天照大神とは誰か
『古事記』や『日本書紀 』(この二つを記紀という)によれば、天皇、そして日本民族の大御祖(おおみおや)は天照大神(あまてらすおおみかみ)である。天照大神は、いかなる歴史上の人物に相当するのだろうか。

1. 神話の中の天照大神
日本神話によれば、伊邪那岐命(いざなぎのみこと)と伊邪那美命(いざなみのみこと)が国土を整え、万物を育て、最後に天照大神(あまてらすおおみかみ)・月読命(つきよみのみこと)・須佐之男命(すさのおのみこと)の三貴子を生んだことになっている。高天原(たかまのはら)を治めた天照大神は、いよいよ皇孫(こそん)瓊々杵尊(ににぎのみこと)がこの国土に降りるとき、皇位の璽(しるし)を授け、「この鏡は、もはら我が御魂(みたま)として、吾が前を拝(いつ)くがごと拝き奉れ」と神勅を下したと言われる。瓊々杵尊(ににぎのみこと)の三代下の子孫が神武天皇とされている。
神話上の人物、天照大神は、実在の人物としては、『魏志倭人伝』に伝えられる邪馬台国の卑弥呼である可能性が最も高い。『日本書紀』は卑弥呼を神功皇后に比定しているが、卑弥呼の時代(3世紀前半)には、神功皇后が征討したとされる新羅も高句麗もまだ存在しなかったのだから、神功皇后とは、神武天皇の即位を紀元前600年代にまで引き伸ばした『日本書紀』の編者が、『魏志倭人伝』とつじつまを合わせるために捏造した架空の権力者と見るべきである。神功伝説と天照神話の間には構造上の類似性がある [倭の五王の謎―王権神話の謎を探る]。このことは、天照のモデルが、神功皇后のモデルと同様に、卑弥呼であったことを意味している。
読者の中には、「神話は、知的水準の低い古代人が勝手な想像で作ったのだから、史実としては信用できない」という方もおられるであろう。しかし勝手な想像で純然たる神話を作るということは、よほどの独創的天才でなければ不可能である。古代人は知的水準が低いというよりも個人の主体性を確立していないから、純粋なフィクションは作れないのである。記紀は国威発揚のために編集された官製の正史であるから、編集者の都合でかなり改竄されていることは確かだとしても、材料となった伝説は何らかの形で事実を反映しているはずである。ちょうど一見無意味に見える夢が、検閲によって歪められてはいるが、無意識の反映であるように。
2. 卑弥呼の語源は何か
卑弥呼は、当時の中国語の発音から推測すると、“pimiho”、狗奴国の男王・卑弥弓呼は“pimikuho”の音写であったと考えられる。当時のp音は現在のh音に相当する。h音は奈良時代の畿内には存在しないが、弥生時代の北九州では、中国大陸や朝鮮半島の言語の影響を受けて、h音がk音と等価な音として使われていたことが考えられる。現代の日本人が、“ビーナス”と“ヴィーナス”、“チモール”と“ティモール”を、音は異なるが意味は同じとして、両方を使うようなものである。
「卑弥弓呼」の意味について、『原始日本語はこうして出来た―擬音語仮説とホツマ文字の字源解明に基づく結論』の著者である大空照明さんに問うたところ、次のような回答を得た。私もこの解釈に賛成である。
岩波文庫の『魏志倭人伝』を編訳している石原さんは註の中で「ひこみこ」の誤りであろう、としています。卑弥呼を「ひめ(姫)みこ(命)」の縮約形と見て、男王を「ひこ(彦)みこ(命)」と解する説です。しかし、本当に「誤記」なのでしょうか。通常、「卑弥弓呼」は「ひみここ」又は「ひみくこ」と読むとされますが、私の単音節重視の解釈で行けば、ある程度の意味の推測ができます。
そもそも、「みこ」で、何故「巫女」の意味になるのでしょうか?『字訓』には「みこ」の項がありません。使用例となる古代文献がないのだと思います。しかし「みこと(命)」の項はあり、
尊貴な人の仰せ言をいう。「御言」の意味。
とあります。また、
「大君のみこと(命)」という用法よりも以前に、神託を意味する時期があったのではないかと思われる。
ともあります。私も、その通りだと思います。つまり、「みこ」の語源は「神」の「み」と言葉の「こ」で、「みこ(神言)」でありましょう。これなら「神の言葉を言う人」のことも、男女を問わず「みこ」と呼んだと推測しても無理がありません。勿論、「御子」も「みこ」と言ったでしょうから、混同はあったでしょうが。
「ひみこ」も「日の御子」の略称と解釈して、男女を問わず、太陽から王権を授権された王様の意味、つまり「地位」の呼び名であった可能性もあると思います。(天孫的な位置付けです)。勿論、シャーマンとして「日の神の言(葉を言う人)」=「ひ(日)み(神)こ(言)」の意味かもしれませんが。
では、「ひみここ」又は「ひみくこ」は何でしょうか。『字訓』の「く」の項には、「く(所・処)」とあり、「いずく(何処)」の「く」である、という説明が有ります。また、「もと、神聖な場所を指す語であったらしい」とも。この説を採るなら、(そして私はこれかなと思いますが)「ひみくこ」は「ひ(日の)み(神の)く(処)こ(言)」という意味になり、「日の神の聖所(聖殿)の言」転じて「それを宣(の)る人」の意味になります。であれば、「ひみくこ」も男女を問わない、日の神の神託をのべる治者の地位の名称である、との推察も可能になります。[1]
「ヒミコ」に対して男の国王は、「ヒコ」と呼ばれた。「ヒコ」には、彦という字が当てられることが多いが、「ヒコ」は「日子」なのかもしれない。天皇の家系は、太陽の子孫と信じられていたわけである。古代日本人は自分たちの国を「ワ」と呼んだが、倭あるいは和とは、輪や環のことであり、それは日輪、太陽の換喩でもある。卑弥呼のヒの語源をユーラシア大陸に求めると、シュメール語のピリグ(pirig 王)にまで辿り着く。王を意味する言葉を、太陽を表す言葉に使うのは、倭人の太陽崇拝のゆえである。
3. 天岩屋戸神話の解釈

卑弥呼と天照大神の共通点は、女性、それも太陽の女神であるということである。『魏志倭人伝』は、卑弥呼がシャーマンとしての性格を持っているということ、「鬼道につかえ、よく衆を惑わす」ことは書いているが、彼女が太陽の巫女(神子)だったとは書いていない。しかし卑弥呼と太陽との関係を強く示唆する事実が最近指摘されている。
天文学者によると、紀元前138年、158年、247年、248年、454年に日本で皆既日食が観測されたというのである。なおこれ以外にも部分日食は起きているが、部分日食は太陽が雲に隠れた程度の効果しかなく、古代人に与えた影響は大きくなかった。このうち邪馬台国と関係があるのは、158年、247年、248年の日食である。特に卑弥呼が死んだ頃、二回も皆既日食が起きていることは注目すべきことである[2]。
よく知られているように、天照には次のような天岩戸神話がある。天照の弟、素戔嗚尊(すさのをのみこと)が数々の乱暴をした時、天照はけがをし、怒って天岩屋戸に隠れてしまった。このため天下は暗闇となってしまった。
この時に、天照大神、驚動きたまひて、梭(ひ)を以て身を傷ましむ。これに由りて、いかりまして、すなわち天石窟に入りまして、磐戸を閉して幽り居しぬ。故、くにの内常闇にして、昼夜の相代も知らず。[3]
『古事記』では、「天の服織女見驚きて、梭に陰上(ほと)を衝きて死にき」とある。素戔嗚尊の乱暴で「天の服織女」が死んだということになっているが、この天の服織女は天照の分身と考えられる。
この箇所を根拠にして、陰部を箸で突いて死んだと伝えられている倭迹迹日百襲姫(やまとととひももそひめ)が天照大神、さらには卑弥呼であり、倭迹迹日百襲姫の墓である箸墓が「卑弥呼の墓」だと主張する人もいる。しかし、倭迹迹日百襲姫は、孝霊天皇の皇女にすぎず、皇祖的性格を持っていない。
天下が暗くなった後、八百万(やおよろず)の神々は、天宇受売(あめのうずめ)に歌舞をさせ、天宇受売が踊りながら陰部を露出させたのを見て大笑いした。ここに、笑いのカタルシスの働きを見ることができる。世界的に見て、笑いは豊饒儀礼と結びついている。また、笑いの祭りが行われる日は、同時に性の解禁日でもあり、祭りはそのまま男女のオルギーとなる。太陽の復活は、作物の豊作だけでなく、人間の豊作ももたらす。
天照が笑い声を怪しんで戸を少し開いたところを手力雄(たちからを)が強引に開けて彼女を引き出し、天下が再び明るくなったという話である。天照が岩宿から出てきて、太陽が再生することは、台与が卑弥呼の地位を引き継ぐことの隠喩である。
中には「天の岩戸神話は冬至の日における太陽再生儀式の神話化」と主張する人もいる。
毎年、冬至の日に、その年に新しく採れた穀物を神に供えて、「天照大神」及び天神地祇を奉り、天皇自らも新穀を食する「新嘗祭」が執り行われるが、このことから見ても、農耕と「天照大神」との密接な関係が推察される。[…]日の神たる「天照大神」を引き出すため、「天宇津女命」の踊りは、母なる大地が生殖力を再生し、停止していた性器が息吹を取り戻し、樹木の芽吹く春を迎える神事的所作で、また神々の笑いは、春を招く笑いの神事的所作なのである。[4]
だが、神話では、毎年定期的に行われる行事としてではなく、偶発的に起きた一回限りの事件として描かれているのだから、「太陽の死」は冬至ではなくて、日食と考える方が自然である。また、新嘗祭(今の勤労感謝の日)は、収穫に感謝する祭りであって、太陽再生が主題ではない。さらに、一般に言って、神話に基づいて儀式が行われるのであって、儀式に基づいて神話が作られるわけではない。その意味で、この仮説は本末転倒ではないだろうか。
4. 関連著作
5. 参照情報
- ↑大空照明. 永井への私信.
- ↑安本 美典. 『邪馬台国の真実―卑弥呼の死と大和朝廷の成立前夜』PHP研究所 (1997/03).
- ↑小島 憲之他.『新編日本古典文学全集 (2) 日本書紀 (1)』小学館 (1994/3/25).
- ↑「天の岩戸神話の真相」8 Oct 1999.
ディスカッション
コメント一覧
部分日食では、インパクトは小さいと思います。古代人がガラスに墨を塗って、テレビのニュースで部分日食があるぞと待ち構えて観察したとは思えないw 本文でも書かれていますが、やはり、卑弥呼=アマテラス説は、厳しくなったとしか言いようがありません。
で、私が気になったのは、卑弥呼に合致させるために、神功皇后を卑弥呼にしたというところです。
確かに、日本書紀の編纂者は、卑弥呼を神功皇后にすることで納得したように思います。だからこそ、神功皇后を卑弥呼の年代と近いところにぶつけたのでしょう。
ただし、神功皇后が卑弥呼と合わせるために作り出された架空の人物とは思えません。何故なら、二人はあまりにも経歴が違いすぎるから。
もし、卑弥呼に合わせるために架空の人物を作り上げるのなら、もっと似た人物を作るでしょう? 海外遠征し未亡人だった神功皇后と、倭国内限定の独身の卑弥呼、全く違う。しかも、日本書紀の編纂者は、神功皇后一人を、卑弥呼と台与の二人の女王にすることで、無理に納得している。卑弥呼は248年ごろ死んだのに、神功皇后はその後も生存している。架空の人物を作り出すのなら、二人の女王が必要だw
つまり、比較的に時代が近いところでは、神功皇后しか居なかったので、彼女の後の年代を水増しにして、神功皇后を卑弥呼・台与の二人にすることで納得した可能性が高い。
神功皇后は実在の人物だし、海外派兵も事実でしょう。架空の人物にしては、あまりにも日本各地に詳しく伝承が残りすぎている。
↓
日本書紀の編纂者は神功皇后を女王卑弥呼だと誤解した
http://yamatonokuni.seesaa.net/article/34349051.html
Fred Espenak の図が正確ならば、247年3月24日に、対馬では皆既日食が観測されたはずです。対馬国は当時邪馬台国の支配下にあったので、日食があったという事実は当時の邪馬台国の人々は認知したでしょう。また、このときの皆既日食は、朝鮮半島や中国でも観察されたわけですから、『日本書紀』の編者が、外国からの知識を活用したということも考えられます。
『日本書紀』の巻第二十二には「日有蝕尽之」というように、皆既日食について記載した箇所があります。すなわち、628年4月10日に日食が起こって、数日後に推古天皇(卑弥呼と同様に女性)が崩御したということになっています。このときの日食は、現在の計算では、部分日食だったと推定されているのですが、どうも『日本書紀』の編者は、《太陽の死》と《天皇の死》を結びつけることで、天皇が日神の化身だという印象を読者に与えようとしているようです。だから、実際には部分日食でしかなかったものを皆既日食のように大げさに書いたのでしょう。
ところで、現在、学会では、卑弥呼=ヤマトトトヒモモソヒメノミコト説が有力視されていますが、私は、この説には懐疑的です。ヤマトトトヒモモソヒメノミコトには、卑弥呼ほどの権力はありませんでした。当時の権力者は崇神天皇で、彼は、魏志の記事「有男弟佐治國」が伝えるような、ヤマトトトヒモモソヒメノミコトの補助役でもなければ弟でもありません。また「卑彌呼以死 大作冢 徑百余歩」から、卑弥呼の墓は前方後円墳ではなくて円墳で、死後作ったものだから大きくはないということがわかります。箸墓は、卑弥呼の墓ではないでしょう。
私は、ナルトという、週間少年ジャンプの漫画で天照と月読のことを知り、知ってみたくなり、調べた、27才です。こんな、歴史があるなんて初めて知りました。
はじめまして。天照大神 で検索したところたどり着きました。天照大神は男神であったのを無理に女神に変更したと推察されます。詳細は私のブログ2007年8月記事広田神社、他で記しております。一つの推論です。
私の出身の因幡、八上にも天照大神の伝承が残っていますが、そこでは天照大神は冠を召されていたことになり、男神として認識されています。后神といわれる瀬織津姫の社も、天照大神の関連の地を意識した場所に位置しています。ホツマの記述は他にも因幡、八上のさまざまな神話伝承と符合することが多くあります。
京都の祇園祭においては、あたかも七夕物語のごとく、年に1回の祭りにおいて男神天照大神と后である瀬織津姫が本当のお姿をして現れているように思えます。この件に関しても2008年7月の記事で紹介しております。
日本神話に登場する神々は、日本人の祖先神と思われますが、それぞれの神々の本当のご業績は、藤原氏が躍起になってかき消そうとしたのではないかと思われます。
天照大神は女神でしょう
私の主張する結論だけ述べて、理由は後日ということにしていただきたい。
卑弥呼と天昇大神とは「時代性」が大きく違う。
歴史的事実とは何か、についての共通性がなければ歴史上の事件について
「嘘か真」かは語るのに骨が折れる。
もしかしたら、平行線もあり得る。
から。
記紀成立1300年を前に、古代史に興味をもったにわかマニアです。
6~7世紀の皇統譜を見ていて気づいたのですが、推古天皇から文武天皇までの系譜が天照大神から神武天皇までの関係に酷似しているのです。
推古を天照になぞらえた時、押坂彦人皇子は天忍穂耳に、舒明はニニギに、天智(大友皇子)と天武の兄弟は海幸彦と山幸彦に、天武の妻持統が産んだ草壁皇子の妻は持統の妹元明がなりますが、これは山幸彦の妻に豊玉姫が、その間に生まれたウガヤフキアエズの妻に豊玉姫の妹玉依姫がなり、そこから生まれたのが神武(文武)になる、というわけです。
彦人皇子と忍穂耳に共通する影の薄さ、兄弟の確執、妹が子供の妻になるというこれらの要素が当てはまる例は他に見当たりません。
思うに推古を天照に例えるのはその義理の孫にあたる舒明だろうと考えられるだろうし、文武を神武に例えて皇位につくことを正当化しようと図るのは、その母である元明と考えるのが適当でしょう。
記紀が編纂された時代の天皇が元明であることを思えばそれまでに伝わっていた神話を自分たちに都合よく改ざんさせたのだ、と思えてなりません。
また、乙巳の変の際焼失を免れたという国記や、天武が誤りが多いとして修史を命じたとされる旧辞は、記紀編纂の資料となった筈ですが、いつ失われたのか記紀以降の史書にも記されていないのは不自然です。
記録に残さないのは隠したいからで、残してしまうと昔から伝わる本来の神話がばれてしまうので秘密裏に処分する必要があったのでしょう。
記紀にある天照を女神とする神話は、舒明前後の天皇たちが改ざんを繰り返した結果のものなのではないのでしょうか。
それに関しては、「アマテラスの誕生」で取り上げたので、そちらを参照してください。
7月22日の皆既日食をTVで見ておもったのですが あたり一面暗くなるというのは月が真上を通過する 数キロ幅のライン上だけでした だとすると古代158年247年248年に皆既日食が通過した ラインを割り出し日本地図にあてはめれば おおよその 邪馬台国が 分かるのではないでしょうか? このコメントを見て興味を持ち何かわかりましたら ぜひペンネームのアドレスまで一報をお願いします・・ラインを自力で割り出せない者より
247年3月24日に、対馬では皆既日食が観測されたようです。畿内説の論者も九州説の論者も、対馬国が邪馬台国の支配下にあったことに異論を唱えていませんから、このことは、邪馬台国の所在には手掛かりを与えません。