9月 051997
 

鏡像段階の子供は、想像界において母のファルスと自己同一するが、父が象徴界においてライバルとなるやそれが不可能となり、去勢に怯えるようになる。子供はどうすれば現実界においてファルスと自己同一することができるようになるのか。

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子供は、産まれて間もないころ、母親に栄養および愛情の点で依存する。子供は口唇や肛門に、おしゃぶりをしたり排泄物を貯めたりするときに性的快感を得る。母子の間には、愛情の交換関係があって、母親が母乳を与えてくれるお返しとして、糞尿を贈り物として提供しているのだと子供は勝手に考えている。もちろん母親にとっては赤ん坊の笑顔が何よりもの報酬なのであるが、こうした男根期以前の互酬性のレヴェルでは、母子の愛情関係は平穏で静止的である。

しかし子供はやがて母親に何かが欠如していることに気が付く。男の子が、母親に欠けていているがゆえにそれを補うべく想像的に自己同一する対象はファルスである。フロイトがハンス少年の観察で詳述しているように [Freud: Studienausgabe 8] 、男の子はファルスになみなみならぬ関心を寄せ、そして女の子がファルスを持たないのを目撃すると衝撃を受ける。その子は父親によって去勢されたのではないかという思いが頭をかすめるからだ。

もっとも最初のうち、男の子は、その女児はまだ小さいからファルスも未発達なのだと理屈付けて自分を安心させようとする。男の子はやがて成人した女性である母親にもファルスがないことを知り、愕然とするが、今度は自分が母親のファルスとなって欠如を補おうとするようになる。一方、女の子は自分にファルスがないことに劣等感を持ち、自分もファルスが欲しいという羨望を持つようになる。のち結婚して子供(特に男の子)を産むのは、この願望を満たすためである [Freud: Studienausgabe 1, S.562] 。男の子が、母親の期待に応えて立身出世しようとするのは、自らが母親のたくましいファルスとなって、母親の欲望を満たそうとする欲望に基づいている。

このように、母親と男の子との愛情関係は、想像的ファルス(phallus imaginaire)を媒介的第三項にして成り立つようになる。この男の子の想像が作り出す三角形を視覚化したのが、図4である。

図4 想像界の三角形

子供(Enfant)は、自分を母親(Mère)から愛される受動的主体(assujet)と想像する。子供は言わば、自分が欲望する対象から欲望されている対象であることを欲望するのである。そのような対象としての母親は、図にはa(autre)と書かれているが、ラグランド・サリヴァン式の表記法を借りて言えば、m(Other)、つまり《他者としての母親=母親としての他者》である。この m(Other)という表記法は、「人間の主観は、最初は、対象的な人格、普通は母親との同一化によって自己を認知するようになるのだという考えを表現しようとしたものである」[Ragland-Sullivan: Jacques Lacan and the Philosophy of Psychoanalysis, p.16] 。それゆえ図4では、子供は自我(ego)ではなくて、a’(他者の他者)または moi(対象的自我)と表記されている。

ラカンによれば、子供にとって自我は最初他者として現れる。幼い女の子は、自分のことを指し示すのに、「私は」とは言わずに、例えば「さちこちゃんは」などと他者が呼びかけるときの言い回しを用いる。

このようなことはいかにして可能なのか。それは人間の対象的自我が他者であり、初めのうち主体はむしろ他者の形態を取っていて、自我固有の性質を出現させたりしないことによってである。主体はもともと欲望のばらばらな集まり - これが“寸断された身体”という表現の本当の意味だ - であり、主体を最初に総合するのは本質的に他者であって、自我は疎外されている。欲望する人間主体は、他者が主体に統一を与えるかぎり、他者という中心の周辺で構成される。主体が最初に接近する対象は、他者が欲望する対象としての対象である。

[Lacan: Le Séminaire Livre 3, p.50. この引用文に登場する「主体」と「他者」は全て小文字である。ラカンのテクストでは、大文字と小文字はシニフィアンとシニフィエの関係にある。]

ピアジェは、子供はもともと自己中心的で、成長の過程で次第に世界観を脱中心化していくと主張したが、そのような発達心理学は、ロビンソンクルーソーの物語から説明を始める経済学やコギト・エルゴ・スムを第一原理とする哲学と同様に、人間存在の根源的他者性を無視している。

人間が自分の存在を自分の意識によって形成したという幻想は、人間は、彼の同類との想像的関係に特有な裂け目の通路[パロール]を経てこそはじめて、主体としての象徴的秩序に入ることができたという事実から[事後的に]生じる。

さて、母子の関係 a-a’ は鏡に映されたように対を成しているけれども、この交換関係は無媒介ではなく、a’ は第三項の φ に自己同一化することによって a の愛の対象となろうとする。しかし子供の空想と願望を裏切るように、母親の愛は父親(Père)、つまり彼女の夫に向けられる。

なぜか。それは、もしそう言ってよければ、ファルスはぶらつくものだからだ。ファルスは他の場所にある。精神分析学がそれをどこに位置付けているのかは周知の通りであって、所持者とされるのは父親である。この所持者を巡ってこそ、子供においてはファルスの喪失、返還要求、剥奪が始まり、母親においてはファルスを持たないことの不安やファルスへのノスタルジーが始まる。

[Lacan: Le Séminaire Livre 3, p.359]

私(子供)にとって父親はライバルになるのであって、このエディプス的三角関係を表したものが図5である。父親は私にとって大文字の他者(A)であり、象徴的ファルス(phallus symbolique)である。

図5 象徴界の三角形

私は、もはや小文字の φ の時のように、父親を象徴する大文字の Φ に自己同一化することはできない。かくして、私は母親の欲望の対象である受動的主体(assujet)から母親を欲望する能動的主体(sujet)へと変貌する。これに対して父親は、私の欲望を否定する抑圧者として登場する。私は父によって去勢されるのではないかという恐怖に怯える。父は私にとって尊敬と憧れの対象であるが、しかし同時に憎悪と恐怖の対象でもあるという両価感情(Ambivalenz)は、想像界の三角形と象徴界の三角形を、つまりφとΦを重ね合わせてみればよく分かる。

子供は母親の欲望の対象となっている父親に憧れと憎悪の入り混じった感情である嫉妬心を抱き、父を殺害して母と結婚したいというエディプス的欲望を抱く。このこと、つまり象徴界の三角形に想像界の三角形を重ねることは実際には不可能であるから、想像界の三角形 aφa’ は、象徴界の三角形 aΦa’ に対して線対称に裏返しにされる。これが図6の主旨である。図6のは想像界、は現実界、は象徴界を表し、は表のと裏のを隔離している。

図6 現実界・象徴界・想像界

ラカンの「シェーマR」の表記法では、図6は図7のようになる。

図7 シェーマRまたは自我理想の追求

この図で括弧は裏返しにされ潜在的となっていることを意味する。想像界のファルス(φ)の位置にある左端のSは、大文字の主体(Sujet/Subjekt)の頭文字であると同時にエス(Es)の意味も兼ねた記号である。大文字の主体であるエスは、夢や機知や錯誤行為などの無意識のディスクールを通して小文字の主体である自我の意識に“語りかける”。Sの右下の m は、その小文字の主体(対象的自我 moi)を表している。m の右にあるIは自我理想(Idéal du moi/Ichideal)の頭文字である。自我理想 は、後に超自我(sur-moi/Über-Ich)として内面化される象徴界のP(父親 Père)と関係がある。

超自我は自我理想の担い手であって、自我[Ich]は自我理想に即して自己を測り、自我理想を模範として努力し、絶えずさらに完全であれという自我理想の要求を満たすべく骨を折る。明らかに、この自我理想はかつての両親の表象の名残であり、子供が両親に認めたあの完全性に対する驚嘆の表現である。

[Freud: Studienausgabe 1, S.503]

この「自我理想」は「理想自我 moi idéal/Ideal-Ich」から区別されるべきである。文法的なことを言えば、フランス語でもドイツ語でも「イデアル」は名詞としても形容詞としても使われる。前者では名詞で「自我の理想 das Ideal des Ichs」、後者では形容詞で「理想的な自我 das ideale Ich」のことである。もっともこれだけでは違いが明確でないし、事実 S.フィッシャー版フロイト全集の編集者は、自我理想・理想自我・超自我の三つには本質的な区別はないと『自我とエス』の序論の中で述べている [Freud: Studienausgabe 3, S.280] 。

しかしこの三つは同じでないし、次のフロイトからの引用文を読めば、象徴界の自我理想と想像界の理想自我の相違は明らかである。

幼少時代に現実の自我が享受した自己愛はこの理想自我に向けられている。ナルシシズムは、この新たな理想的自我に移行して現れるのだが、理想的自我は、幼少期の自我と同様に、全ての価値ある完全性を所有している。リビドーの領域では常にそうなのだが、ここでも一度享受した満足を放棄することは不可能であることが分かる。人間は幼少時代のナルシスティックな完全性をなしですまそうとはしないのであって、成長期にさまざまな警告によって妨げられたり、自らの判断に目覚めたりして、その完全性が維持できなくなると、それを自我理想という新しい形式の中に、もう一度獲得しようとする。彼が自分の理想として目標に掲げるのは、そこにおいては彼が自分自身の理想であった、幼少時代の失われたナルシシズムの代替物である。

[Freud: Studienausgabe 3, S.60-61]

ナルシスが水面に映った自分の容姿に惚れ込んだように、幼児は鏡に写し出された自分の理想自我に陶酔する。ボールドウィンの観察によれば、生後6ケ月の鏡像段階の「幼児は、自分のものとされる像の動きと鏡に写し出された彼の周囲との関係をはしゃぎながら確かめる」[Lacan: Écrits, p.93]。幼児は、鏡の中に自分を見出したから喜んではしゃぐのではなくて、はしゃぐことによって自分の意思で鏡の映像に変化をもたらすことのうちに自己を見出しえるから喜ぶのである。ある心理学者は、ベッドに横たわる幼児の足に紐を付け、その紐を天井から吊してある玩具に結合させた。すると幼児は、最初偶然に、次に意図的に足をばたつかせて、玩具がガラガラと音を立てて動くたびごとに喜びの声を上げた。しはらくして実験者は紐を切った。すると幼児がいくら足を動かしても、玩具に変化がないので、幼児は不機嫌になり、しまいには泣き出してしまったとのことである。「自分は世界から切り離されている」「自分は存在しない」という疎外感を、我々大人も、例えは冗談を言ったが誰も反応しないとか、挨拶をしたけれども無視されたなどの場合に感じる。他者を通じての自己同一化ができなくなると、それは精神病の原因に成りうる。

幼児と母親の愛情のコミュニケーションも同様にナルシシスティックである。泣き声をあげる幼児に対して母親が母乳を与えたりおしめを取り替えたりして世話をすると、幼児は満足そうな顔をする。幼児は物質的な欲望が満たされただけではなくて、ちょうど身体を動かすと鏡がそれに反応して像を変化させるように、泣き声に対して母親が反応してくれたこと自体に精神的な満足を感じるのである。

これはナルシシズムではないとひとは思うかもしれない。しかし前エディプス期の母子関係は自他未分で、未開民族の成人が「私はインコである」と考えているように、「私は他者である」が幼児の意識なのである [Lacan: Écrits, p.117-118] 。つまり鏡像段階の幼児の意識においては、自己が他者を欲望することと他者が自己を欲望することが相互に反転可能であって、それは他者の中に自己を見出し、自己の中に他者を見出す愛の弁証法的反照関係である。この自他の同一化作用のゆえに、幼児の性愛はナルシシズム的なのである。想像界の母親の位置にあったaは、実は母親Mの中に見出された理想自我であって、ラカンはユングの用語を借用してこれを imago と名付け、その頭文字を取ってiと表記している。

先のフロイトからの引用文にあった「成長期にさまざまな警告によって妨げられたり、自らの判断に目覚めたりして、その完全性が維持できなくなると、それを自我理想という新しい形式の中に、もう一度獲得しようとする」というくだりは、男根期の去勢コンプレックスによるナルシスティックな理想自我(母親との同一化)の喪失と自我理想(父親との同一化)への憧れを意味している。幼児 a’ は、a をiから M へ移行させるために、m からIに接近しようとする。しかし現実界 は想像界と裏返しにされた(潜在化された)象徴界との連続化を阻む。ではエディプス的欲望である、象徴界のPから想像界の φ への移行はいかにして可能か。

ラカンはシェーマRの註の中で、Iとi、M と m という大文字と小文字のペアをつなげるとメビウスの輪になると述べている[Lacan: Écrits, p.553] 。理想自我が自我理想となる(i=I)ことを媒介にして自我が母親と結ばれる(m=M)時、何が起きるのだろうか。図8は実際につなげた結果を表したものであるが、メビウスの輪では、表と裏の差異が消滅して、表面が一つになるので、表の象徴界から裏の想像界へ、そして裏の想像界から表の象徴界へ自由に移動できる。

図8 メビウスの輪または象徴界から現実界への移行

子供は実際に父親を殺害して母親と結婚しなくても、現実の父母の象徴的な関係からの想像によって、父親との自己同一が可能となる。メビウスの輪を作ることに失敗した場合はどうなるのだろうか。その時には、シニフィアン(象徴界)とシニフィエ(想像界)との関係が切断され、精神病の原因となる。象徴界から切り離されるとパラノイアとなり、想像界から切り離されると精神分裂病になる。だから「パラノイア者は想像的なものを象徴化しようと努力するのに対して、精神分裂病者は象徴的なものを想像化しようと努める」[小出浩之:シェーマL-ラカンの精神病論,14頁][k]のである。

[k] 小出のこの論文からは、シェーマ R に関しても多くの教示を得た。ただ“i=1・m=M”というメビウスの絵は「もはや三次元空間では考えることはできない」[小出浩之:シェーマL-ラカンの精神病論,12頁]というのはどういうことなのか。私はこの条を読んだとき、大いに疑問に思い、紙とはさみを取り出して“実験”をしてみたが、シェーマRからメビウスの輪を作ることは不可能ではなかった。なお、想像界の三角形を裏返しにするのは私のアレンジで、ラカンのものではない。

シェーマRはほぼそのまま下のシェーマLとして理解することができる。

図9 シェーマLまたは間主観性の弁証法

シェーマLにおいては、メビウスの輪の形成によって、小文字の主体(moi 対象的自我)は a’ ではなくて a となっており、逆にイマゴとしての他者は a に相当する記号が付されるというキアスムが生じている。図中の矢印について、ラグランド・サリヴァンは次のように説明している。

人間の存在を可能ならしめているのは何かという問いは、大文字の他者(A)の位置から立てられる。対象的自我[moi]は、疎外された主体であると同時に大文字の他者(A)の客体でもある。Sは語りの主体、私[je]を表し、この主体はそのディスクールを小文字の他者に向け、そして小文字の他者は、今度は大文字の他者(A)の対象的自我への影響を触媒する。

つまり、A→a の影響関係は、A→S→a’→a という弁証法的迂路を経て可能となる。図中の左上がりの矢印である「無意識[l’inconscient]、それは大文字の他者からのディスクール[le discours de l’Autre 大文字の他者についてのディスクール]である」[Lacan: Écrits, p.16] が、大文字の主体は、その大文字の他者からのディスクールを小文字の他者に向け、そしてそのことを通して小文字の他者は対象的自我と鏡の関係(図中の想像的関係 relation imaginaire)を持つというわけだ。

ラカン自身は4項の関係を次のように説明している。

我々は実のところ最初に、小文字の他者との鏡の関係を通して、対象的自我の機能に対して持つ小文字の他者の支配的地位を、フロイトにおいて重要であったナルシシズムの理論に対しても再び与えようとした。小文字の他者との鏡の関係から、分析の経験によって明らかにされた全ての空想作用を事実上小文字の他者に帰することができるのは、この図が説明するように、当の鏡の関係が大文字の主体の此岸と大文字の他者の彼岸の間に割って入ることによってである。その際、パロールが鏡の関係を実際に挿入するのは、パロールに基づく存在者たちが小文字の他者の思うままになるかぎりにおいてである。

[Lacan: Écrits, p.53-54]

シェーマ Lでのディスクールの関係は、A の位置に精神分析家(の権威)を置いてみると分かり易い。フロイトのような精神分析家は、自由連想法によって患者に思いつくがままに語らせる。フロイトと患者の対話は一見すると A→a の関係であるかのようであるが、しかしフロイトが語り掛けているのは実は自我ではなくてエスである(A→S)。エスは自我とは異なって欲望を検閲することなくありのままに話し、リビドーが小文字の他者 a’ に向けられることを暴露する(S→a’)。こうして、a’ と鏡像関係にあることを知った患者 a は、この事実を抑圧した結果生じてきた精神病を治療することができるようになる。引用したラカンの文章は、自我が隠蔽しようとすることによってあらわにする、そこから逃れようとすることによってかえって自我を束縛する小文字の他者が精神分析の主題であることを述べている。

シェーマ L は、臨床的な精神分析を説明する図式として使用できるけれども、これをコミュニケーション一般のモデルとして解釈することはできないであろうか。これが次の我々の課題である。シェーマ R では、“A/S”が、“象徴的ファルス P/想像的ファルス φ”として“シニフィアン/シニフィエ”の関係にあった。しかし“超自我/無意識”は“シニフィアン/シニフィエ”の関係にはない。そこで超自我を上方へ、無意識を下方へと、《a-a’》および《シニフィアン-シニフィエ》の軸に対して垂直に転回させてみよう。するとシェーマLは図10のような正8面体になる。

図10 シェーマNまたは鏡像関係の正8面体モデル

この正8面体はシェーマNと名付けてよいかもしれない。なぜならこの図形は、私が『システム論研究序説』で提示した超越論的間主観性の四角錐モデルの一部であるからだ。但しその際には、図の矢印が示すように、自我のエス(S-a)と他我のエス(S-a’)に分けて、たまたま同じ記号の読み(S=ES エス)になるのだが、 それぞれ四角錐モデルの“ES”と“ES”に対応させる必要がある。四角形 a・SA・a’・SE は、フロイトならば W-Bw と記したであろう知覚=意識の領域で、この平面より下は無意識、上は超自我の領域を表している。一方、四角形 A・SE・S・SA は、a に a’ を写し出す鏡であると言ってよい。図中の M は鏡(miroir)の頭文字であるが、同時にメディア(media)の頭文字である。つまり、この鏡は、a-a’ というコミュニケーションのメディアであり、したがって象徴的父親としてのファルスは貨幣である[k]と主張したいわけなのだ。

[k] 栗本慎一郎の論文「貨幣のエロティシズム」[栗本慎一郎:幻想としての経済]は、貨幣の起源を女性性器ではなくて男性性器に求めている。

ここでもう一度、前章のコミュニケーション・メディアと形相の区別を思い返してもらいたい。空気はそれ自体音でないがゆえに、形相の音を伝えるメディアでありうる。言語はそれ自体真でも偽でもないから、形相である真偽を表現するメディアでありうる。貨幣はそれ自体商品価値を持たないために、形相である商品価値を測定するメディアでありうる。そして鏡についても、鏡自体は特定の映像を持たないがゆえに、あらゆる像を映し出すことができるメディアであると言える。

ラカンは鏡に映し出された像を小文字の他者としているのに対して、大文字の他者という媒介的第三項は鏡それ自体として位置付けている [Lacan: Écrits, p.678] 。我々はまさに父親を行動の鑑(かがみ)として成長するのである。エディプスは、自分が父親を殺害したことを知ったとき、自分の手で自分の目を潰した。フロイトの解釈によれば、これは去勢を意味する。《父親=ファルス》を失ったとき、ちょうど鏡を失ったときのように、光は失われ、何も見えなくなる。

母親と父親との幼児期における三角関係は、その後思春期になって通常の恋愛を始めるときにも反復して現れる。前章の第二節で述べたように、恋人や結婚相手は無媒介には得られない。結婚は《贈り物》の交換によるコミュニケーションであった。すべてのコミュニケーションにおいてそうであるように、結婚のコミュニケーション・メディアも、《資本を犠牲にすること》であり、このメディアによって愛情という形相が伝達される。

図10 の“SA”は記号としての《資本の犠牲》であって、“SE”はそのシニフィアンが意味するところの私の愛情であり、その愛情を小文字の他者が受け取るとするならば、a → SA → SE → a’ → a という回路が成り立つことになる。SA は A から、SE は S から分化したのだから、この回路は当然、a → A → S → a’ → a という回路と二重写しになっている。この後者の回路は、超自我が提示する自我理想を追求することによって、無意識のレヴェルでの理想自我への思慕を実現するというプロセスである。資本を犠牲にするためには、あらかじめ資本を蓄積しなければならない(エントロピーを増大するためには、あらかじめネゲントロピーを生産しなければならない)のであって、性愛を断念するような努力をして(例えば高学歴・高収入などの)資本を築いた者が、かえって性愛を手に入れるという逆説がこの回路にはある。

小文字の主体と小文字の他者との間の交換では、大文字の他者であるコミュニケーション・メディアは、本来たんに中間的な手段としての性格しか持っていないはずである。メディアが物象化的に自立するとき、すなわち小文字の他者に対する大文字の主体の欲望(他者の承認を求める欲望)を満たすために大文字の他者が崇拝されるとき、目的と手段の逆転が始まる。諸個人の関係が社会を規定するのではなくて、社会が諸個人の関係を規定するようになる。ラカンは、ヘーゲルの弁証法から多くを学んだというが、ヘーゲルにはそのような転倒の傾向がある。頭で立っているヘーゲルの足を地に付かせようとしたのがマルクスだったわけだが、マルクスの死後成立した社会主義諸国は、ヘーゲルの物象化的転倒を克服したと言いうるであろうか。ヘーゲルとマルクスに関しては、節を改めて論じることにしたい。

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  4 コメント

  1. “シェーマLにおいては、メビウスの輪の形成によって、小文字の主体(moi 対象的自我)は a’ではなくてaとなっており、逆にイマゴとしての他者は a に相当する記号が付されるというキアスムが生じている。”
    と永井さんは記されていますよね。確かにシェーマRを出すときにラカンはメビウス構造について触れていますが、それとシェーマLの関連については直接的な言及は見つけられませんでした。このあたり、何かラカン自身がそう言っている文脈、あるいはラカン研究書が存在するのでしょうか?それとも永井さん独自の解釈なのでしょうか?

  2. それは、私の思い付きですから、疑ってみた方が良いですよ。シェーマRに先立って、シェーマ£という、シェーマLを簡略化した図があるのですが、そこで既に、a’, son moi と書かれていて、関係が逆になっています。なぜ○マークがなくなったのかとか、なぜシェーマ£では、aとa’が斜字体になっているのかとかに関しても、いろいろ解釈できそうです。

  3. 想像界の三角形の説明で
    「この交換関係は無媒介ではなく、a’(子供:他者の他者)は第三項のφに自己同一化することによってa(母親)の愛の対象となろうとする。」
    とありますが、φとはいったい何なんなのでしょうか?
    象徴界の三角形では、象徴的ファルス(父親)がφに入りますが、想像界においてのφの意味がよくわかりません。

  4. 子供は、自分を母の欠如を埋めるペニスであると想像します。また、母は、自分のペニスの代理物としての子供を望みます。それは、父を媒介としない母子相姦の媒介項です。

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