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フェミニズムとは何か

2000年10月14日

人々は、フェミニズムをジェンダー・フリーな平等主義と誤解することで、フェミニズムが持っている欺瞞的性格を覆い隠してきた。フェミニズムと平等主義を区別しながら、なぜフェミニズムが女性を解放しないのかを明らかにしよう。

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1. フェミニズムは平等主義ではない

アメリカでは、1973年に徴兵制が廃止されて志願兵制になってから、多くの女性兵士が誕生したが、女性が戦闘行為にまで参加することがよいかどうかをめぐってフェミニストたちの間で意見が分かれた。男女の完全な平等を実現するためには、女性兵士も、男性兵士と同様に銃を手に前線で戦うべきだと賛成する女性もいれば、戦争は男性原理に基づくもので、女性自ら戦争に荷担することは、フェミニズムの敗北だと言って反対する女性もいた。

こうした論争は、フェミニズムと呼ばれている思想に、狭義のフェミニズムと平等主義という対立する二つの立場があることを示している。平等主義は、「もし男性が戦場で戦うことが許されるのなら、女性にも同じことが許されるべきである」とする形式的な理念であって、戦争を許容するかどうかという実質的な価値判断に関してはニュートラルである。

しばしばフェミニズムとは、男女差別を撤廃し、ジェンダーフリーな社会を作ろうとする平等主義のことだと思われているが、フェミニズムは直訳すると「女性主義」であり、名前自体が<男女平等=ジェンダーフリー>でない。たんなる男女の平等を目指す立場は、フェミニズムではなくて、エガリタリアニズム(egalitarianism 平等主義)と呼ばれるべきである。

2. ラディカル・フェミニズムの誕生

1960年代後半から1970年代前半までの女性解放運動は、女性が男性と同じになることを目指していた。しかし70年代後半から80年代にかけて、女性解放運動家たちは、そうした要求は、女性的価値に対する男性的価値の優位を前提にしており、ヨーロッパ系言語に見られる《男=人間》の観念に追従するものだと考えるようになった。こうして、「男らしさ」と「女らしさ」の差異を解消するのではなくて、両者の異質性を強調し、両価値の平等を、さらには後者の優位を説くラディカル・フェミニズムが登場する。女性解放運動の目的が、女性の権利から女性のアイデンティティの確立へと変質していったのである。

その典型が、70年代に盛んになった環境保護運動と連動したエコフェミニズムである。エコフェミニストは、近代資本主義社会による資源の搾取と自然破壊を男性の女性に対するレイプに喩え、母性原理による地球の保護を訴える。彼女たちは、母性対父性の二元論を優しさ対勇ましさ、自然対文明、協調対競争、平和対戦争、感情対理性などの二元論へと重ね、男たちが「男らしい」と賞賛する力の論理を批判する。

「男らしさ」に対する「女らしさ」の優位を説くエコフェミニストは、男尊女卑のセクシスト(sexist 性差別主義者)のたんなる裏返しではない。伝統的な男尊女卑のセクシストは、女性が男らしくなることに嫌悪感を示すが、エコフェミニストは、男性が女性的になることに好感を示す。セクシズムがたんなるエゴイズムであるのに対して、フェミニズムには思想がある。

ラディカル・フェミニズムのもう一つの潮流として、マルクス主義的フェミニズムがある。マルクス主義的フェミニストは、男性/女性の関係をブルジョワ/プロレタリアンや先進国/発展途上国といった搾取/被搾取の関係で捉えているため、男性であってもプロレタリアンや第三世界の人々に連帯意識を感じている。

セクシストとフェミニストの違いを説明するためには、セックスとジェンダーが異なることを説明しなければならない。セックスが生物学的な性であるのに対して、ジェンダーは社会的・文化的な性である。生物学的な性が男性でも、ジェンダーは女性でありうる。フェミニストは、ジェンダー・コンシャスではあるが、必ずしもセックス・コンシャスではないと言うことができる。

しかしそうは言っても、ジェンダーはセックスと無関係というわけにはいかない。マーガレット・サッチャーのような、競争原理を肯定する女性が増えてくれば、もはやジェンダーのレヴェルでも、弱者切り捨てや競争原理が男の論理だとは言えなくなる。

3. フェミニズムの落とし穴

ジェンダー・コンシャス・フェミニズムの最大の問題は、女性を女らしさに閉じ込め、選択の自由を奪うところにある。私たちは、生まれる前に、自分の意志で男性になるか女性になるかを決めたわけではない。また性転換技術が不十分な現時点では、生後にも性を選択する自由がない。生物学的な性とジェンダーレヴェルでの性自認が異なるトランスジェンダーにとって、性差極大主義者(maximizer)であるフェミニストあるいはマスキュリニストは、迷惑な存在である。性同一性障害者が、乳房やペニスを切り落とそうとするのは、がん患者ががん細胞を切り落とそうとする場合とは異なって、社会や文化がジェンダー・コンシャスであるからである。

フェミニズムと同じ弊害をオリエンタリズムが抱えている。近年欧米の哲学者たちは、従来の西洋=ロゴス中心主義を反省し、東洋思想に関心を持ち始めている。しかし東洋思想に関心のない日本の哲学者である私は、こうした傾向を嬉しくは思わない。カントを研究している日本の哲学史研究者がドイツに行って、カントをテーマにした講演をしようとしたが、誰も聞いてくれないので、予定を変更して禅をテーマにしたところ、ドイツ人は珍しがって聞きに来てくれたという話がある。女性の社会学者も、フェミニストと自称した方が、マスコミで取り上げてもらえる確率が高くなる。しかし「日本人」も「女性」も、本人が自由意志に基づいて選んだ属性ではない。種の個性が、個人の個性と異なる時、種の個性が賞賛されても、本人は疎外感を感じるだけである。

話をエコフェミニズムに戻そう。先進国の豊かな生活にあこがれているアフリカの人にとって、アフリカの豊かな自然を賛美するヨーロッパの「進歩的知識人」の言説は偽善に満ちたものに聞こえる。「アフリカの自然がそんなに良いのなら、なぜあなたたちは、アフリカに定住せずに、逆にアフリカ人労働者のヨーロッパへの移住を拒否するのか」とそのアフリカ人は問い返すだろう。エコフェミニズムは、古き良き《女らしさ》や《処女的な自然》を賛美することによって、当事者に抑圧感を持たせることなく、女性原理を保存しようとする巧妙な手口なのである。

4. フェミニズムは女性を解放しない

かつて人種差別にフラストレーションを感じた黒人たちは、自分たちを心の温かい太陽の人、白人を心の冷たい氷の人と呼んで、価値観を逆転させようとした。こうした試みは、人種差別という最も是正しなければいけないところを是正せず、白人と黒人のどちらが上かというどうでもよいところだけを逆転させるきわめて皮相な抵抗運動である。

同様に、ラディカル・フェミニズムも少しもラディカルではない。ラディカルであるためには、「男らしさと女らしさのどちらが優れているか」という問題意識そのものを止揚しなければいけない。

90年代以降、女性の社会進出に反比例するように、フェミニズムは衰退していった。このことは、21世紀が「女性の時代」などではなくて「個人の時代」であることを示している。