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社会システム論の構図(11)支配としての包摂

1997年9月5日

真理としての権力を論じる上で重要な概念は《包摂》である。なぜならこの概念は、一方ではこれまでの超越論的目的論の論議において主題化してきた認識論的な概念《正当化》であると同時に、他方で権力論における基礎概念である《服従》でもあるからである。正当化と服従は、一見すると正反対に見えるが、実は同じ包摂の二つの側面にすぎない。以下第一項で前者を、第二項では後者を論じつつ、第三項では、正当化=服従における「包摂する=包摂される主体」の問題を考察する。

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このページは電子書籍『社会システム論の構図』の一部です。

1. 第一項 正当化としての包摂

個物は普遍へと包摂されることによって正当化される。伝統的にはこの包摂でもって類-種の包摂が考えられがちである。だが、類-種の包摂関係と関数的な包摂関係は同じだろうか。フッサールは、両者は異なると言う。

人は類的一般化/特種化の関係を、事象的なものから 純粋論理的に形式的なものへと普遍化する、ないしは反対に論理的に形式的なものを事象化する本質的に他種の関係から鋭く区別しなければならない。換言するならば、類的一般化は、例えば数学的分析において非常に大きい役割を果たしているような形式化とは全く異なるし、特種化は、論理数学的に空虚な形式/形式的真理の脱形式化や『充填』とは全く異なるのである。[1]

例えば、(5+2)(5-2) = 25-4 を (x+y)(x-y) = x2-y2 へと包摂したり、「もしもすべての人間が理性的であるとするならば、ある人間は理性的ではないということはない」という推論を(∀x) Rx ⇔ ¬(∃x) ¬Rx へと包摂したりすることは、「5」を「自然数」「数字」「イデアールな存在者」へと、「人間」を「哺乳類」「動物」「生物」へと、つまり個体的存在者をより高次の本質類(ドイツ語では「存在者」も「本質」も Wesen である)へと一般化することとは違って、複数の本質の間の必然的関係を規則の形で言明している。前者が“Was?”の問いに答える《記述》であるのに対して、後者は“Warum?”の問いに答える正当化であると割り振ることもできよう。

高次の類-種による包摂は何ら正当化ではなく、むしろ包摂=正当化されるべき与件に過ぎない。例えば「人間」を「哺乳類」へ包摂することは、「その雌は乳で仔を哺育し、かつ肺呼吸し、かつ温血で、かつ二心房二心室の心臓を持ち、かつ横隔膜を持つ脊椎動物xは哺乳類である」なる論理形式的規則の内容充填であると見なしうる。一般に正当化とは、「なぜ S は P なのか」という問いに対して「なぜなら S は Q だからだ」という根拠を与えることとされるが、これは要するに「全ての Q は P である」という規則に、「Q としての S」と「P としての S」を包摂することに他ならない[2]。したがって概念的な包摂関係は規則への遵守へと包摂される。

ここから次のテーゼが検討を要するようになる。

類的一般性と種的特殊性には必然的に二つの決して合致しない限界が属する。下降すれば我々は最低の種差、あるいは形相的単独体と言ってよいようなものにまで到達する。種/類の本質を通って上昇すれば最高の類にまで到達する。形相的単独体とは、たしかに自己の上に必然的に“より普遍的な”本質をその類として持つのだが、しかし自己の下に、それに対してはそれ自身が種(最近種ないしは間接的なより高次の類)であるような種差をもはや持たないような存在者のことである。同様に自己の上にもはや何らの類をも持たない類は最高類である。[3]

もし類的一般化から形式的普遍化を区別するならば、最高類は実質的事象の多様性に応じて複数あることになる。複数の最高類の本質法則的統一は、超越論的観念論の構図に従うならば超越論的エゴコギトであるが、この規則の包摂関係は類-種の包摂関係ではないので、超越論的エゴコギトを究極的な最高類(あるいはさらに 人-類 なる Gattungswesen)と称することは決して適切ではないことになる。

上の限界と「決して合致しない」はずの下の限界のほうであるが、最下位の種差である形相的単独体の下にその“担い手 Träger”として先述定的な個体があるわけではなく(“先述定的な個体”がすでに述語である!)、個体とはむしろ諸本質を統合する機能概念として定義されるべきである。もっとも、普遍的な諸本質をいくら連言で結合していっても個体は導出されないから、時間空間の感性的条件で規定しなければならない。

だが、規定する条件自体は相変わらず概念として普遍的であるので(例えば「今」「ここ」などを考えてみよ)、結局個体の個体性は統合機能の存在そのものに、つまり統合主体の存在に求めなければならなくなる。まさに、アリストテレスが言うように、最高の諸類は「一と存在に[つまり統一存在に]還元される[4]」のである。かくして最下位の限界は最上位の限界と合致し、《主体=実体》のテーゼのもとに包摂モデルは円環構造を持つにいたるのであるが、それは感性的存在を捨象して絶対知の高みへと上昇することによってではなくて、有限な存在者がおのれの有限な存在を《超越論的に》自己反省することによってである。

そこで私としても次のテーゼを認めるに悋ではない。

およそ数において多であるものは質料を持っている。というのも、ロゴスは多くの事物を通じて、例えば人間のロゴスは多くの人間を通じて一つであり同じであるが、しかし[質料をもった]ソクラテスは[多のうちの]一つであるから。本質ことに第一の本質は質料を持っていない。それは完全現実態だからである。それゆえに第一の不動の動者はロゴスにおいても数においても一つの存在である。[5]

しかしソクラテスやプラトンが人間の本質に、そして人間や猿や犬が動物の本質に包摂されていくことによって第一の本質に辿り着けるわけではない。「第一の不動の動者」が一つへと収斂していく類と種の階層の頂点に位置するのではないという以前に、我々はまずもってこのような類-種のヒエラルヒー構造を疑ってみなければならない。包摂の体系が拡散的であることと、体系が統一的(einheitlich 単一的)であることとは矛盾しない。このことはいかにして可能であるか。

先に述べたように、概念的に個体を類と種の階層へと包摂することは包摂される個体が規則に従うということであり、そしてこのことは包摂する主体が規則に従うことに他ならない。そして規則の体系は超越論的主体によって統一される。我々は人間主体を社会組織その他の類と種の階層(と差し当り思われるもの)に包摂して語ることができるが、その包摂は判断の包摂の反照的規定として捉えられなければならない。判断において個物である主語 Subjekt は普遍である述語へと包摂されるが、この包摂を通して《包摂=判断》する機能である主体 Subjekt に当の包摂が述定され、主体はその社会システムへと包摂される。もちろん「この植物は緑である」と判断するとき、判断主体たる私は植物ではないし、また「緑である」という述定自体は緑ではない。そうではなくて「この植物は緑である」という判断の妥当性が判断主体に述語として帰属するのである。

では《包摂=判断》の妥当性とは何か。我々は根拠を与えることによって包摂を正当化しようとする。なぜ植物は緑色なのか。それは葉緑体を持つからである。なぜ植物は葉緑体を持つのか。それは光合成をするためである。なぜ光合成をするのか。それは無機物を有機物に合成して生活を維持するためである。なぜ無機物を有機物に合成して生活を維持するのか。それは植物の定義である。― 定義にいたって正当化は終わる。

この「緑色」→「葉緑体を持つ」→「光合成をする」→「無機物を有機物に合成して生活を維持する」→「植物」の系列は、「緑色」→「色彩」→「第二性質」→「性質」という類-種の包摂系列とは異なって、上昇も下降もしない、言わば同一平面上を右往左往するだけの《規則=関数》の諸項の集合である。「緑色であるならば色彩を持つ」とは言えるが、「緑色であるなら葉緑体を持つ」という必然性はない。また反対に「色彩を持つから緑色である」とは言えないが、「葉緑体を持つなら(クロロフィル a,bを含むかぎり)緑色である」とは言える。しかし、両者の包摂関係が逆であると言いたいのではない。むしろ重要なのは、どちらもが包摂すると同時に包摂される関係にあるということなのである。

主語である「この緑色」は、述語である「葉緑体を持つ」へと包摂されているが、個体である前者はまた、その直観的全体において普遍である後者をも包摂するのである[6]。「葉緑体」は「緑色」以外にも「ラメラとストロマ」「光合成を営む」等の属性を持っているので両者は全体と部分の関係にあるわけだが、「緑色」も、これはこれで「葉緑体」以外に「黒板」「信号機」等の個体を自己の下に持つから、この点では両者は逆に部分と全体の関係になってしまう。

このようにある本質は複数の本質に包摂されうる(またもちろん当の包摂する本質も複数の本質を包摂しうる)し、さらに重要なことにこの包摂-被包摂の関係は逆転しうるから、本質の包摂構造は決して最高の一点へと収斂していくピラミッド型のヒエラルヒーではなくて、むしろ網の目状に拡散していく規則の体系であると言える。そして正当化としての包摂は、今の例が「植物は植物だ」で終わったところからも明らかなように、実は定義の体系の内部で動く記述の一種なのである。もしも正当化とは整合的に規則に従った記述にすぎないならば、かの事実問題(記述)と権利問題(正当化)という区別は消えることになる。

拡散的な規則の体系は、しかし体系であるためには統一されていなければならない。そして最高類概念は拡散するノエマにではなくて統一するノエシスに、つまり超越論的主体に求められなければならない。超越論的主体たる私は「この植物は緑である」を正当化して、今や堂々とこれを言明する。ところがもし周囲の人が、同じ物を指示しながら「その植物は緑でない」と言い出すならば、私は自分の定義を疑うようになるであろう。私が「植物」のつもりで指示していた物は、実は私が「花」として以前定義していたものなのかもしれない(もちろんこのような推測には不確定性がまといつくのであるが)。

そこで花は赤色であるので私は「この植物は“よく見てみると”緑色ではない」と周囲に付和雷同して包摂を包摂する。もし周囲の嘲笑にもかかわらず、 「この植物は緑色である以上は緑色だ」と頑強に主張するなら、私はやがて村八分にされ、《我々》から排除され、私の主張は空しくも無意味な叫び声として鳴り響くに過ぎないというありさまになる。

包摂を包摂しうるか否かは、当の包摂を包摂することが(メタレヴェルで)包摂されうるか否かにかかっている。すなわち、命題風にまとめるならば、

「主語は主体のもとへと服従する」ことは「主体は基体のもとへと服従する」ということへと服従する

《The subject is subject to the subject》is subject to《the subject is subject to the subject》

となる。英語にするとトートロジーになってしまうが、《subject》概念に複数の意味があるから、この命題はトートロジーではない。

妥当性の問題と関係して価値の包摂構造についても述べよう。もし人が事実と価値、つまり対象レヴェルとメタレヴェルを混同するならば、次のような批判は有効である。

最普遍的な価値に最高の価値を、最特種的(個体的)な価値に最低の価値を認識するものと人は考える。だが前者は疑う余地なく最も単純な、後者は最も複合的な実質的構造を持つ。この考えへと人を誘い込むのはまずもって論理的概念関係とのアナロジーである。ひとは構造的依存性の形式的な包摂関係をそれと気が付くことなしに価値の高さの価値論的関係に置き換えているのである。そのような依存性はもちろん価値の領域にもある。より普遍的で原基的な価値は、実際より複雑な価値の構造原基として繰り返し現れるのである。とはいえしかし、複雑な価値はより低い価値ではなく、たいがいは逆により高い価値なのである。[7]

だがこと妥当性の階層性、つまり「形式的な包摂関係」となると、話は微妙になる。これは次項で扱う。

2. 第二項 服従としての包摂

服従とは、ある意識主体が自分の意思決定を 他の意識主体に依存させている機能的連関のことである。服従の階層(それは各種の社会組織に典型的に見られる)は、以前確認したように判断の階層の反照的規定であるから、前節で検討した四つのテーゼをここでも検討することができる。以下の四つは世間で常識となっている組織観である。

  1. 組織体の構成員の上下の服従関係とその組織体が服従する法制度的経済的その他の形式的規則の関係とは同じではない。つまり構成員が構成員に従うことと構成員が組織の規則に従うこととは同じではない。
  2. 服従関係を上昇していくと、もはや誰の部下でもない組織の長に至り、また逆にその関係を下降していくと、その下にもはや部下を持たない組織の下積みに至る。両者の間には天と地の差があり、決して上と下は合致することがない。
  3. 組織の上に行くにつれて支配者の数は少なくなり、一人へと収斂していく。下に行くと逆に被支配者の数は多くなり、多数へと拡散していく。つまり組織はヒエラルヒー構造を持っている。
  4. 組織の上に行くにしたがって、支配/服従の構造的関係から言っても、また数の上での希少性から言っても価値が高くなる。下に行くと逆に価値は低くなる。つまり組織は価値のヒエラルヒーを持っている。

A.このテーゼに関しては、まずもって部下と上司の関係が種と類の関係にあるのか否かを検討しなければならない。部下の(理論的ならびに実践的な)判断=包摂の妥当性が上司のそれに帰属するという点で、部下は上司に包摂されると言えなくはない。しかし言うまでもなく部下は上司「ではない」のだから、上司は部下の類概念ではない。その部下は、むしろ例えば「JR の社員」という類に包摂される。だが、「JR の社員」という類に包摂されるということは、JR の社員規則に従う、つまり直接には上司の指令に従うということに他ならない。JR の社員は自分の地位を構成する規則に服従することを通して「日本の鉄道運輸事業の遂行」なる JR の理念(目的)を実現するのである。この点からして、可能態としての質料が現実態としての形相を目的として運動すると観ずる古代哲学の存在論は理解できなくもない。組織における服従は組織の機能への服従である。JR の社長は JR の目的ではないから、ここに職階の服従モデルは変容を被る。

B.ここから2のテーゼも変容を被ることになる。組織の構成員は組織の長へと服従するのではなくて、組織の目的へと、つまり一般大衆の “下の” 欲求に服従する。株式会社の組織の頂点は株主であり、民主国家の主権は国民である。(君主主権の国家も、国民の支持を失うならやがては崩壊する運命にあるのだから、君主が国家組織の頂点にあるとは言えない。つまるところナポレオンは世界精神の体現者ではなくて理性の狡智に弄ばれる道具に過ぎず、真に歴史を造っていくのは不確定的全体としての人-間であるということである)。

C.支配の階層がたんに円環を成しているというだけではない。主と奴の関係の周知の転倒を思い起こすまでもなく、支配-服従のヴェクトルは反転しうる。(例えば従業員はまさに「従業」員であることを通してストライキその他の手段で雇用者を「服従」させることができる)。錯綜する服従の体系は抽象的に同一的な欲求と生産の個別的身体の体系に服従する。「私」は JR の社員として組織 JR に服従するが、「JR の社員」なる属性は、「家庭の父親」「ゴルフ同好会の会長」等々の他の(消費者/生産者としての)属性と共に「私」のもとに服従する。個別的な服従者へと服従者の服従が服従することが、当の服従の各私的数多性という意味で有限な《主体=実体のテーゼ》である。

D.最後に《価値=妥当性》の階層性の問題を《社会システム=服従》の問題として機能論的に考察する。古代哲学においては(プラトンのみならずアリストテレスにおいても[8])、イデアの階層が価値の階層と見なされていたが、我々は価値をイデア的に自存する実体概念としてではなく、目的被制約的な《機能的=関数的》概念として、したがってプラグマティックに理解された妥当性概念として捉える。価値の階層に《頂点》がないことは、これまでの類と種の階層についての分析から帰結することである。「手段価値は目的の価値を前提にしているがゆえに全ての価値は手段価値であることはありえない」と主張する人は、価値関係の拡散的円環構造を見抜いていない。すべての「良い」は「ある目的にとって(für)良い」または「ある目的として(als)良い」であり、それ自体で良いものなどない。究極目的に善自体が内存していて、それが手段へと流出してくるのではなくて、むしろ価値は目的との関係として存立するにすぎない。したがって善とは目的につまり目的を含んだ規則に服従することであり、悪しき服従は他の服従に基づいてのみ可能である。合規則性という点で価値と妥当性は一致する。

組織のヒエラルヒー性を解体した以上は、これに価値のヒエラルヒーを結び付けることはできない。組織の「上」はその組織の機能に占める割合の大きさからいって価値的にも「上」であるが、しかしひとたび組織外的な目的、例えば個人の自由時間という点では、一般に組織上部の職は拘束される勤務時間が多くなるから、価値的に低いということになろう。いやそもそも価値の階層そのものが解体されなければならない。例えばある科学者が、その才能を最大に発揮してノーベル賞を取ったとき、その精神的価値は肉体的生命的価値よりも高いとひとは考えるであろう。だがノーベル賞の価値はその定義からして人類への貢献であり、精神的価値が肉体的生命的価値に仕える形になっているから、前者が後者よりも高い価値であるとは言い難い。もし最高かつ究極的な価値があるとしたら、それは諸価値を統一する主体の機能にある。

3. 第三項 正当化=服従における主体

以上我々が得た結論は次の通りである。

  1. 正当化=服従としての包摂は、個体-種-類の包摂ではなくて、規則に従うということであり、
  2. そしてこの包摂には最上と最下はなく、むしろ円環を成してかつその包摂関係は逆転しうる。
  3. 拡散的な規則の体系は Subjekt へと包摂されるが、この Subjekt は有限で不確定的で、《他でありうる》=《他がありうる》から複数的である。
  4. そして同じことは価値のヒエラルヒーについても言える。なぜなら包摂=真理とは人間のシステムにおける機能論的・価値論的な妥当性にほかならないのだから。

包摂は常に「他のようにも」可能であるが、この可能性の排除(それはもちろん統制的原理にとどまるのだが)が正当化の必然性であり、服従の権力効果である。正当化は差し当り権力への服従とは無縁に見えるし、たとえ宗教裁判で生命の安全と引換に天動説を認めたとしても、それでも地球は回っているのだとひとは考えたくなる。しかしそれは、ひとがいま地動説の権力に服従しているからである。太陽が宇宙の中で静止しているかどうか分からないので、今日の我々は天動説も地動説もどちらも正しいとは考えないが、ただ太陽系内部の天体の運動を説明/計算する上で太陽を中心にすれば最も簡単にすることができるというプラグマティックな動機に基づいて、地動説を採用しているわけである。だから「正常科学 normal science」は「規範科学 normative science」でもある。

《当為=Should》は Can(これはたんに「… ができる」という能力の Can のみならず、「 … しないこともありうる」 という他の可能性の Can でもある)を imply するので、規範規則への包摂は判断においては他なる述定の排除であり、と同時に他者の他者性の排除(服従における意識の不等的同一化)である。 但し前にも述べたように、我々は他者にではなくて規則に服従するのだから、不等的同一化において不等性は消滅する。

だから《屈することで勝つ stoop to conquer》ということが言える。我々は自然に従うことによって自然を従える。これはベーコンが「知は力なり」と言うときの自然支配のモットーであった。あるいは「自然」を「本性」の意に解するなら、社会に従うことによって社会を従える。ひとはチェスゲームの規則に従うことなくしてチェスゲームの勝者になることはできないのである。もしもチェスゲームの規則に従わないなら、そのひとはチェスゲームをしていないのだからチェスゲームに負けることはない。しかしひとは端的に規則に従わないわけにはいかない。それゆえ服従することは服従しないことを服従するのである。

包摂の階層性の解体は包摂する主体へと包摂を包摂するが、その包摂には必然性がない、つまり他の包摂でありうる。そして私の包摂が他様でありうるということが、他者の包摂へと包摂されうるということである。主体は有限であるがゆえに複数でありうるわけだが、このように有限性を認識しうる主体は超越論的ではないのか、とひとは考えるかもしれない。

しかし超越論的主体は超越的ではない。それは超越可能性と超越不可能性の可能性の自己反省である。現在の超越論的意識もやがて過去の経験的意識へと沈下しうるという相対性は措くとしても、現時点での人類の類的意識が一個人の超越論的意識に集約されうるという超越性すら怪しいのである。例えば数学の天才が歴史的認識に疎く、歴史学に関しては博識を誇る学者に数学的洞察が欠けているというように、一個人の学的反省は超越論的認識を僭称することはできない。また諸個人の認識には、その当時の学的水準からしても偽なる認識があるから、諸個人の超越論的認識の総和が人類的規模の超越論的認識であるとも言えない。

してみると超越論的意識とは、誰かのではあるが誰のでもない意識、確定的には遍在も偏在もしないが、しかしそれゆえに不確定的には遍在し・かつ偏在するところの意識の総体性であるということになろう(偏在と遍在の字の違いに注意)。不確定的な包摂は、正当化の必然性を否定するので自己矛盾的に思われるかもしれないが、そうではない。要は、正当化の不確定性を自己関係的に自己正当化することなのである。

4. 参照情報

  1. Husserl, Edmund. Ideen zu einer reinen Phänomenologie und phänomenologischen Philosophie. Erstes Buch. “Allgemeine Einführung in die reine Phänomenologie". 1913. Husserliana, Edmund Husserl Gesammelte Werke, Bd. 3. Martinus Nijhoff. ed. Marly Biemel. p. 32.
  2. Kant, Immanuel. Kritik der reinen Vernunft. Felix Meiner Verlag (July 1, 1998). A.322=B.378.
  3. Husserl, Edmund. Ideen zu einer reinen Phänomenologie und phänomenologischen Philosophie. Erstes Buch. “Allgemeine Einführung in die reine Phänomenologie". 1913. Husserliana, Edmund Husserl Gesammelte Werke, Bd. 3. Martinus Nijhoff. ed. Marly Biemel. p. 31.
  4. Αριστοτέλης. Τὰ μετὰ τὰ φυσικά. アリストテレス. 『形而上学』 1959. 岩波書店. 出隆訳,1059b.
  5. Αριστοτέλης. Τὰ μετὰ τὰ φυσικά. アリストテレス. 『形而上学』 1959. 岩波書店. 出隆訳,1074a.
  6. Husserl, Edmund. Ideen zu einer reinen Phänomenologie und phänomenologischen Philosophie. Erstes Buch. “Allgemeine Einführung in die reine Phänomenologie". 1913. Husserliana, Edmund Husserl Gesammelte Werke, Bd. 3. Martinus Nijhoff. ed. Marly Biemel. p. 31.
  7. Hartmann, Nicolai. Ethik. 1926. Walter de Gruyter. p. 273.
  8. Αριστοτέλης. Τὰ μετὰ τὰ φυσικά. アリストテレス. 『形而上学』 1959. 岩波書店. 出隆訳,1075a.