10月 221999
 

義務教育は、日本国憲法26条にある通り、必要だが、公教育は不要である。バウチャー制度を用いて、教育をすべて民間に任せれば、教育の機会均等を守りながらも、子供たちの選択の自由を増やし、学校の質を上げることができる。

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司会: 医者と教師は、客から先生と呼ばれ、客を客とは思わない特殊な職業に従事しています。教育は、市場原理とは無縁の聖域でしょうか、それとも教育にも市場原理を導入するべきでしょうか。

日本の経済大国としての成功の秘訣は教育にあるとよく言われますが、公教育は、次第に機能不全に陥り始めています。60年代の末から大学紛争が始まり、70年代の半ばから高校生の荒廃が社会問題化し、70年代の後半には中学校で校内暴力の嵐が吹き始め、80年代の半ばから、校内暴力に代わっていじめがクローズアップされ、そして現在小学校で学級崩壊が始まっています。公教育のあり方は今のままで良いのかどうかを議論してください。

社会: 教育が荒廃しているのは、厳しい受験競争のもとで、子供たちが仲間を蹴落とすことしか考えなくなっているからだ。91年に文部省の調査研究協力者会議が、小中学校の児童生徒の成績評価を、学内順位で決まる現行の相対評価中心から到達度に応じた絶対評価中心へ転換する旨の報告を出したが、これは重要な指摘だ。労働者予備軍に偏差値という市場価格をつけて労働市場で売買することは非人間的だ。偏差値教育で子供たちを競争させるのではなくて、一人一人の個性を重視した教育を行うべきだ。

自由: 一方で偏差値や順位による相対評価を否定しておきながら、他方で個性尊重を主張することは理論的に矛盾している。個性があるかどうかは他人と比較しなければわからない。昔「偏差値よりも個性値」というキャッチフレーズを掲げている大学があったが、偏差値は個人が平均からどれだけ偏差しているかを示す数字で、個性を数量化する値、個性値と言ってよい。文部省の調査研究協力者会議が提案するように、教育から相対評価を追放しても、企業の求人は定員を決めているので、最終的には相対評価が重要になる。日本の教育が画一的であるのは、偏差値を使うからではなくて、偏差値の基準が画一的であるからだ。

社会: あなたは自由主義者(リバタリアン)なのに、なぜ子供たちを受験競争から解放(リベレイト)し、もっと自由にのびのびと勉強できる環境を作ろうとは思わないのか。

自由: 自由を認めるということは、選択の自由を認めるということだ。選択をする時、必ず選択される者とされない者が出てくる。当然競争になる。だから自由を肯定するならば、競争も肯定しなければならない。

社会: 絶対評価なら、勉強するべき分量に上限があるが、相対評価なら、競争の悪循環で、上限がなくなり、勉強時間が無限に伸びていく。子どもたちの遊びが質・量ともに貧しいものになっている状況は、子どもの生活における時間とゆとりの乏しさと深くかかわっている。小学生から既に多くの者が腕時計を持っていることにも象徴されるように、子どもたちは、学校、塾やおけいこごと、自宅での勉強などで時間に逐われるようになり、遊びの時間は削られ、その内容も屋内での孤立型の遊びが主役になっていく。子どもたちは、ゆとりのある自由な時間を与えられることによって、はじめて心から遊びを楽しみ、自分なりに遊び方を創意工夫し、のびのびと個性や創造性を伸ばすことができる。英語のことわざに、「勉強をしすぎるとばかになる」というものがあるが、子供を受験地獄から救い、適度に遊ばせるほうが、教育上好ましい。

自由: 日本の子供が勉強しすぎているというのはうそだ。国際教育到達度評価学会の調査では、日本の子どもたちの塾などを含めた家庭学習時間は、世界ランキングで平均をかなり下回っている。

社会: でも国際教育到達度評価学会が96年に行った国際数学・理科教育調査では、日本の子供は、世界41カ国中、3位から4位だ。やはり日本の子供は勉強しすぎている。もっとカリキュラムを軽減して学力を落とすべきだ。

自由: もうすでにかなり落ちている。東京大学工学部が、81年から現在まで計4回、工学部に進学する2年生にまったく同じ内容の数学の学力テストを行ったところ、第1回の81年に100点満点で54.0点だった平均点が、第二回の83年には52.8点に、第三回の90年には43.9点に、第4回の94年には42.3点に下がっている。入試科目に数学がない大学はもっと悲惨だ。分数の掛け算や割り算すらできない大学生がたくさんいる。また英語の学力も一段と低下していて、TOEFLの平均点を見てみると、アジア25ヶ国の中で日本は北朝鮮とともに最下位だ。

国家: それは少子化が進んで、大学に入るのが簡単になったからではないのか。

自由: 第二次ベビーブーマーの頂点が大学を受験したのは90年代の初めだから、80年代前半よりも90年代前半の方が大学に入るのは倍率的には難しかったはずだ。にもかかわらず学力が落ちている。これは、文部省のゆとり重視路線のおかげだ。文部省は、平成14年から施行される新学習指導要領で数学などの学習内容をさらに大幅にカットするつもりだ。

社会: 私は《生きる力》と《学力》を区別している。これからの社会が子どもたちに求める最も重要なものは、自ら学び、自ら考える力、豊かな人間性、健康や体力からなる《生きる力》だ。こうした力を身につけるためには、ゆとりの中で、子どもたちが試行錯誤をしたり、遊びを含む多様な体験を積み重ねることが不可欠だ。小さいころから一刻を争い、ひたすら知識を詰め込む勉強だけでは、《生きる力》ははぐくまれない。親は、是非とも、そうした世の中の変化に目を向けて、勇気を持って子どもたちに時間とゆとりを与える努力をするべきだ。そして、学校週5日制によってもたらされる自由な時間を、子どもたちの遊びの再生にも大いに生かさなければならない。従来の詰め込み教育で頭に叩き込まれてきた知識のほとんどは実社会で役に立たない。そんな役に立たない学力を高めることが教育の目標であってはならない。子供たちは地域社会での活動に参加して、生きる力を身につけるべきだ。

自由: 文部省は、ゆとりができれば、子供たちは自主的にゆとりを有効活用すると思っていたようだが、実際にはテレビゲームに熱中したり、携帯電話で用もなく友達とおしゃべりをしたりして暇を持て余し、自分の将来を真剣に考えた時間の過ごし方をしていない。旧来の教育システムを改革する必要があることは確かだが、文部省や教育評論家たちは、問題の所在がわかっていないから、彼らが教育システムをいじればいじるほど、ますます日本の教育は堕落していく。

国家: 明治以来、日本の教育システムは優秀な人材を育ててきたし、資源に乏しい我が国が製造業の分野で成功しえたのは、そうした優秀な人材のおかげだ。日本の初等教育や中等教育は、アメリカのそれよりも世界的評価が高い。日本の教育評論家の中には、個性重視・自由尊重のアメリカ流の教育方法を理想として教育改革を提案している人が多いが、どうして教育が最も荒廃している国をモデルとして見習わなければならないのか。

自由: これまで日本の教育システムは優秀な人材を育ててきたが、その「優秀さ」には「工業社会での」という限定が必要だ。日本の学校教育が理想とする秀才の条件と良いコンピュータの条件は奇妙に一致する。即ち、

  1. 記憶録容量が大きくて、
  2. 情報処理速度が速く、
  3. バグ(ミス)が少ない

人間が、

  1. あらかじめ出題範囲が指定された、つまり覚えれば良いだけの、
  2. 制限時間のある、
  3. 満点以上を期待しない減点方式のテストで、

知的エリートとして選ばれる。また日本の道徳教育および体育教育は、命令されたとおりに従順に動くロボット型の人間を作ってきた。だから日本の知徳体の教育は、優秀なコンピュータ代用物と優秀なロボット代用物を量産することによって工業社会に貢献してきた。ところが70年代以降、産業用ロボットの導入によるオートメーション化とパソコン導入による事務作業の軽減化が進み、人間にはロボットやコンピュータにはできないような複雑系の仕事が求められるようになった。その結果労働市場では従来型秀才の価値が大幅に下落してしまった。

これまで工業社会では、企業は画一的商品を大量生産してきたし、学校は画一的労働商品を大量生産してきた。複製にコストがかかる時、このコストを下げる労働はそれなりの付加価値を持つ。日本企業は、これまで欧米から基本的なアイデアを輸入し、欧米と同じ物を、より効率的に、つまりより安く、そしてより精確に模造複製することによって世界市場での競争力を付けてきた。ところが、情報産業の生産物の場合、コンピュータソフトやインターネットコンテンツを例に取ればわかるように、複製や流通にはほとんどコストがかからないので、オリジナルを作成した者のみが利益を独占する。横並びで他者の物まねをやっている者は淘汰される。

国家: 日本には和の伝統があって、個人が組織から浮き上がることは許されない。民族の特性を考えれば、日本人は、チームワークを生かした物作りに向いている。だからこれからも協調性に重きを置いた教育を行うべきだ。

自由: 民族の特性を先入見に基づいて固定してはいけない。アニメの宮崎駿、ゲームソフトの飯野賢治、映画の北野武、音楽の坂本龍一など、非製造業分野でも世界的な評価を受けるような独創的な仕事をしている日本人がいるではないか。こうした天才的個人は、娯楽産業が比較的自由な分野だから日本からも輩出されるわけだが、出る杭を打つ現在のシステムを改めれば、更に幅広い分野から現れるはずだ。情報革命の今、政府主導の画一的な公教育の廃止を考える時期にきていると私は思う。

社会: 文部省も中央教育審議会も、「教育の多様化」や「個性の尊重」などのスローガンを掲げて何回となく教育改革を手がけてきた。教育の多様化や個性の尊重のために公教育を廃止しろという議論には飛躍がある。公教育のどこに問題があるというのか。

自由: 公教育は、医療と同様、補助金と許認可で守られた保護産業だ。保護産業の弊害を取り除くためには、教育機能と評価機能という二つの機能を分離する必要がある。

ここで謂う所の評価機能とは、資格試験の資格やコンテストの賞が持っているような、個人が一定の能力を持っていることを保障する機能で、普遍的な、つまり超組織的な妥当性があれば、就職や昇進などにおいて人選のコストを削減する。これまで日本の社会で、評価機能として最も重視されてきたのが、学歴である。学歴を決定する入学試験や単位の認定や学位の授与は、資格試験やコンテストと同様に評価機能を持つが、教育機能との抱き合わせであるから機能が純粋ではない。教育機関が行う試験には、英検のような学歴を前提としない資格試験と比較すると、

  1. 資格試験の場合、特定の学校に通う必要はない。実力さえあればそれでよい。ところが学歴の場合、本来独学で成果を出せる人の方が、他人から教わらなければ成果を出せない人より優秀であるにもかかわらず、前者の能力はまったく評価されない。
  2. 学歴社会のもとでは、現在の職業を放棄して大学に通うことは困難だから、18歳の勝負で人生が決まり、敗者復活が認められないが、資格試験は、受験者の年齢を問題としないので、生涯学習を促進する。
  3. 学歴が保証する能力は漠然としすぎている。これまで日本の銀行は、偏差値50の大学の経済学部卒業生よりも偏差値60の大学の文学部卒業生を採用してきた。経済学部でも文学部でも入学試験の中身はほとんど同じで、銀行が期待するのは専門的知識ではなくて、潜在的な能力だからである。ところが雇用形態が、ジェネラリストの終身雇用からスペシャリストのアウトソーシングへと変化して行くと、特殊な才能を保証する評価機能が求められるようになる。
  4. 入学試験の難易度は年度ごとに変動する。仮に大学審議会が提案するように、単位認定や学位授与を厳しくして、卒業に評価機能を持たせたとしても、教授の講義は個人色が強く、教授ごと大学ごとに評価基準がまちまちであるから、学位の価値にばらつきが出てしまう。出身大学による人物判定は、資格試験のような普遍性がないし、学閥という形で業績原理が帰属原理に転化することによって、経済の活性化を阻害する危険がある。

などの問題点がある。

社会: 入学試験であれ、資格試験であれ、一回のペーパーテストで人間の評価が決められるのはおかしい。平成5年に文部省が通知を出して以来、内申書に業者テストの結果が盛り込まれないようになり、公立高校でも推薦入学が実施され、一般入試では、その内申点と学力試験の得点が、一対一の比率で評価されようになった。入学試験だけで合否を決めるのではなく、生徒の学習態度や学習意欲をも評価する推薦制度が取り入れたことは評価できる。学力だけでなく、人格をも評価しようとすれば、生徒と長期間にわたって接触している教師が、教育者としての役割だけでなく、評価者としての役割をも担う必要がある。

自由: 文部省が主観的評価に基づく内申書(調査書)制度の普及を推進した結果、管理教育が強化され、中高生に偽善的な子供が増え始めた。例えば、内申点を稼ぐために、解答を丸写ししてまで提出物を出したり、老人ホームでボランティア活動をやったりする中学生がいる。内申点アップを看板にしている都内のある塾は、学校の先生に知らないことではなく知っていることを質問しに行くように塾生の中学生を指導している。知らないことを聞いて、理解できなければ先生の気分を害してしまう。だからわざと知っていることを質問し、熱心に説明を聞くふりをして、「先生の御説明でとても良く分かるようになりました。ありがとうございます」と言って頭を下げる。すると先生はうぶだから、にこにこしながら内申点を上げてくれるのだそうだ。

社会: 学校教育では、学科の知識を暗記することよりも人間関係を学ぶことの方が重要だ。たとえ内申点目的でも、中学生がボランティア活動することは社会勉強になって良いではないか。

自由: 内申点制度は人格形成という点でも好ましくない。上司が見ている前でだけ努力しているふりをする人材が増えて良いのか。文部省は、さらに大学受験にも学力試験を伴わない推薦入学の制度を普及させようとしている。平成11年度より選択的に導入される公立の中高一貫教育も、狙いは名門公立校を作り、小学校教師にまで推薦権を与えることにある。

小学校の教員から大学教授にいたるまで、およそ教師にとって、生徒・学生の推薦権は、一度手にすると手放せなくなるほどおいしい既得権益で、この既得権益を取り上げなければ、公教育は、いつまでも殿様商売を続けることになるだろう。公教育がまともな教育をしてくれないから、中学生は進学塾へ、高校生は予備校へ、大学生は専門学校へ通うというダブルスクール現象が起きる。権威だけで中身のないフォーマルな教育と権威はないが中身のあるインフォーマルな教育の両方に出費しなければならないことは、大変な浪費だ。中身のない公教育は廃止するべきだ。教育は民に任せ、官は試験だけするという官民の役割分担が必要だ。

社会: 大手学習塾や予備校の中には、教育をビジネスと割り切り、営利追求に走っているところが少なくない。低所得の家庭の子供が、無料もしくは廉価で学校に行くことができなければ、教育の機会均等が守られない。特に義務教育は、無償でなければ憲法第26条に違反する。

自由: 憲法第26条は、政府が直接教育を行えとは言っていない。政府はただ教育を受ける権利を保証すれば良い。平成7年の調査によると、国と地方による子供一人当たりの年間教育負担額は、小学生で76万円、中学生で83万円だ。この金額をバウチャーとして6歳から15歳までの子供に直接支給すればよい。16歳以上の青年には、学校民営化によって得られる売却益を基金にして奨学金制度を充実させ、学費を貸与する。生徒・学生はその金で好きな学校と好きな教師を選ぶことができる。その結果学校側には生徒・学生獲得の競争が起きる。各学校は文部省に規制されることなく、自らの教育理念に従って自由に教育できるが、生徒・学生が集まらなければ経営は破綻し、より競争力のある学校によって買収されることになる。

社会: 生徒や両親には、伝統ある名門校を選好し、新設の無名校を嫌がる傾向がある。良い教師がいるから、あるいはカリキュラムに工夫があるから競争に生き残れるとは限らない。

自由: そうならないように、教育機能と評価機能を分離することを提案しているのだ。公教育から評価機能を取り上げて民営化すれば、どこの学校に行っても取れる単位や学位は同じであるから、生徒は学校を形式的権威ではなくて、教育の中身で選ぶようになる。それは教師にとって良い刺激となるはずだ。また入学者を制限する入学試験もなくなる。客の数を自分から減らそうとする企業はないのであって、近くの貸ビルを借りてでも、学校は生徒を受け入れようとするであろう。

国家:教育に熱心でない親や勉強に熱意のない子供が、学校経営者とバウチャーを山分けするという不正はどうやって防ぐのか。

自由:不正のうわさがある場合、警察は、その学校にオトリの生徒(あるいは保護者)を送り込めばよい。もしオトリが、「バウチャーをおたくの学校で使いますから、そのうち一部を還元して下さい」と言って、学校側が交渉にのれば、即御用となる。オトリと本物を区別するために調査を行うと、コストが高くつくので、ビジネスとしては成り立たない。

国家: 資格試験を国家が行うのはわかるが、専門性のある学位請求論文の審査は、専門家がいる大学がする他ない。

自由: 学位論文の審査は学会でやれば良い。これまで卒論の審査などはいいがげんであることが多かったが、薬の臨床試験の時と同様に、文部省が請求者と学会の間に入って、相互に誰が誰の論文を審査しているのかわからないようにすれば、審査の中立性と厳正さを保つことができる。口頭試問で顔はわかってしまうかもしれないけれど。

社会: 資格試験は年齢とは無関係に受検できるから、幼児教育が過熱するおそれがある。知育に偏った教育を施そうとして、幼児の遊びや様々な体験活動の機会を減らしてしまうことは好ましいことではない。幼少期からひたすら勉強をさせられた子どもが、小・中学生の段階から疲れてしまい、自発的な学習意欲を失ってしまう場合も少なくない。

自由: もし幼児教育が子供の成長にとって有害ならば、幼児教育が過熱することはない。幼児教育が過熱するのは、幼児教育への投資に効果があると信じられている証拠だ。いずれにせよ、幼児教育するかどうかは各家庭が決めることであって、政府が決めることではない。

社会: 97年ごろから小学校で学級崩壊が始まったが、これは幼児教育により小学生のストレスがたまったせいだ。小学生を熾烈な幼児教育の競争から解放し、彼らに個性を育むゆとりを与えないと、彼らの偏差値教育に対する反乱は終わることがないだろう。

国家: 90年代に保育園で自由保育を始めてから、小学校で学級崩壊が起き出した。自由とか個人の尊重とか言って子供を甘やかしているから、学校での集団生活が成り立たなくなる。学級崩壊は戦後民主主義と自由主義と称する偏狭なミーイズムの産物だ。父親の権威を復活させ、父親や教師が子供に対して厳しい躾をすることが必要だ。

社会: 父親の権威なんてもう古い。現代のトレンドはフェミニズムで、オヤジの論理はもう通用しない。学級崩壊は、学力一辺倒で、心の教育をおろそかにしてきたつけがまわってきた結果だ。

自由: 学級崩壊の引き金となっているのは、ADHD(注意力欠如多動性症候群)の子供たちの可能性が高い。注意力欠如多動性症候群は、日本のみならず世界各地の子供で観察されるようになった病気で、ドーパミンに関する遺伝子の変異が原因ではないかという説が出されている。この子供たちは、授業を理解するだけの集中力がなく、じっと椅子に座っていることすらできず、授業中立ち歩き、注意されるとかっとなって衝動的な行為に走る。教師はこの子供に振り回されてまともに授業ができず、おとなしい普通の子供までが私語を始めるようになる。いったん授業秩序が崩壊すると、もう元には戻らなくなる。これが学級崩壊だ。

国家: そういう生理的なレベルだけの問題か。ADHDの原因として精神社会的要因を挙げる学者もいるぞ。小学校から大学まで、授業が成り立たないという広い意味での学校崩壊はどうだ。

自由: これまで落ちこぼれや非行や登校拒否は、一部の生徒が学校に適応できないという形で起きてきた。しかし今の学校崩壊は、学校が変貌を遂げる社会に適応できないという形で起きている。平成8年度間に不登校だった、つまり「学校ぎらい」を理由として年度間に30日以上欠席した子どもは小・中学校あわせて約9万4千人で、対前年度比15%増となり、調査の開始以来最多に達している。学校に登校しても授業には出席せず、保健室で時を過ごすいわゆる「保健室登校」という現象も目立ってきており、そうした子どものいる学校の割合は中学校で4割近くに上っている。現在の教育改革では、こうした子供を正常に登校させるための提案が多く出されているが、本人に合わない学校に行かせるよりも、合った学校を選ばせることができるシステムを作ることのほうが重要だ。ADHDの子の場合も、ADHD専用の学校に通わせるべきだ。

社会: 障害を持っているからといって、差別的な隔離教育を行うと、隔離された子供は劣等感を持ってしまう。みんなが仲良くいっしょに勉強することが大事だ。個性重視と称して、落ちこぼれを作る選別教育には反対だ。

自由: 落ちこぼれが出てくるのは、従来のように、すべての子供に同じ学習内容を同じスピードで教えようとするからだ。どの教科をどのペースで学ぶかを、学習者が自分で決めるシステムが必要だ。現在文部省は、学年制の弾力化を検討中だが、飛び級にせよ留年にせよ、それがフルセット式であるところに問題がある。フルセット式は、スペシャリストの時代にはふさわしくないし、生徒に不必要な優越感や劣等感を与えることになる。だから生徒の個性を尊重して、単位修得はアラカルト式にするべきだ。

単位の資格試験化と並んで、資格試験の単位化も必要だ。就職に密着した既存の実用技能検定などにも、その難易度に応じて単位数を振り分ける。またコンテストなどで一定以上の成績を上げた者にも単位を出す。このように単位修得の選択肢を増やすことによって、子供たちの多様な才能を早い段階で引き出すことができるようになる。

社会: これまで公教育は、子供の特殊な才能を育てるために、クラブ活動・部活動などの課外授業を行ってきた。それでは不十分なのか。

自由: 不十分だ。素人の学校教師が片手間で顧問を務めるクラブ活動・部活動は、「人格教育」とか「教養」といったあいまいな理念でしか正当化できない。単位認定科目の範囲を広げれば、正規の授業と課外授業との従来の区別はおのずと消滅する。旧課外科目も、専門のインストラクターが指導する有料の授業になるはずだ。

社会: スペシャリスト養成は結構だが、教養をおろそかにすると、専門バカばかりになってしまう。公教育は、少なくとも全人格的教養教育だけでもするべきだ。

自由: スペシャリストと専門バカ、個性と視野の狭さは同じでない。ヘーゲルは森羅万象を自分の哲学の対象にしたが、だからといって個性がなかったわけではなく、むしろ西洋哲学史上最も個性のある哲学者の一人とされている。逆にどの大学にもごろごろいる専門バカには個性がない。

そのヘーゲルは、当時編集されたフランスの百科全書を「偶然経験的に集められたもので、その中には学とは名ばかりで、実はたんなる知識の集積に過ぎないもの」と酷評している。日本の公教育が提供している教養は、相互に関係のない無機的な知識の集積で、つまらない。どうして教養が無機的になるかといえば、それはまず教養を身につけてから専門の道を歩むという順番が間違っているからだ。まず自分が一番好きで得意な分野を見つけて専門を作り、その後で関連する分野を芋づる式に広げて教養として習得していくほうが、有機的な教養が身につく。

社会: 子供の才能や好みは早い段階ではわからない。幼児の段階で親が勝手に子供の専門を決めるのはいかがなものか。

自由: 両親は子供の好みがわからないから、初めは基礎的な学力を満遍なくつけさせようとするはずだ。12歳ぐらいになると子供は自己意識を持つようになるので、そこから先のスペシャルティ探しは子供の自主性に任せるべきだ。専門は必ずしも固定しつづける必要はなく、専門を中心に教養の範囲を広げていくなかで、中心を変えても良い。天才的個人を育てるには、早い段階でスペシャルティを決めさせる必要はないが、早くから将来の職業に結びつく自分のスペシャルティを作ろうとする意欲を持たせる必要がある。画一的なカリキュラムを押し付け、一部の受動的な秀才と多数の規格外の落ちこぼれを作り出すシステムを改めなければならない。

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  5 コメント

  1. 今、国立大学の1年生なのですが、大学の独立行政法人化が学内でも問題となっており、「3~5年で成果のでない基礎研究や文化系の研究が採算や効率を理由に切り落とされる」といった、声があがっています。僕も、学問、研究という、単純に金額に換算できないものを、そのように市場原理にゆだねる、というのには疑問を感じているのですが、それについてはどのようにお考えですか。僕自身、多分に「学生側の主張」に影響されている点があると思うので、この”大学の独立法人化”という問題そのものについても、そもそもどのような経緯で、どこから発生したのか、というような、解説をお願いします。

  2. 私は市場原理という言葉と市場経済という言葉を使い分けています。市場原理は、必ずしも金額による評価に基づかなくてもよいわけで、例えば選挙では、候補者への評価は票数によって決定されます。学者の世界では、金銭よりも名声が富です。票田も名声も換金可能な富ですが、独立した種類の資本とみなすことができます。市場原理/非市場原理との区別は、拝金主義/非拝金主義という区別ではなく、多数の評価者が意思決定に加わる複雑系/一人の権力者が評価する単純系という区別なのです。
    なお私は、国立大学を私立大学にするといった中途半端な民営化には反対です。私の主張はあくまでも公教育全体の廃止です。詳しくは、ここをご覧下さい。独立法人化反対が「学生側の主張」ということですが、学生は消費者なのですから、教師を選ぶ権利・評価する権利を主張するべきでしょう。それが大学に市場原理を導入する第一歩となるはずです。大学の独立法人化は、70年代から始まった大きな政府に対する批判の帰結である行政改革の一つと位置付けられます。

  3. Nagai氏に同感です。
    小中9年間の義務教育はセイフティネットという公立学校が必要ですが、高校・高等専門学校・大学・大学院は完全私立化が日本の学力論争に一定の方向性を示してくれるでしょう。もちろん現在行われている幼稚園・小学校・中学校の私立経営も従来通りで。
    私立中高一貫校生さえ予備校とのダブルスクール生が多いのですから、学校という組織自体が生徒の知的欲求を満たしていないと思われます。大学院は授業料を払う学生という立場ではなく、「研究所として研究生を雇用」し、長い視点で人材育成を支えるシステムがほしいと思います。ここでいう研究生は気象大学校や防衛医科大学校のような公費待遇、従来の大学院生は私費+奨学金対応。
    このようなシステムでは文部科学省及び学校関係者の利権以外の何が問題なのでしょうか?

  4. >落ちこぼれが出てくるのは、従来のように、すべての子供に同じ学習内容を同じスピードで教えようとするからだ。どの教科をどのペースで学ぶかを、学習者が自分で決めるシステムが必要だ。現在文部省は、学年制の弾力化を検討中だが、飛び級にせよ留年にせよ、それがフルセット式であるところに問題がある。フルセット式は、スペシャリストの時代にはふさわしくないし、生徒に不必要な優越感や劣等感を与えることになる。だから生徒の個性を尊重して、単位修得はアラカルト式にするべきだ。
    永井さんは、履修科目を自由に選択でき、所定の単位を満たせば誰でも進級あるいは資格試験の受験資格が得られると主張されているのでしょうか?
    (例えば、大学のように教養科目が最低「 」単位、専門科目が「 」単位と)
    僕が理解できていない部分もあると思うのですが、説明して頂けないでしょうか。

  5. 例えば、高校の卒業を認定する場合を考えて見ましょう。現在の日本の高校の単位履修には、あまりにも自由選択の余地がないので、学習者は自分の特性にあったカリキュラムを組むことができません。しかしながら、他方で、単位の合計数だけ一定の基準に到達すれば、卒業できるというようにしてしまうと、米国で実際に起きたように、生徒たちは、自動車免許の取得といった、非学問的な科目だけを履修してしまうということも起きうるので、語学や数学といった基礎的な分野で、さらにはそれを含めて学問的な分野で、それぞれ最低履修単位数を決めておくべきでしょう。そのルールは、ご指摘のように、大学で行われているような履修ルールと同じです。違いは、試験や審査が外部機関によってなされることと、特定の大学に所属する必要はないというところにあります。

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