他者は存在するのか
自分に意識があるということは確実な事実である。では他者にも同様の意識があるということをどうやって証明したらよいのであろうか。この証明に行き詰まる時、ひょっとしたら、意識がある存在者は自分だけではないだろうかという独我論が頭をもたげて来る。

1. 哲学者を悩ませる独我論
今あなたは、アニメ映画を見ているとしよう。あなたは映画の主人公と自己同一し、主人公とともに恋人の死に涙する。しかしふと我に返ると、映画の登場人物はすべて架空の存在者であり、自分が見ていたものは、たんにブラウン管に映し出された映像にすぎないことに気がつく。
これと同じことを現実の(とこれまで考えていた)世界にも応用してみよう。そして、自分が今楽しくおしゃべりをしている友人も実は幻ではないだろうかと疑ってみよう。友人は、テレビの登場人物と違って、自分の質問に答えてくれる。しかしインタラクティヴTVが登場すれば、画面の背後に、本当の人間がスタンバイしているのか、たんにできの良いコンピュータと会話しているだけなのかわからなくなる。
疑惑はどんどん広がる。この文を書いている永井俊哉もひょっとすると意識のない作文マシーンではないだろうか、自分に他者の経験を伝えるマスコミはすべて自分をだましてきたのではないかというように。そして最後は、「存在するのは自分ひとりだけなのか?」ということになる。
普通の人は誰もまじめにこんなことを考えない。しかし哲学者というのは奇妙な人種で、この問題で真剣に悩みつづける人もいるのである。
2. 類推説による他我証明
独我論を否定するためによく持ち出されるのが、次のような類推説である。例えば、他者の歯の痛みを理解することは、次のような類推から可能だとされる。
私は歯の痛みを感じる。
私は歯が痛い時、一定の振る舞いBを行う。
他者が一定の振る舞いBを行う。
その人は私と同じような歯の痛みを感じているに違いない。
このように、類推説は、1:3=2:x という比例式から x=6 を推論するように、他者の心を類推する。
この類推説に対して、二つの疑問を抱かざるをえない。
第一に、自我の存在が自明であるのに対して、他我の存在は数学の問題を解くような形でしか理解できないほど自明ではないのか。
第二に、他者の存在を認識することは、他者と同じ経験、同じ思考、同じ振る舞いをすることなのか。
私の答えはともに否である。
3. 他我とは他の可能的選択である
私が他者の歯痛を直接感じることは、生理的にというよりは論理的に不可能である。もちろん類推説はそのようなことを主張していない。自我が感じるのと同じような歯痛を他我も感じるであろうと類推することはできると言っているだけである。だがそれにしても、自分と同じような経験をし、同じようなことを考え、同じような行為をする存在者は他者の名に値するだろうか。
忠実な部下のことを「右腕」と呼ぶことがある。右腕は脳が命令した通りにしか動かないから、他者として意識されないし、忠実な部下も上司が命令した通りにしか動かないから、組織という拡大身体の一部としてしか意識されない。
私がある行為者を他者として意識するのは、その行為者が、私が選択するのとは他のように選択しうるからである。忠実だった部下に裏切りの兆しが見えたとき、初めてその部下は私にとって他者になりうる。通常身体においても、拡大身体においてと事情は同じである。脳梁離断手術を施されると、右脳と左脳がそれぞれ管轄下の身体を勝手に動かすため、二つの人格が一つの身体に共存することになる。
私は、「意識とは何か」で、意識があるかどうかは、選択において迷うことができるかどうかで決まると主張した。意識ある存在者は迷った挙げ句何もしないこともある。しかし何もしないことも一つの決断だから、常に何らかの選択が行われていることになる。その際、選択肢の複数性ゆえに、私が選ぶのとは他のようにも選ぶことが可能だ。この可能的な他の私こそ、自我という明白な事実とともに等根源的に明白に与えられる他者なのである。私は迷うという行為において、他者とのコミュニケーションを経験しているのである。
もちろん可能的他者と現実的他者は同じではない。私にとって、他我一般が自我と同じく自明な存在者だとしても、目の前で現出する特定の身体的振る舞いがどのような動機で行われているかを理解するには、推論によらざるをえない。ここで独我論を論破しようとする人は「私の他者理解は、間接的な推論に基づいているから、不確定性が残ってしまう」と苦悩する。
ここで次のように発想を逆転させよう。私は他者を完全に理解することができない。他者の心には不確定な不透明さがある。だから他者の振る舞いは私には予測不可能で、コントロールできない。しかしだからこそその人は私にとって他者なのだ。もし私がその行為者を心の底まで知り尽くし、その人を意のままに動かすことができるのなら、その行為者は拡大身体の一部であって、他者ではない。
4. 不確定性の肯定が独我論を否定する
独我論を否定するために他者の存在を証明しようとすることは、よく考えるとこっけいなことである。証明するということは、必然的である、つまりこうであってその「他がない」ということを主張することで、それは他者の抹殺だからである。他者認識はあいまいな類推で十分なのである。
機械論的決定論と観念論的独我論は、他者性の否定という近代哲学の共通の幹から出てきた二つの枝である。不確定性のパラダイムに立脚すれば、他我のいない自我は、迷わない意識と同様にナンセンスであることが洞察できる。
5. 読書案内
『省察』(初版 1641年)は、近代意識哲学の開祖であるデカルトの哲学的主著。デカルトは、感覚への懐疑から始めて、数学のような明晰な学問の信憑性すらも、全能の神によって騙されているかもしれないとして疑った末に、「自分は存在する」という命題だけは、絶対に疑うことができないという結論に到達する。デカルトによれば、「精神は身体よりも容易に知られる」。デカルトは、自分が他者と思っている人間は、実は自動機械ではないだろうかとか、自分が肉体を所有していると思い込んでいるのは幻想に過ぎないのではないだろうかと疑っている。だから、絶対に確実な存在である自分とは、あくもでも自分の意識なのである。
ディスカッション
コメント一覧
独我論は、他者の実在を否定しているだけで、他者の存在は否定していません。他者は、少なくとも錯覚として存在するのです。また独我論の正しさは、独我論者が主観的に納得するかどうかにかかっており、それを他者に説得する必要はありません。
もし自分の主観的な考えが独我論的だったとしてそれを発展させたいなら、すでに世間にある書籍など他人が書いた独我論を参照すると思いますが、その時からすでに相手の存在を錯覚だと考えているんですか?誰かの意図なく何かの偶然で本が出来上がって、それが誰かが書いたように見える、という風に現実を受け止めているということですか?
独我論者は実は独我論を本当にそうだと思ってはいないのではないでしょうか。漫画のキャラクターが実在しないとしてもその作者は実在するはずだし、独我論という内容が実在しなくてもそれを書いた人間が実在すると思います。「漫画を書く」ということそのものが漫画になったとしてもさらにその外側には作者がいるはずです。彼らとて漫画のキャラと人間とは区別しているはずですし、なんか強い違和感が残ります。なんと言えばいいのか分かりません。独我論者が無口で何考えているのか分からなくてもその人が実在すると私には分かります。私にとっては独我論者は実在するが、独我論者にとっては私は実在しない??
多分独我論を本気で信じている人はほとんどいないでしょう。でも、哲学的には「独我論は間違いだと思う」と「独我論が間違いであることを証明できる」との間には大きな違いがあります。前者は常識的な直感的判断であり、これと哲学的に厳密な論証とは異なるのです。
独我論と同様に、直感的に受け入れられないけれども、論破することが困難な仮説に独今論があります。「存在するのは今だけであって、過去や未来は存在しない。私たちが過去にあったと思っている出来事は現在持っている記憶に過ぎず、実際には存在しなかった。私たちが未来と思っているのは、やがて来ると信じているだけの今の予感に過ぎず、実際存在することはない」という主張です。
私は、この意味を、次のように考えていますが、理解として違うのでしょうか。
「存在」の有無は、「認識」を通じた判断とならざるを得ず、客観的認識は原理的に不可能に思いますので、独我論の立場が真か、そうでない立場が真かは、回答不能の問題、つまり、「独我論が正しいかどうか」は、疑似問題ではないかという気がしています。
要は、独我論の正否の哲学的な解決はギブアップし、しかし、人と意見を交換したり、投票したり、食事をしたり、仕事をしたりするうえで、他者について、物について、過去の体験あるいは歴史などについて、存在すると解しないと、我々の人間の営み自体が成り立たないことを良しとしないといった心境です。現状の圧倒的な状況証拠が、他者や事物の存在を強く示しているというレベルで納得すべきであり、そもそも人間の意識のあり方や認識の本質から考えて、答えが用意されているものではないと考えます。
証明するとは、こうであって他ではありえないことを示すということです。そして、それは、≪他ではありえない=他の認識は存在しえない=他の認識を持った存在者はいない=他者は存在しない≫ということですから、他者の存在の否定につながるのです。他者の存在を証明しようという態度を放棄し、認識の不確定性を認めることは、≪認識は他でありうる=他の認識がありうる=他の認識を持った存在者がありうる=他者が存在しうる≫ということになるので、他者の存在を可能にすることになるのです。
他者存在を証明する、≪他でもありえる=他の認識は存在しうる=他の認識を持った存在者はいる=他者は存在する≫で、他者の存在の肯定という選択肢はないのでしょうか。あえて他者の存在の否定の方にのみつながるという、その含意は何でしょうか。もっとも私自身、両方とも可能であるとは思っておりませんが。
この場合、他者は存在するかもしれないし、存在しないかもしれないという状態かと思われますが、「他者の存在を証明しようという態度を放棄」することは、世界観としては、人間の認識の限界を認めたうえで、結局は、他者の存在を(暫定的にでも、仮定的にでも)受け入れるということでしょうか。
他者の存在をどう証明するかという問題は、デカルト以来の近代哲学で問題になったことです。デカルトは自我の認識作用と自我の存在を同一視し、「考える我」という疑うことのできない事実からすべてを幾何学のように厳密に証明しようとしました。ところが、証明とは、認識が他ではありえないことを示すことであり、認識と存在を同一視する以上、他の認識を認めないことは、他者の存在をも認めないことになります。デカルトの時代では、科学は不確定性を一切認めようとはしませんでしたが、量子力学以降の時代を生きている私たちは、デカルト以来の必然性の哲学を見直さなければならないというのが私の問題意識なのです。
カントが、「私たちの外なる事物の現存在をたんに信念に基づいて想定しなければならないことは、常に哲学と普遍的人間理性のスキャンダル」(Kant, Immanuel. Kritik der reinen Vernunft. B.39.)であったと言ったのに対して、ハイデガーは「《哲学のスキャンダル》は、この証明がこれまでにまだなされていない点にあるのではなく、そのような証明が絶えず期待され、試みられてきたという点にある」(Heidegger, Martin. Sein und Zeit. 1927. Max Niemeyer Verlag. p.205.)と言っています。外界の存在証明を他者の存在証明に置き換えても同じことが言えます。他者の存在を証明できないことよりも、他者の存在を証明しようとしていることの方が問題ではないかということです。証明するという態度を見直すことで、むしろ他者の存在は認識可能になると言ってもよいでしょう。
なるほどつまり自分と相手は選択をするしないという点では共通してるからあくまでも等根源的なもんなんだよってことかな。それでも相手と違いが出る(完全に理解できない)のは、これまでいきてきた経歴からの違いってことかな。でも、そうすると相手は今まで生きてきた訳で自分と同じように経験(自分とは内容は違う)してきたってことになりそうな気がする。それだと相手は自分と同じようなものだから他我を持っている前提になるような、、、それで他人が別の選択をとると、、、ん?これ、他我の証明になったなwまあ、確かに、自分とは違う考えを持つコンピューターに自分が入ってる時点で他我はあるもんねw自分がコンピューター作ったとしてもそのコンピュは自分で考えてるしねw
そうか、でも自分が言ってることはまさに独今論ぶちあたるわけか。とすると今みんながこうやって話をしている履歴も過去になれば本当に自分が打っていたかは論理的には説明できないということになんのか。そしてぼくが上で言っているよくわからんことも自分が撃ったってことは論理的に証明はできないってことか。てことは、永井さんは独我論と独今論を分けて証明したってことでしょ?すごいなあ。でもごめんなさい。僕は独今論の証明もしてほしかったなあ。だって、今というコンマ何秒でも測りきれない今のなかで考えて発言するというのは誰にもできないですよね?だから独今論が嘘だって証明できないと自分の考えが自分のものだって証明できないきがするから。
ごめんなさい、つまり言いたいことは独今論が証明できないと、自分は本当に他人への予想が裏切られたのかわからないのではないかということです。本当は、僕の永井さんへの理解が足りてなくて、それでも他我の存在を証明できた場合でも、自我ないし他我は本当に自分で考えてその方法を選んだのか、自我は本当に他我が起こした予想を裏切る行為を前前から気付けていなかったのかわからないです。
独今論に関しては、「他者認識と認識の不確定性」や「超越論的認識とは何か」での新田さんとの議論を参照してください。