カオスと決定論
カオスは日本語の混沌に相当する。しかし、カオスはたんなる無秩序ではない。カオスとは何か。非線形で非決定論的であるにもかかわらず、なぜカオスは不可知論を帰結しないのかを考えよう。

1. なぜ自然科学は決定論的であったのか
ある晩のこと、一人の酔っぱらいが電灯の下で何かを探していた。
通行人:何か探しているのですか?
酔っぱらい:財布を落としたので探しているのだよ。
通行人:電灯の下で落としたのですか?
酔っぱらい:いや、そういうわけではないのだが、電灯の下は明るくて探しやすいから、電灯の下で探しているのだよ。
近代の自然科学は、この酔っぱらいと同じようなことをやってきた。しばしば自然科学は人文科学や社会科学よりも厳密だと言われるが、自然科学は厳密な数学的分析ができる分野でしか研究をしてこなかったというのが実態である。しかし近年のカオスの科学は、そうした視野の狭さを超えて、理系と文系の壁を崩しつつある。
2. カオスは非線形である
まずカオスとは何かから説明しよう。カオス(混沌)という言葉は、日常的には、たんに無秩序を意味する言葉として使われるが、複雑性の科学では、確定的な非線形の規則にしたがって、予測不可能な不規則な振る舞いをするシステムのことを表す専門用語として使われる。複雑系とカオスを同一視する研究者もいる。

非線形とは、1次関数のような線形ではない関数のことを言う。例えば、
f(x)=4x(1-x) (ただし、0≦x≦1)
というロジスティック方程式は、2次関数であり、放物線を描くので、非線形である。このロジスティック方程式は、限られたある領域に分布する生物のある世代の個体密度x(満員は1、絶滅は0)が、次の世代にはどうなるかを表した写像である。4xは、平均4の子供を産むということであり、(1-x)が掛けられているのは、個体密度が高くなると、資源の不足や争いの増加などで増殖が妨げられるということを表している。この単純な写像を何世代にもわたって適用すると次のような結果が得られる。
世代 | 個体密度 1 | 個体密度 2 |
---|---|---|
0 | 0.40000 | 0.40001 |
1 | 0.96000 | 0.96001 |
2 | 0.15360 | 0.15357 |
3 | 0.52003 | 0.51995 |
4 | 0.99840 | 0.99841 |
5 | 0.00641 | 0.00636 |
6 | 0.02547 | 0.02526 |
7 | 0.09928 | 0.09850 |
8 | 0.35768 | 0.35518 |
9 | 0.91898 | 0.91610 |
10 | 0.29782 | 0.30743 |
11 | 0.83650 | 0.85167 |
12 | 0.54707 | 0.50531 |
13 | 0.99114 | 0.99989 |
14 | 0.03514 | 0.00045 |
15 | 0.13561 | 0.00180 |
これを見てわかるように、個体密度は一定の値に収斂することもなければ、周期性を見せることもない。この世代数を無限に大きくしていくと、スーパーコンピュータですら個体密度を予測することができなくなる。このように、単純な確定的規則に従いながら、無秩序で予測不可能な振る舞いを見せるシステムがカオスと呼ばれるのである。
3. カオスは非決定論的である
カオスのもう一つの特徴は、初期値敏感性である。個体密度1と個体密度2では、初期値が0.00001しか違わない。通常この程度の誤差は有効数字外として無視されるのであるが、15世代目を見てみると、まったく違う結果が帰結していることに気が付く。こうした初期値敏感性はバタフライ効果とも呼ばれている。蝶々が羽をパタパタしたことで、そうでなければ、発生しなかったであろう台風が発生するというわけである。これはやや誇張されすぎだが、気象現象は典型的なカオスで、天気予報官が、明日の天気を高い確率で予測できるのに対して、10日以上先の天気となるとまったく予測できないのは、バタフライ効果のおかげである。
このバタフライ効果は、近代的な決定論を突き崩すことになる。ガリレオやニュートンを嚆矢とする近代自然科学のパラダイムは機械論的決定論であった。19世紀のフランスの数学者ラプラスは、自然界はすべてニュートン力学的運動をする粒子から構成され、厳密な因果法則によって縛られていて、現在の初期条件と束縛条件をすべて認識する悪魔的能力があれば、未来の任意の時点におけるすべての粒子の状態を予測できると考えた。人間が未来を正確に予測できないのは、そうしたラプラスの悪魔ほどの認識能力がないからで、自分は自由に行為しているという人間の幻想とは裏腹に、すべてはあらかじめ決定されているのだというわけである。ニュートン力学は、現在でも限定的な妥当性が認められているが、ニュートン力学を不当に拡張するとこうしたラプラスの悪魔を生むことになる。
機械論的決定論は、人文科学や社会科学にも大きな影響を与えた。観念論的哲学者は、自然の必然性から自由意志を守ろうとあらゆる抵抗を示した。社会科学者は、自分たちが蓋然性に基づく議論しかできないことに劣等感を抱き、歴史の必然的「法則」を見つけようとやっきになっていた。近代ブルジョア科学のイデオロギー性を批判していたマルクスも、決定論的パラダイムからは抜け出せなかったのである。
機械論的決定論は、20世紀になって徐々に崩れていく。量子力学における不確定性原理は、ミクロのレベルでの決定論を否定し、複雑性の科学におけるバタフライ効果は、マクロのレベルでの決定論までを否定した。
量子力学のコペンハーゲン解釈によれば、ミクロなシステムは本来存在が不確定な波動で、波動が収縮して確定的になるのは、認識という主観の干渉のおかげである。だから、対象は確定的で、人間の認識能力が不十分であるから不確定に見えるだけだという決定論者の議論は成り立たなくなる。
量子力学が登場しても、マルクス主義者は、ミクロなレベルでの偶然性は、マクロなレベルでの必然性へと止揚されると主張した。ちょうど、高速道路を走る自動車には、車線を変更したり、スピードを調整したりする自由があるが、最終的に到着する地点はあらかじめ決定されているように、歴史においても、途中で多少の紆余曲折があるにしても、最終的に人類社会が向かっていく方向が共産主義革命によるプロレタリア独裁であることは必然であるというわけだ。
しかしもしミクロのレベルでの不確定性が、バタフライ効果により、マクロのレベルでの不確定性へと拡大されるとするならば、こうした議論も成り立たなくなる。決定論的パラダイムは、共産主義の崩壊と時を同じくして瓦解し、代わって登場したのが、不確定性に満ちたグローバルな市場経済であり、複雑系の科学である。
4. カオスは不可知論を帰結しない
カオスが、決定論的な規則にしたがっているにもかかわらず、予測不可能な不規則な振る舞いをするということは、逆にいえば、予測不可能な無秩序と思われる現象も確定的な規則に還元できる場合もあるということである。複雑系の研究者の中には、そうした試みは古い還元主義の残滓だとして、複雑性を複雑なまま捉えようとする人たちもいるが、それでは、それこそ太古から存在する神秘的な不可知論と変わらないことになる。カオスの斬新さは、自然法則は確定的で未来は予測可能とする決定論とも、自然法則は不確定で未来は予測不可能とする不可知論とも違って、自然法則は確定的だが未来は予測不可能とする新しい立場を打ち出したところにある。
「自然法則は確定的だが未来は予測不可能」というテーゼが理解できないという人のために、メタファーを使ってカオスの本質を説明したい。スポーツの試合では、あらかじめ選手が従うルールが確定的に決まっているが、選手の振る舞いはカオス的に不規則であり、試合の勝ち負けをあらかじめ予測することは困難である。もしあらかじめ勝ち負けがわかっていたら、誰も試合など観戦しないであろう。はじめから勝敗がわかっていると思われる試合でも、最初のちょっとしたミスが、番狂わせによってとんでもないハプニングを次々と生み出し、負けるはずのないチームが負けるというバタフライ効果もしばしば見られる。試合が人々を魅了するのは、それがカオス的な複雑系であるからである。
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コメント一覧
再度申し上げますが、「パラドックス」という語を日本語に訳すと「逆説」なのであります。
尚、「逆説」と「パラドックス」とは同義ですが、「単なる逆説(という語)」と「クレタ人の嘘然り嘘つきのパラドックス」とは、片や「逆説(パラドックス)形式であるということ」、もう片や「どのようなパラソックス(逆説)が種類としてあるかに関わるところの一種」ということであるわけです。
さて、ここまでの話は下記です。
①永井俊哉氏のお書きになっていることというのは、単に形式が逆説であるということだけで何らの「逆説内容独自考察」も無い内容であるということを確認できた。・・・石黒談
②自己言及のパラドックスは、たくさんの種類があるパラドックス(逆説)のうちの一つというべきでしょう。・・・永井俊哉氏談
要するに永井俊哉氏は、【自分は逆説(パラドックス)に陥ってはいない】と仰りながら、【自分は単に逆説(パラドックス)形式で『4. カオスは不可知論を帰結しない』と書いただけだ】と仰り、さらには【自己言及のパラドックスは、たくさんの種類があるパラドックス(逆説)のうちの一つというべきでしょう】などと、【はたして永井俊哉という人物は単に形式的な人物でしかないのか否か】という石黒による考察とは対義的な方向へ(故意的且つ逃げるかの如くに)話を摩り替えているということが起きているというわけです。
以上のことから、永井俊哉氏の場合、「ご自分を客観視できていない」という批判をここに私は初めて書かせていただきます。
【>自己言及のパラドックスは、たくさんの種類があるパラドックス(逆説)のうちの一つというべきでしょう】などということは、この場においての「私による-永井俊哉氏-確認には何ら関係無いことなのであります。
ですので、再々ながら、【確認できてすっきりした】と私は申し上げておりますわけで。
それに、そのような【パラドックスの種】についてなど、それこそ他の書物を当たったほうが当然ながらいいわけで。
当ページへの「(私による)確認事項」は、以上を持ちまして終了とさせていただきますが、まだ、何がしかの「屁理屈」が仰りたいのでしたら(それは読んでいるこちらとしても大層イタい永井俊哉氏のさまを見せられることにもなりますが、それでもよろしかったら)、勿論どうぞどうぞ。
私は単なる論客で、ここは永井俊哉氏のページですので。
「逆説についての研究・考察」あるいは「逆説に対する研究や考察」と「逆説的な研究や考察」の違いを理解したようですね。ただ、「逆に言う」と「逆説的に言う」と「独自の理論を言う」の違いはまだわかっていないようです。
言葉を正しく理解し、正しく使うことは、まともな議論をする上で必要不可欠な前提条件です。私は、この点で、石黒さんには、まだまだ改善の余地があると思います。だから、私は、石黒さんに、国語と論理学を基本から勉強し直すことをお勧めします。
なお、私は、逃げるために「話を摩り替えて」いるのではなくて、石黒さんが言っていることがわからないから、「こういう意味で言っているのか」「ああいう意味で言っているのか」といろいろ聞かなければいけなかったというだけのことです。私の主張自体は、最初から一貫しています。
先の投稿にて最終とさせていだたつもりで御座いましたが、何やら、このたび、また、ご返信をいただきましたので、放置するのも心もとなく(あるいは痛々しくもしくはお可哀想に)思いまして、書き込ませていただきます。
さて、「逆説についての研究・考察」あるいは「逆説に対する研究や考察」と「逆説的な研究や考察」の違いをご理解くださいただけましたでしょうか?
もし、このたびの件により永井俊哉氏ご自身が何がしかの「気付き」にご至りでしたら大変嬉しく存知ます。(永井俊哉氏による、悉くイタいご投稿内様によりそれ-つまりが-自己保存のためそのヤバさからのあらすじ捏造心理-がはっきりと現れておりますわけですが)
しかし、「逆に言う」と「逆説的に言う」と「独自の理論を言う」の違いのほうはどうでしょう?
おわかりになりましたでしょうか?
まあいいです。
言葉を正しく理解し、正しく使うことは、マトモな議論をする上で必要不可欠な前提条件であることは周知の事実です。
尚、『石黒の言っていることがわからない』のでしたら、勉強し直すのは私(石黒)ではなく永井俊哉氏ご自身であられますことを、僭越ながらご理解なさるべきと存知ます。
因みに、私には支離滅裂であられる永井俊哉氏が「何故・支離滅裂なのか」ということも、これまで流れから大いに読めます。
永井俊哉氏 : 私はただA形式の文をただ書いただけだ。
石黒 : はい。それをこのたび確認しました。
永井俊哉氏 : Bのことを知りたいのなら他を当たってくれ。
石黒 : ええ。Bのことを知りたいのなら勿論他を当たったほうが意義があるでしょう。しかし、私が確認したかったのは「あなたが書いていることがA内容ではなくA形式文である」ということでしたので、AとBとが異なるにも拘わらず地続き的に活字化している永井俊哉氏に対し『AとBとは異なる』ということの突っ込みをいれさせていただいたのであります。
永井俊哉氏 : ふふふ。AとBとの違いがやっとわかったようだな。
石黒 : ですからww。その違いがわからず、だからして地続き的に活字化していたのはあなたですからww
永井俊哉氏 : 石黒くん、きみに国語と論理学を基本から勉強し直すことをお勧めするっ!
石黒 : 国語や倫理学以前に、あなた(永井俊哉氏)には-『どうやら自分という人間は倫理的な人間ではなさそうだ』-ということを学んでいただきたく存知ますが、、、おそらく無理でしょうwww
ですので、もういいです。私のほうは既に「確認事項」に対する解決をしておりますから。
匿名とはありますが、上記投稿者も、(いわずと知れた)私-石黒-の投稿でありました。また、訂正箇所もありましたので訂正を入れます。
失礼しました。
×さて、「逆説についての研究・考察」あるいは「逆説に対する研究や考察」と「逆説的な研究や考察」の違いをご理解くださいただけましたでしょうか?
○さて、「逆説についての研究・考察」あるいは「逆説に対する研究や考察」と「逆説的な研究や考察」の違いをご理解いただけましたでしょうか?
*と、いうように、私の場合はこの件における投稿にて「自分サイドの不備ないしはミスタイプ」には必ず一言侘びを居れ訂正致しておるわけです。
永井俊哉氏も、「ご自分サイドに(形式表現上などの)落ち度のある場合」には、『一言侘びを入れる』という倫理性がおありになってもよさそうなものである。と私は思うわけです。
たしかに、自分の間違いに気がついたときには、それを正直に認め、訂正することが学者の倫理です。しかし、相手に迎合するために、間違っていないと自分が思っていることを間違っていると言うことは、むしろ倫理に反することではないのですか。
さて、石黒さんが謂う所の形式表現上の落ち度とは何のことでしょうか。おそらく“単に形式が逆説であるということだけで何らの「逆説内容独自考察」も無い内容である”ということでしょう。では、石黒さんが逆説的な表現形式と考えている箇所はどこでしょうか。これまでのコメントから判断すると、「カオスは不可知論を帰結しない」という第四節のタイトルのようです。
「カオスは不可知論を帰結しない」が矛盾を含んでいない、したがって逆説ではないことは、すでに説明したとおりですが、まだ納得していないようなので、改めて説明しなおしましょう。
まずは、基本的な概念の意味の説明から始めます。「逆説」という言葉は、一般には、以下のような事柄を意味します。
ここからもわかるように、逆説が成り立つためには、「真理にそむいている」または「矛盾をはらむ」または「事実に反する」、包括的に言うならば、矛盾を孕んでいることが必要条件となります。しかしこれだけではまだ十分条件ではなくて、逆説が成り立つためには、「一面の真理を言い表している」または「正しい推論によって導き出されているようにみえる」または「それを導く論理的過程のうちに、その結論に反対する論拠を容易に示しがたい」といった条件が必要です。
以上のことを理解したとして、「カオスは不可知論を帰結しない」が逆説的表現でないことを説明しましょう。もしもこの命題が「カオスは非決定論を帰結しない」であったとするならば、それは矛盾を含んでいることになります。その前の節のタイトルにあるように、私は「カオスは非決定論的である」と書いたから、私は「カオスは非決定論を帰結し、かつ帰結しない」と言ったことになり、これは明らかに矛盾です。
もしも矛盾した表現が用いられていても、そこに何らかの真理があるならば、それを逆説(パラドックス)と呼ぶことができるでしょう。そして、その逆説が世界で初めて発見されたものであるならば、それを独自理論と呼ぶことができるでしょう。また、逆説的な命題を掲げながら、なぜその命題が成り立つのかを十分に説明していないとするならば、石黒さんの批判はもっともだということになるでしょう。
しかし、私が書いたのは「カオスは不可知論を帰結しない」であって、「カオスは非決定論を帰結しない」ではありません。後者は矛盾を含んでいますが、前者はそうではありません。私は、「カオスの斬新さは、自然法則は確定的で未来は予測可能とする決定論とも、自然法則は不確定で未来は予測不可能とする不可知論とも違って、自然法則は確定的だが未来は予測不可能とする新しい立場を打ち出したところにある」と本文で書きました。つまり、
(1) 自然法則は確定的+未来は予測可能 :決定論
(2) 自然法則は確定的+未来は予測不可能:カオスの理論
(3) 自然法則は不確定+未来は予測不可能:不可知論
ということです。これを見ればわかるように、カオスの理論は、(1)ではないという点で非決定論であり、(3)ではないという点で、非不可知論であります。そして、(2)と(3)が異なるのだから、「カオスは不可知論を帰結しない」と言っても、それは矛盾を孕むことになりません。
最初に確認したように、矛盾を孕むことは逆説が成り立つための必要条件です。
「逆説である」⇒「矛盾を孕む」
これは、以下の対偶と論理的に等値です。
「矛盾を孕まない」⇒「逆説ではない」
よって、「カオスは不可知論を帰結しない」が矛盾を孕まない以上、それは逆説ではないということになります。この命題は、その形式においても、内容においても、逆説ではないのだから、私の命題の「形式が逆説である」という前提の上に成り立っている石黒さんの批判は成り立ちません。
“永井俊哉氏は、【自分は逆説(パラドックス)に陥ってはいない】と仰りながら、【自分は単に逆説(パラドックス)形式で『4. カオスは不可知論を帰結しない』と書いただけだ】と仰り”云々という石黒さんの認識が間違っていることがわかりになりましたか。
相手が言っていることが意味不明である時、最初から相手の言語能力を疑うのは失礼にあたるので、まずは、相手の言っていることを理解するために、さまざまな解釈を用意して、それが当てはまるかどうかを一つ一つテストするのが礼儀というものでしょう。あなたは、それを、逃げ回るために論点を掏り替えていると誤解しているようですが、こちらは、あなたの意味不明な文章を理解するためにそれなりの努力をしてきたのです。そして、対話を重ねるにつれて、原因が私の側ではなくて、あなたの側にあることに気付いたので、もっと言葉を正しく理解し、正しく使うようにアドバイスを申し上げた次第です。
『石黒の謂っていることがわからない。意味不明だ。』と仰りつつ『原因は石黒にある』と仰るのが永井俊哉氏であるわけですが、
永井俊哉氏のそのさまは、まるで、
『 石黒さんの謂うことなんて全然わかんないよ! 石黒さんなんか大っ嫌いだ! みんな石黒さんのせいだ! 』
というさまと等しいように感じました。
*面倒を見てあげられないでごめんなさい。
*私はあなたのママじゃあないので。
*【ご自分による「ご自分の行為性に対する理解力」の無さ】を石黒のせいにすることによっても、永井俊哉氏にとっての精神的自己保存は(わけわかめながら)可能なのでしょうから、それでもいい(どうでもいい)と思います。
*ただ、「アカラサマに論点を摩り替えつつ必死に逃げ惑うそんな永井俊哉氏」を石黒から見れば、「逃げているように見える」ことなど当たり前なのであり、むしろ「逃げている以外の何ものでもなく永井俊哉氏は逃げている」のであります。
*尚、そのように、無自覚にも主観主義的精神に在る永井俊哉氏には、私が述べたことなど(おそらく)一生理解できないのではないかとさえ思います。
*永井俊哉氏における、その-『アカラサマに逃避しつつの責任転嫁現象』-を、【(極度のナルティシズムから端を発した)無自覚性幼児化現象】と、私はここに命名したいと存知ます。
楽しい人間観察のひとときを、ありがとうございました。
お陰様をもちまして、永井俊哉氏の(ホニャララな)人間性をきっちり確認できました。
どうやら理論的反論を断念したようですね。理論的反論の断念は、石黒さんの理論的な敗北の宣言を意味します。石黒さんが感情的な誹謗中傷を行うのは、他に反撃の手段がなくなったということでしょう。
私は、たしかに、石黒さんの言っていることがわからないと書きましたが、それは「石黒さんにはまともな国語力と論理力がある」と仮定していたからです。初対面の相手に対して、最初から相手の国語力と論理力を疑うことは失礼だから、相手にはまともな国語力と論理力があるという前提で対話を始めるのが礼儀というものです。
しかし、対話を重ねるにしたがって、石黒さんは、国語力と論理力という点で問題があることに気が付きました。そして、「石黒さんにはまともな国語力と論理力がある」という当初の仮定を否定することで、石黒さんが言っていることが理解できるようになりました。
結局のところ、石黒さんは、誤読と誤解から勝手に期待を抱き、私にその間違いを指摘されて、期待が裏切られると、逆上し、私に「責任転嫁」して、人格攻撃を始めたというのが実情でしょう。「悉くイタいご投稿内様(ママ)」をする「ご自分を客観視できていない」のは、石黒さんの方です。
>結局のところ、石黒さんは、誤読と誤解から勝手に期待を抱き、私にその間違いを指摘されて、期待が裏切られると、逆上し、私に「責任転嫁」して、人格攻撃を始めたというのが実情でしょう。
ああ、それは全く違いますね。解釈が。
まるで「コメディー・ネタ」か「パロディー・ネタ」レベルの解釈違いです。
私としては、ハナッから、
【この人物は眉唾者だ】←と、永井俊哉氏を見ておりましたわけです。
そして、その-「私自身の読み」-を【確認】するために、直で永井俊哉に話しかけてみたというわけですから。(「確認目的」ということについては再々に渡り一貫して述べてきていたのが私であります。)
先に書いた-【期待した私が馬鹿だったということでOK】-との内容は、
【永井俊哉氏を極力傷付けぬようにするために書いた言葉だっただけ】ですので。
【ああ、やっぱこの人(当初の読みどおり)似非じゃん。】←などと書くよりも【期待した私が馬鹿だったということでOK】ということにしておいたほうが、【ふんずり返るの大好き人間である永井俊哉氏にとっては「さも-自分側に責任無き表現」をされたほうが「俺のせいではない」という得意の自己保存だって可能】でしょうに。
つまり、永井俊哉氏は、このたび、
【石黒から与えられた逃げ道どおりに逃げた】ということ。
それはそれは面白いほど、私のシナリオどおりにレスを返してくれるので、その点でも面白かった(楽しかった)です。
まあ、永井俊哉氏にわかり易い部分だけをピックアップして種明かししてみれば、つまりが、【私のほうが、ここはひとつ大人になって、「期待していたことにして差し上げた」】というのが当からくりです。
永井俊哉氏には、
『まあ、そう感情的にならずに。。。(笑)』
とも、申し上げておきます。
さて、観察のオプション的なコトガラに対する御礼も少し書かせていただきます。
「それは石黒さんの方(ほう)です」というカタチで以って、『石黒が書いた内容をオウム返しなさるしかない-永井さんの-その行為性』もわからなくも無いです。
「他者(要するに私・石黒の文)をそっくりそのまま盗み且つ自分の言葉として書いた本人へ返す」という、その-永井さんの行為性-のことを申し上げています。
「学ぶ」ということの元は「真似る」から始まって然りです。
【「永井さんとしても使用したくなる文(ないしは文脈)」を私(石黒)は書けている】
【それというのは「オウム返し」を行う永井さんの行為性でわかる】
ということ。
勿論わかっております。
永井さんという方が「オリジナリティー無き方である」ということは。
しかし、何事も「確認」せぬことには「事実」としてはっきりしないというもの。
そもそも「その確認」のためにここに書き込ませていただきましたのが私であるわけですが、
まさか、「ここまで永井氏-その-オリジナリティーの無さ」を確認させていただけるとは思ってもみないところの収穫でした。
本当にありがとうございました。