいては正しくない。侵害された当事者の代わりに侵害された普遍者が立ち現れ、そして裁判において固有の現実性を持つこの普遍者が、犯罪の追跡と処罰を引き受けるのである。これによって犯罪の追跡と処罰(Ahndung)は、復讐によるたんに主観的で偶然的な報復であることをやめ、権利のおのれ自身との真実の宥和、即ち刑罰(Strafe)へと転化する。

[Hegel: Grundlinien der Philosophie des Rechts, S.189-190] 。

この刑罰生成のプロセスを辿ると次のようになる:

(1)単純な、個別的な、または偶然的な報復形態

X程度のセクハラ=Y量の嘘による損害

(2)全体的な、または展開された報復形態

X程度のセクハラ=Y量の嘘による損害=Z円の損害=W回の殴打=V回の無言電話=U人への怪文書の散布=等々の悪事

(3)一般的報復形態

Y量の嘘による損害=X程度のセクハラ

Z円の損害=X程度のセクハラ

W回の殴打=X程度のセクハラ

V回の無言電話=X程度のセクハラ

U人への怪文書の散布=X程度のセクハラ

等々の悪事=X程度のセクハラ

(4)刑罰形態

X程度のセクハラ=Z円の損害

Y量の嘘による損害=Z円の損害

W回の殴打=Z円の損害

V回の無言電話=Z円の損害

U人への怪文書の散布=Z円の損害

等々の悪事=Z円の損害

形態(1)から形態(2)への、また形態(2)から形態(3)への移行では本質的な変化が生じている。これに反して形態(4)は、X程度のセクハラに代わってZ円の罰金が一般的等価形態を持っているということの他には、形態(3)と違うところは何もない。前進はただ、直接的な一般的交換可能性の形態または一般的等価形態が、今では社会的習慣によって最終的に罰金という独自な形態と合生しているということだけであるが、しかしこれが重要な一歩なのである。

中世から近代にかけて多種多様な刑罰があった。18世紀の刑罰改革者(例えばF.M.ヴェルメイユ)も、従来の残虐な身体刑を否定しながらも、汚職には罰金を、盗みには没収を、怠惰には重労働を、卑劣には加辱刑を、放火には火あぶりの刑をといった対応にこだわっていたわけで、「今日のように拘禁 [l’emprisonnement] が死刑と軽度の刑罰との間の処罰の全中間領域を被い尽くすことができるという観念は、当時の改革者たちには即座に考えつきえない観念であった」[Foucault: Surveiller et Punir, p.117] [s]。

[s] 貨幣に関しても、思考の抽象度が低い民族にあっては、シニフィアンとシニフイエとの具体的類似性が強調される。例えば、ニューブリテン島の原住民は「デワラと呼ばれる数珠つなぎになったタカラ貝を貨幣として利用している。この貨幣は腕の長さなどといった長さの単位にしたがって購入に使われていて、魚を買うときには、普通それと同じ長さのデワラが支払われる。また他のタカラ貝が貨幣として使われている地域からの報告によると、二つの商品は分量が同じであれば、価値も同じである、例えはある量の穀物は同じ量のタカラ貝と同じであることになっているのが購入の典型であるとのことである」[Simmel: Philosophie des Geldes, S.118] 。

しかし今日においては、犯罪に対しては等量の苦痛貨幣を支払えばよい。

処罰における犯罪者の役割は、コード [code 法律] ならびに犯罪の面前に意味されるものの-つまりコードとの関連に応じて必然的に犯罪と結合されるべきあの刑罰の、レエールな現前を再び導入することである。この意味されるもの [signifié] を大量かつ明瞭に作り出すこと、それによってコードの意味のシステム [le systéme signifiant] を再活性化させこと、犯罪の観念を一つの処罰の記号として機能させること、それは犯罪者が社会に借金を支払う [payer sa dette á la société 刑に服する] あの貨幣のようなものである。

[Foucault: Surveiller et Punir, p.131]

さて形態(3)の一般的等価形態であるセクハラは、20エレのリンネルが貨幣になることができない以上に刑罰になることができない。金商品が商品交換の一般的等価形態となりえた理由は、

  1. 体積当りの価値が大きくて運搬しやすいために交換手段に適しており、
  2. 均質で可分割的であるために価値の測定手段に適しており、
  3. 腐ったりしないために価値の貯蔵手段に適している、

などが挙げられる。今日金本位制度から管理通貨制度への移行に伴って、硬貨・紙幣・小切手・手形などが通貨として機能しているが、刑罰もかつては残酷なものをも含めて種々様々であったものの、今日ではほぼ罰金・懲役・死刑の三つに収斂している。この三つの刑罰は《価値増殖としての労働時間》を奪取する苦痛を共通に持っている。加害/復讐の程度の測定基準である「抽象的人間苦痛の持続時間」は、現代ではこの時間で換算されるわけである。セクハラなどではなくてこれらが報復交換の一般的等価形態となった理由は、

  1. 程度の差こそあれ万人共通の苦痛であり、
  2. 均質単位で換算でき(死刑は極限値である)、
  3. 応報刑論のみならず、目的刑論の立場からも支持できる

ことにある。3番目の目的刑論とは、刑法学者のフォイエルバッハなどの立場で、罰金や強制労働を行わせる懲役は、不具者を生み出す身体刑とは異なり、直接当事者や社会に利益をもたらすだけでなく、犯罪人の身柄の拘束は社会に安全をもたらし、かつ犯罪人の教育に資するという合目的性から正当化されるというのだ。だが目的刑論を採る場合、「何の目的のために」が問われなければならない。マルクス主義や1960年代以降の英米のニュー・クリミノロジーが主張するように、刑法や司法機関は、支配者階級の権力支配を保存・擁護するためのイデオロギー的装置かもしれない。正義の実現としての刑罰には、その刑罰遂行の権力体制を保持増強するために権力を遂行するという物象化的転倒の可能性をもっている。このことを論じるためには、我々の《復讐の経済学》の論述は“貨幣の資本への転化”へ移行しなければならない。

3. 苦痛貨幣の権力資本への転化とその物象化的転倒

“犯罪行為-公的権力による逮捕や裁判-処罰行為”という刑罰の流通過程を“Handlung-Macht-Handlung”の意味で“H-M-H”と記すことにしよう。流通 H-M-H においては、M は報復正義を実現するための《手段=中間 Mittel》という意味でも M なのであるが、この手段としての権力が自己目的的に自己運動し始め、M-H-M で流通するならば、それは権力の物神崇拝というものである。国家が不服従の際の刑罰をちらつかせながら市民に服従を要求し、市民が服従という犠牲を払って国家による保護を受け取り、服従を既成事実化する時、この交換を通して公的権力は市民から自由を“搾取”し、おのれを増殖させる。

優位関係は加速度的に自己を増殖させるのが常であり、権力手段としての《資本の蓄積》は、経済的でない全ての可能な権力領域にも当てはまるきわめて包括的な規範のほんの一例に過ぎない。

[Simmel: Philosophie des Geldes, S.421]

ポジティヴなものの交換のアナロガスな対応物の例を一つ挙げよう。市民が国家に税金を払い、その代わりに公共の福祉サービスを受け取る時、国家は市民的自由を保持するための手段である。しかし国家がその独占的権力にものをいわせて市民から税金を巻き上げ、その金で特高警察を強化し、さらに抑圧的権力を増大させるならば、それは M-H-M である。この M-H-M+ΔM の考え方を剰余権力学説とでも名付けておこう。剰余価値学説の提唱者マルクスもこの事態を認識していた。

この人間は、他の人間達が彼に対して臣下として振る舞うがゆえにのみ王である。ところが彼等は、彼が王であるから自分たちは臣下なのだと思ってしまう。

[Marx: Das Kapital (1883), S.88]

蓋し権力とは人々が服従することにおいて初めて存立するのだ。

“18世紀の刑罰改革者”で、「初期ブルジョワジーのイデオローグ」であるジェレミィ・ベンサムは、周知のように、犯罪と刑罰の交換貨幣として《苦痛と快楽》を抽象し、これを“立法の原理”とした。

自然は人類を苦痛と快楽という二人の主権者(sovereign masters)の支配の下に置いてきた。我々が何をしなければならないかを指示し、また我々が何をするであろうかを決定するのは、ただ苦痛と快楽だけである。一方においては善悪の基準が、他方においては原因と結果の連鎖が、この二つの王座につながれている。苦痛と快楽は、我々が行為し・言明し・思考する全てについて我々を支配しているのであって、このような従属を払いのけようとどんなに努力しても、その努力はこのような従属を証明し、確認するのに役立つだけであろう。

このような快楽と苦痛の独立自存視は、経済的価値のそれと同様、物象化的錯認である。

物象化とは、廣松渉の定式を借りて式述すると、für uns には反照規定態たる人と人との関係(抽象的人間労働)が、für es には物と物との関係(商品と商品の交換価値)ないし物の具えている性質(商品の使用価値)さらには自立的な物象(価値なる物在)の相で現象する事態の謂である[廣松:物象論の溝図,95貢]。その結果、日常的な意識においては、価値なる物が商品に宿っていて、それゆえに商品は他の商品と交換されるのだとか、資本は自己運動をして自ら利潤を増殖させるなどと思念される。

商品・商品価値に即したマルクスの指摘は、さしあたり、文化財・文化価値プロパーに関して妥当する。マルクスの指摘が妥当するのは、しかし、“哲学的価値”一般の領界には止まらない。制度・規範・権力、等々、いわゆる社会的形象一般が、これらはその都度レアールな与件に“担われ”て『感性的・超感性的なもの』の相で定在するとはいえ、敢えて“それ自身”を抽離的に自存化せしめて存在性格を究明するとき、これまた『超感性的・超自然的なあるもの』の相を呈する。

[廣松:物象論の溝図,101貢]

同様に、快楽/苦痛を与える人と人との関係としての権力は、ベンサムにおいて典型的に見られるように、自存化された相において人間の行為の《目的=原因》として表象されるや否や、物象化的自己運動を始めるようになる。今や権力装置としての監獄は人間に対して頭で立ち、その頭からは、監獄が自分勝手に踊りだすときよりもはるかに奇怪な妄想を繰り広げるのである。

ベンサムの法哲学において《貨幣の資本への転化》が始まるのは、彼がパノプティコン(panopticon 一望監視施設)を論じるに至ってである。パノプティコンにおいては、「ブラインドや他の装置によって、看守は、本人が自分の姿を表そうとでも考えないかぎり、囚人の目から隠されている。それゆえ、囚人の側には[監視の]不可視の遍在 [an in-visible omnipresence] の感情がある」[Bentham: Collected Works 4, To William Pitt 1791/1/23, p.225] 。

これは重要な装置だ。なぜならそれは権力を自動的なものにし、没個人化するからである。その権力はその本源を、ある一つの人格の中にではなく、[パノプティコンにおける]身体・表面・光・視線などの慎重な一定の配置の中に、そして個々人が掌握される関係をその内的機構が生み出すそうした装置の中に持っている。[前近代的な華々しい身体刑に見られるような]大きな権力が統治者において明示される場合の、儀式や彩色や標識は無用となる。

[Foucault: Surveiller et Punir, p.203]

前近代的な残虐な身体刑においては王の超越的権力が映し出されていたが、近代的民主主義の刑罰では、ちょうど前資本主義的社会では可視的であった経済的搾取が資本主義的社会では遍在化しつつ不可視的になったように、権力主体が“不可視の遍在”となり、内面化されて諸個人の自律性(身体の従順性)として現れる。不可視の遍在は、今村仁氏の言葉を借りるならば、どこにもありどこにもない「第四項」、エーテル・ガイスト・フルックスである[今村仁:排除の構造,151-153頁][i] が、それは資本のみならず権力の存在様式でもある。

[i] 参照.但し私は、今村氏とは異なって、スケープ・ゴート論としてではなく、あくまでも物象化論の立場から『資本論』の権力論的解読を行う(スケープ・ゴート論は物象化的措視の色彩が濃厚である)。

ある人は次のように口を挟むかもしれない。現代の主権在民の政治機構においては、国民は監視される存在であると同時に監視する存在であり、それは株式会社において労働者は資本の下に服従するが、しかしまた株主として当の資本を支配するのとパラレルである。このような相互監視・相互服従の民主主義的社会においては、貨幣や権力などのコミュニケーション・メディアが物象化的に転倒されることはないのではないのか、と。しかしひとはここで現代民主主義社会がかくも民主的であるかどうかを自問すべきである。

我々一般大衆はそれと気が付くことなく多数決原理のもとに数の暴力を行い、中流意識を持つ我々日本国民は南北の国際的分業のもとに知らずして搾取を行う。一方大企業の取締役会は実質的には大株主の意志を代行して株式会社を経営し、そしてかかる法人が政治過程において、つまり議会政治の背後で重要な役割を果たす。要するに中流意識を持つ我々一般大衆は、不可視的に《下》を排除しつつ、不可視的に《上》の支配に甘んじているわけであって、この形式的平等性の背後にある実質的不平等性、つまり資本と権力の“偏在せる遍在性”を見落とすならば、民主主義的言説はイデオロギーを騙ることになるであろう。

さしあたって刑法以前的な私的でトリィヴィアルなレヴェルで微分されている諸個人の復讐の権力行使は、いつ国家権力へと積分されるかわからない。憶えばナチズムは当時としては最民主主義的であったワイマール憲法下から合法的に政権を握り、失業問題を解決し、ユダヤ国際金融とフランスへの復讐をもやってのけた。しかし一端独裁的権力が成立すると、H-M-H は M-H-M+ΔM へと転化し、シビリアン・コントロールから離れる。権力資本は、四つの資本の合計で決まる包括的資本であるから、その源は究極的には、我々が労働によって産み出す価値にある。我々が行為するから資本が蓄積されるのであって、資本があるから我々がそのために行為するのではない。この点を見誤るとき、権威主義的な転倒が大手を振って社会にはびこることになる。

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  6 コメント

  1. 永井先生はライブドア事件をどうみますか?

  2. 「交換としての復讐」で質問する理由は?

  3. 申し訳ありません。
    fur es やfur unsの存在論的性格または地位はどのように考えたらよいのでしょうか?フュア・ウンスが物ではないことは私もわかります。しかし、、?

  4. “物象化とは、廣松渉氏の定式を借りて式述すると、fur uns には反照規定態たる人と人との関係(抽象的人間労働)が、fur es には物と物との関係(商品と商品の交換価値)ないし物の具えている性質(商品の使用価値)さらには自立的な物象(価値なる物在)の相で現象する事態の謂である”
    権力論的に言うならば、権力を、私たちの個々の選択を離れて、超然と自存する実体とみなすことは、物象化的錯視であるということです。

  5. 反照規定態の存在性格はどのように記述できるかという疑問が愚問であるとしたらそれは何故でしょう。廣松哲学の言語に対する不満がここにあります。

  6. 反照規定態というのは、わかりやすく言うと、規定される側から規定する側へと反省してみるとわかる認識主体の構造といったところです。色眼鏡をかけていることに気がついて、「世界が青いのは、私のめがねが青いからだったのか」と気がつくような事態です。

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