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実存は不条理か

2000年12月3日

私たちの現実存在(existence 実存)に理由はあるだろうか。「なぜあなたは大学に進学したのか」と問われれば、私は理由を挙げて答えることができる。しかし「なぜあなたは生まれてきたのか」と問われても、私は答えることができない。私は自分の意志で、時空上の気に入った特定点を選んでこの世に生まれてきたわけではないからだ。ふと気が付くと、存在していたというのが実情である。だから自分の行為に理由を与えることができても、自分の存在に理由を与えることはできない。実存は無根拠である。

A collage of Albert Camus and the image by Arek Socha from Pixabay modified by me
アルベール・カミュ(Albert Camus)は不条理な運命に抵抗することを文学的なテーマとした。

1. 無根拠だから不条理とは言えない

では実存は不条理(absurd)だとも言えるだろうか。つまり実存は、私たちが憤らなければならないような無根拠なのだろうか。一般に「Xは不条理だ」と言うとき、それは「Xでないことが望ましい」を含意している。例えば、「人種差別は不条理だ」と言う人は、「私は、人種差別がなくなれば、そのことに満足する」と同じことを言っているのである。

実存の不条理にも同じパラフレーズが可能かどうか確かめてみよう。「私の実存は不条理だ」という命題が真ならば、「もし私が存在しなければ、私は満足する」も真でなければならない。しかし、もし私が存在しなければ、私が存在しないことに満足する私自体も存在しないのだから、満足することは不可能である。だから私の実存は不条理ではありえない。

2. 実存は不条理でも合理的でもない

このように問うことが問いそのものを無意味にする問いとして、「なぜ私たちは理性的なのか」という問いがある。理性(reason)とは「なぜ」と理由(reason)を問うことができる能力である。もし私たちが理性的でないならば、この問いを発することすら不可能である。そして実は、この問いは、「なぜ私は存在するのか」という問いと同じ問いである。なぜなら、私たちは、理性的存在者として存在するからである。

「実存は不条理か否か」と問うことは、「数字三は甘いかすっぱいか」と問うことと同様に、無意味である。三つのりんごは、甘かったりすっぱかったりするが、三という数字自体は、甘くもすっぱくもない。同様に、実存についての認識や取り扱い方は、不条理であったり合理的であったりするが、実存そのものは不条理でも合理的でもない。

3. 不条理でありうるものは何か

ある自然法則を提唱した科学者が、その後反証例を見出した時、「私の法則に従わない現象があるとはけしからん。自然は不条理だ」と憤ることは、科学者として正しい態度ではない。不条理なのは、自然ではなくて、その人が考え出した自然法則の方である。

障害をもって生まれた人の中には、「私は何も悪いことをしていないのに、どうしてこんなハンディを負わなければいけないのか。こんなことならば、いっそう生まれてこないほうがよかった。実存は不条理だ」と憤る人もいるかもしれない。しかし、もし障害の原因が人為的なものでないとするならば、その人は憤る対象を間違えている。不条理なのは、障害をもって生まれたことではなくて、障害を理由にその人から自由を著しく奪う社会のありかたの方なのである。