10月 061999
 

市場原理は競争原理と同じなのか。市場原理は、富の不平等に反するから、民主主義を破壊するのか。政治的には、左に対する右なのか。市場原理に関する様々な俗説を検討する。

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司会: 外国の話は別として、日本では、小さな政府が望ましいと考える政治家が多いようです。経済戦略会議は、日本を「健全で創造的な競争社会」にするべきだと勧告していますが、みなさんはどのように思われますか。

社会: 「健全な競争社会」なんて形容矛盾だ。人類は、無慈悲な弱肉強食の競争社会を克服して平等な福祉国家を築いてきた。市場原理至上主義のもと、力と金の論理がまかり通ることになれば、長年にわたって人権の保護を求めて獲得してきた進歩の成果を捨て去り、ジャングル的な野蛮さに後退してしまうことになる。助けあいの精神を失い、他人を蹴落とすことしか考えない社会のどこが健全なのか。

自由: 市場原理にとって、競争は必要条件だが、十分条件ではない。競争には、市場競争以外に、次のような競争があるからだ。

  1. 例えば、戦国大名が領土を奪い合う競争は、企業が市場のシェアを奪い合う競争とよく似ているが、前者は後者と違って、相互選択による決定メカニズムがないので市場競争ではない。もしも、ちょうど消費者が商品を選択する自由があるように、係争地の住民が投票で領土の帰属を決めることできるのなら、市場原理が機能していると言えるが、戦国大名にとって百姓は家畜同然の存在であって、勝負はたんなる力と力のぶつかり合いによって決まる。
  2. また茶坊主たちが揉み手をしながら出世を競い合い、「こやつ、ういやつぢゃ」と言う主人の一存で勝負が決まる競争は、市場原理に基づく競争ではない。一人の人間の意思で全体をコントロールできないところに市場の特徴がある。銀行のMOF担が、少しでも有利な取り計らいに与かろうと先を争って大蔵官僚に接待攻勢をかける競争は、ビッグバンで求められる競争とは種類が異なる。

市場原理を導入すると、平和な無競争社会が競争社会になると思っている人が多いが、これは間違いである。人間の社会が競争社会でなかったことはこれまで一度もなかった。市場原理を導入する効果は、戦国大名の競争や茶坊主の競争などの不健全な競争を健全な競争にするところにある。「健全で創造的な競争社会」の「健全で創造的な」という修飾語句はだてに付いているわけでない。

社会: 市場経済が熾烈な競争社会であることには変わりがないではないか。すべてを市場原理に委ねると弱者が切捨てられ、民主主義が破壊される。アメリカのように貧富の格差が極端に開くことは日本の風土に合わない。政府が所得の再分配によって平等を守らなければ、健全な民主主義が育たない。

自由: 経済的平等は民主主義の必要条件でもなければ十分条件でもない。共産主義的独裁者が、独裁的権力で反対者を抹殺して経済的に平等な社会を作っても、それは民主主義社会とは言えない。逆に経済的不平等が公正な競争の結果であると民主主義的手続きで是認されている社会は、独裁的ではない。民主主義の必要十分条件は、政治的平等であって、経済的平等ではない。

社会: 民主主義という政治的原理と市場原理という経済的原理は区別しろと言いたいのか。

自由: 違う。市場原理とは民主主義そのものだ。市場経済では、人気商品は、消費者の購入という投票で決まる。このメカニズムは、権力者が規制や補助金を使って特定商品を消費者に押し付ける場合よりも民主主義的ではないか。そもそも歴史的経過からすれば、近代民主主義は、市場原理を政治の世界に応用することによって誕生した。今日の民主主義社会の市民は、自分たちは税金を払っている以上、政治に口出す権利があり、また為政者が民意に反するときには、別の候補を為政者に選ぶ権利がある、このことを当然だと思っている。しかし市民革命以前は誰もそう考えなかった。権力者は強盗と同じで、武力で農民を脅して税を巻き上げるだけ。税をどう使うかは権力者の勝手だ。ところが市場経済が発達してくると、財だけでなく、土地や労働力そして国家までが商品化されてくる。複数の候補者から有権者が行政サービス提供者を選び、選んだ行政サービスへの対価として税金を払うというのはまさに国家の商品化だ。実際、近代議会が成立した当初は、高額納税者にしか選挙権はなかった。

社会: すると税金を払っていない貧乏人には、選挙権を認めるべきではないとか、株主総会で株主が保有株式数に応じた投票ができるように、納税額に応じて一票の重みに差をつけろということにならないか。

自由: 低所得者も間接的に税金を納めているよ。消費税は間接税の典型だが、低所得者が支払う家賃だって、その一部が固定資産税として地方自治体に納められるわけだから、あれも間接税みたいなものだ。もちろん納税額は有権者によって差がある。だが民主主義政治では民主主義経済の場合と違って、所得や資産の多寡とは関係なく、一票の重みは同じでなければならない。それは経済が競争そのものであるのに対して、政治は競争の条件を決める領域だからだ。近代民主主義は競争結果の平等は保証しないが、競争条件の平等は保証するので、政治では投票が平等なのだ。

社会: 本当に市場原理は民主主義をもたらすのか。経済自由化を進めた人の中にはチリの独裁者ピノチェト将軍のような人もいるぞ。

自由: ピノチェト自身は軍人で経済のことはわからなかったが、彼としては、クーデターで倒したアジェンデ左翼政権とは違う政策を出す必要があった。ピノチェトは、シカゴ大学への留学でフリードマンやハーバーガー教授の影響を受けたチリカトリック大学経済学部の「シカゴボーイ」に反共産主義的経済政策を任せた。チリの市場改革は成功し、経済成長率は高まり、南米各国の手本となった。ところが、いったん自由な市場経済を創ると、政治も独裁制ではすまなくなる。1980年代の末には、経済的成功にもかかわらず、いやそれゆえに、ピノチェトは、国民投票に破れ、大統領の地位を降りた。新しく成立した民主政権も経済政策に関してはピノチェトの自由主義を継承している。中国も市場経済化を進めていけば、共産党による一党独裁はそのうちに崩壊するだろう。

社会: 今世界経済を左右しているグローバル金融市場の暴力的な動きは、どう考えても民主主義的とは思えない。一部の金融マフィアが、短期的な利食いのために投機的な売買を繰り返している。一般の庶民が、事業の将来性に投資し、株主総会で経営方針の決定に参加するという株式会社の民主主義的理念は非現実的だ。

自由: 民主主義社会では、直接政治活動をする市民団体も中にはあるが、多くの市民は、時間がないか知識がないかのどちらかの理由で、自分たちの政治的インタレスト(利害)を代議士に委託して、間接的に政治に参加している。金融市場でも、直接株や債権に投資する人も中にはいるが、多くの資産保有者は、時間がないか知識がないかのどちらかの理由で、自分たちの経済的インタレスト(利子)をファンドマネージャーに委託して、間接的に金融に参加している。代議士の中には利権マフィアのような人がいるし、基金運用者の中には金融マフィアのような人がいる。自分のインタレストと委託されたインタレストが一体である限り問題はないが、前者を優先するようになれば、そのインタレストの代弁者は淘汰されることになるだろう。

国家: 君たちは、民主主義的と言えば何でも正当化できるような議論をしているが、ぼくはそう思わないな。民主主義政治が衆愚政治であるように、市場経済は衆愚経済だ。市場経済はこれまで過大評価や過小評価によって判断を誤り、経済を混乱させてきた。市場原理が万能だなんてとんでもない話だ。

自由: 市場原理は至上原理だが、万能ではない。市場の判断は、政治家や官僚の判断と同様に、人間が判断するのだからしばしば誤る。にもかかわらず二つの点で市場主導の意思決定メカニズムは、政治家や官僚などのエリート主導の意思決定メカニズムよりも優れている。

第一の長所は、市場は自分たちの判断の過ちを早く素直に認め、機動性に富む対応をすることができるところにある。市場は、株式市場での株価の動きを見ればわかるように、分単位のスピードで評価を変える。政治家や官僚などのエリートは、責任ある立場にあり、しかもプライドが高いので、たとえ自分の過ちに気が付いても、容易には認めようとせず、既定路線をそのまま走りがちだ。ソ連経済が崩壊したのも、日本経済が低迷しているのも、行政機構が硬直化していて、環境の変化に素早く対応して構造改革をする能力がないからである。

第二の長所は、エリートが独占的な権力を握っている場合、特定の利益団体と癒着する危険性があるが、市場主導の意思決定メカニズムには、その心配がほとんどないところにある。エリートも大衆もエゴイズムに基づいて行動している点では同じだが、権力が分散した方が意思決定メカニズムの利権色は薄まる。

民主政治も市場経済も欠陥に満ちた制度だが、人類はそれより優れた制度を知らない。それ以上良いものがないという意味で市場原理は至上原理なのだ。

国家: それにしても今の日本人には愛国心や公共心がなさ過ぎる。みんな民族の伝統と誇りを忘れ、自分の利潤追求にうつつをぬかしている。そんな根無し草みたいな大衆どもに、政治や経済を任せるわけにはいかない。もっと日本の将来を真剣に考える英雄的な指導者にすべてを委ねるべきだ。

自由: 戦前の日本人は滅私奉公の意識が高かったために、かえって国は滅んでしまった。戦後の日本人は、「お国のため」という意識を捨て、自分や家族の幸福のために生きるようになり、その結果国は栄えた。個人がエゴイスティックに行動したほうが、かえって公共の利益になるというのが市場原理のパラドックスだ。

国家: 今のグローバル経済は、本当に「神の見えざる手」に導かれて予定調和しているか。むしろ世界は「アメリカの見えざる手」によって搾取されているのではないのか。

日本人の中には、アメリカがレッセフェールの国で、市場経済に直接タッチしていないと誤解している人が多いようだが、実際には、アメリカでは官民が一体となって世界制覇をもくろんでいる。レーガン政権の財務長官、ドナルド=リーガンはメリルリンチの会長で、クリントン政権の財務長官、ルービンは、ゴールドマンサックスの会長だった。官民が一体となって他国の利益を収奪する、これがアメリカの戦略だ。

97年から東アジアで起きたことは、世界史に名を残す見事な謀略といっていい。アメリカは、日本と東アジアが世界経済の中心となることに脅威を覚えていた。そこでまず、ジョージ・ソロスのような国際的投機集団が先遣部隊として乗り込んできた。彼らヘッジ・ファンドは、旺盛な資金需要を持つ東アジアに短期資金を大量に投入し、突如「そろそろ危ないぞ」と、騒いで資金を引き上げた。次に、ムーディーズのような格付け会社が、評価を下げてその国の経済を大混乱に陥らせ、最後に“救済”を名目に、事実上はアメリカ政府の配下にあるIMFが、東アジアを支配下に置く…。

自由: ドイツが世界恐慌で喘いでいたとき、ヒットラーは「ドイツの労働者が苦しんでいるのは、ユダヤ国際金融が搾取しているからだ」とアジって民衆の心をつかんだ。いつの時代でも共同体が経済危機に直面すると、スケープゴートを求めたがるものだ。90年代の前半にジャパンバッシングをしていたアメリカがそうだったし、米帝陰謀説が持ち上がっている今の日本もそうだ。

実際のところアジア経済危機の引き金を引いたのは日本だった。東アジアは円高を背景に雁行形態の順調に発展してきたが、1995年以降日本が対ドルで円安になったため、事実上ドルペッグ制をとっていたASEAN諸国は、通貨高になり、日本から周辺国へ生産拠点が移行する雁行形態が停滞するようになった。さらに輸出国としての日本との国際競争力が低下した。通貨高により経常収支が赤字になり、その赤字を外国の短期資金がファイナンスしていたが、マネーサプライの増大によりインフレとなり、通貨切り下げ圧力が生じた。ヘッジファンドはそれに早く気が付いただけで、意図的に危機を仕掛けたわけではないし、第一そんな力もない。

ムーディーズがアメリカ政府の別働隊というのもどうかな。80年代にジャパンマネーが世界を席巻していた頃、アメリカの格付け機関は、邦銀を米銀よりずっと上位に格付けていたので、当時のアメリカ人は、格付け機関を、世界制覇を狙う日本株式会社の手先ではないかと訝っていた。

97年の10月には、アジア経済危機のあおりを受けてニューヨーク株式市場が急落した。自国に被害をもたらす愚行をどうして自ら仕掛けてまでもする必要があるのか。

国家: 君は認識が甘いよ。アメリカにとって短期資金はアヘンで、かつてイギリスが、アヘンで中国人の勤労意欲や思考能力を奪って領土と富を収奪したように、今はマネーを武器にアメリカが覇権を確立しようとしている。日本は世界最大の債権国であるにもかかわらず、アジアをアメリカの金融奴隷から解放しようとしない。むしろ逆にアメリカンスタンダードをグローバルスタンダードとして受け入れることに血道を上げている。実に情けない。日本政府は、英米のまねをして金融ビッグバンを始めたが、そんなことをしたら日本の弱小金融機関はアメリカの禿鷹ファンドの餌食になる。むしろ一時的に、マレーシアのマハティールのように、金融鎖国するべきではないか。

自由: マハティールのように、金融鎖国することは望ましくない。短期資本の移動が国内経済を不安定にして困るというのであれば、短期資本への課税を増やせばよい。そうすれば、投資総額は減少するが、投資の限界効率は上昇するし、税収も確保できる。すべてを一律に規制してみそくそに捨てるのはもったいない話だ。

社会: 私も、アメリカの陰謀によってグローバル経済の危機がもたらされるとは思わない。問題は政府が市場をコントロールしようとする姿勢がないことだ。各国政府がグローバル金融市場を自由放任しているから、ソロスのような投機家がぼろもうけする。

自由: そうかな。むしろ逆に政府が市場に介入しようとするからソロスの餌食になるのではないのか。ヨーロッパ通貨危機やアジア通貨危機は、政府が為替相場を固定しようとしたことが原因だった。92年のポンド危機の時、ポンドがマルクに対して割安になっていたが、イギリスの通貨当局は、EMS(ヨーロッパ通貨制度)に基づいてポンドの価値を吊り上げるために、ソロスが大量にカラ売りを浴びせたポンドを高値で買うはめとなった。おかげで通貨当局は大損となり、ソロスは大儲けした。アジアもドルペッグ制を維持しようとするから、ソロスにつけこまれる。ソロスが次に目をつけたのはロシアで、ロシア市場が暴落しても、G7が買い支えるとにらんでいたが、実際には国際金融当局による市場への介入は行われず、そのためにロシアの電話持株会社の株を購入したソロスは大損害を被った。そこで彼は怒って『グローバル資本主義の危機』という本を書いて、「政府よ、もっと市場に介入せよ」と言い出した。レッセフェールでは彼の商売が成り立たないからだ。日本政府が行う年度末のPKOや、G7による重債務国の債務免除などは、ヘッジファンドを太らせるだけだから止めたほうがよい。

社会: ではいっそうのこと、政府など存在しないほうが良いとでも言いたいのか。

自由: 私は「小さな政府」を主張しているのであって、「無政府」が望ましいとは思っていない。小さな政府は大きな政府でもなければ無政府でもない第三の道だ。民間ではできない政府の仕事としては、

  1. 治安の維持:住民の生命と財産を守る安全保障
  2. 公共財の提供:受益者に直接課金することが困難な財とサービスの提供
  3. 通貨供給量の管理:金融政策と財政政策によるマネーサプライの安定的成長
  4. 市場原理の維持:市場のルール作り、情報の偏在の是正、独占の排除
  5. 外部不経済の解消:環境破壊や資源の枯渇や疫病などの防止
  6. 社会保険:医療融資、生活保険、金融機関の保険などリスクヘッジ
  7. 社会的公正の維持:教育の機会均等、法的平等の保証、相続税による不労所得の削減
  8. 文化と自然の保護:文化財、天然記念物、自然公園などの保護

この程度しかない。他にも手段的な仕事があるが、それ以外はすべて市場経済に任せるべきだ。もちろん市場経済は完全でないから、政府が市場を補完しなければならないが、政府は民主主義という別の市場原理によって支配されている。だから理想的社会を究極に規定しているのは、市場原理だということになる。市場原理至上主義の政治的立場をフリップ(図1)にまとめたので、これを見てほしい。

図1 市場原理至上主義の政治思想的位置

平等が左に、不平等が右に位置付けられていることにはもちろん意味がある。マルクスとバクーニンは、労働者階級の解放に国家や議会が必要かどうかで争った関係にあるが、無法な無政府状態では新たな搾取関係が生まれてしまうから、社会主義の理想を追求する上では空想的だ。より現実的なアナーキズムは、ノージックのように差別化を認める立場だ。彼はユダヤ系アメリカ人で、ヒットラーの全体主義に反対し、夜警国家的な治安維持機能に関してまで疑問を投げかけた極端なアナーキストだ。市場原理至上主義というと一見極端な立場のようだが、この図を見れば、バランスのとれた立場だということがわかる。

社会: ずいぶんと自己中心的な図だな。ノージックは論外としても、小さな政府では、「平等なき公平」しか実現できない。「公平な」競争では、規模の経済が働いて大企業が中小企業を淘汰し、寡占と独占を進め、自由な競争社会は名前だけのものとなり、価格が吊り上げられ、庶民は生活に苦労するようになる。独占を禁止するために、政府は積極的に市場に介入するべきではないのか。

自由: 弱肉強食の競争を自由放任していると独占や寡占が自動的に成立するという考えは、1878年以来寡占化が進んだドイツの市場をモデルにしていたのだが、当時のドイツの独占資本主義はドイツ帝国による上からの産業の組織化と統制の産物で、自然発生的なものではなかった。戦前の日本の財閥や、戦後の韓国の財閥もそうだ。政府の後押しがないときには、たとえ表面上寡占が保たれていても、常に新規参入の可能性に脅かされている以上、安易な価格の吊り上げはできない。また情報革命は、独占資本主義を困難にするという側面がある。一般に資本集約的工業社会では大企業のほうが有利だが、知識集約的な情報社会では中小企業のほうが有利だ。違法な独占行為は取り締まる必要はあるが、中小企業を優遇する政策をとる必要は現代ではない。

社会: 情報革命は、新たなタイプの独占を惹き起こす。例えばマイクロソフトは、自社の Windows がOS のデファクトスタンダードの地位を獲得したことによって、巨額の独占的利益を手にしている。マイクロソフトの製品は、必ずしも最良のソフトでないにもかかわらず、圧倒的な競争力を持っている。これは不合理ではないか。

自由: 技術革新が続く限り、デファクトスタンダードの覇権なんて長続きしないよ。かつてVHSが、ビデオテープの規格をめぐる戦いでベータに勝ったが、DVDの登場で規格争いが再開されている。同じことは特許のような知的資本の独占についても言える。知的所有権を期限付きで認めることによって、独創へのインセンティヴを高めることと独占的利益の制限を両立させることができる。

社会: 独占・寡占と並ぶ「市場の失敗」の典型は、環境破壊などの外部不経済だ。自由放任では、企業は利潤だけを追求し、環境保護には取り組まない。環境問題が深刻になっている今、大きな政府の重要性が増している。

自由: 環境問題を解決するためには、政府を大きくしなければならないと思っている人が多いようだが、実際はまったく逆だ。大きな政府の典型であるソ連は、生産効率を無視し、各企業に生産力の量的増大のノルマを課して重化学工業の発展に力を入れたので、環境保全は後回しにされた。天然資源は国有であるため、価格は低く抑えられ、そのため西側と違って石油危機以後も省エネのための技術革新が起こらなかった。またソ連のような開発独裁体制の下では基本的人権の思想が弱く、環境保護のための市民運動も起こりにくい。実際、ソ連の環境破壊は西側諸国よりひどかった。そもそも政府が企業の環境破壊をチェックしようとするならば、政府自体は生産活動に従事する企業であってはならない。プレーヤーと審判は別々である必要がある。

社会: 政府は、民間でできる生産活動に従事するべきではないが、採算が取れなくて民間ではできないリサイクル事業には従事するべきだ。あるいは少なくとも補助金を出して支援するべきだ。

自由: 今政府や自治体が環境のためと称してやっているリサイクル活動の中には、眉唾ものが多い。例えば、自治体は牛乳パックの回収を熱心に行っているが、両側にラミレートされたポリエチレンをはがすために処理場で大量の石油と化学薬品を使えば、リサイクル自体が環境破壊になってしまう。しかも再生紙は質が低く、経済的にも採算が取れない。「市民のボランティア活動」と称する搾取労働を動員しつつ、補助金をつぎ込んで環境破壊を促進し、市場原理のもとで採算が取れていた民間の古紙回収業者を駆逐するということが全国で行われている。

通産省と新エネルギー機関は太陽光発電施設に費用の半額を補助することにしているが、太陽電池は製造と廃棄の工程で膨大な石油が必要で、その石油を火力発電に使って得られる電気が、太陽光発電で回収できるかどうかは極めて怪しい。しかし業者は、省エネ度を検証することなく、補助金めあてで太陽電池を量産し、普及を喧伝している。

これらはほんの一例だが、政府が補助金を支給したり、税制上の優遇措置をとることによって、民間企業のコスト感覚と省エネ感覚が麻痺し、首をかしげたくなるようなエコビジネスが続々と出てきている。燃費の良い自動車は、政府の支援がなくても市場原理に基づいてよく売れるのであって、経済重視かそれとも環境保護かという不毛なトレードオフの関係で環境問題を理解するべきではない。

政府の役割は、環境に良い事業を遂行することではなく、環境に悪い事業を規制することである。例えば、塩化ビニールのようにダイオキシンの原因になる素材に対して高い環境税を課せば、企業はコストを削減するために酢酸ビニールなどの代替物を開発するようになる。ごみを燃やすことができるようになれば、政府からの補助金がなくても、廃棄物発電が民間の営利企業によって行われるようになる。

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  4 コメント

  1.  永井さんの考えられる市場原理主義は、私も至上主義と感じますが、私はそれが抱えるジレンマに苦しんでおります。考えをお聞かせください。
     たとえば、政府の仕事として、永井さんの挙げられている、
    7. 社会的公正の維持:教育の機会均等、法的平等の保証、相続税による不労所得の削減
    は、市場原理主義の基では実現できないように感じてしまうのです。
     社会的公正によって、自らの経済的優位性を築き上げた者も、最後には保身に動くと思います。
     そのため、教育の機会均等、相続税の強化などは、経済的優位者が権力を握るという「ポジティブ・フィードバック」により、実現不可能なように思います。
     仮に日本が相続税を強化させた場合、富裕層は海外に流出し、国そのものが貧しくなると考えます。
     国同士の市場原理主義として考えることも試みましたが、結論が出ませんでした。
     永井さんはどうお考えになりますか?

  2. 結婚するときに、養育(教育)保険に加入することを義務づければ、子供の教育の機会均等は守られます(その場合、保険料が支払えない貧困層は、子供を産まなくなるでしょう)。富裕層に重税を課すと、富裕層が海外に逃げてしまいますので、国内投資に応じて減税する仕組みを設け、富裕層と貧困層の間にWin-Winの関係を築く事が重要です。

  3.  いつもながら、素早いご返答、本当にありがとうございます。
     私はこれまで、富裕層と貧困層を、相対的な関係でしか見てきませんでした。
     富裕層と貧困層のWin-Winの関係の必要条件は、投資が十分であることに加え、資源が十分であることも含まれると思います。
     別論文で永井さんは、地球資源の消費を減らす少子化は望ましいと仰られましたが、資源の消費が減り、投資が活発化すれば、貧困層の生活水準も向上していくということなのでしょうか。
     だとすれば、私も「市場主義は至上主義」であると思います。
     ただ、政治的実現には、多々の問題が生じることと思います。半ば強制的な投資を嫌う富裕層からの圧力、格差を固定化できた方が有利な、相続税の納税者などからの圧力があると思います。
     これらを超えて、永井さんの仰るような仕組みをつくることのできるプロセスがもしあるならば、それをお示しいただければ幸いです。

  4. “半ば強制的な投資を嫌う富裕層からの圧力、格差を固定化できた方が有利な、相続税の納税者などからの圧力があると思います。”
    一般的に言って、富裕層は、使い道を決める自由が自分にない税よりも、限定的ではあっても多少は選択の自由がある投資や寄付を好むので、投資や寄付を税制上優遇する制度は、彼らに歓迎されます。寄付者の名前を冠した財団の設立を容易にして、寄付の代わりに、寄付者の名誉が後世に残る制度というのも、有効でしょう。
    ところで、子供が生まれ育つ家庭環境や経済的基盤を完全に平等にすることは、本当に理想的なことなのでしょうか。人類の種の存続という全体的な観点からすると、同じような条件で同じような個体が育てられるというのは、きわめてリスキーです。さまざまな条件でさまざまな個体が育てば、予測不可能な環境変動があっても、どれかが生き延びる可能性が高くなるので、種全体の絶滅のリスクが減ります。また、ニッチへの適応や分業も容易になります。
    もちろん、各個体はそのようなことを意識していません。親は、我が子がかわいくて、遺産を子に残します。その結果、子供の経済的基盤に格差が生まれます。しかし、そうした各遺伝子の利己的振舞いが、当事者の意識を超えて、見えざる手に導かれて、種全体の利益に貢献します。このように、個々の自由で利己的な行為が、結果として公共の利益をもたらす点を、市場原理至上主義は重視します。

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