実存は不条理か
私たちの現実存在(existence 実存)に理由はあるだろうか。「なぜあなたは大学に進学したのか」と問われれば、私は理由を挙げて答えることができる。しかし「なぜあなたは生まれてきたのか」と問われても、私は答えることができない。私は自分の意志で、時空上の気に入った特定点を選んでこの世に生まれてきたわけではないからだ。ふと気が付くと、存在していたというのが実情である。だから自分の行為に理由を与えることができても、自分の存在に理由を与えることはできない。実存は無根拠である。
1. 無根拠だから不条理とは言えない
では実存は不条理(absurd)だとも言えるだろうか。つまり実存は、私たちが憤らなければならないような無根拠なのだろうか。一般に「Xは不条理だ」と言うとき、それは「Xでないことが望ましい」を含意している。例えば、「人種差別は不条理だ」と言う人は、「私は、人種差別がなくなれば、そのことに満足する」と同じことを言っているのである。
実存の不条理にも同じパラフレーズが可能かどうか確かめてみよう。「私の実存は不条理だ」という命題が真ならば、「もし私が存在しなければ、私は満足する」も真でなければならない。しかし、もし私が存在しなければ、私が存在しないことに満足する私自体も存在しないのだから、満足することは不可能である。だから私の実存は不条理ではありえない。
2. 実存は不条理でも合理的でもない
このように問うことが問いそのものを無意味にする問いとして、「なぜ私たちは理性的なのか」という問いがある。理性(reason)とは「なぜ」と理由(reason)を問うことができる能力である。もし私たちが理性的でないならば、この問いを発することすら不可能である。そして実は、この問いは、「なぜ私は存在するのか」という問いと同じ問いである。なぜなら、私たちは、理性的存在者として存在するからである。
「実存は不条理か否か」と問うことは、「数字三は甘いかすっぱいか」と問うことと同様に、無意味である。三つのりんごは、甘かったりすっぱかったりするが、三という数字自体は、甘くもすっぱくもない。同様に、実存についての認識や取り扱い方は、不条理であったり合理的であったりするが、実存そのものは不条理でも合理的でもない。
3. 不条理でありうるものは何か
ある自然法則を提唱した科学者が、その後反証例を見出した時、「私の法則に従わない現象があるとはけしからん。自然は不条理だ」と憤ることは、科学者として正しい態度ではない。不条理なのは、自然ではなくて、その人が考え出した自然法則の方である。
障害をもって生まれた人の中には、「私は何も悪いことをしていないのに、どうしてこんなハンディを負わなければいけないのか。こんなことならば、いっそう生まれてこないほうがよかった。実存は不条理だ」と憤る人もいるかもしれない。しかし、もし障害の原因が人為的なものでないとするならば、その人は憤る対象を間違えている。不条理なのは、障害をもって生まれたことではなくて、障害を理由にその人から自由を著しく奪う社会のありかたの方なのである。
ディスカッション
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実存(existence)は語源的に見れば、ラテン語existoに由来し、ex=out外 + sto=to stand立つ、と考えると、「外に立つ」という意味になる。「何の外に」に立つのであろうか。これを「存在(自然)の外に立つ」ととれば、人間とは「存在(自然)の外に立つもの」となる。さらにこの「外に」を「超える」とか「超越」とかの意味に解すれば、人間とは、自然を超えた存在(存在を超えた存在)となる。すると、「存在を超越した存在」とは他の言葉で述べると「自由な存在」とならないだろうか。
こうして、「ふと気が付くと、存在していた」ものが、existenceという言葉を分析していくと、「自由な存在」となる。ここから、自律(アウトノミー)(自立といっても変わりはない)という言葉が連想される。自律を語源的に見ていくと、autonomyはauto=autos=self自己+nomy=nomos=law法律、であって、広辞苑には、「外部からの制御から脱して、自身の立てた規範に従って行動すること」と出ている。政治学では、共同体や国家の権限で、独立性や主権や自己決定をあらわし、「自ら法律を作って、その法律に従うことsich selbst Gesetze zu geben und nach ihnen zu handeln」である。広辞苑にはさらにカントを引き合いに出して、「カントの倫理思想において根本をなす観念。すなわち実践理性が理性以外の外的権威や自然的欲望には拘束されず、自ら普遍的道徳法を立ててこれに従うこと」と出ている(ちなみに広辞苑は哲学用語に関してはよくできていると思う)。
カントで重要なのは「理性以外の外的権威」と言っているように、「神」に依存することもできない。神に依存することは他律(heteronomy)となって、道徳法則にはふさわしくないという。ということは、自律という思想には、理性的な存在は「自らが神である」、ということが含意されていることになる。だが、カントはこれを拒否した。神にも依存しない、理性的な存在が、「自由な存在」である。これを徹底すると逆に、フォイエルバッハのように、神は人間の創造物となる。こうして、「ふと気が付くと、存在していた」存在が「自律的な存在」となっている。私の言葉に直すと、受動的存在が能動的存在となっている。これを具体的に言うと、「種子(卵)は成体(親)になる」、となって、落ちつくことになる。(どうしてこうなるのか私は知らないが、論理的に考えていくとこうなるしかない)
これに関連して、ハイデガーの解説書に次のようにあった。「世界を能動的に形成する働きを、ハイデガーはと呼ぶ。英語ではprojectと訳される言葉である。一方、気がついたら世界に投げこまれ、そこにとりこまれているあり方を、彼はと呼ぶ。は、この企投と被投性が同じくらいの根源性をもって分かちがたく絡み合ったあり方である。被投的企投、つまり受動的能動ともいうべきこのをハイデガーはこまかく分析し、現存在が世界の内に存在するそのの全体的構造-…-をという概念で捉える。」(木田元『ハイデガー”存在と時間”の構築』岩波現代文庫、2000年、65-6頁。)「つまり、われわれは世界を定立しつつ、まぬがれがたくその事実的世界につながれているという逆説的事態が、この自然的態度には認められたのであるが、ハイデガーも世界内存在というときのを分析しつつ、そこに GeworfenheitとEntwurfとが分かちがたく属していることをあきらかにする。われわれは、世界のうちに理由もなく投げ出されており、したがってそのことには何の責任も負いかねるがわけであるが、それでいながら、われわれはこの世界内存在をどのように生きてゆくか、自己をどのように存在させるかを、われわれの自由にまかせられ、みずからの責任においてこの存在を投げ企ててゆかねばならないのである。」(木田元『現代の哲学』講談社学術文庫、1991年、80頁。この本の元版は1969年の出版。)
“existence”を何の外に立つと解釈するかは、その哲学者の理論によることでしょう。例えば、ハイデガーは、『存在と時間』では、実存(Existenz)を、たんなる存在(Sein)から区別して、存在了解している現存在のあり方として捉えています。後期のハイデガーもこの考えを受け継ぎ、ExistenzをEk-sistenzと表記し、存在の光の中に立つことが実存だとしています。何の外に立つかは、はっきりしませんが、ハイデガーが終始近代自然科学的な世界観を、存在論的真理を隠蔽するものとして拒否しつづけてきたことを考えれば、Ek-sistenzを存在的でフォアハンデンな態度から離れて立つことと考えてよいのではないでしょうか。さて、ヘーゲルのファンさんは、実存を「自然の外に立つ自由な存在」と認識しておられるようで、レアール/イデアールという分類でいけば、私とは存在/実存の区別が逆になっていますね。言葉をどう定義するかは人の勝手だから、そのこと自体を批判するわけではないのですが、現在のヨーロッパでは、”existence”という言葉は、「生存・生活」という意味で使われるので、こうした日常言語の用法に鑑みるならば、実存(現実存在)は、イデアールではなくてレアールだと思います。もっとも「レアール」というドイツ語は、英語で言えば「リアル」なわけで、「レアールな存在」を実存哲学的に「本当の存在」と解釈するならば、話はまた違ってきますが。ところで余談ですが、カントの倫理学は、必ずしも神を外的権威として拒否していません。『実践理性批判』を読めばわかるように、カントは神の存在を徳福一致のために「要請」しています。