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貿易と結婚の起源

1999年11月27日

かつてクロード・レヴィ=ストロースは、結婚を女の交換と捉えたが、プリミティブな社会では、女の交換である結婚は、物の交換である貿易と密接に関わっている。そして貿易と結婚という平和なコミュニケーションは、略奪と強姦をともなう無法な戦争におけるコミュニケーションを止揚したものである。

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人類普遍の二つのタブー

現在地球上には、未開社会から高度情報化社会に至るまで様々な種類の社会があり、文化も価値観も多種多様である。このような多様性にもかかわらず、どんな社会も、恣意的な殺人と恣意的なセックスだけは最低限禁止している。これは人類の普遍的規範なのである。

もちろんセックスそのものは非合法ではないし、殺人すら合法的な場合もある。戦争では、敵を殺すことが奨励されるし、現代の日本でも殺人犯を死刑に処すことは合法的である。しかし恣意的な殺人と恣意的なセックスは社会としてとうてい容認できない。

社会の基盤は人口である。殺人は人口を減らし、生殖は人口を増やす。恣意的な殺人と恣意的なセックスを認めると、人口がコントロールできない。これは機能主義的な説明である。しかし機能主義的なアプローチでは説明できないことがある。

人類社会が普遍的に禁止する恣意的なセックスの典型が、近親相姦である。合理主義的な機能主義者は、近親相姦は、優生学的な理由から禁止されると考えるであろう。しかし、近親婚は、異形接合体では潜在的であった劣性形質が発現する同形接合体を産み出しやすいので、劣弱な子供を作り出す確率を高くするにちがいないという推測は、外婚制においてのみ有効性を持つに過ぎない。近親婚に徹した社会は、かえって優生学的に安定した社会なのである。

今、実験的にある夫婦(遺伝子型:Aa)を取り出し、その子孫に近親婚をさせ続けたとしてみよう。まずその夫婦が産む子供の遺伝子型別の可能的比率は、AA:Aa:aa=1:2:1となる。さらに多くの未開社会においてそうであるように、劣性遺伝子(a)の同形接合の結果である劣弱な子供(aa)は、成人して子供を作る前に死亡すると仮定しよう。すると孫の可能的比率は、子供が相互に等しい確率で交雑するとして、AA:Aa:aa≒5:3:1となり、劣性遺伝子が遺伝子プールに占める割合は、第二世代から第三世代にかけてほぼ半減する。それゆえこの内婚社会は、最初のうちこそ動揺するものの、やがて劣性遺伝子を淘汰し、優性遺伝子の同形接合のみが生じる安定した遺伝を繰り返すだけとなる。

しかし安定しているということは、発展性がないということでもある。近親相姦では有性生殖の意味がない。近親相姦の否定で重要なことは、クロード・レヴィ=ストロースが『親族の基本構造』で言うように、血縁集団(クラン)間のコミュニケーションを促すということである。

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クロード・レヴィ=ストロース(2005年)。Source: “Portrait of Claude Levi-Strauss taken in 2005” by UNESCO/Michel Ravassard. Licensed under CC-BY-SA.

クラとポトラッチ

クラン間のコミュニケーションには、クラ型の生産的コミュニケーションとポトラッチ型の蕩尽的コミュニケーションがある。エスニック・クレンジングにおける殺戮と強姦は、後者に属する。ポトラッチでは、相互に自分で自分の財産を破壊することを競い合うのであるが、戦争において相手の財産を相互に破壊し合っても同じことである。財産が尽きた方が負けである。

冒頭で恣意的な殺人と恣意的なセックスの禁止が人類の普遍的規範だと書いた。ちょうどクランの仲間どうしを殺し合うことは禁止されているが、敵の男は殺すか、あるいは捕虜として連れて帰って奴隷にしてかまわないように、クラン内部での近親相姦は禁止されているが、敵の女は強姦するか、あるいは嫁として連れて帰ってかまわないわけである。実際、未開社会の戦争の観察者は、戦争におけるもっとも主要な戦利品は、女であると報告している。

性と暴力の結びつき

恣意的な殺人と恣意的なセックスの禁止は、アナロジーとしてパラレルに語られるわけではない。バタイユが洞察したように、性と暴力は内的に同じ蕩尽の体験である。「エスニック・クレンジング」と呼ばれる、戦場での強姦は、性と暴力が結びついた好例である。

「エスニック・クレンジング」(民族浄化)という言葉は、戦争相手を扇動的に非難する言葉として、「ジェノサイド」(民族抹殺)や「ホロコースト」(大量殺戮)と区別なく、使われることが多いが、語源や言葉の成り立ちを考慮に入れると次のように区別される。

エスニック・クレンジング(ethnic cleansing)は、冷戦後のユーゴ内乱で使われるようになった言葉である。1992年4月から始まったボスニア・ヘルツェゴビナの内乱では、全土の70%を占領したセルビア人がムスリム人に対して激しいエスニック・クレンジングを行った。セルビア人はムスリム人たちを集落ごとに一箇所に集め、少女たちを親の目の前でレイプし、次に彼女たちの目の前で親を惨殺した。レイプの結果、約1万人のムスリムの女性が妊娠したと報告されている。ムスリム人たちの汚らわしい血を自分たちの高貴な血で清めるというのが、エスニック・クレンジングのイデオロギーなのである。

ジェノサイド(genocide)という言葉は、ポーランド人法学者レムキンが、ナチスによるユダヤ人抹殺を非難するために、ギリシャ語で種族を意味する genos と殺戮を意味する caedes を合成して作った言葉で、エスニック・クレンジングとは異なり、男女を問わず一民族を皆殺しにすることを意味する。

ホロコースト(holocaust)も、定冠詞付きの大文字で書けば、ナチスによるユダヤ人の大量虐殺のことだが、皮肉なことにもともとは、ユダヤ教の祭事で獣を丸焼きにして神前に供える全燔祭のことだった。広島・長崎での原爆投下は、ジェノサイドでもエスニック・クレンジングでもないが、ホロコーストであると言って差し支えない。

コソボ紛争の時、ユーゴ軍がエスニック・クレンジングをしているかどうかが論争の対象になったが、何でもアメリカ発の情報を鵜呑みにする日本では、外務大臣が、「一般市民を殺害すれば、それはエスニック・クレンジングだ」と言ってユーゴを批判していた。もしエスニック・クレンジングをそのように定義するのなら、誤爆を続けていたアメリカの空軍もまたエスニック・クレンジングをしていたことになる。

話を本来のエスニック・クレンジングに戻そう。「男は皆殺し、女は強姦」という欲望は、エディプス・コンプレックスに基づく欲望であり、エスニック・クレンジングがいかに非人間的で異常に見えようとも、深層心理的には人類に普遍的と考えるべきである。

深層の欲望は超自我によって抑圧される。ポトラッチ型の蕩尽的コミュニケーションは、クラ型の生産的コミュニケーションによって止揚されなければならない。戦争による富の奪い合いは、貿易による富の交換へと、女の奪い合いは、外婚制のもとでの女の相互的な贈与へと形を変える。貿易と結婚は別の手段をもってする戦争の継続であるということである。

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