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脳死は人の死か

2001年10月13日

1997年10月に臓器移植法が施行され、1999年2月には、この法律に基づく初の脳死判定と臓器移植が実施された。しかし、日本では、心臓死が社会通念としての死であったので、脳死を人の死とすることには大きな抵抗があった。はたして脳死は人の死か。そして、脳死判定に基づく臓器移植は肯定されるべきか。

Image by Sasin Tipchai + ElisaRiva from Pixabay
臓器移植を認める基準となる死には、脳死と心臓死(心停止)の二つがあり、どちらを取るかが論争の的になる。

1. なぜ脳死は人の死とみなされるのか

脳死とは、呼吸中枢などをつかさどる脳幹を含むすべての脳の機能が失われ、二度と回復しない状態のことなのだが、脳死の人に生命維持装置を付けると、呼吸運動や血液循環が続けられるので、外見上は生きているように見える。まだ温かい皮膚にメスを入れ、臓器を取り出すことに違和感を持つ人がいたとしても、無理はない。

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植物状態になった患者がたどる経路[1]

植物は脳を持たないが、だからといって死んでいるとは言えない。同じことは人間にも言えないだろうか。もちろん、人間の場合、脳が機能停止になれば、それは人全体の死をもたらす。しかし、同じことは、心臓や肝臓や腎臓にもあてはまる。だから、「脳死」が人の死なら「心臓死」や「肝臓死」や「腎臓死」も人の死だということになる。こういう理屈で、脳死判定に基づく臓器移植を疑問視する人がいる。この考えは妥当だろうか。

今、脳は健全だが、心臓が死んだA氏と、脳は死んだが、心臓は健全なB氏がいるとしよう。脳死主義者は、A氏は生きているが、B氏は死んでいるので、B氏の心臓をA氏に移植して、A氏の命を助けるべきだと考える。これに対して、心臓死主義者は、B氏は生きているが、A氏は死んでいるので、もし脳移植が可能ならばの話だが、A氏の脳をB氏に移植して、B氏の命を助けるべきだということになる。

しかしこれは私たちの常識に反する。A氏の脳は、A氏の過去の記憶を引き継いでいるのである。A氏の脳をB氏の身体に移植した場合、「B氏は臓器移植で生き延びた」とは考えずに、「A氏はB氏の身体に転居した」と考えるのが普通だ。脳は、人格のすべてではないにしても、人格を代表する部分なのである。だから、世界の多くの国では、脳死を人の死としている。

2. 脳死に反対する梅原猛の理論

臓器移植法成立に先立つ1990年に、厚生省は、脳死判定に基づく臓器移植を正当化するべく、脳死臨調を設置したが、委員の一人であった哲学者の梅原猛は、こうした考えはデカルト以来の物心二元論に基づくものだとして反対し、脳死は人の死ではないと主張した。

面白いことに、日本語の「たましい」に相当するアイヌ語に「たま」という言葉があるのです。「しい」は複数形としてつける接尾語ですから、アイヌ語の「たましい」は「たくさんのたましい」という意味になり、この宇宙全体が大きな無数の生命で成り立っていることを表しています。[2]

日本人は、縄文時代以来、万物に魂が宿るとするアニミスティックな霊魂観を持ち、脳にのみ魂が宿り、身体は機械に過ぎないという近代西洋的な発想を持たない。だから、臓器を機械の部品のように交換することは、日本人にはなじまないというわけだ。

確かに身体は無生命な機械ではない。私たちの身体を構成している細胞は、かつては独立した生物だったし、共生説によれば、細胞内にあるミトコンドリアもかつては独立した生物であった。その意味で「たましい」は複数形である。

しかしこの梅原の霊魂論を、臓器移植を正当化する議論に使うこともできる。もし、臓器を独立した魂とみなすことができるのなら、脳が死んでも、臓器は他の脳が支配する身体のもとで生き延びるべきではないのか。実際、「自分が死んでも、私の臓器が他の人の体で生き延びますように」と願いを込めてドナーカードに署名する人もいる。

脳死者を死者とすることは、理論的にも結局思惟を持たない生命の存在を認めないことになり、動物や植物の生命を認めないことに通じる。植物というのは脳を持たず、初めから脳死状態のような生物ではないか。そういう生物にもその生存を維持するまだ人類にはよくわからない生命の秘密が隠れているのである。そういう生命への畏怖ということが新しい哲学の原則にならなくてはならないが、脳死を死と認め移植を推進する人には生命への畏怖という観念がほとんどないのが大変心配なのである。[3]

おかしな理論である。脳死者は、植物と違って、そのままにしておけば、生存を維持することができない。むしろ、脳以外のまだ生きている臓器を見殺しにすることこそ、「理論的にも結局思惟を持たない生命の存在を認めないことに」なる。

3. 臓器移植とM&A

企業を人に見立てるならば、脳死は破産に相当し、臓器移植は財産の切り売りに相当する。アメリカでは1973年以降、M&Aが盛んに行われるようになったが、日本では導入が遅れ、そのためバブル崩壊後、不良債権と失業者を過剰に増やすこととなった。このことは、臓器移植技術の日本への導入が遅れ、多くの健全な臓器が見殺しになったことと対応している。

M&Aとは、企業買収や合併のことで、被害を最小限にする倒産処理方式でもある。会社財産の劣化を防ぎ、新鮮なうちに売却するために、債権者への償還率が良く、売却された部門の雇用も確保される。山一證券は営業部門が黒字であったので、自主廃業した時、M&Aを行っていれば、あれほど多くの従業員を路頭に迷わせなくてもすんだはずだ。臓器移植に拒絶反応の問題があるように、M&Aの場合でも、企業風土の違いから、新しい経営者に拒絶反応を起こす従業員が出てくるかもしれないが、ネットワーク時代は個の自立の時代であるから、古い系列意識をいつまでも引きずるべきではない。

4. 臓器移植の普及には何が必要か

臓器移植法が施行されてから7年以上が経つが、いまだに脳死移植は年間5件前後で低迷する状況が続いている。このため、自民党の「脳死・生命倫理及び臓器移植調査会」は、最近、臓器移植法を改正して、脳死移植を促進しようとしている。

自民党調査会がつくっった改正案の要綱では、事前に書面で提供を拒否していない人が脳死になった時、家族の書面による承諾で提供を認める。年齢制限は設けないため、子どもの提供にも道を開く。また、運転免許証や保険証には提供の意思の有無を記載する欄を設ける。[4]

社団法人「日本臓器移植ネットワーク」は、この法改正案が施行された場合、脳死段階での臓器移植は年間14件程度増えるという試算を出している[5]

私は、この程度の法改正では、臓器移植が劇的に増えることはないと思う。臓器の供給の不足が慢性化しているため、新鮮な臓器を手に入れようと、医者が患者の救命治療を疎かにすることが問題となっている。この供給不足の問題を解決するには、臓器提供を受けるためには、あらかじめ本人がドナーカードに署名していなければならないというルールを作ればよい。多くの人にとって、脳死後に臓器を摘出されるデメリットよりも、臓器を提供されて生き延びるメリットの方が大きいので、このルールで供給不足の問題は解決する。

しばしば、日本では、脳死を人の死として認める社会的コンセンサスがまだ得られていないという問題点を指摘する人がいる。だが、脳死を人の死と認めない人がいたとしても、それは問題ではない。ドナーカードに署名しなければ、それでよいのである。選択の自由は尊重される。

脳死は人の死かという問いに対して、脳死は人格の死ではあるが、生物として人間の死ではないと答えることができる。臓器移植は、将来人工臓器を安価に生産することができるようになれば、不要になるかもしれないが、それまでのつなぎの技術としては必要である。

5. 参照情報

  1. Tosaka. “脳損傷の患者がたどる経路.” 2007年12月16日 (日) 08:30. Licensed under CC-BY-SA.
  2. 梅原 猛.『脳死は本当に人の死か』PHP研究所 (2000/03). p.158-159.
  3. 梅原 猛.『「脳死」と臓器移植』朝日新聞 (1992/01). p.228.
  4. 『東京新聞』2005/03/01.
  5. 『日本経済新聞』朝刊. 2005/03/20.

生物学,,生命

Posted by 永井俊哉