天皇のスケープゴート的起源
天皇の起源がスケープゴートだったということは意外であろう。例えば極東軍事裁判がそうであるように、多くの人が天皇のスケープゴートにされてきたから、逆ではないかと訝しむのは自然なことだ。しかし黎明期における天皇は、未開社会における酋長と同じで、スケープゴートの色彩が強い。皇祖天照大神を卑弥呼に比定し、そのスケープゴート的起源を明らかにしたい。[1]

スケープゴート的起源の痕跡
天皇がかつてスケープゴートであった痕跡の一つとして、天皇には姓がないという事実を指摘できる。天皇には裕仁とか明仁といった名前しかない。明治以前では、貴族であれ武士であれ、姓があることは上流階級の特権であって、庶民には姓がなかった。それなのに、上流階級の頂点である天皇には、かつての賤しい一般の庶民と同様に姓がないのである。
古代の天皇は、古代エジプトのファラオや中南米の王族と同様、太陽の子孫と信じられ、その血統を守るため近親相姦が繰り返されてきた。ところが日本を含めて世界中どこでも、近親相姦は汚らわしいタブーなのである。穢れと神聖さを兼ね備えた両義性は、スケープゴートの特徴である[2]。
天皇は、古代においては、ヒヨリミビトと呼ばれ、日和見(ひよりみ)すなわち暦の支配を職能としていた[3]。ヒヨリミビトとしては、共同体の辺境において浮遊する芸能人の一種にすぎなかったのだ。山口昌男は、「天皇制の神話=演劇論的構造[4]」で、天皇を、「穢多」や歌舞伎芸人や芸者などと同様のアウトカーストと位置付けている[5]が、「穢多[6]」や歌舞伎芸人や芸者がそうであるように、堅気の職業に従事する普通の民にとって、半ば異界に属する存在なのである。
スケープゴート(scapegoat)は、もともとは、罪を贖うために荒野に放逐された山羊を意味する、ユダヤ教起源の宗教用語であったが、今では、普遍的な人類の政治力学を説明する用語として使われる。
共同体が差異の消滅により解体の危機にさらされた時、一人の人物もしくは特定の集団にすべての罪を負わせ、共同体のメンバーが力を合わせてそのスケープゴートを生贄として屠ることにより、共同体の秩序を回復する。スケープゴートは、共同体にとって穢れた存在であるにもかかわらず、屠られることにより、聖なる存在へと祭り上げられ、共同体を統合する象徴として機能する。それゆえ、日本国憲法で使われている「日本国民統合の象徴」という表現は、スケープゴートとしての機能を適切に描写している。
天皇にはこれ以外にも特異な点が多く見られる。日本の天皇は、世界の通常の君主や国王と異なって、政治的・軍事的カリスマ性よりも宗教的カリスマ性を多く持ち、主体的に政治的リーダーシップを取ることがない。天皇のこの特殊性はどこから来たのか。この問題を解くためには、卑弥呼の死の謎に迫らなければならない。
持衰としての天皇
天皇の祖先とされている天照大神は卑弥呼に相当すると私は考える。卑弥呼が君臨する前、邪馬台国は、もともと男王が治めていた。七、八十年その状態が続いた後、「桓帝と霊帝の治世の間」に、倭国が大いに乱れ、互いに攻伐しあって、長い間王は不在であったと『後漢書東夷伝』は伝えている。同じような記事が『魏志倭人伝[7]』に見られる。
その国、もと男子を以て王と為し、とどまること七、八十年。倭国乱れ、あい攻伐すること歴年。すなわち一女子を共立して王と為し、名づけて卑弥呼といふ。
[口語訳:その国は、もともと男を王としていたが、七、八十年経った頃、倭国は混乱状態になり、長年にわたってたがいに攻め合う状態が続いた。そこで一人の女性を王とした。この女性の名を、卑弥呼という。][8]
桓帝と霊帝の治世といえば、147年から189年の間である。158年に皆既日食が起きた後の内乱であったと考えられる。太陽を崇拝する民族にとって、こうした太陽の衰退を予感させる出来事は、大きな脅威である。ちょうど今日、政策が失敗して大不況になれば、政府首脳は責任を取って退陣を余儀なくされるように、ヒヨリミビトである男王は、暦の異常の責任を取らされる形で、つまりスケープゴートとして追放もしくは殺害されたと考えられる。
『魏志倭人伝』は、当時の倭に持衰(じさい)と呼ばれるスケープゴートがいたことを教えてくれる。

其の行来・渡海、中國に詣るには、恒に一人をして頭を梳らず、キ[虫偏に幾]蝨を去らず、衣服垢汚、肉を食わず、婦人を近づけず、喪人の如くせしむ。之を名づけて持衰と為す。若し行く者吉善なれば、共に其の生口・財物を顧し、若し疾病有り、暴害に遭えば便ち之を殺さんと欲す。其の持衰謹まずと謂えばなり。
[口語訳:渡海して中国に往来するときには、恒に一人には、頭を梳らず、虱を取り去らず、衣服は垢に汚れたままにし、肉を食べず婦人を近づけず、喪に服している人のようにさせる。これを名づけて持衰としている。もしも旅がうまく行けば、人々は彼に生口・財物を与え、もし途中で疾病があったり暴風などによる被害があれば、持衰を殺そうとする。その持衰が謹まなかったからだというわけである。][9]
船を国に置き換えた時、国王は持衰に相当することがわかる。
「持衰」に相当すると思われる人物が描かれた絵画土器片が、奈良県の唐古鍵遺跡から見つかっている。その絵画土器片では、持衰は、左手に何かおそらく宗教的意味を持つと思われるものを手にして船尾で孤立している。年代は1世紀後半(弥生時代中期後半)と推定されるので、邪馬台国の時代より前である。
持衰と同じような船旅のスケープゴートは、東南アジアに見られる。
危険にみちた遠出、たとえば男たちが狩りや戦争や大航海に出かけるとき、居残った者が、さまざまなタブーに服することは世界的にみられるが、ことにこの地域においてさかんなのである。たとえばインドネシアのメンタウェイ諸島では、夫が首狩りに出かけると、妻は果物や肉を食べることが禁ぜられるし、スラヴェシ(セレベス)のサンダ・トラジャ族では、男たちが首狩りに出かけたあとは、女たちはほかの男たちの訪問を受けてはならないし、またふだんは日常の暇つぶしとしてさかんにやっているシラミとり合いをしてはいけない、という定めだった。
航海のとき、居残った特定の人物がきびしいタブーに服することは、マルク(モルッカ)諸島に例が多く、セラム島東部のイル地方、アンボン諸島、ケイ諸島、タネンバル諸島から報告されている。たとえばセラム島のイル地方の場合、帆船が航海に出たとき、一人の人物、ふつう一人は少女、が陸上に居残っていて、航海がうまくいくかどうかは、彼女の責任とされる。彼女は帆船とほとんど同一視され、村人たちは、彼女の様子を見て、航海がうまくいっているかどうかを判断する。
彼女は船が航海しているあいだは、働いてもいけないし、歩いてもいけない。歌ってもいけないし、陽気に騒いでもいけない。遊んでもいけないし、清涼剤の檳榔子をかんでもいけない。ことに家から外に出るのは厳禁されている。もしもこの少女が病気になると、帆船に何か悪いことがおき、もし少女が死ぬようなことでもあると、船は沈んでしまう。彼女が病気になったり、死んだりしなくても、船が不幸にであうと、これは彼女が規定のタブーを破ったからだとされて、彼女だけが責任を負うのである。[10]
『魏志東夷伝』の扶余の条でも、こうした習俗が伝えられている。
旧夫餘の俗、水旱調わず、五穀熟さずは、すなわち王に咎を帰し、あるいは易に当たると言い、あるいは殺に応ずという。麻余死し、その子依慮年六歳を立て、以って王となす。
[口語訳:古い扶余の風俗では、水害・旱魃・不作は、国王の責任に帰せられ、易が当たるか、あるいは死罪に当たるかと言われる。麻余が死に、その子の依慮が六歳で王に立った。][11]
この件は、ジェームズ・フレイザーが『金枝篇』で取り上げ、有名にした王殺しを思い起こさせる。フレイザーによれば、未開社会の王は、災害を防いで、王国の豊穣と人々の繁栄を守る責任がある。その責任が果たせなかった時、王殺しとなる。『魏志東夷伝』は明言していないが、麻余は、こうした習俗の犠牲者となったのだろう。この事例は、以下に述べる卑弥呼の死の謎を解く上でも参考になる。
卑弥呼の殺害
倭では、皆既日食が起きてから、長い間(歴年)内乱状態となった。太陽を蘇らせるために、卑弥呼は日巫女としての呪術的才能から女王になったと考えられる。しかし、西暦240年頃からの気候の低下(太陽の衰弱化)とそれがもたらす不作が倭の社会不安をもたらした[12]。不作になれば戦争が起きる。邪馬台国連合軍は南の狗奴国と戦い、その結果は思わしくないものであった。
倭の女王卑弥呼、狗奴国の男王卑弥弓呼と素より和せず。倭の戴斯、烏越らを遣わして郡にいたらしめ、相い攻撃する状を説く。塞曹掾史張政らを遣わし、因って詔書、黄幢をもたらし、難升米に拝仮せしめ檄をなしてこれに告諭す。卑弥呼以て死す。大いに冢を作るに、径百余歩、殉葬する者は奴婢百余人。
[口語訳:倭の女王卑弥呼は、狗奴国の男王卑弥弓呼と元々仲が良くなかった。倭の戴斯、烏越らを使者として帯方郡に派遣し、両国の戦況を報告した。帯方郡は、塞曹掾史の張政らを遣わし、これによって詔書と黄幢を与え、魏帝に代わって難升米を任命し、檄を飛ばして彼を諭した。卑弥呼はこうして死んだ。盛大に墓を作ったが、その直径は百余歩あり、殉葬した奴婢は百余人に上る。][13]
『魏志倭人伝』には、倭が狗奴国に敗れたとは書いていない。しかしもし勝っていたなら、勝ったと書くはずである。何も書いていないということは負けたということだ。書くことがはばかれることは、書かないことによって、読者にそれとなく真実を伝える「春秋の筆法」と呼ばれる表現方法である。そもそも、倭は負けたからこそ、魏に使者を派遣し、軍事顧問として張政を迎えたと考えられる。
引用文に「檄をなしてこれに告諭す」とあるが、魏(帯方郡)は、いったい何を難升米に諭したのか。通常は、「狗奴国との和解」と解釈されている。しかしもしも和解を勧めるのならば、軍旗(黄幢)を与えたりしないはずである。むしろ魏は戦争の後押しをしているのである。
ヒントは次の文「卑弥呼以て死す」にある。「卑弥呼以死」の「以」は「すでに」ではなく、「よって」である。他の箇所で「すでに」という時には「已」を使っているから、そのような解釈には無理がある。つまりこの「以」は、卑弥呼の死の原因が、「檄をなしてこれに告諭す」であることを意味している。つまり、魏は卑弥呼の殺害を迫ったということになる。
ではなぜ魏は卑弥呼の排除を必要と感じたのか。そもそも魏が日本国内の内乱にこれだけ深く介入することは異常ではないだろうか。
じつは狗奴国の背後には魏の宿敵の呉があったようだ。日本には当時の呉の年号(赤烏)が入った呉鏡(平縁神獣鏡)が二枚発見されている。これは三角縁神獣鏡とは異なり、中国産の舶来鏡である。魏の敵国である呉から邪馬台国が鏡をもらうということはありえない。この鏡は、魏の傘下に入っていた倭と敵対する国、すなわち狗奴国に贈られたに違いない。北九州の倭は朝鮮半島を通して魏と結びつき、南九州の狗奴国は、南西諸島を通して呉と結びついていたということは地政学的には大いにありうる図式である。倭と狗奴国の戦いは、中国大陸の代理戦争の様相を呈していた。魏が倭に帯方郡の役人を派遣したりして並々ならぬ援助をするのも、この戦争の勝敗が他人事ではなかったからである。
そもそも中国が日本に使者を送るということは、そう滅多にあることではない。次に日本に中国の使者が来たのは、300年以上たった608年である。この時、第一次高句麗遠征に失敗した隋が、遠征再開に向けて周到な外交的準備を行うべく、遣隋使小野妹子の帰国に際して、使者を伴わせ、日本に高句麗との同盟関係を解消するように画策した。その次は667年で、白村江の戦いの戦後処理のために唐の将軍、劉仁願が日本に使者を派遣した。このように、中国が日本に使者を送るのは、重要な軍事的課題を遂行する時である。
邪馬台国連合軍は、野蛮国である狗奴国に本来負けるはずがない。それなのに負けてしまった。これは責任問題である。魏は、すべての責任を卑弥呼に押し付けた。神憑りの老婆が国を支配するということは、当時の先進国である魏にとっては異様に思えた。「告諭」の内容は、軍事的才能のある男が王となるべきだという中国の常識を押し付けたものだったと想像できる。247年3月24日、皆既日食の日に卑弥呼は殺された。
もとより、魏の「告諭」がなくても、どのみち、王殺しの習俗により、卑弥呼は殺されていただろう。では、卑弥呼を殺したのは誰か。記紀は、天照大神が、弟の素戔嗚尊に殺されたことを仄めかしている。卑弥呼と天照大神を同一視するなら、彼女は弟に殺されたことになる。先ほどの引用文にある通り、『魏志倭人伝』も、卑弥呼には政治を補佐する男弟が一人いたことを伝えている。王を殺害した者がその後継者になるのが王殺しの決まりである。邪馬台国の場合でも、弟が卑弥呼を殺したとするならば、弟がその後を継いで王となるはずである。
もう一つの根拠は、「共立」と「立」の違いである。『魏志倭人伝』は、本来王となることが予想されている嫡子が王位につくときは、「立」で示し、庶子のごとき人物を王位につける場合には「共立」を使う。例えば、『烏丸鮮卑東夷傳』の夫餘条には、以下のような用例がある。
尉仇台死するや、簡位居立つ。適子無く、孽子麻余有るのみ。位居死するや、諸加麻餘を共立す。
[口語訳:尉仇台が死んで、簡位居が立った。彼には適子がなく、庶子の麻余がいた。簡位居が死に、重臣たちは麻余を共立した。][14]
簡位居は嫡子だったので、即位は「立」、麻余は庶子であったために、即位は「共立」だったのだ。もう一つ高句麗条から引用しよう。
伯固死して、二子有り、長子は拔奇、小子は伊夷模なり。拔奇は不肖なりとて、國人便ち伊夷模を共立して王と為す。
[口語訳:伯固が死んで、二人の王子が残された。長子は拔奇、次子は伊夷模といった。拔奇は出来が悪く、国人は、ただちに伊夷模を王として共立した。][15]
本来長男が跡継ぎになるべきなのだが、不肖であったために、国人たちは次男を王に共立したというのである。「共立」された卑弥呼も、血統的正当性はなかったが、しかし後継の男王は「立つ」となっている。このことは、男王が卑弥呼と強い血縁関係にあることを示しているのである。よって、この男王は、卑弥呼の弟ということになる。
だが男に日巫女は務まらない。しかも、不幸なことに、一年半後の248年9月5日に再び日食が起きた。人々の動揺は収まらなかった。記紀によると、素戔嗚尊は髪を切られ、手足のつめを抜かれ、出雲に追放されたとある。出雲は、記紀では死の国のメタファーである。男王も殺害された可能性が高い。
この動揺を収めるには、かつての倭国大乱の時と同様に、新たな日巫女が必要である。その点、二回目の日食は、行為的に解釈できる食であった。247年3月24日の日食は、太陽が食されながら西のかなたへと沈んでいく日入帯食で、人々はそこに太陽の死の予兆を見た。これに対して、二回目の日食は、食された太陽が元に戻りながら上昇する日出帯食で、人々は、そこに、死んだ太陽の復活を予感したことだろう。こうして、卑弥呼の十三歳の宗女、壱与が、先代の日巫女の生まれ変わりとして立てられ、内乱状態だった邪馬台国の治安が回復したのである。
更に男王を立つるに、国中服せず、更に相い誅殺し、当時は千余人を殺す。また卑弥呼の宗女台与、年十三なるを立てて王と為し、国中遂に定まる。
[口語訳:次に男王が立ったが、国中が従わず、互いに誅殺しあい、千余人が死んだ。また、卑弥呼の一族である十三歳の少女台与を立てて王としたところ、ようやく国中が定まった。[16]
台与は記紀では万幡豊秋津師比売命(よろづはたとよあきづしひめのみこと)に相当し、後に豊前や豊後の豊(とよ)という地名に名を残している。もちろん当時の人は女王をトヨとは呼ばずにヒミコと呼んだはずだ。ちょうど歴代の天皇をすべて天皇と呼ぶように。
日本国民統合の象徴としての天皇
台与の子孫が、神武以降の天皇家である。記紀では、神武天皇の祖先は、高天原から降臨したと書かれている。高天原(たかまがはら)は、タカ・アマ・ハラの三つの言葉から成り立っているが、タカは高貴を、アマは女性や母を、ハラは腹を意味すると考えれば、高天原とは、聖母の母胎のメタファーで、高天原からの天孫の降臨とは、天皇の祖先(瓊瓊杵)が、聖母である日御子(台与)から生まれたことを意味している。
日の丸が示すように、日本人という民族は、太陽をトーテムとして、自らのアイデンティティを確立している。日本が外から日本を意識する必要が生じた時、日本人のトーテムが祭り上げられる。
これまでに天皇が実権を取り戻したことが、日本史上三回あった。大化の改新、建武の新政、明治維新の三つである。いずれの場合にも、日本が対外的な危機にさらされた時であったことは偶然ではない。
- 中大兄皇子(天智天皇)が大化の改新(645年以降)に取り組んだ時、日本は大陸と緊張した関係にあった。562年には任那(加羅)が滅亡し、663年には白村江の戦で日本と百済は唐と新羅の連合軍に大敗し、中大兄皇子は、唐・新羅の日本侵略に備えて、海辺の防衛を整え、飛鳥からより内陸の大津に遷都したというありさまだった。
- 後醍醐天皇が建武の新政を始める50年ほど前、元が日本を2回侵略しようとした。この時朝廷は、日夜元軍滅亡を祈祷した。元軍は台風で壊滅したわけであるが、この大暴風は天皇の呪術のおかげだとされ、神国思想が広まった。本地垂迹説に対して、反本地垂迹説が唱えられたのもこの頃である。後醍醐天皇の討幕が成功した理由の一つには、この時の天皇の権威復活がある。
- 明治天皇が江戸幕府を倒した時、日本は欧米列強の植民地化の脅威にさらされていた。江戸時代後半からロシアやアメリカが開国を要求したが、多くの日本人は尊王攘夷の立場を取った。武士は当時政治経済的には徳川将軍の傘下にあったが、日本の精神的統一原理としては天皇が担ぎ上げられなければならなかった。明治維新後、神仏分離令が出され、廃仏毀釈運動が起きた。
天皇が実権を取り戻したというほどではないが、対外的に最大の危機に陥った太平洋戦争の際に、明治維新後の大正デモクラシーの時期には一時冷めていた天皇崇拝熱が極限に達したことは指摘するまでもない。
ところで歴代の天皇はほとんどが男である。なぜ天皇の祖先である天照大神は女性であったのだろうか。古代日本でもエジプトなどでと同様に、太陽は男性として表象されていたと考えられる。巫女が処女でなければならないのは、それは男性である太陽神に仕えるためである。ところが日巫女は、スケープゴートとして殺害されることにより日神子あるいは日御子へと昇格し、太陽神として表象されるようになった。
同じプロセスは、キリスト教にも見られる。イエス・キリストは、もともと神の預言者であって、彼自身も周囲も、イエスが神そのものだとは思っていなかった。しかしイエスは処刑され、それによって神聖な存在者に祭り上げられ、三位一体論の教義において神の子、あるいは神そのものと観念されるようになった。イスラム教徒がモハメットをアラーと同一視しないのは、モハメットがスケープゴートとして屠られなかったからである。[17]
追記(2005年4月11日)持衰について
永岡豊伸(呉豊泰) さんからコメントを頂きました。
≪永井俊哉ドットコム論文集・天皇のスケープゴート的起源≫では ≪船を国に置き換えた時、国王は持衰に相当することがわかる。≫とかかれていました。
これを読むと、聖徳太子は持衰のような役割といっていいのかもしれないと思えます。持衰は、「魏志倭人伝」では、ナビゲーターとも取れます。すると、稗田阿禮や紫式部の役目といっていいように思えます。[18]
持衰に関しては、大林太良の説に説得力があります。インドネシアの持衰に相当する人物は、同行していません。『魏志倭人伝』では、持衰の記事は、航行中ではなくて、日本到着後の、風俗紹介の文脈で出てきます。それゆえ、私は、持衰非同行説を支持します。国家を船に喩えるならば、持衰は、卑弥呼に、船長は、卑弥呼を補佐したと伝えられる男弟に相当します。卑弥呼は聖なる存在ですから、世俗的国家という船の外にいて、対照的に、世俗的な実務を担当していた男弟は、世俗的国家の内部にいなければなりません。卑弥呼は、父なる太陽に使えていたので、女性であり、船の持衰は、母なる海に使えていたので、男性であったと考えられます。これに対して、インドネシアでは、神は男だと考えられていたのでしょう。持衰が、屠られる前の生贄であるのに対して、聖徳太子は、蘇我氏滅亡後に怨霊崇拝のために作った偶像です。
参照情報
- 井沢元彦『逆説の日本史1 古代黎明編/封印された「倭」の謎』小学館 (1997/12/1).
- 松尾光『現代語訳 魏志倭人伝』KADOKAWA (2014/6/30).
- 倉山満『日本一やさしい天皇の講座』扶桑社 (2017/5/31).
- 網野善彦『増補 無縁・公界・楽』平凡社 (2016/11/1).
- 安本美典『邪馬台国は福岡県朝倉市にあった!! ―「畿内説」における「失敗の本質」』勉誠出版 (2019/9/6).
- 安本美典『データサイエンスで解く邪馬台国 北部九州説はゆるがない』朝日新聞出版 (2021/10/13).
- ↑本稿は、1999年11月20日に公開したメールマガジンの記事「天皇のスケープゴート的起源」に、修正を加えてアップデートしたものです。最初の原稿に関しては、リンク先をご覧ください。
- ↑今村仁司.『暴力のオントロギー』勁草書房 (1982/10/5).
- ↑宮田 登.『日和見―日本王権論の試み』平凡社 (1992/10/1).
- ↑山口昌男『山口昌男著作集〈5〉周縁』筑摩書房 (2003/03).
- ↑私も山口昌男のこの見方に賛成なのだが、ではなぜ、山口は、天照大神と素戔嗚尊の関係を、秩序/混沌、中心/周縁と位置付け、もっぱら素戔嗚尊のトリックスター=スケープゴート的性格だけを強調するのだろうか。天照大神自体にスケープゴート的性格を認めなければ、山口の天皇論には説得力がなくなる。
- ↑「穢多」は差別用語であり、本来使用を避けなければならないが、歴史的考察では使わざるを得ない。当時そう呼ばれていたという意味で括弧を付け、私自身が差別にコミットしていないことを表す。
- ↑日本では、陳寿編『三國志』魏書巻三十烏丸鮮卑東夷伝倭人条を略してこうよぶことが慣習となっている。
- ↑「其國本亦以男子爲王 住七八十年 倭國亂 相攻伐歴年 乃共立一女子爲王 名曰卑彌呼」陳寿編.『魏志倭人伝』(三国志魏書巻三十烏丸鮮卑東夷伝倭人条).
- ↑「其行來渡海詣中國 恆使一人 不梳頭 不去[虫偏に幾]蝨衣服垢汚 不食肉 不近婦人 如喪人 名之爲持衰若行者吉善 共顧其生口財物;若有疾病 遭暴害 便欲殺之謂其持衰不謹」陳寿編.『魏志倭人伝』(三国志魏書巻三十烏丸鮮卑東夷伝倭人条).
- ↑大林太良「東アジアにおける倭人民俗」『日本の古代〈1〉倭人の登場』p. 306-308.
- ↑「舊夫餘俗、水旱不調、五穀不熟、輒歸咎於王、或言當易、或言應殺。麻余死、其子依慮年六歳、立以爲王。」三国志魏書巻三十烏丸鮮卑東夷伝扶余条
- ↑232年頃、ニュージーランド北島におけるタウポ湖でハテペ噴火があり、その影響で寒冷化したと考えられている。Cf. Lowe, David, and A. Pittari. “The Taupō Eruption Sequence of AD 232 ± 10 in Aotearoa New Zealand: A Retrospection.” Journal of Geography 130 (February 25, 2021): 117–41.
- ↑「倭女王卑彌呼與狗奴國男王卑彌弓呼素不和 遣倭載斯烏越等詣郡説相攻撃状 遣塞曹掾史張政等因齎詔書黄幢拜假難升米爲檄告喩之 卑彌呼以死大作冢徑百餘歩 [扁犬旁旬]葬者奴婢百餘人」陳寿編.『魏志倭人伝』(三国志魏書巻三十烏丸鮮卑東夷伝倭人条).
- ↑「尉仇台死,簡位居立。無適子,有孽子麻餘。位居死,諸加共立麻餘。」陳寿編.『魏志倭人伝』(三国志魏書巻三十烏丸鮮卑東夷伝夫餘条).
- ↑「尉仇台死,簡位居立。無適子,有孽子麻餘。位居死,諸加共立麻餘。」陳寿編.『魏志倭人伝』(三国志魏書巻三十烏丸鮮卑東夷伝高句麗条).
- ↑「更立男王 國中不服 更相誅殺 當時殺千餘人復立卑彌呼宗女壹與 年十三爲王 國中遂定」陳寿編.『魏志倭人伝』(三国志魏書巻三十烏丸鮮卑東夷伝倭人条).
- ↑天皇が、日本という社会を統合する存在者でありえたのは、そのスケープゴート的存在のためであることに関しては、「なぜ天皇は日本国民統合の象徴なのか」を読んでいただきたい。中世の日本には、「無縁」あるいは「公界」あるいは「楽」と呼ばれる、俗世間から縁の切れた公共の自由なアジールがあった。天皇は、他のスケープゴート的存在者と同様に、この神聖な公的世界に所属する存在者だった。これについては、網野善彦『無縁・公界・楽―日本中世の自由と平和』を参照されたい。
- ↑永岡豊伸. “古代日本史への情熱 持衰と架空の存在.” 2005年04月08日 23時34分19秒.
ディスカッション
コメント一覧
これは日向神話、神武東征のあたりを魏志倭人伝との
整合性をとったユニークなものであり、実は天皇制が
南方から日本にきた縄文系のスケープゴート制にその
起源があるとしたのは慧眼と思える。
しかし、その行われた場所が早期から弥生化された
九州であるとするのにはやや無理があるのではないだ
ろうか。
日向神話以前の当時の日本を語る出雲神話をもう少し
遡上に載せて構築するともっとよいものになったかも
知れない。縄文と弥生の融合という日本文明の基層部分
が出雲には描かれているからだ。
弥生文化は南方文化で渡来系弥生人骨も中国江南の人骨と塩基配列が一致しているからね、縄文文化は石器、竪穴式住居も北方文化だ。
永井氏のサイトの中でも、私は特に天皇の話と仏陀の話が好きです。不思議な存在に対する冒険心が刺激されます。
天皇=スケープゴート論を読んで思い出すのは、ダイヤモンド・ハーバード・ビジネス・レビュー2003年3月号の、ラケシュ・クラナ『カリスマCEOの呪縛』です。すべての問題の原因はカリスマ一人に原因があり、新しいカリスマがすべての問題を解決してくれるという民衆の信仰は古代から変わらないのだなあと思いました。
後の天皇はカリスマを残しながらも、リーダーシップを放棄することで、物理的に排除されることを免れて不可侵の存在になったように思えます。
天皇持衰説と、二回起こった日食と、天照大神の岩戸隠れと復活の話は、大変つじつまがあうという印象を受け、目からうろこが落ちた思いでいます。
天照大神の岩戸隠れの話は、ひとりの女王のことであるとばかり思っていましたが、ふたりで一役とは、まったく思いつきませんでした。
一人目が、狗奴国との戦争に敗北したことに責任を取らせる形で、(以て死す)・・・殺されがた、倭国の内戦が続いたために、再びの日食によって再び女性であるトヨを共立することによって内乱は収まったであろうとは・・・天皇という地位が自衰という役割を担わされていたとしたらぴったりです。
蒙古襲来を台風によって撃退することができなかったなら、天皇制もどうなっていたかわかりませんね。
失礼かもしれないが
途中からはカバかしくなってしまった。
史料をバラバラに結びつけて一つのストーリーにしているが、
これは小説の範疇に入るものだ。
神話(と呼ばれている)内の人物に年代をつけたり、
中国の史書からからは都合のよい部分だけを引き抜き、
これらは本気であるなら、歴史として見てはいけないことだ。
歴史として主張するならば、根拠の科学性を示すべきである。
もしかすると、あなたは、事実をありのままに記述することが科学であると考えているのではないでしょうか。もしそうだとするならば、それは科学に対する誤解です。科学において重要なのは、個別的な事実を超えた普遍的法則であり、普遍的法則(ここでは、カタルシス理論)は、個別的事実を無矛盾に説明することによりその信憑性を高めます。普遍的法則は、諸事実から自動的に帰納される類のものではなく、それを仮説として立てるには、科学者の想像力が必要です。そもそも真理とは何かという話題に関しては、「真理とは何か」を参照してください。
興味深く読みました。
「『卑弥呼』は、当時の中国語の発音から推測すると、”pimiho”であるが、当時のp音は現代のh音に相当し、当時の(九州地方の)h音はk音に相当する」 とありますが、出典なり、根拠を教えていただきたいと希望します。
「日本(にほん)」と「日本(ニッポン)」の読み方の起源に関心がありますので。
「ニッポン」は「呉音」で、「にほん」は「漢音」であるとの説明もあります。
⇒ 日本の呉音読みと漢音読み
「卑弥呼」の当時の中国語による発音に関しては、張 明澄の『 誤読だらけの邪馬台国―中国人が記紀と倭人伝を読めば… 』をご覧ください。
【 邪馬壹國 】の比定
私は【 邪馬壹國 】は【 熊本平野 】に比定しています。
┏ ┳ ◎. 帯方郡庁 ( ソウル付近 )
┃ ┃ ↓ . ( 七千餘里 ) ( 964km )
┃ ┃ ○. 狗邪韓國 ( 釜山付近 )
┃ ┃ ↓ . ( 千餘里 ) ( 137km )
┃ ┃ ①. 對馬國 ( 対馬・下島 )
自 萬 ↓ . ( 千餘里 ) ( 62km )
郡 七 ②. 一大國 ( 壱岐 )
至 百 ↓ . ( 千餘里 ) ( 36km )
女 餘 ③. 末盧國 ( 伊万里 )
王 里 ↓ . ( 五百里 ) ( 68km )
國 ┃ ④. 伊都國 ( 前原 )
萬 ┃ ↓ . ( 百里 ) ( 14km )
ニ ┃ ⑤. 奴國 ( 博多 )
千 ┃ ↓ . ( 百里 ) ( 14km )
餘 ┗ ⑥. 不彌國 ( 香椎 )
里 ∵ ↓. 水行二十日
┃ ∵ ⑦. 投馬國 ( 久留米 )
┃ ∵ ↓. 水行十日 ( 192km )
┃ ∵ ↓. 陸行一月
┗ ━ ⑧. 邪馬壹國 ( 熊本 )
~~┃∵∵∵∵楽浪郡∵∵∵∵∵∵┃~~
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~┌◎帯方郡庁∵∵∵∵∵∵∵∵∵┃~~
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~~↓┃∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵┃~~
~~↓┃∵∵∵帯方郡の領土∵∵∵┃~~
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~┌┘┣━━━━━━━━━━━┳┛~~
~↓┏┛∵∵∵∵韓の領土∵∵∵┃~~~
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~↓┃∵方可四千里∵狗邪┏━━┛~~~
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~↓┃∵┏━━━┛┌┤~┏┓~~~~~
~↓┗━┛┌→→→┘↓~┃┃~~~~~
~└→→→┘~~~~↓┏┛┃~~~~~
~~~~~~~對馬國├①┏┛~~~~~
~~~~~~~~~~↓┗┛対馬下島~~
~~~~~~~~~~↓┏┓~~~~~~
~~~~~~~一大國├②┛壱岐~~~~
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~~~~~~~~┏┓↓┏┛∵┗━┛⑥∵
~~~~┏━━━┛∵↓五百里∵∵/↓∵
~~~┏┛∵∵∵∵∵③→→④→⑤百不∵
┏━━┛∵∵∵∵∵∵末∵∵伊百奴里彌水∵
┛∵∵∵∵倭國∵∵∵盧∵∵都里國∵國行
∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵國∵∵國∵∵∵↓二
∵∵┏━┓∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵南十
∵┏┛~┗┓∵∵∵水行十日∵∵∵∵至日
┏┛~~~┗┓∵∵┌←←投馬國⑦←┘∵
┃~~~~~┃金∵↓∵∵∵∵∵∵∵∵∵
┃~~~~~┃峰∵南∵∵∵∵∵∵∵∵∵
┃~有明海~┃山∵至∵∵∵∵∵∵▲阿蘇
┃~~~~~┃▲∵└→→→→→⑧∵∵∵
┃~~~~~┃∵∵∵陸行一月∵邪馬壹國
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┃~~~~~┃∵◎狗奴國∵∵∵∵∵∵∵
漢代の【 測量技術 】は ?
漢代の【 測量技術 】の精度を測る格好の文章が有りますので、ご紹介しましょう。
『漢書』 卷二十八下地理志第八下(抄) 自呉至黄支
【 自合浦徐聞南入海 得大州 東西南北方千里 武帝元封元年略以為tan[扁イ旁詹]耳 朱崖郡 】
上の文章の【 イ詹耳 朱崖 】とは倭人伝に記載されているものと同一です。
【 所有無與イ詹耳 朱崖同 】
【 大州 ( イ詹耳 朱崖 )】は【 東西南北方千里 】とあります。
もし【 方 】の意味が【 正方形の一辺の長さ 】とすれば【 東西南北 】は余計な文章となります。
【 方 】の意味は、中国の辞典【 方言集匯 ( 方言全集 )】に【 圓( 円 )】とあります。
方 – 龍維基
( URL に貼り付けてください、中国の辞典にジャンプします )
www.longwiki.net/%E6%96%B9
【 イ詹耳 朱崖 】とは、現在の【 中国南部 ( 南シナ海 ) の海南島 ( ハイナントウ )】のことです。
海南島 – Wikipedia
【 海南島 】は卵形をした楕円形で面積は、32,200k㎡です。
なぜ【 東西南北 】と記載したかいえば、【 海南島 】が楕円形をしていた為に【 東西 ( 六百里 ) 南北 ( 四百里 )】の合計里数を述べたかったからです。
したがって【 千里 】を半分にすれば、円の直径 ( 五百里 ) が得られます。
さらに半分 ( 二百五十里 ) にすれば半径が得られます。
【 半径×半径×3.14 】で円の面積、つまり【 海南島 】の面積が得られるはずです。
漢代の一里は約 410mです、では早速計算して見ましょう。
【 ( 250里×410m )×( 250里×410m )×3.14 】=32,989k㎡
【 海南島 】の現在の面積は、32,200k㎡ですから、実に見事な精度といえます。
ついでに【 卑彌呼以死 大作冢 徑百餘歩 】の【 徑百餘歩 】について計算して見ましょう。
『晋書』粛慎伝
【 以布作 [ 扁衣旁澹 ] 徑尺餘以蔽前後 】
( 意訳 ) 一尺余り ( 約 50㎝ ) の布で身体の周囲 ( 徑 ) の前と後を覆い隠し、丈は短く作る
[ 扁衣旁詹 ] は古代の丈の短い服のことです。
上の文章によれば【 徑 】とは【 周囲 】という意味になります。
現在の【 径 】の意味は【 直径 】ですが、古代では【 円周 】の意味だったようです。
仮に【 一歩 】を 50cmとした場合、【 徑百餘歩 】は円周 50m程度となります。
直径にすれば、20m程度という事になります。
つまり卑彌呼の墳墓は、直径 20m程度ということになります。
同時代の韓の王墓もその程度の大きさですから、決して小さいとは言えないでしよう。