10月 051999
 

社会主義の崩壊により、市場経済の勝利が宣言され、90年代の中頃まで、日本でも、規制緩和と小さな政府を望む声が大きかった。それなのに、なぜ、90年代の後半から、市場原理主義批判が高まったのか。市場原理主義批判は本当に正しいのだろうか。

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司会: みなさんこんばんは。「朝まで生読書」の時間となりました。今日は「激論!市場原理は至上原理か?」と題しまして、冷戦後グローバルに広がっている市場経済の是非や、小さな政府と大きな政府のどちらが望ましいかという政治のあり方について、三人の論客に論じてもらうことにします。まず社会主義者さんからどうぞ。

社会: ソ連の崩壊で冷戦が終わった頃は、「社会主義は死んだ」「これからは市場経済の時代だ」と人々は思った。でも97年のアジア経済危機や98年のロシア金融危機に象徴されるように、グローバル経済が破綻し始め、ヨーロッパで社会民主主義政権が続々と誕生している今、小さな政府はもう時代遅れで、大きな政府こそ世界の潮流だという認識を持たなければならない。

自由: ヨーロッパの社会民主主義政権は、日本の村山内閣と同様、伝統的社会主義を放棄することで政権を獲得している。その典型が、1997年に成立したイギリスのブレア労働党内閣だ。1992年にメージャー保守党政権がポンド防衛のために市場介入しようとして失敗した時には、国民は失望した。あれは小さな政府がやるべきことではない。おかげで「市場経済に強い」という保守党の威信が地に落ちた。

司会: たしかに労働党は、たんに若手や女性が多いというイメージ戦略で保守党に勝てただけで、選挙戦では政策論争がほとんどなかったですね。

自由: イギリス人は今でも大半は市場原理を肯定している。だからブレア首相は、党内左派の鉄道の再国営化要求を拒否し、フィナンシャルタイムズが評したように、「実質的にサッチャーの手法を追及」している。彼は、保守党が進めた労働市場の弾力化を高く評価し、公共投資による完全雇用を目指すことはしないと欧州社民党大会で演説したが、実際に社会保障給付の資格審査を強化し、給付額を削減するなど小さな政府を目指す政策を進めている。社民イコール福祉国家でない好例がニュージーランドだ。ニュージーランドは西側世界最初の完備した社会保障制度を確立した国として知られるが、大胆な国営企業の民営化と弱者保護規制の撤廃を進めて福祉国家と決別したのは、なんと中道左派の労働党だった。

社会: イギリスやアメリカやニュージーランドなどのアングロサクソン系諸国が市場経済に対する厚い信仰を持っているのはうなずけるが、ヨーロッパ大陸諸国の社会民主主義は本物と言えないか。

自由: フランスでは1997年にジュッペからジョスパンに首相が変わったが、通信や航空などを民営化するなど、保守系の前政権以上に民営化を進めた。98年にはドイツでシュレーダー政権が誕生したが、こちらも法人税を軽減し、福祉予算を削減するなど、小さな政府を目指している。筋金入りの社会民主主義者と言われたラフォンテーヌ蔵相兼社会民主党党首が組閣後半年で蔵相と党首の職を辞任せざるをえなかったことは、シュレーダー政権の性格をよく物語っている。98年にイタリアの首相になったダレーマは、左翼民主党、かつての共産党の党首だが、今では国営企業民営化を主張し、開かれた資本主義と競争社会を標榜している。

社会: でも福祉国家を最初に否定した政治家は、サッチャー・レーガン・中曽根といったタカ派の新保守主義者だ。最近の社民政権が節操のないことをやっていることは確かだが、すべてを市場原理に委ねようとする新自由主義の本流は君たちのような右派の保守主義者だ。

国家: 「君たち」とは何だ。ぼくは社会主義的悪平等には反対だが、国家の否定につながる自由主義には反対だ。投機家たちのマネーゲームに国家の命運を委ねることはできない。特に現在のように、日本が厳しい経済環境のもとにあるときには、国難を乗り切るために、政府による強い統制が必要だ。

自由: そもそも小さな政府を批判するときの「右派」とか「新保守主義」とかいった言葉はミスリーディングだ。私は右翼ではないし、古いシステムを「保守」しようとしているわけではない。新自由主義という名前も、リベラリズムはイギリスとアメリカで意味が正反対だから使うべきではない。保守主義という言葉だって、旧共産圏では、西側資本主義諸国とは正反対の意味で使われるから内容空虚なんだけれどもね。一番誤解の少ない名称は、市場原理至上主義ではないかな。

それにしても「サッチャー・レーガン・中曽根」というのは、日本の左翼にはお気に入りの人選のようだね。どうしてこの3人に加えてドイツのコールが入らないのか不思議に思っていたのだけれども、要は《新保守主義=好戦的タカ派=悪いやつ》という印象を大衆に植え付けたかったからのようだ。でも例えば、軍事費を増やして景気浮揚を試みるレーガノミックスはケインズ的で、あれは小さな政府のするべきことではない。彼の「強いアメリカ」の演出は、小さな政府とは関係がない。

国家: アメリカでは、左派でないという理由だけで市場原理至上主義者を右派と呼んでいるが、本来のアメリカの右派は、「家族の価値」や移民排斥を主張する保守主義者だ。グローバルな市場経済が伝統的な文化を破壊したり、労働力が国境を超えて自由に移動することに対して、右派はむしろ反対している。

自由: 右派の典型であるヒットラーは、個人主義者でもなければ自由主義者でもなかった。共産主義者の中には、ヒットラーが資本家階級の利益を代弁していたと誤解している人が多いが、ヒットラーが目指していたことは共産主義者と同じで、世界恐慌で苦しむドイツの労働者を救済することだった。ナチの党名に社会主義が入っているのはそのためだ。ヒットラーは政権につくと、アウトバーンや住宅の建設などのケインズ的な公共投資をアメリカのニューディールに先立って行い、失業問題の解消に成功した。ヒットラーは明らかに総需要政策で景気を回復させる大きな政府を目指していたわけだ。ハイエクがかつて指摘したように、自由な市場経済や個人主義を否定するという点で、国家主義と社会主義は同じ地平上にある。

国家: こんなやつと一緒だなんて不愉快だ。

社会: それはこっちのせりふだ。社会主義という観点からすれば、国家主義も自由主義もともに競争社会を肯定し、平等を否定するという点で同じ地平上にある。あるのは競争主体が国家か個人かの違いだけだ。

自由: 小さな政府は、競争結果の平等は保証しないが、競争条件の平等、つまり機会均等は保証する。市場原理の理念は平等ではなく公平だ。

司会: 三人の思想的違いはだいたいわかりました。本題に戻りたいのですが、ケインズ革命以来、古典派経済学のレッセフェールの理念が一度否定されたにもかかわらず、なぜ今福祉国家や共産主義国家などの大きな政府がうまく行かなくなり、小さな政府に戻す必要が出てきたのか、自由主義者さんはどのように認識していますか。

自由: 大きな政府が望ましいか小さな政府が望ましいかは、市場が数量調節的であるか価格調節的であるかによって決まる。アダム・スミスのような古典派経済学者が、自由放任でも神の見えざる手が働くと考えた頃、ヨーロッパの市場に出回っていた商品の大半は農作物だった。農作物は普通保存がきかないから、売り手は、売れなければ値段を下げてでも売り尽くそうとする。また当時は労働組合などなかったから、資本家は賃金を自由に決めることができた。このように価格伸縮性に富む市場では、国家が余計なことをしなくても、過剰在庫や過剰失業は自動的に解消される。

ところが工業化が進み、商品の長期保存が可能になると、生産者は価格を下げることによってではなく、生産量を縮小することによって不況に対応しようとする。労働組合は労働者の生活を保証するために最低賃金を守らせようとするから、生産が縮小すれば、失業者の数が増加し、有効需要が減少し、不況がさらに深刻化するという悪循環になる。この悪循環を断ち切るためには、政府が公共投資を増大させる必要がある。

社会: そんなことはケインズやヒックスがすでに認識していたことだ。君が大きな政府を小さくするべきだと主張しているのは、工業社会の価格硬直的システムが崩壊したからだと言いたいのか。

自由: そうだ。公式的に言うと、市場経済が農業社会的段階にあるときには小さな政府が、工業社会的段階では大きな政府が、情報社会的段階では小さな政府が有効だ。情報革命が市場経済を復活させたといってよい。

国家: おいおい本当に工業社会の時代は終わったのか。コンピューターも携帯電話も工業製品だよ。情報革命で脱工業化が進むなんてうそだ。日本経済を支えるのはこれからも製造業だ。だいたいアメリカが情報革命を言い出したのは、製造業の分野でアメリカが日本に負け出したからだ。アメリカが国際的な著作権の保護を主張したり、金融のグローバリゼイションを要求するのは、比較優位のある情報産業や金融業で勝負をするためだったのではないのか。自分の都合の良いようにルールを変え、それをグローバル・スタンダードとして押し付けてくるアメリカの戦略に追従するなんて芸のない話だ。

自由: 世界で最初に情報革命に成功したのは、ほかならぬ日本だ。工業社会と情報社会との違いは、ハードウェアを作っているのかソフトウェアを作っているのかといった生産物の違いではなく、生産様式の相違であって、農業社会とは第一次産業が中心の社会、工業社会とは第二次産業が中心の社会、情報社会とは第三次産業が中心の社会というような分類は皮相だ。工業革命によって農業が重要でなくなるわけでないように、情報革命によって製造業が重要でなくなるわけではない。ただ生産形態が変わる。

農業を例にとって、これまで人類史上に現れた三つの種類の社会で、生産様式がどのように異なるのか説明しよう。農業社会の農業は、人間や家畜の肉体的エネルギーを主要な動力源とする労働集約的産業だった。工業社会では、たんに農業従業者の割合が減少するだけでなく、産業革命以来の機械制大工業が、すべての生産の模範(パラダイム)となる。つまり農業も、トラクターで耕作したり、飛行機で農薬を散布したりするなど、工業化し、資本集約的産業となる。その結果、農業労働者数との対比での生産量は増大する。情報社会における農業では、いかに食料を安く大量に生産するかではなくて、いかに様々な良い品種を開発して消費者の多様な好みに合わせるかが問題となるので、バイオテクノロジーやマーケット情報の調査に力が入れられる。このように情報社会では、農業や工業を含めてすべての産業が知識集約的産業となる。

社会: さっき君は、価格硬直的経済と価格伸縮的経済との違いを、保存が可能かどうかという商品の物理的違いで説明したが、君自身農業社会と工業社会の違いを生産様式ではなく生産物で説明していないか。

自由: 農業社会における農作物、工業社会における鉄鋼、情報社会におけるデジタルコンテンツなど各時代における花形商品は、それぞれの時代の産業形態を具体的に説明する上で便利だから引用するまでのことさ。いったん工業社会が成立すると農作物の値段までが政府の補助金で「公正価格」に固定されてしまう。そうした価格硬直的経済は1970年代あたりから揺らぎだした。背景としては、

  1. 1971年にブレトンウッズ体制が崩壊し、73年から為替レートが変動相場制になった。そのため輸入品の物価は、自国通貨で換算すると分単位で変動するようになる。
  2. 流通革命によって価格破壊が進み、スーパーや通販では希望小売価格以下での販売が当たり前となった。メーカーの中にはオープン価格で販売するところも出てきた。
  3. モデルチェンジの周期が短くなり、新発売から時間がたった家電製品は、生鮮野菜のように値段を下げるようになった。例えばパソコンは半年で値段が半分になる。
  4. 給与に占める能力給のウェートが増えつつある。派遣社員などよりフレキシブルな賃金体系の職種も増え、全体として労働商品の価格も伸縮的となってきている。
  5. 将来オンライン上でデジタルコンテンツ商品がダウンロードできるようになると、消費者が複製をするわけであるから、生産者側からすれば、もはや数量調節という概念自体が意味をなさなくなる。

といった現象を挙げることができる。

社会: 五番目は情報社会との関係が明らかだが、それ以外は情報革命とどう関係するのか。また価格が伸縮的になることには歴史的必然性があるのか。

自由: ウェーバーが言うように、資本主義の精神は、計算可能な、つまり予測可能な目的合理性に基づき、生産と貯蓄に励むことにある。原料費や人件費は定額で固定したほうが画一的製品を大量生産するには都合がよい。ところが工業革命以来、量的拡大再生産を続けてきた工業社会は、資源問題と環境問題が表面化した1970年代に挫折した。これをきっかけに産業の目標が量的拡大から質的向上へ転換する。わかりやすい例を挙げると、人は空腹の時には一枚のパンより二枚のパンを望むが、量的拡大が限界に達すると、今度はおいしいパンを食べたいというように質を求めるようになる。

モデルチェンジの周期が短くなるのは、消費者が質にこだわるからだ。質を重視するなら、選択の自由を広げなければならない。以前は近くの商店街にしか行かなかった人が、自分にあった商品を探すために、自動車で郊外のスーパーまで出かけたり、通販で商品を購入したりする。欲望が多様化すれば、生産者側も商品の差別化を行わなければならない。労働商品も差別化される。生産者が得意分野に特化すると、グローバルな分業が進む。グローバリゼイションが広がると国境を超えるマネーの量が増大し、中央銀行は為替相場を固定することができなくなる。だから為替相場は変動制にならざるを得ない。変動為替相場制のもとでは、輸入制限などの保護主義的な貿易制度は無効だから、グローバルな分業はさらに加速する。

社会: 固定為替相場が崩壊したのは、アメリカの輸出競争力が低下して、ドルに対する信頼が失われたからだ。情報革命なんて関係ない。

自由: もし世界恐慌以来のブロック経済が現在まで続いていて、国境を超えた資金の移動が少ないなら、基軸通貨がなくても金為替本位制でレートを固定することができるはずだ。それができない背景には経済のグローバル化がある。

国家: 世界で最初に情報革命に成功したのが日本で、現在が情報社会であると君はさっき言ったが、ではなぜ日本経済は今こんなに不調なのか。

自由: 情報社会の時代では、研究開発に最も多く投資した国が、ヘゲモニーを獲得できる。オイルショック以降、研究開発に最も多く投資したのはアメリカで、その次が日本だった。ところがアメリカでは、軍事関係が研究開発費の多くを占めていたので、非軍事分野では日本がトップだった。だから日本は石油危機を克服し、80年代には世界の技術革新をリードすることができた。80年代の日本の成功は、日本的経営の優位に基づくと考えている人がいるが、それは誤解だ。90年代になると冷戦が終結し、アメリカでは国防省が大規模なリストラを行うようになる。その結果、軍事産業の最先端の技術と優秀な人材が民間に流出し、これが、軍事的負担の軽減とともにアメリカの優位をもたらした。インターネットや携帯電話のCDMAなどは、もともと軍事技術としてアメリカで開発されたものだ。他方日本は80年代の後半から、不動産という《物への投資》にのめりこみ、《知への投資》を怠るようになった。今政府が行っている公共投資も《物への投資》であって、《知への投資》ではない。これが日本の国際競争力が落ちてきている原因だ。日本では、従来型公共事業をやめて新型社会資本の整備にもっと力を注ぐべきだという議論が盛んになってきているが、官主導で情報革命を起こそうという発想自体が古い。

社会: 情報革命が起きているのは、先進国のごく一部の地域で、現在の発展途上国は、かつての日本と同様に、農業社会から工業社会への発展途上にある。当時の日本で大きな政府が成功したのだから、今の発展途上国には大きな政府のほうがよいのではないか。

自由: 発展段階の格差は、閉鎖系としての各国の経済システムに偶然的に現れるのではなく、中心/周縁という権力的な差異を伴ったグローバルな分業の結果として現れる。つまり、日米欧などの先進諸国=中心において、技術革新の結果、付加価値が低くなった製造業の空洞化が、発展途上国という周縁における工業化を引き起こしているわけだ。発展途上国の工業化は、一見、南北格差を縮小させる働きがあるように見えるが、実際には雁行形態における分業的な格差の固定にしかならない。

社会: 農業国がいきなり情報社会になるのは不可能だ。まず工業化からはじめるのが順番というものだ。

自由: そういう発展段階論こそ、各国経済を閉鎖系と誤認している証拠だ。アイルランドは、農業社会からいきなり情報社会に「飛び級」した。アメリカのIT産業が、英語のできる安い人材が多数いるという理由で、ヨーロッパ進出の拠点としてアイルランドに投資した結果だ。今ではアイルランドはヨーロッパ有数の経済優等生だ。発展途上国の人々を先進国の惨めな下請けから解放するために必要なことは、OECD予算を橋やダムの建設にではなくて、教育、特に初等中等教育に使い、かつグローバルな労働市場を流動化することだ。そうしなければ、発展途上国に生まれた人々は、いつまでたっても高収益な仕事につくことができない。発展途上国には、その「発展段階」にふさわしい開発独裁体制が適切であるという主張には賛成できない。

社会: 問題はある特定の地域が「経済優等生」になりうるとしても、同時にそれが他の「経済劣等生」との関わりにおいてしか存立しえないと言うことだ。というのは資本の増殖のためには、経済的発展の地域的不均衡が必要であり、「優等生」は必然的に安価な原料・安価な「下請け」労働力等を供給する「劣等生」を求め、固定化するだろうからだ。あなたは教育への投資と労働市場のグローバル化によって世界的な機会均等を達成すべきだと考えているようだが、そうした施策も資本の要請に従って成されるである以上、経済効率のいい限定された地域に集中されるだろうし、「優等生」リストの入れ替えといった枠を超えて真にグローバルな機会均等を実現するかどうか疑問だ。結局南北問題の解決のためには、世界資本主義の中心-周縁構造自体の是正を考えなければならないのではないか。

自由: 自由主義の理想は、労働力、商品、資本、情報といった経済活動の要素が、自由に移動できるグローバリゼーションだ。もし私たちがどこに生まれても、学校や職場をグローバルな選択範囲で自由に選ぶことができるとするならば、そして「よそ者」であることのデメリットが何もないならば、世界の各地に地域差があることは何も問題ではない。むしろ地球全体が金太郎飴みたいに画一化されているよりも、地域差があった方が選択の自由が増えるといっても良いぐらいだ。しかし実際には移民や移住の自由は制限されていて、多くの人は、たまたま生まれた地域に一生拘束されつづけている。そのため地域の不平等が人間の不平等と同一視され、地域間格差があたかも社会的不正義であるかのように誤解される。南北問題を解決するためには、まず労働力、商品、資本、情報のグローバルな自由化から始めなければならない。一時的に先進国に人口が集中するだろうが、そうすると先進国の地価が上昇し、コストが高くなるので、生産拠点の海外移転が始まる。すなわち、グローバリゼーションが進むと、世界で最もコストが安いところに投資がなされるので、地域間の不当な貧富の格差は是正される。教育への公的投資によって、個人レベルでの貧富の格差がなくなるわけではないが、機会の平等は保証される。社会正義にとって重要なことは結果の平等ではなくて公平さなのだ。

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  5 コメント

  1. 永井さんは市場原理至上主義の立場でいらっしゃいますが、わたしも経済がうまく機能するためにはできるだけ小さな政府が望ましいと考えております。しかしそれは全ての国家を対象にはできないのではないかと思います。開発経済について以前、青木昌彦氏が述べられていた中にでてきた market enhancing view(市場補完論)で「経済の発展段階によって政府の役割は変化する」と書かれていたのをちょっと読んだことがあります。前回のメルマガで情報産業時代は知識集約型であり、この場合は小さな政府が望ましいと書かれていましたが、開発途上にある国でも、開発するうえで知識集約的産業は成立するのでしょうか?ある発展途上国の土台作りまでの段階では、小さな政府はむしろ妨げになるのではないでしょうか?

  2. 私は、市場原理が超歴史的に望ましいシステムであるとは思っていません。もし私が50年前の日本に生まれていたとするならば、資本集約的な重化学工業を育成するために、大きな政府(福祉国家)の理念に賛成していたことでしょう。1973年以降時代が変わりました。今は小さな政府の時代です。それでも、市場原理は超国境的に望ましいシステムではないと言う人もいます。
    「現在の発展途上国は、かつての日本と同じ発展段階にある。かつての日本で開発独裁的な大きな政府が成功したのだから、今の発展途上国には開発独裁的な大きな政府がベストである。」こうした考え方をする人がしばしば見落としている点は、発展段階の格差は、閉鎖系としての各国の経済システムに偶然的に現れるのではなく、中心/周縁という権力的な差異を伴ったグローバルな分業の結果として現れるということです。日米欧などの先進諸国=中心において、技術革新の結果、付加価値が低くなった製造業の空洞化が、発展途上国という周縁における工業化を引き起こしているわけです。発展途上国の工業化は、一見、南北格差を縮小させる働きがあるように見えますが、実際には雁行形態における分業的な格差の固定にしかならないのです。もちろん中には、「農業国がいきなり情報社会になるのは不可能だ。まず工業化からはじめるのが順番というものだ」と言う人もいるでしょう。
    しかしこうした議論こそ、各国経済を閉鎖系と誤認している証拠です。アイルランドは、農業社会からいきなり情報社会に「飛び級」しました。アメリカのIT産業が、英語のできる安い人材が多数いるという理由で、ヨーロッパ進出の拠点としてアイルランドに投資した結果です。今ではアイルランドはヨーロッパ有数の経済優等生です。発展途上国の人々を先進国の惨めな下請けから解放するために必要なことは、OECD予算を橋やダムの建設にではなくて、教育、特に初等中等教育に使い、かつグローバルな労働市場を流動化することです。そうしなければ、発展途上国に生まれた人々は、いつまでたっても高収益な仕事につくことができません。以上の理由から、発展途上国には、その「発展段階」にふさわしい開発独裁体制が適切であるという主張には賛成できません。

  3. お忙しい中、ご丁寧なお返事をいただきましてありがとうございました。前回、社会主義についてわたしがメールをしたときもとても丁寧にわかりやすく説明していただいてどうもありがとうございました。今回のお返事を読みまして、各国経済が連鎖して国が発展していくのだということに改めて気づかされました。確かに、冷静になって考えてみると、そうですね。もうちょっと理論と現実の経済の動きがつながるような勉強の仕方をしなくては、と思います。

  4. カントの「判断力批判」についてサーチする中で永井さんのホームページに出会い、その該博な知識とデータに裏付けられた論証の精緻さに感嘆いたしました。これからも愛読させていただきたいと思います。
    ところで、市場原理についての論争を、興味を持って拝見するうち、ひとつご意見を伺いたくなりました。それは南北問題に関する事柄です。掲示板の中に「飛び級」を行った「経済優等生」としてアイルランドについての指摘がありましたね。しかし問題はある特定の地域が「経済優等生」になりうるとしても、同時にそれが他の「経済劣等生」との関わりにおいてしか存立しえないと言うことです。というのは資本の増殖のためには、経済的発展の地域的不均衡が必要であり、「優等生」は必然的に安価な原料・安価な「下請け」労働力等を供給する「劣等生」を求め、固定化するだろうからです。
    永井さんは教育への投資と労働市場のグローバル化によって世界的な機会均等を達成すべきだと考えておられるようですが、そうした施策も資本の要請に従って成されるである以上、経済効率のいい限定された地域に集中されるだろうし、「優等生」リストの入れ替えといった枠を超えて真にグローバルな機会均等を実現するかどうか疑問です。結局南北問題の解決のためには、世界資本主義の中心-周縁構造自体の是正を考えなければならないのではないでしょうか。
    市場が、現在人類が知っているもっとも効率的に資源の分配を行うシステムであったとしても、現在その平等性は主に国家の枠内にとどまっており、国家間の格差を維持しつづけるという側面も無視することはできません。こうした観点は当然マルクス主義者の側から出されるべきだったのでしょうが、論争において「社会」氏は社会主義者と言うよりは社民主義者であり統制経済主義者であったために、そのような発言はなかったようです。
    私自身経済には素人であり、明確な考えを持っているわけではありませんが、少なくとも統制経済よりは市場原理の方が望ましいと考えています。しかし一方、市場原理(というよりは資本主義)によっては内在的に解決できない問題のひとつが南北格差ではないかとも思います。永井さんはいかが思われますか。

  5. 自由主義の理想は、労働力、商品、資本、情報といった経済活動の要素が、自由に移動できるグローバリゼーションです。もし私たちがどこに生まれても、学校や職場をグローバルな選択範囲で自由に選ぶことができるとするならば、そして「よそ者」であることのデメリットが何もないならば、世界の各地に地域差があることは何も問題ではないはずです。むしろ地球全体が金太郎飴みたいに画一化されているよりも、地域差があった方が選択の自由が増えるといっても良いぐらいです。
    しかし実際には移民や移住の自由は制限されていて、多くの人は、たまたま生まれた地域に一生拘束されつづけます。そのため地域の不平等が人間の不平等と同一視され、地域間格差があたかも社会的不正義であるかのように誤解されるわけです。南北問題を解決するためには、まず労働力、商品、資本、情報のグローバルな自由化から始めなければなりません。そうすると一時的に先進国に人口が集中するでしょうが、先進国の地価が上昇し、コストが高くなるので、生産拠点の海外移転が始まります。すなわち、グローバリゼーションが進むと、世界で最もコストが安いところに投資がなされるので、地域間の不当な貧富の格差は是正されます。
    もちろん人口移動による都市や先進国のスラム化は望ましくないし、そのためにも、教育への公的投資が必要なわけです。教育への公的投資によって、個人レベルでの貧富の格差がなくなるわけではありませんが、機会の平等は保証されます。社会正義にとって重要なことは結果の平等ではなくて公平さではないでしょうか。

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